TETRA'S MATH

数学と数学教育

森田真生『数学する身体』の中身について少し

 まず、前回のささやかな補足をさせてくださいませ。「ちょうどいいデビュー作かも」の話のなかで、「森田さんの活動の場が広がってきて、森田さんを知っている人たちが増えてきて」と書きましたが、私は森田ファンを自称しながら実は森田さんの活動についてはほとんど認識していないので(そもそもファンの定義ってなんだ!?)、これはあくまでも私の勝手な推測・感覚でございます。

 以上、補足でした。

 さて、今回は中身に触れますので、若干のネタばれを含みます。が、読んでも支障のないレベルのネタばれです。(引用部分以外は、私が言葉や書き方を微妙に変えてまとめています)
 
*     *     *

 この本のなかで私が最初に「お!」と思ったのは(そして結局いちばん面白かったのは)、第一章のなかの「脳から漏れ出す」という一節に書かれてある、人工進化研究のとあるエピソードでした。

 「脳から漏れ出す」というタイトル自体には特にびっくりすることはなく、まあ、そういうことってあるだろうねぇと、何が「そういうこと」なのかわからないままに読む前は思っていたのですが、実際に読んでみると、予想していなかった話が書いてありました。

 イギリスのエイドリアン・トンプソンとサセックス大学の研究グループによる「進化電子工学」の研究について。

 人工進化というのは、自然界の進化の仕組みに着想を得たアルゴリズムで人工的にコンピュータの中の仮想的なエージェントを進化させる方法のことのようです。多くの場合はそうであるということで、いつでもかつでもそうということではなさそう。

 何かしらの最適化問題を解く必要があるとき、普通であれば、まず人間が知恵を絞って、計算や試行錯誤を繰り返しながら解を探すところ、人工進化の場合は、はじめにランダムな解の候補を大量にコンピュータの中で生成し、その上で、それらの中から目標に照らして、相対的に優秀な解の候補をいくつか選び出すのだとか。

 そうして、それらの比較的優秀な解の候補を元にして、さらに「次世代」の解を生成していくとのこと。

 そんなふうに、通常はコンピュータの中の(ビット列として表現された)仮想的なエージェントを進化させるのに対し、トンプソンたちは、物理世界の中で動くハードウェアそのものを進化させることを試みたそうなのです。

 課題は、異なる音程の2つのブザーを聞き分けるチップを作ること。結果として、およそ4000世代の「進化」の後に、無事タスクをこなすチップが得られたそうですが、最終的に生き残ったチップを調べてみると、奇妙な点があったのだとか。

 そのチップは、100ある論理ブロックのうち、37個しか使っていなかったらしいのです。これは人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数で、普通に考えると機能するはずがないとのこと。さらに不思議なことに、たった37個しか使われていない論理ブロックのうち、5つは他の論理ブロックと繋がっていないことがわかったのだとか。

 繋がっていない孤立した論理ブロックは、機械的にはどんな役割も果たしていないはずなのに、驚くべきことに、これら5つの論理ブロックのどれ1つを取り除いても、回路は働かなくなってしまったのだそう。

 それはなぜなのか?

 ということについては本に書かれてあるのでここでは触れずにいますが、「すごいなぁ!なるほどねぇ!」と私は思いましたです。ひとことでいえば、物理世界の中を必死で生き残ろうとするシステムにとっては、「うまくいくなら何でもあり」なのでございます。

 あと、やっぱりというかなんというか、ユクスキュルも出てきていました(第三章)。環世界の話。このブログではいろんな話題で6エントリ、生活ブログのほうでは國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に関連して6エントリでその名を出しています。

 ちなみに、森田さんと國分さんは、少し変わった対談をされたことがあるようですよ〜↓
 
CHOREOGRAPH LIFE―自然の思想、思想の自然
http://suiohsha.jp/report/cl131013.html

 それからもう1箇所印象的だったのは、第二章のオープニングの次のくだり。
 私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。
(p.49/太字は傍点付き)

