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    <title>TETRA'S MATH</title>
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    <description>数学と数学教育</description>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1345145">
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    <title>明治14〜18年の算術教科書における比例の扱い</title>
    <description>　最近、「異乗同除」という言葉を知りました。中世ヨーロッパの商人が使っていた三数法は、中国・日本では「異乗同除」として定式化されていたのだそうです。

　で、「異乗同除」で検索をかけていたら、次の論文を見つけました。

中西正治著　『比例の取り扱いにつ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　最近、「異乗同除」という言葉を知りました。中世ヨーロッパの商人が使っていた三数法は、中国・日本では「異乗同除」として定式化されていたのだそうです。<br />
<br />
　で、「異乗同除」で検索をかけていたら、次の論文を見つけました。<br />
<br />
<a href="http://miuse.mie-u.ac.jp:8080/handle/10076/10434" target="_blank">中西正治著　『比例の取り扱いについて(2)明治14年(1881年)から明治18年(1885年)までの算術教科書を対象にして』</a><br />
＞<a href="http://miuse.mie-u.ac.jp:8080/bitstream/10076/10434/1/20A12888.pdf" target="_blank">本文</a><br />
<br />
　これまで見てきた日本の教科書は1900年代に入ってから、つまり国定制度になってからの内容だったので、その前はどうだったのかを知るというのはとても面白いです。まだ内容を詳細には読んでいないのですが。<a href="http://math.artet.net/?eid=1139227" target="_blank">高橋誠『和算で数に強くなる！』</a>の終章を開きつつ時代の流れを考えています。和算が消滅したのが明治20〜30年頃だとすると、明治14〜18年というのは、和算から洋算にシフトする少し前、あるいはまさにシフト中ということになるでしょうか。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>数学史・数学者</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-11T09:30:30+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1343963">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1343963</link>
    <title>比例の問題の答えを出すための3つの方法とその意味</title>
    <description>　遠山啓著作集『量とはなにか−?』p54では、「amでb円の布地は、cmでは何円になるか」という問題の解x＝bc/aを算数で出す方法は三種類あるとして、三数法・倍比例・帰一法があげられています。

　　　（b×c）÷a　･･････三数法
　　　 b×（c÷a） ･･････倍比例
　　　...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　遠山啓著作集『量とはなにか−?』p54では、「amでb円の布地は、cmでは何円になるか」という問題の解x＝bc/aを算数で出す方法は三種類あるとして、三数法・倍比例・帰一法があげられています。<br />
<br />
　　　（b×c）÷a　･･････三数法<br />
　　　 b×（c÷a） ･･････倍比例<br />
　　　（b÷a）×c　･･････帰一法<br />
<br />
　三数法は<a href="http://math.artet.net/?eid=1343470" target="_blank">きのうのエントリ</a>で示した中世ヨーロッパの商人の比例式の計算方法で、いわゆる「内項の積は外項の積に等しい」という法則を使った計算です。遠山啓は、この方法には、やさしい乗法をさきにやってむずかしい除法をあとでやるという計算上の利点はあるが、その反面、意味の理解がむずかしいとしています。まず、a：c＝b：xという比例式をたてることがむずかしい。a：cはa/cとはちがって、一つの量ではなく二つの量の関係であり、ここに出てくる“＝”は二つの量が等しいということではなく関係の相似ということになるので、このような判断が小学生にはむずしい。また、内項の積と外項の積が等しいということの理由もむずかしく、bc＝axからx＝bc/aをだすのは方程式の解法である、としています。だから中世の商人たちは理由を知らずに機械的に答えをだしていたのだろうし、したがってこの三数法は教育的には適切ではない、と遠山啓は結論づけます。<br />
<br />
　では、倍比例はどうか。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-08T08:56:51+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1343470">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1343470</link>
    <title>中世ヨーロッパの商人にとっての「比例式」</title>
    <description>　正比例関係から“正”と“関係”をとって「比例」にすれば、あるいは“例”もとって「比」にすれば、とたんに話は古代ギリシアっぽくなります。しかし、いまはそこまで遡ることはせず、中世ヨーロッパの商人たちにとっての比例---比例式---をのぞいてみたいと思います。そこに...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　正比例関係から“正”と“関係”をとって「比例」にすれば、あるいは“例”もとって「比」にすれば、とたんに話は古代ギリシアっぽくなります。しかし、いまはそこまで遡ることはせず、中世ヨーロッパの商人たちにとっての比例---比例式---をのぞいてみたいと思います。そこに出てくる比例の習慣が、黒表紙時代の教科書に影響を与えているようなのです。また、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062723727?ie=UTF8&tag=ts005-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062723727">やわらか頭「江戸脳」をつくる和算ドリル (講談社+α新書)</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ts005-22&l=as2&o=9&a=4062723727" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />によると、『塵劫記』にも同じような問題が出てきて、同じように解いているそうなのです。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-07T07:50:16+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1343178">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1343178</link>
    <title>和算には「内包量」がなかった話</title>
    <description>　やわらか頭「江戸脳」をつくる和算ドリル (講談社+α新書)に、和算にはなかった五つの「常識」という項目があって、面白いです。その五つとは

