<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rdf:RDF
    xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
    xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
    xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
    xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
    xmlns:cc="http://web.resource.org/cc/"
    xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
    xmlns:taxo="http://purl.org/rss/1.0/modules/taxonomy/"
    xml:lang="ja">

    <channel rdf:about="http://math.artet.net/?mode=rss">
    <title>TETRA'S MATH</title>
    <link>http://math.artet.net/</link>
    <description>数学と数学教育</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <admin:generatorAgent rdf:resource="http://jugem.jp/?v=1.0"/>
    <cc:license rdf:resource="" />    <items>
      <rdf:Seq>
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421723" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421720" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421722" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421721" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421719" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421718" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421717" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421716" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421714" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421715" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421713" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421712" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421711" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421709" />
        <rdf:li rdf:resource="http://math.artet.net/?eid=1421710" />
      </rdf:Seq>
    </items>
    </channel>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421723">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421723</link>
    <title>直観主義者は自然数「2」をどのように構成するか</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいる途中ですが、別の論文も参照しつつ、ブラウアーの「自由選列」のなんたるかを少しずつつかんでいこうとしているところです。　さて、直観主義の場合、「存在するとは構...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいる途中ですが、別の論文も参照しつつ、ブラウアーの「自由選列」のなんたるかを少しずつつかんでいこうとしているところです。<BR><BR>　さて、直観主義の場合、「存在するとは構成されること」なわけですが、たとえば自然数、整数、そして有理数までだったら、具体的な構成方法を示すことができます。自然数は1に＋1をくりかえし適用すればいいし、整数は自然数にプラス、マイナスをつければいいし（0からの自然数の引き算の解として構成すればいいし）、有理数は整数aとbを用いて、b/aで構成することができます。しかし、問題なのは、実数。<BR><BR>　ということをみていく前に、きのうリンクした論文のうちの1つ、<BR><BR>■「選列と論理 I : 直観主義解析学における連続性原理」<BR>　　金子洋之<BR><A href="http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33559/1/39(1)_PL17-50.pdf">http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/<BR>2115/33559/1/39(1)_PL17-50.pdf</A><BR><BR>をちょっとのぞいてみたいと思います。この論文の4ページめ（p19）に、直観主義数学が自然数2を構成する様子が示されています。 
<P></P>
<BLOCKQUOTE>ある事象と時間系列上でその次に来る事象とを取りまとめ，それらが二つの事象であることを承認しつつ，同時に一つの事象として認識することが自然数2の構成である。</BLOCKQUOTE>
<P>　この記述を読んで私が思い出したのは、<A href="http://math.artet.net/?eid=1403171">ブラウワーがいうところの数学の無言語性</A>で出てきた二−一性（the two-ity,the two-oneness）のことでした。あのときには、「はいぃ?」という感じだったけれど、なんだかいまは、ブラウワーが言わんとしていることが、あのときよりはわかるような気がします。<BR><BR>　で、自然数2を構成したあとは、「ストロークを継ぎ足すことによって自然数を構成する有限主義の場合と形式上は同様な自然数の系列が得られる」ということで、これは上記の＋1を好きなだけ繰り返す、ということを言っているのだろうと理解しています。<BR><BR>　そして、自然数にしろ整数にしろ有理数にしろ、個々に考える限りは完結した対象なのだけれど、自然数全体からなる集合や有理数全体の集合のようなものは、直観主義の場合は完結した対象とは見なされません。なので、有理数の無限集合や無限系列を前提とする実数を構成するにあたっては、古典的な方法や概念をそのまま利用することはできない、ということになります。</P>
<BLOCKQUOTE>そこで個々の実数を構成するために直観主義者が採った道は，実数を完結した対象としてではなく，絶えず生成途上にある未完の対象として扱うことであった。<BR></BLOCKQUOTE>
<P>　このあと、実数の構成法の例として区間縮小法とコーシー列が示されています。私はウィキペディアの<A href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC%E5%88%97" target=_blank>コーシー列</A>の説明のなかに、「自己漸近」という言葉があるのを見て、ちょっと苦笑してしまいました。そうか、自己規定から自己批判にうつるまえに（<A href="http://math.artet.net/?eid=1421718" target=_blank>＊</A>）自己漸近も面白かったかもしれないな。でも、ここでいう自己ってなんだろう?　自分に近づいていくということかな、自分で近づいていくということかな・・・<BR><BR>　なお、コーシー列のおおよそのイメージをつかむには、「物理のかぎしっぽ」さんの「コーシー列と完備の概念」がわかりやすいです。<BR><A href="http://hooktail.maxwell.jp/kagi/68b2c1796f6b209765ddd66925a2f9d1.html">http://hooktail.maxwell.jp/kagi/<BR>68b2c1796f6b209765ddd66925a2f9d1.html</A><BR><BR>　ちなみに、「実数を完結した対象としてではなく、絶えず生成途上にある未完の対象として扱うこと」というフレーズからは、<A href="http://math.artet.net/?eid=1421521">野矢茂樹『無限論の教室』</A>を思い出しました。あの本に、0.999・・・と1の違いについて、何か面白い言葉で説明してあったような記憶がうっすらとあるのですが、思い出せず・・・です。<BR><BR>　いまさらの話だけど、思えば「収束」も、自分の人生においてけっこうなキーワードになっているのかもしれません。でも、だんだん近づいていく、どんどん近づいていくということよりも、まっぽすそれではない、そこに行き着けない、というところがミソであり、「収束」という言葉はその気になりどころにあまりフィットしないのかもしれません。<BR><BR>　で、金子さんの論文のその先を読み進みますと、 
