TETRA'S MATH

数学と数学教育

小島寛之が語る、ラッセル&フレーゲと遠山啓

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、小島寛之「遠山啓氏の思想から見えるもの」(『数学セミナー』2009年10月号から転載)を読んで感じたことを書いています。

 前回のエントリでは、小島寛之が遠山啓からどういうふうに影響を受けてきたかについてみていきましたが、そんなふうに小島寛之が「遠山の残した棋譜」を追った中で最も有益だったのは、「数教育の理論」だったのだそうです。「数教育の理論」とは、「自然数とその計算とはいったい何か」ということを子どもにどう理解させるかという方法論のことだとして、ご自身の著書2冊を参考文献として巻末に示しています(小島寛之『数学につまづくのはなぜか』講談社現代新書、小島寛之『無限を読みとく数学入門―世界と「私」をつなぐ数の物語』角川ソフィア文庫)。

 まずは藤沢利喜太郎の「数え主義」に対する批判の話から始まり、その流れでクロネッカーや「ペアノの自然数理論」が出てきます(なお、このブログでは、クロネッカー−藤沢「順序数主義」批判と、「構造」などのエントリで触れています)。
 このような「数え主義」がさまざまな難点を抱えることを,遠山は鋭く見抜いた.まず,簡単な足し算さえ困難となる.なぜなら,いつも「次」の個数に関する「植木算」に直面するからである.また,累加がいったい何を意味しているのか子供には分からない.さらには交換法則「2+3=3+2」さえどうして成立するのかも説明できない.実際,当たり前ではなく,それは証明されるべき事実である.「ペアノの自然数論」でも,ペアノの指示した5個の公理から加法の交換法則を証明するのはかなり面倒な作業なのだ.
 また、「数え主義」は10進法の構造の会得にもとても都合が悪く、筆算を教えることができないので、原理的に暗算に頼る以外になくなってしまうと指摘して、銀林浩・榊忠男・小沢健一編『遠山啓エッセンス◆戞米本評論社)を参考文献にあげています。

 このような「数え主義」の持つ不具合を明確に解析した上で、遠山は他の数教育の方法論を模索し、そしてたどりついたのが「ラッセル&フレーゲの自然数理論」だ、と続くのです。なお、このことは遠山啓の著作で確認したわけではなく、単なる筆者の憶測にすぎないが、銀林の教科教育法の講義の参考文献にラッセルの『数理哲学序説』があったことからみても、またラッセルの本の内容と遠山の方法の酷似から見ても、ほぼ確信に近い、と書いています。

 私の記憶では、遠山啓の数学教育方法論にまつわる記述で直接的にラッセル&フレーゲが出されているのを読んだのは初めてなので、最初びっくりしました。ペアノやカントールは話の流れで出てきますが。

 小島寛之は、まずフレーゲについて、自然数を「集合の集合」として規定することを試みた(カントールとデデキントの方法を援用して自然数を規定しようと試みた)人物だと紹介します。そして、集合Aと集合Bの1対1対応(全単射)と「同類」の話が出され、ラッセルはこのフレーゲの発想を基点にしてそれにいくつかの公理を加え自然数の公理系を作った、しかし矛盾がおき、それが逆に現代的な数学基礎論や数理論理学の出発点となり、フォン・ノイマンによって改修され、再構築された、というのが大まかな流れです。

 で、遠山啓はこのラッセル&フレーゲの自然数論を、児童への数教育の基礎理論に仕立てた、と話は続きます。先ほどの集合AやBを「タイル」3つから成る集合と1対1対応させて、それによって自然数「3」を理解させる、つまり、任意の集合に対し「タイル」の集合への1対1対応を作ることで、その集合の持つ属性としての「要素数」を抽出するのである、と。このような遠山啓の数教育から、「数学は現実を抽象化したもの」という思想が結晶していることを明白に見てとることができる、というふうに小島寛之はこの一節を締めくくっています。