　　?　算用数字と計算記号、位取り記数法
　　?　「内包量」の概念
　　?　（「外延量」としての）分数
　　?　角度
...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062723727?ie=UTF8&tag=ts005-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062723727">やわらか頭「江戸脳」をつくる和算ドリル (講談社+α新書)</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ts005-22&l=as2&o=9&a=4062723727" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />に、和算にはなかった五つの「常識」という項目があって、面白いです。その五つとは<br />
<br />
　　?　算用数字と計算記号、位取り記数法<br />
　　?　「内包量」の概念<br />
　　?　（「外延量」としての）分数<br />
　　?　角度<br />
　　?　連続と無限<br />
<br />
であり、?に「内包量」というものが出てきます。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-06T13:23:27+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1343098">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1343098</link>
    <title>訂正</title>
    <description>　集合数から順序数への移行と、圏の「関手」・3において、
では次に、《かぞえる》という手続きと「関手」の話が、タイルを使った順序数から集合数への移行の話とどう関わるかについて書かれている部分を抜き出してみます（p160）。と書きましたが、「順序数から集合数...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<a href="http://math.artet.net/?eid=1341115" target="_blank">集合数から順序数への移行と、圏の「関手」・3</a>において、<br />
<blockquote>では次に、《かぞえる》という手続きと「関手」の話が、タイルを使った順序数から集合数への移行の話とどう関わるかについて書かれている部分を抜き出してみます（p160）。</blockquote>と書きましたが、「順序数から集合数への移行」ではなく、「集合数から順序数への移行」の間違いです。失礼しました。（すでに訂正ずみです）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-06T08:32:38+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1342352">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1342352</link>
    <title>「量圏」（ｂｙ銀林浩）を考える意義</title>
    <description>　話を銀林浩『量の世界・構造主義的分析』（むぎ書房／1975）に移します。この本においては、まず「まえがき」でカテゴリーが出てきており（＞「構造と素子」と、圏論）、次に「第1章　量の一般論」で出てきます（p18）。
…。すなわち，自然界や社会におけるもろもろの...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　話を銀林浩『量の世界・構造主義的分析』（むぎ書房／1975）に移します。この本においては、まず「まえがき」でカテゴリーが出てきており（＞<a href="http://math.artet.net/?eid=1336334" target="_blank">「構造と素子」と、圏論</a>）、次に「第1章　量の一般論」で出てきます（p18）。<br />
<blockquote>…。すなわち，自然界や社会におけるもろもろの法則は，量を対象として記述されるが，他方，新しい量がそのような法則を介して初めて定義される。たとえば，オームの法則は，電圧と電流と抵抗に関する法則であるが，逆にこの法則によって初めて電気抵抗という量が導入されるのである。<br />
　このような関連は，最新数学的用語を借りて，<br />
　　　　　　　　　　カテゴリ的（categoristic）<br />
ということができる。この20年間ほどに形成されてきたカテゴリ（圏）の理論では，<u>対象</u>（object）と<u>型射</u>（morphism）が一体のものとして扱われるが，今の場合，量がその対象で，法則あるいは関数，特に正比例関数が型射に当たるわけである。このことの認識論的意味は，対象とその対象をとらえる手続きとを同時に込みにして考察するということである。</blockquote>　そして、このことの正確な叙述は第4章§3で，実質的意味は第4章§1で述べられる、と欄外補足がついています。<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-05T10:09:17+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1341922">
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    <title>ピアジェ『構造主義』の中に出てくる「カテゴリー」</title>
    <description>　集合数から順序数への移行と、圏の「関手」・3で示した銀林浩『集合の数学』からの引用部分は、このあと、