<BLOCKQUOTE>　さて，以上では自然数から実数までの構成をごく簡単に概観したのであるが，このように形成された直観主義数学の内に連続休の占める余地がないのは明がである。</BLOCKQUOTE>という話になっていきます。<BR><BR>（つづく）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-02-07T09:30:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421720">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421720</link>
    <title>ブラウアーの「自由選列」に関する論文3つ</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいる途中ですが、これから先出てくる、ブラウアーの「自由選列」の話を読みやすくする（あるいは、より深めて読む）ために、web上で見つけた論文3つをリンクします。■「選...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいる途中ですが、これから先出てくる、ブラウアーの「自由選列」の話を読みやすくする（あるいは、より深めて読む）ために、web上で見つけた論文3つをリンクします。<BR><BR><BR>■「選列の理論について」服部裕幸<BR><A href="http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=34185">http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/<BR>xoonips/download.php?file_id=34185</A><BR><BR>　ブラウアーの「自由選列」については、きっと樹形図のような図を使った説明があるはずだと思っていたのですが、果たしてありました。後半ではクリプキ・モデルも出てきます。<BR><BR><BR>■「選列と論理 I : 直観主義解析学における連続性原理」<BR>　　金子洋之<BR><A href="http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33559/1/39(1)_PL17-50.pdf">http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/<BR>2115/33559/1/39(1)_PL17-50.pdf</A><BR><BR>　『ダメットにたどりつくまで』の金子さんの1990年の論文。33〜34歳のときですね。いまの近藤和敬さん（32歳?）とほぼ同じ年齢のときだ。<BR><BR><BR>■「「数理哲学」としての種の論理」林晋<BR><A href="http://www.shayashi.jp/Tanabe/shyunoronri20101110.pdf">http://www.shayashi.jp/Tanabe/<BR>shyunoronri20101110.pdf</A><BR><BR>　田辺元の「種の原理」は、ブラウアーの自由選列の実数論をモデルにしているという話。＞<A href="http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/modules/wordpress/index.php?p=3" target=_blank>＊</A>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-02-06T10:39:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421722">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421722</link>
    <title>操作分数についての訂正</title>
    <description>　連絡：「こどものちかく」で小数のかけ算の話題において、操作の分数について、啓林館のサイト内の次のページをリンクしましたが、http://www.shinko-keirin.co.jp/sansu/WebHelp/html/page/42/42_13.htm肝心の本文の内容をちゃんと読んでいませんでした。
操作分数は...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<P class=whs3><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">　<A href="http://math.artet.net/?eid=1421721">連絡：「こどものちかく」で小数のかけ算の話題</A>において、操作の分数について、啓林館のサイト内の次のページをリンクしましたが、<BR><BR><A href="http://www.shinko-keirin.co.jp/sansu/WebHelp/html/page/42/42_13.htm">http://www.shinko-keirin.co.jp/sansu/WebHelp/html/page/42/42_13.htm</A><BR><BR>肝心の本文の内容をちゃんと読んでいませんでした。<BR><BR></P>
<BLOCKQUOTE><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">操作分数は，例えば，縄跳びの縄などを両手を広げた長さ（あた）で測りとったときに余</FONT><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">るはしたの長さを「あた」の何分の</FONT><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">１</FONT><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">の大きさになるかで表すような分数です。</FONT></BLOCKQUOTE></FONT>　ということになると、「2個を1とすると、3個は2／3になる、とする“操作の分数”は、むしろ、ある量の2／3倍を求めるときに登場しそうな分数であるように思います」という私の認識は、ちょっとずれているとあとで気づきました。<BR><BR>　こうなると、&nbsp;<A href="http://math.artet.net/?eid=187809" target=_blank>分数と互除法の関係</A>を思い出しますね。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>「かけ算の順序」論争</dc:subject>
    <dc:date>2012-02-05T16:18:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421721">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421721</link>
    <title>連絡：「こどものちかく」で小数のかけ算の話題</title>
    <description>　こどものちかくで、「0.2×4」と「4×0.2」は、何がちがうのか?というエントリを書きました。　で、思い出したのは、割合分数と量分数で書いた、クラインが提示した（らしい）分数の意味です。これまで、遠山啓の分数観にひきよせて分数を考えてきたので、「関係の分数」v...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<DIV class=jugem_theme>　<A href="http://kodomo.artet.net/" target=_blank>こどものちかく</A>で、<A href="http://kodomo.artet.net/?eid=1228795">「0.2×4」と「4×0.2」は、何がちがうのか?</A>というエントリを書きました。<BR><BR>　で、思い出したのは、<A href="http://math.artet.net/?eid=180916">割合分数と量分数</A>で書いた、クラインが提示した（らしい）分数の意味です。これまで、遠山啓の分数観にひきよせて分数を考えてきたので、「関係の分数」vs「量の分数」という対比ばかりに目がいっていましたが、クラインはもう1つ、「操作の分数」というもの出してきているらしいのです。（カヴァイエスを読んでいるいま、操作という言葉が出てくると紛らわしいですが）<BR><BR>　Googleで「操作の分数」で検索をかけると、真っ先にひっかかってくるのが啓林館のサイト内の次のページ。<BR><A href="http://www.shinko-keirin.co.jp/sansu/WebHelp/html/page/42/42_13.htm">http://www.shinko-keirin.co.jp/sansu/WebHelp/html/page/42/42_13.htm</A><BR><BR>　「<FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">ある量を元に</FONT><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">してその何分の</FONT><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">１</FONT><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">の大きさになるかで表す分数</FONT>」と説明しています。