 なるほど確かに、遠山啓は1対1対応から数を理解させるという方法をとっており、これが(カントールの方法を援用した)ラッセル&フレーゲからきているといわれれば、確かにそうなのかもしれません。

 で、ラッセル&フレーゲからきているとして、だからどうなのだ、ということについては、読者が大いに思考&想いを広げる・広げられる領域なのでしょう。私がまず思ったのは、「そうか、ラッセル&フレーゲが根本にあるのね。だったら遠山啓は基本的に○○主義者なのね」というような短絡的な考え方をしてはいけないな(ラッセル&フレーゲに詳しくない私はそう思いがちだな)ということと、もう1つは、時には大きく---ラベルを手がかりに---考えてもいいかもな、ということでした。なお、TETRA’S MATHでは、フレーゲとラッセル、そしてブラウワーといったエントリを書いています。

 後者(ラッセル&フレーゲを手がかりに“大きく”考えること)については、小島寛之の文章をひととおりみたあと、さらに突っ込んで考えたいと思っています。

(つづく)
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小島寛之から与えられた遠山啓を考える新しい視点

 小冊子『いま,遠山啓とは』にはいろいろな方々の文章が収められていますが、その中からもう1つだけ、とても印象に残った文章についての感想を書かせていただきたいと思います。それは、2009年10月号の『数学セミナー』から転載された、小島寛之の「遠山啓氏の思想から見えるもの」という文章です。2009年といえばほんの2年前。つまりは21世紀の遠山啓論。

 先日感想を書いた森毅の書評は、自分の遠山啓の読み方が基本的に間違っていないということを感じさせてくれる文章でしたが、小島寛之の文章は、自分の遠山啓の読み方に新しい視点を与えてくれるものでした。

 この新しい視点 ―― 小島寛之と私の違いは ―― どこからくるのだろう?ということについて、とりあえずつらつら考えてみました。まず、私が出会った遠山啓は(数協教会員の母を通しての)運動家・遠山啓であったのに対し、小島寛之が出会った遠山啓は(刊行物を通しての)数学者・遠山啓であったことがあげられるように思いました。なお、当時の小島寛之は、数学好きの、しかし教科書や参考書を地道に読み進むのは嫌いな中学生だったようです。また、小島氏の数学への目覚めが数論から始まっていることも大きそうです。さらに小島氏は、遠山啓の著作物はあまりひもとかず、むしろ、遠山啓が自分の方法論を構築した際に参考にしたと思われる元本にあたったらしいのです。なお、東大数学科の講義で銀林浩の指導を受けていた関係で、遠山啓(および銀林浩)の思想のバックボーンも熟知していたもよう。その結果、森毅がデカルトを出してきたのに対し、小島寛之はラッセル&フレーゲを引き合いに出してきています。

 ラッセル&フレーゲについてはあとでゆっくり考えていくことにして、まずは、小島寛之がどんなふうに遠山啓から影響を受けてきたのかみていきます。



 中学生時代の小島寛之にとって、遠山啓は『数学セミナー』の創刊者であり、『数学入門』の著者でしたが、最も大きな影響を受けたのは、塾で中学数学の主任を任されてからだ、と書いています。中学数学全部のテキストを自分一人で書きあげるときに、遠山啓が構築した数学教育の思想と方法論が最も頼りになった、と。

 とは言っても,それは,遠山の仕事を「受け売り」する,ということでも,「体得しつくす」ということでもなかった.喩えて言えば,棋士が過去の名人の棋譜を並べて勉強する,というのに近いと思う.(中略)つまり,棋譜を並べる,というのは過去の名人と対話し議論することなのである.同じように,筆者にとって遠山の仕事を追うことは,遠山がなぜそう考えたか,なぜこの方向を選択しなかったか,それを「過去の遠山」から聞き出す営為にほかならなかった.