「自然数についてばかりでなく、量についても同じことがいえる。つまり、種々の連続量から長さという典型を選び出す手続き、連続量を実数で表現する手続きは...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<a href="http://math.artet.net/?eid=1341115" target="_blank">集合数から順序数への移行と、圏の「関手」・3</a>で示した銀林浩『集合の数学』からの引用部分は、このあと、<br />
<br />
「自然数についてばかりでなく、量についても同じことがいえる。つまり、種々の連続量から長さという典型を選び出す手続き、連続量を実数で表現する手続きは、まったく同じように、圏の間を、関手で関係づけていることに他ならない」（要約）<br />
<br />
と続き、ピアジェ『構造主義』から次の一節が引用されています。<br />
<blockquote>　<strong>A</strong>　関手がこんな身近な手続きを表現しているとは，本当におどろきました．<br />
　<strong>B</strong>　だから，スイスの心理学者ピアジェが近著『構造主義』の中で，「だから，S．パペールが，カテゴリーの中に，数学の操作よりも数学者の操作を把握する努力をみているのも理由がないわけではない．これこそ，その反省的抽象の新しい実例だ．この抽象は，その内容を対象からひき出すのではなくて，その対象にはたらきかける活動から，ひき出す．」（邦訳クセジュ文庫p，35）<br />
と述べているのも，うなづけるというものでしょう．</blockquote>　私には上記引用部分の内容も、この一節がここで引用されている意味もよくわからなかったでの、ピアジェの『構造主義』の中で、カテゴリーがどのように出てくるかを読んでみることにしました。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-04T09:34:50+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1341115">
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    <title>集合数から順序数への移行と、圏の「関手」・3</title>
    <description>　では次に、《かぞえる》という手続きと「関手」の話が、タイルを使った集合数から順序数への移行の話とどう関わるかについて書かれている部分を抜き出してみます（p160）。A（小先生）とB（大先生）の会話になっています。
　ものいい　A（小先生）　圏と関手がこんな...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　では次に、《かぞえる》という手続きと「関手」の話が、タイルを使った集合数から順序数への移行の話とどう関わるかについて書かれている部分を抜き出してみます（p160）。A（小先生）とB（大先生）の会話になっています。<br />
<blockquote>　<strong>ものいい</strong>　<strong>A</strong>（小先生）　圏と関手がこんな初等的なところに現れてくるとはおどろきました．そうすると，小学校1年の入門期の数指導で，「タイル」を有限集合の典型としてとり出していますが，あれなどもこれと同じようなことなのでしょうか？<br />
　<strong>B</strong>（大先生）　その通りなのです．タイルの集合を対象とし，1つのタイルの集合から他のタイルの集合への自然な埋込みを型射にとって，1つの圏<strong>Ｃ</strong>´ができますが，おっしゃる手続きは，さきの有限集合の圏<strong>Ｃ</strong>から<strong>Ｃ</strong>´への関手Ｆ´を考えることに当たるわけです。<br />
　<strong>A</strong>　<strong>Ｃ</strong>から<strong>Ｃ</strong><span style="font-size:x-small;">0</span>への関手Ｆの性質（2）<br />
　　　　　F（g<span style="font-size:x-small;">○</span>f）＝F（g）<span style="font-size:x-small;">○</span>F（f）<br />
が大事のようですが，これが，集合数から順序数への移行のために，入門期に指導する右の図のようなタイルの系列と射影の深い意味なのでしょうね．<br />
　<strong>B</strong>　そういうことになります．</blockquote><br />
　文中の右図というのは、次のような図です。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-02T08:20:17+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1341077">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1341077</link>
    <title>集合数から順序数への移行と、圏の「関手」・2</title>
    <description>　銀林浩『集合の数学』（明治図書／1971）p159〜160から、《かぞえる》という手続きと「関手」の関係について述べた部分を抜き出してみます。なお、本の中にある圏の記号は、筆記体のようなぐりんぐりんした文字になっているのですが（字体の名前がわからない）、ここで...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　銀林浩『集合の数学』（明治図書／1971）p159〜160から、《かぞえる》という手続きと「関手」の関係について述べた部分を抜き出してみます。なお、本の中にある圏の記号は、筆記体のようなぐりんぐりんした文字になっているのですが（字体の名前がわからない）、ここでは<strong>Ｃ</strong>で表します。また、N＊の＊は実際は上付きの添え字です。脱字はあえてそのまま表記します。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-01T08:53:10+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1340216">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1340216</link>
    <title>集合数から順序数への移行と、圏の「関手」・1</title>
    <description>　銀林浩『集合の数学』（明治図書／1971）において、集合数から順序数への移行の話が、圏論の「関手」のところで次の図とともに出てきます（p160）。