これも一種の割合分数だと思うのですが、関係としての割合分数は、2個と3個の“関係”を2／3と表すので、まだ割り算の名残があります。それに対し、2個を1とすると、3個は2／3になる、とする“操作の分数”は、むしろ、ある量の2／3倍を求めるときに登場しそうな分数であるように思います。どういう意味あいで「操作」なのかはよくわかりませんが。（＞<A href="http://math.artet.net/?eid=1421722">操作分数についての訂正</A>）<BR><BR>　ほんでもって思うことは、（1あたり量）×（いくつ分）の定義よりも、もしかすると倍・割合としてのかけ算の定義のほうが、実はかえって連続量に発展させやすいのではないかということと、そうした場合、（1あたり量）×（いくつ分）と定義するよりも、さらに「かけ算の順序」は固定して考えることになるかもしれないな〜ということです。娘が「小さくなる」という言葉を使っているのをきいて、そう思いました。「0.4×2＝0.8」は“大きくなる”けど、「2×0.4＝0.8」は“小さくなる”から。</DIV>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>「かけ算の順序」論争</dc:subject>
    <dc:date>2012-02-05T13:22:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421719">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421719</link>
    <title>「自律性」について、もう少し／小島寛之の遠山啓観、オートポイエーシス</title>
    <description>　カヴァイエスを読んでいく前に、もう少し「自律性」のことについて考えてみます。　「自律性」といえば、昨年の秋、遠山啓を考える新しい視点を、小島寛之から与えられる。のところで出てきました。小島寛之さんは遠山啓の発想の本質を、「大胆にまとめるならば」という...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　カヴァイエスを読んでいく前に、もう少し「自律性」のことについて考えてみます。<BR><BR>　「自律性」といえば、昨年の秋、<A href="http://math.artet.net/?eid=1421646">遠山啓を考える新しい視点を、小島寛之から与えられる。</A>のところで出てきました。小島寛之さんは遠山啓の発想の本質を、「大胆にまとめるならば」という注釈付で、次の2点に集約させていました。→「数学は現実を抽象化したもの」「数学の自律性の利用」<BR><BR>　前者については私も考えてきていましたが、後者の自律性についてはまったく考えてこなかったので、びっくりしました。小島寛之さんは、遠山啓を語る中で、「意味から独立して自己発展できる」という性質こそが数学の「自律性」なのであり、この発想が「一般から特殊へ」という問題配列の方法論「水道方式」として結実することになった、というようなことを書いていました。まさにここで、自己展開ならぬ自己発展という言葉が出てきています。オートマチックという言葉も出てきています。<BR><BR>　なるほど、もしかするとここに、遠山啓を理解する、私がこれまで気づかなかった大きなヒントがあるのかもしれません。しかし、その自律性の話が、<A href="http://math.artet.net/?eid=1421650">小島寛之が語る、遠山啓の「量の理論」</A>で示した次のような話------「タイルによる数教育」や「水道方式」や「量の教育」は、「ハウツー」だけで子どもたちに目覚ましい効果を発現させ、バックボーンなしでも「実践」を通じて広がっていく生命力を持っており、それこそまさに「数学の自律性」がそのまま体現されたことの自己証明と言ってもいいだろう------につなげられると、「えっ、自律性ってそういうことですか??」と首を傾げてしまうのでした。<BR><BR>　とはいえ、やはりあのとき、小島寛之さんから大きな宿題をもらっていたように思います。<BR><BR>　そしてもうひとつ気になる「自律性」は、オートポイエーシスのこと。過去に、<A href="http://math.artet.net/?eid=1262358">擬自律性</A>というエントリを書いています。擬自律性というタイトルは池田清彦さんの書籍から引いた言葉ですが、そっちはおいといて、いま問題にしたいのは、あのエントリの中で書いたオートポイエーシスのその後のことです。<BR><BR>　オートポイエーシスという概念は、マトゥラーナがあたためていた構想と、ヴァレラの位相空間論とが混合されて一つの理論構想となったものでしたが、やがて2人の見解は食い違っていき、ヴァレラは、オートポイエーシスはごく特殊な対象（細胞システム、免疫システム、神経システム）にしか適用できない原理だと判断し、生命の基本原理としては、「オートノミー」（自律性）こそがふさわしいと認定したようなのです。<BR><BR>　そして、郡司ペギオ‐幸夫がオートポイエーシスを批判的に検討していることについても、<A href="http://math.artet.net/?eid=1347793">郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと</A>で書きました。オートポイエーシスは外部との接触面にできる亀裂を想定していないので、時間と無関係である、と。<BR><BR>　<FONT size=1>あら、久しぶりに映像を観に行ったら、前半と後半に分かれていて、郡司さんのプレゼンは後半になっているのだけれど、後半がなぜか観られない・・・<BR></FONT><BR>　カヴァイエスの「自律性」という言葉に動揺するあまり、わけもわからず宇多田ヒカルのAutomaticの歌詞を調べに行ったりした私なのですが（＾＾；、小池龍之介のことも思い出していました。＞TATA‐STYLE→<A href="http://sukkiri.artet.net/?eid=1407327">小池龍之介が語る、「DNAの罠」</A>・<A href="http://sukkiri.artet.net/?eid=1407328">小池龍之介『貧乏入門』から、「無我」の意味、そしてエゴ</A><BR><BR>　だけどそのあと、<A href="http://math.artet.net/?eid=1328054">柳宗理は、なぜ「花紋折り」に惹かれたのか。</A>のことも思い出したのです。「花紋折り」の自然発生的な図形、“自分が”創りだすのではない美しさ、意外性を、私は楽しんでいる・・・<BR><BR>　これまで、（自分ではそんなつもりではなかったのだけれど）もしかしたら見ないようにしていたのかもしれない「自律性」という言葉を、カヴァイエスから「生成」とセットでつきつけられ、ライプニッツがいうところのものとは別の“予定調和のようなもの”にからめとられそうな危機感、これからじっくり否定していこうと思っていたところなのにあっさり消滅させられそうな“自己”を感じて、つい身構えてしまったここ数日間だったように思います。そろそろ先を読もうっと。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-02-03T09:59:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421718">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421718</link>
    <title>「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考</title>
    <description>　本日、常体にて。　「自」という文字の成り立ちが知りたくなって、ネットで調べてみたら、どうやら“鼻”と関わりが深いもよう。「鼻」の旧字体ということなのかもしれない。自分を指すときに鼻をさすので、そういうことになったという説あり。そうか、自分＝鼻、なんだ。...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　本日、常体にて。<BR><BR>　「自」という文字の成り立ちが知りたくなって、ネットで調べてみたら、どうやら“鼻”と関わりが深いもよう。「鼻」の旧字体ということなのかもしれない。自分を指すときに鼻をさすので、そういうことになったという説あり。そうか、自分＝鼻、なんだ。<BR><BR>　もともと自己相似に興味があった。たとえば、子どもの頃、思い描いていたイメージに、「白いピアノの置物」というものがある。白いピアノの上にピアノの置物がのっていて、そのピアノの置物は白いピアノのミニチュアなので、その置物のピアノの上にもピアノの置物がのっていて・・・と延々と続くイメージ。<BR><BR>　あわせ鏡による繰り返しよりも、単体で繰り返されるものに対する興味が強かった（なので、正四面体が自己双対だと知ったとき、妙に納得した）。そして、自己相似に対する興味のひとつの集約地点が、黄金比だったのだと思う。その後、必然的な流れとして、「<A href="http://math.artet.net/?eid=179976" target=_blank>自己言及</A>」も気になるようになってくる。