 そんな小島寛之は、遠山啓の発想の本質を、「大胆にまとめるならば」という注釈付で、次の2点に集約させています。

 第一は、「数学は現実を抽象化したもの」という見方。

 第二は「数学の自律性の利用」。

 第一については、このブログでも少し違う言葉で書き続けてきたと思いますが、小島寛之はそれが「数教育の理論」と「量の理論」に如実に表れている、と語ります。ここで「数教育の理論」という言葉が出てくることがまず新鮮でした。私の感覚でいえば、「水道方式」と「量の理論」という言い方をするところであるように思うからです。でも、あらためて考えると、「水道方式」と「量の理論」というように、方式と理論を併記するのもヘンな話です。なお、水道方式という言葉はその少しあとに出てきます。

我々は,常に世界からある種の「信号」を受けとっている.それは「世界がどんな風であるか」といういわば「秘密のささやき」のようなものである.しかし,我々はそれをありのまま受け入れるわけではない.なぜなら,そうしようとすると情報量が無限大になり容量を超えるし,またノイズが混入しているから丸々受け取るのは非効率だからである.したがって,我々は何らかの方法で情報を整理し圧縮し変形し,「記号化」して受け入れているはずであろう.それこそがまさに「数学そのものだ」と遠山は考えていたのだと思う.

 さらに、数学の特有性は、そうやって現実から抽出し記号化された「世界の本性」が「自律性」を備えるに至る、ということにある、と小島寛之は続けます。

いったん,外世界が数学概念として人間の内面に構築されてしまうと,今度はそれがオートマチックに機能し始める.遠山は,数学をそのような「自動機械」のように捉えていたに違いない.

 遠山啓の数学観をそんなふうにとらえたことがなかったので、ちょっと驚きました。さらにはこの話が「筆算」へと結びついていくのです。

 どういうことかというと、子どもたちは、いったん外世界から自然数とその加法の概念を内面的に受容でき、その「意味」を理解しさえすれば、あとは「筆算」によって加法を「意味」から切り離して自在に実行できるようになる、と。このような「意味から独立して自己発展できる」という性質こそが数学の「自律性」なのであり、この発想が「一般から特殊へ」という問題配列の方法論「水道方式」として結実することになった、というのが小島寛之の見方です。

 「意味」から切り離されることについては、これまでも考えたことがありましたが、「自律性」という言葉を使って考えるとなんだかポジティブに思えてくるから面白いです。ただし、遠山啓は「具体にもどる」ということも言っており、それは「意味」にもどる、と言い換えることができると私は感じていて、切り離して終わりではない、数学の自律性に委ねて終わり、ではない、とも感じています。もしかすると、そこの複雑さが、水道方式と量の理論の違いなのかもしれません。
 

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森毅が語る、遠山啓にとっての80年代

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、森毅による『遠山啓著作集』書評を読んで感じたことを書いています。

 「遠山啓の時代」、「思想の構図」ときて、最後は「遠山啓にとっての80年代」です。なお、遠山啓は1979年に亡くなっていて、森毅のこの文章は1982年に掲載されているので、「遠山啓にとっての80年代」というのは、「遠山啓なきあとの遠山啓のこれからの10年」ということになろうかと思います。

 1980年代初めに、森毅はこう言っていました。「……,今のところはまだ,こうしてあちらこちらから光をあてながらの「遠山啓論」はなされていないようだ.」と。

 晩年に遠山が主張していたこと,または主張しかけていたことが,十分に展開されきっていたわけではない.そのあるものは,現時点でこそ論じられるべきことでもある.その意味では,現在の教育状況は,遠山の教育論を過去のものにしてはいない.

 そして、途中をとばして最後のページに目をうつすと、こんなことも書いています。

 じつは,雑誌『ひと』で「遠山啓論」を公募しようかという案のあったとき,ぼくは時期尚早という説だった.予想としては,「チャチな遠山批判」と「フツウの遠山賛美」が来て,相対的にマシな「賛美」のほうをとりあげる結果になっては,あまりにも品がないからだ.しかし,これから本格的な「遠山啓論」の出てくることを,期待している.