　　　

　このことについてしばらく考えていきます。なお、これから考えることは、例にあげた集合も含め、銀林先...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　銀林浩『集合の数学』（明治図書／1971）において、集合数から順序数への移行の話が、圏論の「関手」のところで次の図とともに出てきます（p160）。<br />
<br />
　　　<img src="images/functor02.jpg" width="200" height="173" alt="" class="pict" /><br />
<br />
　このことについてしばらく考えていきます。なお、これから考えることは、例にあげた集合も含め、銀林先生の文章を私なりに解釈したものなので、間違っていたり的外れだったりするところも多々あるかと思いますが、とりあえずこんなふうに考えてみたというプロセスとして、記録しておきたいと思います。なお、あとで銀林先生の本文そのものを掲載する予定です。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>圏論と初等数学</dc:subject>
    <dc:date>2010-02-28T08:45:36+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1340286">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1340286</link>
    <title>水道方式における系列（順序数）の教え方</title>
    <description>　遠山啓は、数を順序数ではなく集合数から始めることをよしとしました。それはつまり、数を

　　　

としてとらえるのではなく、

　　　

としてとらえよう、ということだと思います。しかし、だからといって順序数はあつかなくてよい、ということはもちろんな...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　遠山啓は、数を順序数ではなく集合数から始めることをよしとしました。それはつまり、数を<br />
<br />
　　　<img src="images/junjo.jpg" width="300" height="64" alt="" class="pict" /><br />
<br />
としてとらえるのではなく、<br />
<br />
　　　<img src="images/syugo.jpg" width="200" height="111" alt="" class="pict" /><br />
<br />
としてとらえよう、ということだと思います。しかし、だからといって順序数はあつかなくてよい、ということはもちろんなくて、「数える」ということ自体は人間が考え出したすぐれた方法なのだから、そのために数の系列を教えることも大切だ、としていました。<br />
<br />
　数の系列を教えるときにも、数珠つなぎとしての数を考えるのではなく、いち、に、さん、し、…という数詞を集合に対応させて考え、<br />
<br />
　　　<img src="images/junjo01.jpg" width="300" height="142" alt="" class="pict" /><br />
<br />
　これをタイルを使って学ぶときには、「タイルを重ねる」という方法をとりました。<br />
<br />
　　　<img src="images/junjo02.jpg" width="150" height="188" alt="" class="pict" /><br />
<br />
（参考文献：『新版　水道方式入門　整数編』遠山啓・銀林浩著／国土社／1971）<br />
<br />
<br />
　なるほどね〜と思うことしきり。宮下英明先生の示されている<a href="http://m.iwa.hokkyodai.ac.jp/me/subjects/number/natural_num/seq/def/index_j.html" target="_blank">系列</a>とは対照的です。<br />
<br />
　で、銀林浩著『集合の数学』によると、この集合数から順序数への移行が、圏の「関手」と関わっているらしいのです。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>水道方式</dc:subject>
    <dc:date>2010-02-27T15:02:42+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
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    <title>今後のためのメモ3／遠山啓とデカルト</title>
    <description>　遠山啓著作集『量とはなにか−?』p261〜262において、デカルトの『精神指導の法則』の話が出てきます。遠山啓は、その中に出てくる「順序（ordo）」を今日でいう構造、「計量的関係（mensura）」を今日でいう量に近いものではないか、と考え、もしこの想像があたっている...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　遠山啓著作集『量とはなにか−?』p261〜262において、デカルトの『精神指導の法則』の話が出てきます。遠山啓は、その中に出てくる「順序（ordo）」を今日でいう構造、「計量的関係（mensura）」を今日でいう量に近いものではないか、と考え、もしこの想像があたっているとしたら、デカルトの「普遍数学（Mathesis universalis）」は、量の科学としての近代数学ばかりではなく、さらにそれを越えて構造の科学としての20世紀の現代数学までを遠く見とおしたものであったといえるかもしれない、と語っています。<br />
<br />
　一方、「量の体系と微分積分学」という論文の中では、「微分積分というものをかんたんにいえば，人間のまったく基本的な思考の働きであるところの分析（analysis）と総合（synthesis）を徹底させたものだといっていいでしょう」（p233〜）という書き出しで、それまで“計算術”だととらえられがちだった微分積分学の本質を説こうとしています。<br />
<br />
　この「分析と総合」は、水道方式にも出てきました（<a href="http://math.artet.net/?eid=1279700" target="_blank">＊</a>）。出てくるというより、ある意味、水道方式は分析と総合そのものなのかもしれません。計算をいちばん小さい単位である「素過程」に分解し、各素過程を遂行して、あとでそれを結合するのだから。<br />
<br />
　この「分析と総合」を近代科学の方法だと考えたとき、微分積分学の話をしているのだからそれでいいのかもしれませんが、<a href="http://math.artet.net/?eid=1339021" target="_blank">きのうのエントリ</a>に書いたように遠山啓が現代数学の“その先”を見ていたとしたら、分析と総合の“その先”にある科学的方法、思考方法を考えなかったのだろうか？という疑問がわいてくるのです。で、おそらく考えていなかったのだろう、というのがいま現在の私の結論であり、そこに、遠山啓が本当にやりたかったことが実現されない（または妙な形で継承されている）鍵があるかもしれないなぁ…というようなことも感じています。<br />
<br />
　遠山啓および1950年代、1960年代の数教協については、『時代は動く！どうする算数・数学教育』汐見稔幸／井上正允／小寺隆幸【編】（国土社／1999年）のなかの汐見先生の文章でかなりの部分納得したというか、なるほどね〜！と思ったのですが、あのときにいったんは納得した次の部分について、実はもっと慎重に考える必要があったのだと今になって気づきました。（＞<a href="http://math.artet.net/?eid=1104358" target="_blank">経験主義と系統主義双方に潜む困難</a>）<br />
<br />
「経験主義は主体と客体の溝を不在と見なそうとしがちだったが、それに対して系統主義は別の角度から、やはり主体（子どもの認識の論理）と客体（教材の論理）の溝を不在と見なしがちであった」<br />
<br />
　ここにすでに「主客問題」が含まれていたんじゃないか〜〜
]]></content:encoded>
    <dc:subject>遠山啓の「量の理論」</dc:subject>
    <dc:date>2010-02-26T08:41:35+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
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    <link>http://math.artet.net/?eid=1339021</link>
    <title>今後のためのメモ2／近代数学と現代数学</title>
    <description>　遠山啓の提唱した量の理論には二面性?二重構造?のようなものがあるとよく感じます。