 「そ、そ、それにはちょっと事情がありましてぇ〜」と、文脈をはなれて言い訳したくなってしまった私(なんで私が!?と思いつつ…^_^;)。ひとまずこれをリンクさせていただきます↓(1つめのリンクを追加しました。古いエントリなので、ちょっと自分で何かひっかかるものはありますが…)

「量」の理論と“構造” 
http://math.artet.net/?eid=173053

私が思う遠山啓の「量の理論」と「現代化」の関係

 もちろん、森田さんがここで言いたかったことは、それはけしからんというような話ではまったくなく、学校で教わる数学の影響もあってか、「数学=数式と計算」というイメージを持っている人は少なくないけど、数式と計算をことさら重視する傾向自体が必ずしも普遍的な考え方ではなく、数学は時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだよ、ということなんだと思います。

 また、アンドレ・ヴェイユと岡潔の邂逅のエピソードも面白かったです。ヴェイユが「数学は零から」と言うのに対して、岡潔は「零までが大切」と切り返した場面があったらしいという話(p.164)。

 いま抜き出したいのはだいたいそのくらいです。読み直しまとではいかないまでも、再度ざっとページをみくってみたところ、第一印象から特に大きな変化はありませんでした。これからまた変わってくるかもしれませんが。

 というわけで森田さーん。2作めか3作めあたりで、がっつりいっちゃってくださーい。濃いやつを!(いちファンより)
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遠山啓の「外延量・内包量と微分積分」(1979年)を読んでいく (2)/内包量と感覚

 遠山啓著作集<数学教育論シリーズ6>『量とはなにか−供‖深仝砧漫θ分積分』(1981年/太郎次郎社)に収められている、「内包量・外延量と微分積分」(p.78〜91)という文章を読んでいます。



 内包量の歴史が浅いことを示したあと、遠山啓は、その内包量というものは感覚でとらえられるのだ、ということを強調しています。例として、海水の塩からさをあげています。外延量は“広がり”なのでそうとう歩きまわらないとわからないけれど、内包量は狭いとこにとどまっていてもすぐにわかる、太平洋の海水の塩からさを知るにも全部の水を飲んでみる必要はなく、一部を飲んでみればそれでわかる、と(ただし、それが可能であるためには、太平洋の海水の濃度は一様であるという前提が必要になってきます)。

 つまり、内包量は、計算を前提としていない。2つの食塩水の濃度を比べるには、なめていればいいわけで、とくに計算は必要ない。ただ、両方の食塩水の食塩と水の量がわかっているときには、いわゆる“1あたり量”を計算してみれば、なめないでも、どちらがからいかということがわかる、と。

 内包量に対しては、近畿地区の数教協(略称:近数協)とのあいだでずいぶん論争があったそうです。数教協の内部でも、少なくとも当時は、いろいろと批判や議論があったわけですよね。遠山啓いわく、いままでの伝統的な速度の定義は、“距離を時間でわったもの”、つまり「速度=距離÷時間」というものであり、近数協もそう定義するだろうけれど、私はそうではないと思う、そういう定義は子どもにとってひじょうによそよそしいものである、速度にしても子どもたちはまず感覚でとらえる、と。自動車より飛行機のほうが速い、ハトよりツバメのほうが速いということを、子どもたちは生活経験のうえからすでに知っており、それを数値化するときにわり算がいるというだけのことで、出発点はあくまでも人間の感覚である…

 生活単元学習批判の頃からだいぶ時間がたっているわけですが、「生活単元学習=子どもたちの感覚や生活経験を重視」ということではないにせよ、やはり時の流れは感じます。しかし遠山啓としては、一貫しているのかもしれません。

 そして、速度を数値化するときには、かならずしもわり算は必要としないとして、自動車の速度計や飛行機の速度計の例を出してきます。液体の濃度なども浮きばかりを使えばわり算をしないでもでてくると思う、と。

 せっかくなので、ちょっと調べてみましたが・・・よくわからず・・・(涙)。

■スピードメーターの構造
http://www.geocities.jp/adatthi/Cyukosu.htm

■(ウィキペディア) ピトー管
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%88%E3%83%BC%E7%AE%A1