 「チャチな遠山批判」と「フツウの遠山賛美」というフレーズに、いたく納得してしまいました。あれから30年たち、もはや、チャチな批判やフツウの賛美さえきかれることもなくなってきたかもしれませんが、逆に言えば、遠山啓と同じ時代を生きていない21世紀の人たちは、80年代にはできなかった遠山啓論というものが展開できるのかもしれません。幸いにも遠山啓は夥しい数の著作物を残しているので、手がかりはたくさんあるように思います。また、もはや夜中におしゃべりをすることはできませんから、書かれたものだけ、そしてその余白から読むしかありません。

 森毅の文章にもどると、遠山啓は制度というものに違和感を感じ続けながらも、つねに制度に深くかかわり、「評論家」ではなく「運動家」だった、と語ります。そして、遠山啓の制度へのかかわりは、死によって中断されている、と。このあと明星学園の話を出しているので、ここでいうところの制度とは、おもに学校における教育制度を指しているのでしょう。

 50年代末の量の体系や水道方式が60年代に開花したように、70年代の遠山の発言は80年代にとっても有効ではあるだろうけれど、遠山啓がもし生きていたなら、新しい時代の新しい発言をしただろう、と森毅は続け、

……,遠山の著作集を読むわれわれとしては,80年代における遠山の声を聴くことが必要となる.
 それは,70年代の遠山をそのまま外押しすることではあるまい.遠山は時代とともに,その主調音を変調してきた.80年代には,80年代のサウンズがあるはずだ.
 もちろん,遠山は死んでいるから,その音をだれもかわりに出すわけにはいかない.それは遠山という人間に固有のものだ.
 それでも,著作集を通じて,80年代での声を聴くことはできると思う.それは第三期の残響としてではない.三十年間にわたって,各時代ごとに適切であった単純明解さからではなく,矛盾し葛藤した時代とともに,屈折した複雑な人間としての遠山に依拠することによって,著作集の余白から聴くのだ.


と語ります。「矛盾し葛藤した時代とともに,屈折した複雑な人間としての遠山に依拠することによって,著作集の余白から聴くのだ」なんてことを言ってくれる森毅からも、私たちはもう「その後の声」を聞くことができません。しかしやはり、手がかりは残されています。実際、いまこうして私は森毅の言葉に触れているのであり、森毅を通した遠山啓、あるいは遠山啓自身にも触れることができます。ただ、この小冊子を通さずに私が森毅のこの書評に出会うということはまずなかったと思うので、今回、このような機会を与えてくださった小冊子編集委員のみなさまに、この場を借りてあらためて深く御礼を申し上げたいです。

 森毅の書評についての感想はこれで終わりです。で、遠山啓の80年代、90年代、21世紀を考えるにあたり、山口昌哉がどこかで「自分がいまやっている研究を遠山啓に見てほしかった」というようなことをちょろっと書いていたことが頭に浮かんだのですが、どこに書いてあったかが思い出せず、心あたりのある本をかたっぱしからのぞいてみたものの、いまだ見つけられず、です。しかし予想外の収穫があって、遠山啓著作集「数学論シリーズ4 現代数学への道」の巻末解説で、倉田令二朗が圏論の説明をしているのを見つけました。まだ読んでいませんが、他の解説も含め、少しずつ読んでいきたいと思っています。なお、実家からもらってきたのは24冊で、著作集のうち3冊は行方不明だと気づきました。図書館で読めることでしょう。

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森毅が語る、遠山啓の思想の構図

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、森毅による『遠山啓著作集』(全27巻,太郎次郎社)書評を読んで感じたことを書いています。

 「遠山啓の時代」のあとは、「思想の構図」の話です。ここが特に面白いです。森毅は、「遠山がなにより数学者であったことから,その思想の構図を見るには,数学論がよいかもしれない.」というふうに話を始めます。

 ここでの遠山のスタイルは,普通は表面に出されない,数学の了解の構図を語ることにあった.そして,数学者によっては,記号の処理でことをすますところを,イメージにこだわった.それは,数学教育と同じく,数学を特定の人間層だけのものにしないことを意味していた.しかし,その個別の解説以上に,遠山はそこで数学の姿を語ろうとしていた.