早い話、入れ子構造に興味があったのだと思う。<BR><BR>　1つのもので繰り返されるということは、閉じているのだろうか、開かれているのだろうか。永遠に双方向に繰り返されるということは、開かれていることであるような気もするし、所詮は1つのもので構成されていると思うと、孤独のきわみのようにも思える。サイズや次元を変えてどんなに繰り返しても、そこに質としての変容はない。異なるもの、他者との出会いがない。1つのもので永遠に繰り返され得るということは、さびしいことなのだろうか、賑やかなことなのだろうか。<BR><BR>　しかし、今度は自己そのものが気になるようになってきた。繰り返される前の「1」へ。そうなると、自己規定や<A href="http://math.artet.net/?eid=1262992" target=_blank>自己制作</A>というものへ興味が向かう。「境界」を手がかりとして。<BR><BR>　そうこうするうち、<A href="http://math.artet.net/?eid=1421483" target=_blank>自己批判</A>というキーワードが生じる。そこには時制が関わってくる。自己の解体と新たな制作の繰り返し。同一性の問題。<BR><BR>　そして昨年あたりから、ぼちぼち仏教のことを考え始めることにした。たぶん、「自己否定」に向かっているのだろう。<BR><BR>　ところが。<BR><BR>　ここにきて、カヴァイエスから「自己展開」を提示され、「自律性」を提示される。問題は、「展開」ではない。そうではなくて、これまでずっと私にとっては「わたし」だった自己が、「オート」になってしまったこと。ある種の「自己消滅」。カヴァイエスがそう言っているわけではなく、私が勝手に動揺しているだけのことなのだが。「自己否定」までは、自分でできる。と思う。だけど、自己展開は、自分ではできないし、そもそも、自分の話ではない。自律性の「自」は、「鼻」ではないだろう。どうせだったら、自分で自分をきっちり否定したあと、オートの展開を受け入れたかったような気がしないでもない。<BR><BR>　落ち着いて考えれば、カヴァイエスが言おうとしていることは、これまで自分が考えてきたこと、感じたことを覆すものではないのだと思う。だけど、その「必然性」を、私は、＜時を越えた私＞（<A href="http://math.artet.net/?eid=1294924" target=_blank>＊</A>）と称していて、どうしても、「私」をはずせずにいた。<BR><BR>　人間は自然物であるか、数学は発明なのか発見なのか。数学はきわめて個人的な作業なのか、まれにみる人類共通の知的活動なのか。「実証」の意味ではない経験主義、「子どもの思いつき」と見なされるレベルで終わらない構成主義が、相対主義や多元主義に陥らずに、「かたく閉じた心の窓を力強く押し開く（<A href="http://math.artet.net/?eid=1421632" target=_blank>＊</A>）」教育へと結びつくことは可能か。私は、何かの掌の上で生きつつも、「私」であることは可能か。それとも、“掌”込みで生を受け入れるところに、私の意味があるのか。<BR><BR>　先の動揺は、いろんな問いへとつながっていく。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-02-02T11:20:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421717">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421717</link>
    <title>「数学は生成である」ということと、「自律性」</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。　直観主義の真理観と、伝統的な真理観は、どのように対立するのか。　簡単にまとめると、「数学的真理は即自的に存在し、永遠の相のもとで不変である」とするのが...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。<BR><BR>　直観主義の真理観と、伝統的な真理観は、どのように対立するのか。<BR><BR>　簡単にまとめると、「数学的真理は即自的に存在し、永遠の相のもとで不変である」とするのが伝統的な真理観、「数学的真理は、その真理が数学的な方法によってじっさいに構成されるまでは真理としては認められない」というのが直観主義の真理観ということになります。直観主義の真理観の場合、真理は、証明の過程から独立して即自的に存在しているものではない、という見方に立っています。<BR><BR>　なお、本の中では、本質を不変なものとみなす伝統的な思想の例として、アリストテレスが出てきます。「アリストテレスには、世界を永遠不変の本質のみからなる世界と、生成する具有性からなる現実世界とに二分したような思想がある」と。<BR><BR>　ちょっと話をややこしくしてしまうかもしれませんが、このブログにおいてはかつて、<A href="http://math.artet.net/?eid=1421532">アリストテレスとアウグスティヌスの「実在」の違い</A>というエントリを書いています。入不二基義さん経由でマクタガートの時間論をのぞいたときのものですが、アウグスティヌスについては、カントールが実無限の支えを近代の哲学には見出すことができず、遠くアウグスティヌスにそれを見出すことになった（ということを遠山啓が語っている）話も、<A href="http://math.artet.net/?eid=1296971">永遠の、いま</A>で書いています。<BR><BR>　で、カヴァイエスは、博士論文が完成する6年ほど前（1931年）の段階で、ある手紙のなかで、「真なる理性、すなわち思考の絶対性は、生成[devenir]の本質である」というようなことを書いているらしいのです。<BR>
<BLOCKQUOTE>　また、彼は、科学的思考を、昆虫標本のように真理をピンでさして固定するようなものとしてみなすのではなく、反対に「本質にしたがって自己展開する思考」であるとかんがえていた。<BR></BLOCKQUOTE>　　（p．56）<BR><BR>　この、「真理をピンでさして固定する」という表現はすごいですね。ちなみに巻末註によると、上記の「本質にしたがって・・・」の部分は、カヴァイエスが25才くらいのときに父親にあてた手紙の中に書いてあった言葉のようです。<BR><BR>　ほんでもって、上記のような手紙を書いてから10年後くらいの1939年の博士論文の公開答弁では、「数学は、生成である」と述べているそうなのです。<BR><BR>　というようなカヴァイエスの真理観は、直観主義の真理観に相通ずるものがあるわけですが、資料の年代を考えると、カヴァイエスはその真理観をブラウアーから受けとったわけではなさそうなのです。つまり、ブラウアーに出会う前にカヴァイエスは「真理の生成」ということは考えていた。でも、まだ充分には作りこまれないままであり、そのあと、同じような主張を数学の中でおこなっているブラウアーに出会い、自分の思想を具体化・補強するアイデアを受け取ったのではないか、と近藤さんは書いておられます。<BR>　<BR>　で、上記p.56の引用部分の少しあとで、カヴァイエスいうところの数学の「生成」は、アリストテレス的な偶有性のがわに属してはいない、という話が続きます。なぜなら、「この生成は自律的であるようにおもわれる」からであり、その「自律性」は「必然性」を含意するからである、と。<BR><BR>　私はここを読んだとき、衝撃を受けました。そして、自分が衝撃を受けていることにショックを受けました（＾＾；<BR><BR>　そんなこんなで、カヴァイエスの真理観を読み込む前に、あれこれ考え込んでしまっています。<BR><BR>（つづく）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-02-01T09:27:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421716">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421716</link>
    <title>カヴァイエスとブラウアーの直観主義をつなぐ、「真理観」</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。　前回のエントリで、カヴァイエスにおけるブラウアーの影響が軽視される傾向にあることについて書きましたが、第2章・第1節では、その理由が2つあげられています...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。<BR><BR>　前回のエントリで、カヴァイエスにおけるブラウアーの影響が軽視される傾向にあることについて書きましたが、第2章・第1節では、その理由が2つあげられています。ここ、とても面白いのですが、あえて、あとでみていくことにします。<BR><BR>　というわけで、まずはストレートに、「カヴァイエスの哲学と共鳴するブラウアーの直観主義の中心的なアイデア」を見ていきます。ここで「共鳴する」と書いてあるように、カヴァイエスはブラウアーから影響を受けて（受けたから）、これこれこういうことを考えるようになったわけではないようなのです。すでに考えていて、そして、ブラウアーに出会った、ということのようなのです。<BR><BR>　このブログで最初にブラウアーが出てきたのは、<A href="http://math.artet.net/?eid=997602">直観主義ってなんだろう？</A>(2008.12.14)というエントリにおいてでした。