　ある人（たとえば汐見先生）からみれば、遠山啓は学校教育を学問としての数学に近づけようとしたと見える（？）し、ある人（たとえば宮下先生）からみれば、遠山啓のせいで学校教...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　遠山啓の提唱した量の理論には二面性?二重構造?のようなものがあるとよく感じます。<br />
<br />
　ある人（<a href="http://math.artet.net/?eid=1297770" target="_blank">たとえば汐見先生</a>）からみれば、遠山啓は学校教育を学問としての数学に近づけようとしたと見える（？）し、ある人（<a href="http://m.iwa.hokkyodai.ac.jp/me/instruction/subjects/number/quantity_number_abstraction/index_j.phtml?url=m_me_ideology" target="_blank">たとえば宮下先生</a>）からみれば、遠山啓のせいで学校教育は学問としての数学からかけはなれたものになってしまったと見える（？）。<br />
<br />
　また、遠山啓はクロネッカー−藤沢の順序数主義を批判して、「集合」から始まる量の理論を提唱しました。そこでいうところの「集合」は、集合論の集合でもあったし、人間の思考の枠組みとしての「集合」でもありました（<a href="http://math.artet.net/?eid=1337879" target="_blank">＊</a>）。<br />
<br />
　そして、カントールがまきおこした無限をめぐる議論は数学という学問のなかに住みついた永遠の難問だろうと語り（<a href="http://math.artet.net/?eid=1296971" target="_blank">＊</a>）、小学校で無限集合を扱うことの無謀さも指摘しています（<a href="http://math.artet.net/?eid=1298255" target="_blank">＊</a>）。<br />
<br />
　さらに、遠山啓がピアジェの発達理論に目を向けたのは、ピアジェが構造主義者であると同時に構成主義者だったからではないかと思うのです。<br />
<br />
　結局、遠山啓がやろうとしたことは、現代数学の“その先”を見つめつつ、近代数学を現代数学的に高めることで、現代数学の限界を乗り越えることだったのではなかろうか･･･と感じています。なお、ここでいうところの近代数学というのは、デカルト、ニュートン、ライプニッツにはじまる“量の科学”、現代数学は“構造の数学”です。<br />
<br />
　実在は空間的な構造をもちつつ、時間的に変化しつつある。それはニュートン力学のように無構造的に流動的でもなく、建築物のように恒常的に構造的でもなく、双方の特性をあわせもっている。それは単純に時間的でも空間的でもなく、まさに時間・空間的である。たとえば、生物は構造をもちつつ時間のなかで変化する。したがって、その探求方法も、それにふさわしく時間・空間的でなければならない。このような数学はいまだじゅうぶんに開発されているとはいえない。（遠山啓著作集『量とはなにか−?』p272より）<br />
<br />
　遠山啓は、1974年に書いた「構造をめぐって」の論文の最後でサイバネティクスのウィーナーの名を出し、カタストロフィーの理論という言葉を出して締めくくっています。<br />
<br />
　という遠山啓のメッセージを、一面的にとらえて終わらせるのは、あまりにももったいない。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>遠山啓の「量の理論」</dc:subject>
    <dc:date>2010-02-25T11:37:07+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
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    <title>今後のためのメモ1／実在と材料</title>
    <description>　遠山啓の量の理論を読んでいると、いろいろ考えたいことが出てきてついつい目移りしてしまうのですが、とにかくいまは銀林先生の圏をからめた初等数学の話-----集合数から順序数への移行と「関手」、量を対象とし正比例を射とする「量圏」-----までなんとかたどりつきた...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　遠山啓の量の理論を読んでいると、いろいろ考えたいことが出てきてついつい目移りしてしまうのですが、とにかくいまは銀林先生の圏をからめた初等数学の話-----集合数から順序数への移行と「関手」、量を対象とし正比例を射とする「量圏」-----までなんとかたどりつきたいので、後々のためのメモとして、いまの気になりごと3つを簡単にまとめておきたいと思います。<br />