このように,速度にしても濃度にしても,かならずしも,わり算を経なければ測定できないというものではありません。つまり,内包量というのは感覚で知ることのできる実在した量であって,それを知る一つの手段としてわり算が使われているというだけのことです。

 (p.81)

 遠山啓は、内包量をわり算したものとして定義したのでは、子どものほんとうの感覚とつながらない、感覚とつなげたほうが子どもにとってずっとよくわかるし、そのほうがしぜんであると思う、数学というのは、あとからはいってくればいい、と語っています。とにもかくにも、遠山啓にとって、内包量は「定義されるもの」ではないらしいです。外延量も、内包量も、「実在」している。したがって、遠山啓にとって内包量は、はじめから存在しているものであり、感覚的にとらえられるものであり、しかし計算するときにはわり算が必要であり、結果的に、内包量はかけ算・わり算の説明に便利、ということになるような気がします。



 内包量を感覚とからめた話をきいていると、ユクスキュルのことを思い出します。
■生物、人間、量と法則のからみあい
■強度世界と内部観測、ゼノンの告発


(つづく)

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ドゥルーズ、「動物になること」/非人称とスピノザ/わたし

 生活ブログ:TATA-STYLEのほうで、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』のことをずっと書いているのですが(ついにカテゴリーを作ってしまった→)、ぼちぼち結論に向かいつつあり、そこに「動物になること」という話が出てきます。

 で、エスポジト『近代政治の脱構築』も、「動物になること」の話で終わっています。

 不思議な話ではなく、要はどちらもドゥルーズが関係しているということなのでしょう。ただし、『暇と退屈の倫理学』では確かに結論近くでドゥルーズの名はあげられるものの、「動物になること」はハイデッガーとユクスキュルの議論を経て出された言葉なので、直接ドゥルーズからこの言葉はひいておらず(私が読み落としている可能性もなきにしもあらず)、実際ニュアンスが異なっているようです。

 ドゥルーズが出てくるとなると、もう一度こちらをリンク↓
http://repre.org/repre/vol9/conference04/
panel05.html


(そういえば前回のエントリで、同じ「表象文化論学会サイト」内のブランショのページの話題を出しておきながら、リンクするのを忘れていたので、リンクを追加しておきました。)

 一方、『近代政治の脱構築』のほうでは、
ドゥルーズが、人格という概念を脱構築する過程のクライマックスにおいて------哲学的でも、精神分析的でも、政治学的でもある調子を響かせつつ------、「動物になること」という謎めいた形象を措定したのは偶然ではない。
 (p.275〜276)

というふうに「動物になること」が出てきます。また、ドゥルーズのこんな言葉も引用されています。
「群れに対して、多様性に対して魅惑を感じることがなければ、われわれは動物に<なる>ことができない。これは<外>の魅惑なのだろうか。それともわれわれを魅惑する多様性が、われわれの内側に住まう一個の多様性とあらかじめ関連しあっているということなのだろうか」
 (p.276)

 「われわれの内側に住まう一個の多様性」ときいて、私は『記憶と生』の訳者あとがきのなかにあった、「多数性に満ちた単一」のことを思い出しました。>ドゥルーズによるベルクソン『記憶と生』の全体像・1

 話がもとにもどりますが、前回のエントリのなかで「匿名性のつぶやき」という言葉を含む箇所を引用しましたが、そのあと、匿名でありながら多数でもあり、非人称でありながら単独でもあるこのつぶやきが持つこととなるのは、生の形式であり、「ひとつの」生なのだ、と話は続きます。

 生というものは、生きとし生けるものすべての者に共通するものでありながら、けっして漠然としたものではなく、つねに誰かのものである。しかし、生は、人格という排他的で他を締め出す形式を持つわけではない。生は、人格という分割の装置による切断に抗うもの、それ自体でただひとつのものだからである。生とは、法のあらゆる主観的概念化に先がけて、不可分の一点を構成する。