ブローエルというかっこ書きをつけているのが懐かしいです（なお、その後はブラウ“ワ”ーと書いていることが多いですが、近藤さんはブラウ“ア”ーにしておられるので、これからしばらくはブラウアーで書いていきます）。<BR><BR>　で、次に出てきたのが<A href="http://math.artet.net/?eid=1296911">数学のオルタナティブ</A> (2009.11.29)において。そして、2010年の夏には、金子洋之『ダメットにたどりつくまで』を読むなかで、ブラウアーに関わるけっこうな数のエントリを書いています。 おもなところでは、<BR><BR>　　<A href="http://math.artet.net/?eid=1402034">数学はメンタルな「行為」だと主張した人：ブラウワー</A><BR>　　<A href="http://math.artet.net/?eid=1402071">ブラウワー／ハイティンク／ダメットの関係<BR></A>　　<A href="http://math.artet.net/?eid=1403171">ブラウワーがいうところの数学の無言語性</A><BR>　　<A href="http://math.artet.net/?eid=1418757">フレーゲとラッセル、そしてブラウワー</A><BR><BR>などがあります。<BR><BR>　このとき垣間見たブラウアーと、近藤さんが示しておられるブラウアーは、もちろん大きく異なるものではないというか、私が思うブラウアーそのものなのですが、表現のしかたが違っていて、面白いし、ドキドキします。というのも、ここはブラウアーそのものを語るところではなく、カヴァイエスがブラウアーから何を受け継ぎ、何を受け継がなかったか、という視点で書かれてあるからだと思います。<BR><BR>　近藤さんは、カヴァイエスが「直観主義から受け継いでいるいくつかのアイデアをつなぐハブとなるアイデア」として、「ブラウアーの真理観」をあげておられます。<BR><BR>　ブラウアーの真理観は、ハイティンクのまとめにしたがえば、「認識の可能性が、認識をおこなう作用そのものによってしか、われわれにはあらわれない」ということになり、これがブラウアーの構成主義的立場とつながっていると私は理解しているのですが、カヴァイエスはブラウアーの真理観を、「問題は、それが解かれるかぎりにおいてのみ、可解である」と表現しているようなのです。この可解性を、私自身は「問うこと・解くこと」という対のフレーズでとらえており、このフレーズはカヴァイエスの真理観を理解するための重要なキーワードになるのだろうと思っていますし、私自身のサブテーマでもあります。たとえば、生活を綴るブログ：<A href="http://sukkiri.artet.net/?cid=43761" target=_blank>TATA-STYLE</A>で、<A href="http://sukkiri.artet.net/?eid=1407366">問いと、答え。</A>というエントリを書いています（『禅』（鈴木大拙著／工藤澄子訳）からの引用あり）。<BR>&nbsp;<BR>　で、このような直観主義の真理観は、伝統的な真理観と対立するということを、もう一度見ていきます。<BR><BR>（つづく）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-01-28T09:18:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421714">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421714</link>
    <title>ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さん</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』を読んでいます。序章、第1章が終わって、いよいよ第2章。　章タイトルは、「ブラウアーの直観主義と操作概念」です。私にとっては、とても自然な流れです。岡潔と同じ意味で、すでに了解している気分。だって、近藤さんが、...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>を読んでいます。序章、第1章が終わって、いよいよ第2章。<BR><BR>　章タイトルは、「ブラウアーの直観主義と操作概念」です。私にとっては、とても自然な流れです。<A href="http://math.artet.net/?eid=1421632" target=_blank>岡潔</A>と同じ意味で、すでに了解している気分。だって、近藤さんが、そういう流れで序章と第1章を書いているから。<BR><BR>　何が面白いって、2章がブラウアーで、3章がヒルベルトだということ。この本、カヴァイエスのモノグラフィという形で書かれた、近藤和敬さん“の”本なんですよねぇ。<BR><BR>　私はあれを思い出しましたよ、<A href="http://math.artet.net/?eid=1421508">デューイの二元論批判／河村望による訳者あとがき</A>のことを。デューイの和訳は、訳者自身の二元論的認識論の枠組みのなかで勝手に解釈されることが多かったという話。<BR><BR>　また、<A href="http://math.artet.net/?eid=1421670">クワインはウィーン学団から影響を受けたのか受けなかったのか</A>ということに対する、丹治信春さんとクリストファー・フックウェイの見解の違いのことも（<A href="http://math.artet.net/?eid=1421669" target=_blank>＊</A>）。<BR><BR>　書かれたものから何をどう読みとるのかは、しみじみ、読み取る側に依存していると思うことであります。しかし論文の場合、物語の感想などとは違って、そう読む根拠を示さなくては意味がないし、示すことができる。<BR><BR>　早い話、カヴァイエスの一般的な解釈は、代数学と構造主義に傾倒して行われることが多かったようなのです、これまで。<BR><BR>　一般的なカヴァイエス解釈の例として、シナサールという人と、グランジェという人が出てきます。<BR><BR>　シナサールは、カヴァイエスが博士論文を書き終えたあと、ブラウワーとハイティングに論文を手渡すために直接アムステルダムに赴いているという事実に注意しながらも、その意味を軽視して、カヴァイエスの概念の哲学とブラウアーの直観主義との差異を確認するだけにとどまっているのだそう。<BR>　<BR>　また、グランジェは、いいところを突いているにも関わらず（←私の表現）、それをウィトゲンシュタインの数学の哲学と結びつけてしまうらしいのです。<BR><BR>　で、それぞれの気持ちや根拠もわかるんだけれど、近藤さんは、そうじゃないんじゃないかな、ここでもってくるべきはブラウアーの直観主義なんじゃないかな、ウィトゲンシュタインとカヴァイエスで一致する点があることについても、ブラウアーが一枚噛んでいるんじゃないかな?という見方をしておられます（←全体的に私の表現）。<BR><BR>　と、近藤さんが考えるのも、カヴァイエスの「操作」概念に注目したからこそのこと。<BR><BR>　というわけで、第2章は、「カヴァイエスは、カントの直観の理論を数学的に解釈しなおしたものとして、ブラウアーの直観主義を高く評価していた。」という1文で始まります。しかし、カヴァイエスとブラウアーの直観主義との関わりが、集中的に検討されたことはなかった、ということで、上記の話へとつながっていくのです。<BR><BR>　実際、カヴァイエスは、直観主義の主張をそのままのかたちで同意しているわけではないのだそうです。ということは、やはりカヴァイエスはダメットに何か通じるものがあるのかもしれません。もちろん、直観主義の何を重視し、何を拒否したかは違っているかもしれませんが。<BR><BR>　そのような現状にあって、ブラウアーの直観主義とカヴァイエスの概念の哲学とのかかわりについて正当な評価をくだしているのが、スブスティク（Sebstik）という人なのだそうです。スブスティクいわく、<BR>
<P></P>
<BLOCKQUOTE>「カヴァイエスは、（直観主義が主張する）原直観の作用による数学的基礎づけに賛成することもなければ、ブラウアーによって数学に課された制限に賛成することもない。そうであったとしても、直観主義の2つの主題が、本質的には活動性と実効性の要求から成り立っている（カヴァイエスの）学知の構想のなかで、彼の学知の理論の中心に見出される。彼の学知の理論と深く共鳴しているブラウアーの認識論の詳細な検討を、カヴァイエスが先延ばしにしてしまったことは残念なことである」</BLOCKQUOTE>
<P>　　（p．54）<BR><BR>　そんなスブスティクも、上記の「活動性」と「実効性」について、その内容的な検討をじっさいにおこなったわけではないそうなのです。なので、それを近藤さんがやろうとしておられるのだと、私は理解しました。<BR><BR>（つづく）</P>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-01-27T08:52:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421715">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421715</link>
    <title>連絡</title>