 そしてこのあと、ここでの遠山啓はデカルト主義者であったことを汲んで、話が進んでいきます。

 森毅が「当節」といっているのは、この書評が出された1980年前後の時期をさしているのだと思いますが、「当節では,部分を組み合わせて全体を構築する分析的理性は批判にさらされている」として、還元主義(リダクショニズム)より総体主義(ホーリズム)的接近が問題となっている、と書いています。「しかしここでの遠山は、還元主義的分析的理性のデカルト主義者として語っている」と。

 なお、遠山啓とデカルトの関係については、このブログでも遠山啓とデカルトで触れています。
 
 そして、二分法を好まない森毅が、ここでの論点から、実体か機能か、外延か内包か、還元主義か総体主義か、といったように論をたて、遠山啓の方法論は、実体中心の外延的還元主義ということになろう、と分析しています。遠山の論理の知性的硬質さは、そうした性格に支えられている、と。

 ところが、

ここでも遠山はそれほど単純ではなくて,実際上の遠山の感性的資質はというと,いまの調子でいうなら,機能中心の内包的総体主義なのだ.そうしたことは,夜中におしゃべりをした経験があるとはっきりするのだが,活字の上だけで眺めても,陰画としてのそうした感性が,文章にふくらみを与えているのがわかる.
 このところは,数学としての明解さと,じつはその背景には,感性の屈折を持っていることとの,二重性としてある.

 以前、遠山啓の提唱した量の理論に、二面性あるいは二重構造のようなものがあると感じたことがあるのですが、理論の前に、当の遠山啓が深い二重性を有していたのだなぁと、夜中におしゃべりをした経験のない私は森毅の言葉を通して納得したのでした。

 で、先を読む前にちょっと脇道にそれると、私はこの部分を読んだときに、数教協の「量の理論」における正比例から関数に進むときの飛躍のことを思い出しました。数教協の先生方が大好きなブラックボックス、あれはいったいなんだったのだろう?ということについてこれまでいろいろな方向から考えてきた結果、ブラックボックスは関数を実体概念としてではなく関係概念()(あるいは機能概念)として考えるための装置であり、しかも、その装置のある種の内包的表現であるらしい()というのが、とりあえずの現段階の私の結論だからです。しかもそのブラックボックスがモノとして実体化している。

 話をもとにもどすと、遠山啓のデカルト主義的理性は第一期から第三期にいたるまで変わっていないのだけれど、第一期にはそれが「科学主義」の相を与えていたとしても、第三期につながらずにとられかねない、と森毅は続けます。

 第三期は、遠山啓が教育運動家や教師ではなく「市民」を対象において活動した時期ですが、この時期の遠山啓の教育論は人間の根源の楽しさに依拠しており、「もともとが,遠山が数学を愛した人生の姿からは,この人間の楽しみへの傾倒のほうが,本来のものだったろう.」と森毅は書いています。また、数学の楽しさだけを主張する遠山啓に対して、かつて遠山啓だけの分析的理性を示しえなかった者どもが、それを「感性主義」と呼ぼうとも彼は歯牙にもかけまい、とも。

 しかし、森毅本人が「理性か感性か論ずることは,すでに破綻を約束されている.」と書いているように、理性・感性という二分法で遠山啓の複雑さを考えても、面白いところにつながらないと私は思います。デカルト主義的理性というのはわかるけれど、非デカルト主義的感性という言い回しはピンとこない。

 で、とにもかくにも、どういうことになるかというと、

遠山はデカルト主義者である式の早トチリをするわけにいかない

わけであり、

してみると,たとえば「分析と総合」を遠山亜流としてかついでまわるわけにもいかないことになる.こうしたことは,遠山のそこの論調が歯切れよく,単純明解であるだけに,少し厄介なことになる.