 そして第11章の最後、つまりこの本のラストは、次のように締めくくられています。
人間が人間のうちで「動物になること」とは、人格という概念や慣習によって締めつけられてきた形而上学的な結び目をほどくことによって、もはやモノへの移行段階にあるのではなくて、ついに自分自身のみと一致した人間の存在様態へと向かうことを意味し、そして要求するのである。
 (p.276)

 『近代政治の脱構築』は、文字面を追うだけで、なかなか読めずにいるのですが、第1章の前半と、それからこの第11章だけは、すぐに心に響きました。

 そういえば、「第4章 免疫型民主主義」では、イェルネの名前が一度だけ出てきます。私にとってはちょっと懐かしい名前です>イェルネの「ネットワーク説」と「内部イメージ」 (1)(2)。当然、ルーマンも出てきます。
 
 あともうひとつ、非人称の話を聞いていると、どうしてもスピノザのことを思い出します。というか、非人称とはなんぞやを理解するとき、結局、(上野さんが紹介してくれるところの)スピノザがいちばんわかりやすい。
 真面目な思索は「私はいかに生くべきか」という問いから始まる。それはよいのだが、それだけだとろくでもない私さがしになってしまう。「私」をめぐる問いは非人称的な事物認識の世界にまで導かれ、事物の言葉で遂行されねばならない。幾何学仕様の『エチカ』が倫理学だという秘密はそこにある。一人称の倫理的な問いを、その強度はそのままに、非人称の世界にまで運んでいく道。それがこの『知性改善論』である。百の解説書を読むよりも、まずはこの道を自分で歩いてみたまえ、というスピノザの声がする。
(上野修『スピノザの世界』p.21〜22)

 私(←このブログを書いているtamami)は、自分自身と、それから「わたし」という概念に、とても興味があります。そして、「私の道筋」というものを重要視しており、それが“私の”教育観の根幹を成しています。そんなふうに「“わたし”まみれ」の私であり、だからこそカヴァイエスの自己展開はショックだった()わけですが、ここ数ヶ月、ごくたまに、そんな私が解きほぐされる感覚を味わうことがあります。

 最初は仏教関係の本だったと思います。「あ、私なんていないんだ」という、不思議な開放感のような安堵感のような感覚を味わった瞬間があり、それは持続するものではなく、すぐに私は“わたし”まみれにもどるのですが、その瞬間を味わったことは覚えているわけです。そうこうするうちスピノザの“ずーん”を味わうことになり、その後いろいろなイメージが、言語化されることなく湧いて漂っては消えていっています。多と一、動き、透明と存在がないまぜになったイメージ。と、言葉にしたとたん、「ちょっと違う」と思われるイメージ。「私はないんだけど、私は確かにあって、そして私ってのは一人だけど、でもやっぱり私ってものはないんだ」ということ。“わたし”まみれの私を肯定したい自分を否定する必要もない。そして考え続ける。続けていい。続けるぞ。そんな感じ。

 きのう、上野修『スピノザの世界』の冒頭を読み直したのですが、あらためて(上野修さんが紹介してくれるところの)スピノザの企てが胸に響いてきます。
 スピノザの企ては、すぐれて倫理的な企てである。しかも、いかなる道徳的善悪にも出発点において無関係なことが、いまからわかる。彼はおのれの欲望に関して最初から一歩も引かない。そこを間違うとすべてが嘘になることを知っている。知性と欲望は対立するどころか、哲学の営みの中で同じ一つの衝動のもとにある。大丈夫、失うものは何もない。守るものなどはじめから何もないとスピノザは言う。哲学は生の強度として生きられるのである。
(p.39)
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ICCキッズ・プログラム2010&オープンスペース