    <description>　こどものちかくのほうに、娘と分数を勉強しながら発見したことというエントリを書きました。</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://kodomo.artet.net/" target=_blank>こどものちかく</A>のほうに、<A href="http://kodomo.artet.net/?eid=1228794">娘と分数を勉強しながら発見したこと</A>というエントリを書きました。
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2012-01-26T15:46:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421713">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421713</link>
    <title>論理学と数学の間で宙吊りになっているカントの「証明」</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。&amp;nbsp; さて、還元不可能な「意識」に依拠することによるカントの「論理学」の設定は、どのように可能になってくるのか?　それは、「悟性および理性の自己認識は「形式にしたがって」生じる」というこ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第1章を読んでいます。<BR><BR>&nbsp; さて、還元不可能な「意識」に依拠することによるカントの「論理学」の設定は、どのように可能になってくるのか?<BR><BR>　それは、「悟性および理性の自己認識は「形式にしたがって」生じる」ということを原理的に認めることから可能になる、と書いてあります。「　　」内はカヴァイエスの言葉です。しかしカヴァイエスいわく、カントが言う意味での形式論理学は、いささかも形式的にことにあたっていない、と。<BR><BR>　「形式」という言葉は、先日のエントリ：<A href="http://math.artet.net/?eid=1421708">カヴァイエスが修正する、カントの「直観」という用語</A>で出てきました。巻末註も示しましたが、ひとまず「規則」ととらえてよさそうです。<BR><BR>　しかし、カントにとって「形式」は、「操作」の実効的な「遂行」によってあらわれる固有の「構造」のことではないようなのです。そして、もしもこの「形式」を、そのような固有の「構造」としてかんがえるとすれば、形式論理学とはそのような固有の「構造」そのものにおける必然性（すわなち「規則」）の把握であるはずであり、この意味で、カヴァイエスのかんがえるありうべき形式論理学とは、数理論理学を意味している、とのこと。<BR><BR>　そうなると、素朴な疑問がわいてきます。「形式論理学」と「数理論理学」の違いとはなんぞや?という疑問が。ウィキペディアの<A href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%BC%8F%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6" target=_blank>形式論理学</A>を読んでみると、数理論理学とは異なるものだと考える場合について、次のような記述が見られます。 
<BLOCKQUOTE>形式的論理学<I>(formale Logik)</I>とは、ドイツ観念論哲学の祖と言われるイマヌエル・カントがアリストテレス流の論理学に与えた名称。自己の唱えた<I>超越論的論理学(transzendentale Logik)</I>と対比したもの。&nbsp;</BLOCKQUOTE>　・・・ん?<BR>
<BLOCKQUOTE>　エドムント・フッサールなどによって、従来の論理学をカントが「全く誤解して」名付けたものであり、対比されている超越論的論理学は形而上学と認識論の奇妙な混合物というべきものであると批判された（フッサール「形式的論理学と超越論的論理学」）。<BR></BLOCKQUOTE>　アリストテレス?　そういえば昔、ちょっとだけかじったぞ・・・と思って検索してみたら、おお、2007年4月3日に<A href="http://math.artet.net/?eid=339545">論理学の呼び名</A>というエントリを書いておりましたです。大いに混乱しておるようです。<BR><BR>　それはそうとしても、話がつながりません。ウィキペディアの説明によると、カントが唱えたのは形式論理学（たとえ誤解して名づけたとしても、とにかく従来の論理学）ではなく、超越論的論理学であり、それは形式論理学とは対比させられるようなものらしいので。<BR><BR>　というか、ここはあれですね、それぞれの文脈で使われている「形式論理学」「形式的論理学」が同じものをさしていると考えないほうがよさそうですね。形式論理学を、ある種の論理学の呼称として考えると、カヴァイエスいうところの「ありうべき形式論理学」という言い回しの意味もわからなくなるし。フッサールが批判したところの、「形而上学と認識論の奇妙な混合物」をカヴァイエスも批判していると考えると話がつながりますが。だからそれを形式的論理学と呼ばないほうがいいのではなかろうか。自己認識は「形式にしたがって」生じる、というようなことをカントが言っているらしいことはよしとして、そういう意味での「形式」にとどめておいたほうがいいのではなかろうか。<BR><BR>　ひとまず本にもどると、カントの学問論における「論理学」あるいは「形式」の理解においては、「操作」という観点が欠けている、とカヴァイエスはかんがえているようなのです。<BR>
<BLOCKQUOTE>言いかえれば、カントの学問論は、論理学と数学のあいだの厳密で維持可能な関係を確立できていないという欠点を抱えているとカヴァイエスはかんがえているのである。<BR></BLOCKQUOTE>　　（p．48）<BR><BR>　だからこそカヴァイエスは、カントの学問論においては、真理の認識としての「証明」の概念が、論理学と数学のあいだで位置決定ができないまま放置されていると判断する、と。<BR>
<BLOCKQUOTE>「証明という用語のうえに基礎づけられた学問的理想の要求は、その証明という用語が三段論法と数学的構成とのあいだで未決定なままであるために、学問の展開が演繹されることになる学問の純粋で必然的な部分を、経験の原理を添加することで創造することに帰着してしまっている」</BLOCKQUOTE>　　（p．49）<BR><BR>　ここで三段論法が出てくるのですか・・・ううむ。<BR><BR>　そういえばクワインを読んでいたときに、カントは18〜19世紀の人であり、カントが亡くなってから100年以上たって、『プリンキピア・マセマティカ』が出版されたことになる（カントの時代と、20世紀とでは、「論理学」のパワーに雲泥の差がある）ことを確かめたのでしたっけ。（＞<A href="http://math.artet.net/?eid=1421676">「ア・プリオリ／ア・ポステリオリ」と「分析的／総合的」</A>）<BR><BR>　カントにおいては、三段論法は、「悟性」と「理性」の「形式」にしたがった自己認識によって確定された「論理学」であるとされるけれども、「数学的構成」は、「直観形式」と「悟性形式」にしたがう「図式」による概念の「構成」をともなった数学的証明として規定される、と。<BR>
<BLOCKQUOTE>カヴァイエスは、このような三段論法に固有の論理学の「分析」的特徴と、空間と時間の「直観形式」のうえに基礎づけられた数学の「綜合」的特徴のあいだに、埋めがたい断絶がさしはさまれているとかんがえている。言いかえれば、「証明」という概念の理解が、論理学と数学のあいだで宙吊りになってしまっているのである。</BLOCKQUOTE>　　（p．49）<BR><BR>　やっぱり、フッサールが批判した超越論的論理学と同じものなのではないのだろうか・・・。いずれにしろ、このあたりについては、第1章では「そういう話があるのね」くらいにとどめておいて、立ち止まるとしたら、第4章以降のほうがよさそうです。<BR><BR>　近藤さんはこのあと、「◆結論　哲学と数学をつなぐ媒介としての「操作」概念」という文章を書いておられますが、ここは割愛して、いよいよ次回からは「第2章　ブラウアーの直観主義と操作概念」に進みます。<BR><BR>（つづく）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-01-26T09:39:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421712">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421712</link>
    <title>カントの「論理学」と、「意識」の絶対性／なぜか構造主義生物学へのリンク</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。　いまは何を読んでいるかというと、カントが「規則」における「絶対性」の問題を、「理性」と「悟性」について議論しながら、どうやって規定していくのか、について読んでいます。　きのうのエントリ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第1章を読んでいます。<BR><BR>　いまは何を読んでいるかというと、カントが「規則」における「絶対性」の問題を、「理性」と「悟性」について議論しながら、どうやって規定していくのか、について読んでいます。<BR><BR>　きのうのエントリで示したように、カントは、「悟性」と「理性」が生みだす「規則」は、自然のなかにある「規則」と同じ「規則」であると考えたわけですが、カヴァイエスはこれに対し、「言いかえるならば、学問は悟性および理性というある種の能力の産物なのである」として、こう続けます。<BR>
<P></P>