<br />
　まず1つめ。<br />
<br />
　量の体系は<br />
<br />
　　　　実在　→　集合　→　量　→　数<br />
<br />
という図式にもとづいたものであり、その出発点は「実在」であったわけですが、これは<a href="http://math.artet.net/?eid=1058506" target="_blank">私が思う「量の理論」の根本思想</a>の2番目と関わる話です。この実在をいわゆる実在論とからめて考えようとするとエライことになりそうですが、かといって、まったく無関係のふりもできないだろうと思うのでありました。<br />
<br />
　量の理論にまっこうから反論している、そして、“本来の数学”と学校教育の数学との乖離をうったえている<a href="http://m.iwa.hokkyodai.ac.jp/index_j.phtml" target="_blank">北海道教育大学、宮下先生</a>がおっしゃるように、<a href="http://m.iwa.hokkyodai.ac.jp/me/instruction/subjects/number/quantity_number_abstraction/math_number/object/index_j.phtml" target="_blank">数が量をつくる</a>のか？　それとも、遠山啓がいうように、<a href="http://math.artet.net/?search=%BF%F4%A4%CE%C1%B0%A4%CB" target="_blank">数のまえに量がある</a>のか？<br />
<br />
　で、ダイレクトに「実在」を考えるのは難しいので、少し視点をかえて、「材料」について考えてみたいと思いました。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>遠山啓の「量の理論」</dc:subject>
    <dc:date>2010-02-24T08:23:27+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
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  <item rdf:about="http://math.artet.net/?eid=1338297">
    <link>http://math.artet.net/?eid=1338297</link>
    <title>メタメタさんのブログに関連エントリ発見！</title>
    <description>　わぉ、メタメタさんが「構造と素子」に関係するエントリを書いておられます！

たかがかけ算されどかけ算、または「からす算」そして「構造と素子」のこと

「からす算」あるいは「構造と素子」のこと</description>
<content:encoded><![CDATA[
　わぉ、<a href="http://ameblo.jp/metameta7/" target="_blank">メタメタさん</a>が「構造と素子」に関係するエントリを書いておられます！<br />
<br />
<a href="http://ameblo.jp/metameta7/entry-10464822656.html" target="_blank">たかがかけ算されどかけ算、または「からす算」そして「構造と素子」のこと</a><br />
<br />
<a href="http://ameblo.jp/metameta7/entry-10464890696.html" target="_blank">「からす算」あるいは「構造と素子」のこと</a>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>数学史・数学者</dc:subject>
    <dc:date>2010-02-22T14:48:18+09:00</dc:date>
    <dc:creator>tamami</dc:creator>
    <dc:rights>tamami</dc:rights>
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