 ICCキッズ・プログラム2010「いったい何がきこえているんだろう」の感想を「こどものちかく」に(ちょっと)書いています

 会場の空間デザインのことを調べたくて、「はじめに」のページにいってみたら、ユクスキュルの文字が。参考文献として『アフォーダンスの構想』も。

 しかしあれです、結局いちばん私が興味をもったのはハーモノグラフであり、せっかく「音」の催しなのに、視覚に帰着させてしまうわけであり・・・

 ちなみに、オープンスペースに《内部観測者のための円環構造》(平川紀道/2008)なる展示があったので入ってみました。娘はこういう暗闇系が苦手なので、私だけ十数秒ほど体験したのですが、うーん、作品としてはどうなんだろう。もう少し長くいたらもっと感じることがあったかな。現場にいくより写真のほうがカッコイイような。写真のほうが「面白そう」と感じられるような。

 いずれにしろ、今回は、ハーモノグラフにはかないませんでした。それはなぜだろう?とあれこれ思いをめぐらせています。

 説明がなくても10秒で引き込まれ、説明があるとさらに興味をもてる、そんな“内部観測者”のためのインスタレーションは可能だろうか? 
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強度世界と内部観測、ゼノンの告発

 たとえば力学においては、
その経験判断を器機観測、すなわち対象の外部から物理学者が行う外部観測に委ねる。器機観測は周りからの影響(強度)を測度(可測な量、すなわち計器盤上での目盛り読み取り針の振れの大きさ)に変換することから成り立つ
わけですが、言ってみれば「強度」というのは、周りからの影響、外界からの刺激の度合いのようなものだと考えればいいのだと思います。

 たとえば感覚受容器を持つ生物個体は外界からの刺激とその刺激の強度を感受することによって生存し続ける。
(きのうもリンクした「数のまえに量がある」by遠山啓が思い出されます)

 バクテリアといえども、自分の好物であるグルコースを見分けることが出来、その濃度の高い所に向かって進んでいく。
銀林先生がユクスキュルを引用していたことが思い出されます)

 その刺激の感受は生物だけに限られない。電荷を持った粒子、たとえば陽子は外から印加された電界を感受し、そのことによって陽子の運動が加速されるし、磁気モーメントを持つ鉄原子は外から印加された磁界を感受して、その磁界モーメントを加えられた磁界の向きに揃えることを行う。

 ゼノンも陽子も、外界からの刺激を強度として感受する。
違いは何を刺激と見なしているのかに関わる質に関してのみである。
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内部観測 | permalink

意味の編集

 まず、きのうのエントリの補足を。「時間」が気になり始めた大きなきっかけのひとつを書いていませんでした。>結城浩『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』を物語として読むとき

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 郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』を読んでいると、いろんなことを思い出したり連想したりして、頭のなかにたくさん付箋が立つ。また、昔読んだ別の本をひっぱりだしたり、過去に読んだ本を新たに購入したりもしている。

 それらを、本を読みながら少しずつ整理して形にしていきたいのだけれど、その前に、いまはちょっと問題が大きすぎて扱いきれないであろうことを先に(今後のためのメモとして)書いてしまおうと思う。

 最初は、本の内容と直接関係ない、メタなところに立った付箋だと思っていた。しかし、そうは問屋がおろさないらしい。
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郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink

生物、人間、量と法則のからみあい

 正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量で書いたように、銀林先生は内包量を直接的に構成される典型的な内包量と、正比例関数を介して構成される間接的な内包量に分けて考えておられます。そのことについて、第1章にもどって考えてみます。

 第1章の「§2 量と人間」で、銀林先生はまず、森の中に住むある種のダニの話を出されています。ユクスキュル、クリサート『生物から見た世界』(千夜千冊をリンク)の中に書かれてある話のようです。このダニは、茂みの枝などにいて、人間であろうと動物であろうと、獲物が通りかかるのを待ち伏せ、その上に落下して生き血を吸うのだそうです。この生物には視覚も味覚も聴覚もなく、ただ酪酸の匂いに反応する嗅覚だけしか備わっていない、という話です。
このような生物にとっては,その環境世界の中で意味をもつ量は,酪酸の濃度だけである。
 このように下等な生物であれば環境世界は単純ですが、生物が高等になるほど、その環境世界は複雑で、関与してくる量は多岐にわたります。特に人間にとっては、きわめて多くの量が意味をもってきます。
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圏論と初等数学 | permalink
  

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