<BLOCKQUOTE>論理学はこれらの能力を指導することを欲するにもかかわらず、これらの能力が設定されたあとにしか定義されえない。[論理学の]抽象的な定義は、おそらくこれら悟性と理性という能力によってあたえられることになる。<BR></BLOCKQUOTE>
<P>　　（p．47）<BR><BR>　私がこの部分を読んで思い出したのは、池田清彦『構造主義生物学』に書いてあった、人間の知能の発達に対する機能主義者（経験主義者）と構造主義者の主張の違い（<A href="http://math.artet.net/?eid=1254676" target=_blank>＊</A>）のことでした。つまり、A：「人は学習によって能力が高まるのである」と、B：「人はある年齢になると能力が高まるので学習ができるようになるのである」という2つの考え方です。Aの代表は行動主義心理学創始者のジョン・ワトソン、Bの代表がピアジェということになっていました。で、そのあとに<A href="http://math.artet.net/?eid=1257159">構造主義生物学の立場からのピアジェ批判</A>というエントリも書いています。<BR><BR>　あのときは、「うーん、よくわからん・・・」で終わりましたが、いまだったら、あのときよりは少しわかるかも。何かわかるかというと、構造主義生物学の限界が。「構造」を「構成あるいは生成」と対立させて考えているうちは、先に進めないのかもしれません。また、遠山啓が言っていた、近代数学と現代数学の対立にもつながる話だろうと思います。<BR><BR>　さらにカヴァイエスは続けます。</P>
<BLOCKQUOTE>諸規則の源泉である悟性は、「判断の権能」であり、あらゆる判断は、われわれの表彰を統一する機能である。その一方で、機能とは「さまざな表象を1つの共通の表象のもとに秩序づける働きの統一」として解されることになる</BLOCKQUOTE>
<P>　　（p．47）<BR><BR>　「表象」というものを、「操作」の実効的な「遂行」として理解するのであれば、「判断」とは、そのようにして浮かびあがる固有の「構造」をうえから俯瞰的に把握し、統一するものとして働くということになります。<BR><BR>　その点については納得なのですが、ひっかかったのは次の部分です。</P>
<BLOCKQUOTE>ここでは、カントの「規則」にかんする議論が、意識における「諸能力」の議論になっていることがみてとられる。<BR></BLOCKQUOTE>
<P>　　（p．47）<BR><BR>　「意識」とはなんだろうか?<BR><BR>　とりあえず文面から判断するに、「悟性」「理性」が属するところの何かであるようです。ウィキペディアの「<A href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E6%80%A7" target=_blank>悟性</A>」のページでいうところの「認識能力」のことでしょうか。しかし、それだと「能力」が重なってしまうので、意識＝認識ということだろうか。あるいは、「自己」のようなものだろうか。ここにくるまでに、何か読み落としたかな?<BR><BR>　肝心なことは、意識は絶対的なものである、ということだと思うのです。だからこそ、カヴァイエスはこの点を集中的に批判したのだろうと思うことであり。</P>
<BLOCKQUOTE>「規則の必然性-----いわば規則の無条件的で規範的な徴表-----は意識という絶対的なものに従属させられたままであり、意識の現前とその本質構造-----すなわち意識それ自体-----は還元不可能なものであって、いかなる合理的な内容によっても定義されないのである」</BLOCKQUOTE>　　（p.47〜48）<BR><BR>　ああ、もしかすると、「意識」がなんであるかはおいといて、（カントに言わせれば）とにもかくにも、いかなる合理的な内容によっても定義されない「意識」というものがあり、規則の必然性はそれに従属させられている、ということなのでしょうか。<BR><BR>　ならば、そのような還元不可能な「意識」に依拠することによるカントの「論理学」の設定は、どのように可能になってくるのか?<BR><BR>（つづく）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-01-25T12:29:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421711">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421711</link>
    <title>カントのVerstandにあたるものに「悟性」という訳語をあてたのはだれなのか?</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』の第1章を読んでいる途中ですが、ちょっと寄り道をして、「悟性」という言葉について考えてみます。　『純粋理性批判』などのカントの著書は、原文はドイツ語だと思うのですが、ウィキペディアによると、「感性」「悟性」「理...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第1章を読んでいる途中ですが、ちょっと寄り道をして、「悟性」という言葉について考えてみます。<BR><BR>　『純粋理性批判』などのカントの著書は、原文はドイツ語だと思うのですが、ウィキペディアによると、「感性」「悟性」「理性」はそれぞれSinnlichkeit、Verstand、Vernunftなのだそうです。エキサイト翻訳で英訳してもらったら、順に、Sensuality、Mind、Reasonとなりました。ちなみに、ドイツ語→日本語では、「好色」（!）、「心」、「理由」だそうです。<BR><BR>　ついでに、あれこれ調べてみました。<BR><BR>　　「悟性」→Weisheit（独）、Understanding（英）<BR><BR>　　Weisheit（独）→Wisdom（英）→「知恵」<BR><BR>　　Understanding（英）→「理解」→Verst&auml;ndnis（独）<BR><BR>　フランス語だと、「悟性」に相当する言葉はないようで、Understanding（英）→comprendre（仏）→「わかります」　でした。<BR><BR>　それはそうとして、そもそもVerstandにあたるものに、「<A href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E6%80%A7" target=_blank>悟性</A>」という訳をあてたのは、だれなのでしょうか。ウィキペディアで調べたところ、<A href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%91%A8_(%E5%95%93%E8%92%99%E5%AE%B6)" target=_blank>西周</A>らしいです。悟性どころか、philosophiaに「哲学」の訳をあてたのも西周なのだとか。<BR><BR>　ちなみに「悟性」というのは、もともと禅の言葉であるらしく、達磨大師が「悟性論（ごしょうろん）」という書物を書いていたりするようです。↓<BR><A href="http://iriz.hanazono.ac.jp/data/zenseki_084.html">http://iriz.hanazono.ac.jp/data/zenseki_084.html</A><BR><BR>　もし、「悟性」をUnderstandingと捉えるとすると、悟性と理性の違い、すなわち Understanding と Reason の違いはなんなのだ?という疑問がわいてきます。reasonはもちろん、ratioのことでもあるでしょう。＞<A href="http://math.artet.net/?eid=1145290">《 比 》　はなぜ　《 理 》　なのか</A><BR><BR>　ウィキペディアによると、一般論としては、対象を理解する能力が「悟性」であり、その理解をもとに推論を行うのが「理性」という説明がされています。対象の理解とはなんぞや?　それは理性ではないのか?<BR><BR>　で、<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第1章にもどりますれば、カントは例の「規則」における「絶対性」の問題を、「理性」と「悟性」について議論するなかで規定していくらしいのです。「自然におけるすべてのことは、規則にしたがって生じる。・・・・・・われわれのあらゆる能力はすべてそうなのだが、とくに悟性はその働きにおいて規則に結びついている。・・・・・・悟性は規則一般をかんがえる源泉であり、権能である」というふうに。<BR><BR>
<BLOCKQUOTE>カントにとって、「悟性」と「理性」が生みだす「規則」とは、自然のなかにある「規則」と<STRONG>同じ</STRONG>「規則」である。それらは同じ「必然性」[n&eacute;cessit&eacute;]にしたがっているがゆえに、1つの普遍的な「規則」あるいは「法則」であり、そして「悟性」と「理性」はそれを感受するがゆえに、自然の「規則」（すなわち「自然法則」）をそれらによって理解することができるのである。</BLOCKQUOTE>　　（p．47）<BR><BR>（つづく）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-01-24T12:39:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421709">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421709</link>
    <title>絶対性とは、ある一点において統一的に把握すること</title>
    <description>　近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。　前回のエントリでは、カントの「直観形式」を「運動の直観」によっておきかえるというカヴァイエスのアイデアをのぞきました。そうなるとどういう問題が起こるかというと、「操作」の「遂行」という...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<A href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%88%90-1-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%BB%A2%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E5%92%8C%E6%95%AC/dp/4901477897/ref=sr_1_3?ie=UTF8&amp;qid=1323868597&amp;sr=8-3" target=_blank>近藤和敬『構造と生成1　カヴァイエス研究』</A>の第1章を読んでいます。<BR><BR>　前回のエントリでは、カントの「直観形式」を「運動の直観」によっておきかえるというカヴァイエスのアイデアをのぞきました。そうなるとどういう問題が起こるかというと、「操作」の「遂行」という有限的で内容的な水準と、その「形式」という無限的で形相的な水準との関係をどうするの?という問題が起きます（本ではもうちょっとかっこよく書いてありますが＾＾；）。<BR><BR>　なんだか<A href="http://math.artet.net/?eid=1293463" target=_blank>クリプキ</A>を思い出すのは私だけでしょうか?　それともこれは、あたりまえの連想?　なお、この問題にカヴァイエスが具体的にどう取り組んだかは、第4章以降で扱われているようです。<BR><BR>　で、ここでの論点をまとめると、<BR>
<BLOCKQUOTE>カヴァイエスによるカント解釈における本質的な論点は、数学的な「操作」の「遂行」を可能にし、「遂行」とともに「構成」され、その結果として顕わになる「形式」あるいは固有の「構造」が、無尽蔵な内容の予見不可能性を潜在的に含んでいるかどうか、というところにある。</BLOCKQUOTE>　　（p．45）<BR><BR>ということになります。だからこそ、私はカヴァイエス＆近藤さんに興味を持っているのだろう、と思うことであります。<BR><BR>　話はまだ続くのですが、「予見不可能性」のほうはよいのです。気になるのはむしろ「絶対性」のほう。<BR><BR>　先日、<A href="http://math.artet.net/?eid=1421706">そしてカントへ、「予見不可能な生成」と「絶対的価値」</A>で書いたように、カヴァイエスがカント哲学から見出したのは「予見不可能性」だけではありませんでした。そうではなくて、「予見不可能な生成」と「絶対的な価値」という、一見、相容れない2つの特徴を同時に肯定しているところに、カヴァイエスはカント哲学の価値を見出したのだろうと思います。なんか、このあたりについて新しいものの見方を知ることができれば、自分の中の反実在論と実在論のねじれを解消できそうな予感。<BR><BR>　これも詳しくは第4章以降で書かれているらしいのですが、第1章では、この「絶対性」の問題が「証明」という概念と結びつくことについて示されています。<BR><BR>　カヴァイエスは、「アプリオリな綜合判断」における「絶対性」の問題を、理性および悟性によって把握される「規則」あるいは「規範性」の問題として議論しているそうです。ここで言う「規則」とは、このブログでおもに見てきた対比でいえば、「数」の観念に対応するものです（本で示されている対比でいえば、「関係」[比]にも対応するものです）。<BR><BR>　これは、「予見不可能」な「思考する作用」を、ある一点において統一的に把握することにかかわるものですが、近藤さんは、「ある一点において統一的に把握する」ことに対して、第2章で「見渡す」という表現をあてられています。ということに、ここで触れておられます。（ちなみに、第2章ではブラウアー出てくるよ!）<BR><BR>　この、「見渡す」ということは、私自身のテーマでもあります。もちろん、「見渡したい」ということではなくて、「見渡せない」ことを大前提とし、それを引き受けて、それとどうつきあうか、そこにどんな可能性を見出していくのか、そこにこそ可能性が見出せるのではないか、ということを考えたい、という意味でのテーマです。系統学習に対する疑問もこことつながっています。そして、郡司ペギオ-幸夫の著書に出てくる（らしい）「可能世界と単位元」の話を笑いどころと感じないこと（＞<A href="http://math.artet.net/?eid=1421576">数学と権威／数学と自然</A>）ともつながるのだろうと思っています（ただし、檜山さんのような、「数理論理学や圏論をよくわかっている人」をイライラさせる要素が多分にあるんだろうな、ということは想像しています）。<BR><BR>（つづく）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>近藤和敬『カヴァイエス研究』</dc:subject>
    <dc:date>2012-01-22T09:05:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=6" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1421710">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1421710</link>
    <title>Meltykiss Dew</title>
    <description>　さっきコンビニで見つけて、嬉々として買ってきました。　明治＞Meltykiss Dew　　「すわ、テトラ!?」と思いきや、ピラミッド型でした。　　ピラミッド型でもわるくないけれど、欲をいえば是非テトラで作っていただきたかったような・・・　でも、テトラだと口の中でち...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<DIV class=jugem_theme>　さっきコンビニで見つけて、嬉々として買ってきました。<BR><BR>　<A href="http://www.meiji.co.jp/" target=_blank>明治</A>＞<A href="http://www.meiji.co.jp/sweets/chocolate/meltykiss/products/008.html" target=_blank>Meltykiss Dew</A><BR><BR>　<IMG class=pict height=307 alt="" src="http://img.math.artet.net/20120121_2215052.jpg" width=410><BR><BR>　「すわ、テトラ!?」と思いきや、ピラミッド型でした。<BR><BR>　<IMG class=pict height=307 alt="" src="http://img.math.artet.net/20120121_2215053.jpg" width=410><BR><BR>　ピラミッド型でもわるくないけれど、欲をいえば是非テトラで作っていただきたかったような・・・<BR><BR>　でも、テトラだと口の中でちょっとシャープすぎるかな?<BR><BR>　好みの味なんだけど、6粒で298円はやっぱ高いなぁ〜<BR><BR>　洋酒が少〜し効いていて、大人向けかもしれません。って、1粒約50円のチョコを子どものおやつにはしないかな＾＾；　こっそりひとりで、1粒ずつ楽しむチョコレートという感じ（隠すまでもなく、娘、興味を示さず）。でも、この価格じゃリピーターにはならないなぁ・・・<BR><BR>　ちなみにアルコール分は約0.8％とのことで、お子様やアルコールに弱い方はご遠慮くださいと書いてあります。そこまで?と思って、ためしにLOTTEのバッカスやラミーを調べてみたら、3％を超えているもよう。さすがにあそこまではいきません。ブルボンのトリュフのミルクガナッシュと同じくらいかな・・・検索中・・・1．0％未満?　未満じゃわからん・・・<BR><BR><BR>　ちなみにプレリリースのページはこちら→<A href="http://www.meiji.co.jp/corporate/pressrelease/2012/detail/20120112_01.html">http://www.meiji.co.jp/corporate/<BR>pressrelease/2012/detail/20120112_01.html</A></DIV>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <dc:date>2012-01-21T14:14:00+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:publisher>JUGEM</dc:publisher>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
<taxo:topics>
<rdf:Bag>
<rdf:li rdf:resource="http://jugem.jp/contents/theme.php?theme=17" />
</rdf:Bag>
</taxo:topics>
  </item>

</rdf:RDF>