 そして森毅は「思想の構図」の一節を、次のように締めくくります。

 その時代に適切に選ばれた単純明解な表現に,ふくらみを与えている複雑で屈折した遠山の心を読みとらず,別の時代に機械的に適用することは,ときには危険でもある.
 その点で,この著作集を読む人間は,表面上の矛盾と内面の一貫性を同時に感ずるはずだ.第一期の文章と第二期の文章とを,一つの文脈のなかで読むこと,それが著作集の読者に課せられている.

 森毅がこの文章を書いてからまもなく30年というこの時代に、もはや遠山啓の数学教育論を機械的に適用するということはないでしょうが、過去のものとして忘れ去ったり、懐かしむだけではあまりにももったいないと私は思うのでした。もったいないもなにも、遠山啓が本当にやりたかった核の部分、あるいはやりたかったことの半分は、まだ実現されていないのではないか?ということを、“実現”の意味も含めて、考え続けています。

(つづく)

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森毅が語る、「遠山啓の時代」

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、森毅による『遠山啓著作集』(全27巻,太郎次郎社)書評を読んで感じたことを書いています。

 1つ前のエントリでは、「遠山啓著作集を読むときには読者の歴史感覚が必要となる」話について書きましたが、このあと実際に時代の話になっていきます。

「この著作集に現れるのは,遠山の後半生であって,ちょうど十年くぎりくらいの三期に分かれよう.」ということで、森毅はその三期を次のようにまとめています(引用ではなく、私が箇条書きとして書きなおしました)。


第一期/50年代、「逆コース」の戦後「日本再建」の時代。遠山啓は四十歳代で、教育問題にかかわりだしたころ。

第二期/60年代、「高度成長」の時代。遠山啓は五十歳代で、東京工大理学部長を含めて、もっとも忙しかった時期。

第三期/70年代、遠山啓は六十歳代。東京工大を定年になって、教育市民運動に傾倒した時代。


 森毅が言うように、時代の節目と遠山啓自身の生涯の節目がうまく同調しています。

「もっとも,遠山の全生涯を問題にするなら,自伝的エッセーから想像される,この著作集以前の時代がある.」として、森毅は著作集以前の遠山啓についても語ります。

 遠山啓二十歳代、日本がファシズムに傾斜していった30年代に、遠山啓は東大をドロップアウトして東北大を卒業するまでの長い学生時代を持っていたわけですが、

当時のこととして,左翼的な交友関係もあるが,それよりも主として,文学青年ないしは哲学青年としてドロップアウトした遠山の青春,それが彼の人間の底流としてあったろう.

と森毅は書いています。私もそのことを、まさにこの小冊子を手にすることで強く感じました。

 そして遠山啓の三十歳代、戦中から戦後へかけての40年代は、遠山啓はなによりも「数学者」としてありました。不本意な海軍の数学教官の体験のなかでの数学研究への孤独な熱中、そして東京工大での数学研究者としての生活。その「孤独な数学者」が「戦闘的な教育運動家」になったのが上記の第一期です。

 以前、このブログにおいて、「遠山啓の数学教育運動は親心から始まった」というエントリを書いたことがあったのですが、森毅の解釈は少し違っています。もともと「学校嫌いの数学少年」だった遠山啓に、「教育愛」めいた使命感は皆無だった、あるとすれば、生涯愛した数学が、「教育」のなかで泥まみれになり、多くの人に嫌われているのが耐えられなかったのだろう、というのが森毅の見方です。数学が「教育」のなかで泥まみれになっていることを知るきっかけが、わが子が実際に受けている教育の中身を知ることだったのだと思うのですが、それを親心とよぶかどうかは微妙なところではあります。また、「戦闘的な教育運動家」になったのは、時代状況からくるものもあったことと思います。

それゆえ,しめった「教育界」と異質な,硬質な思考が,貴重な役割を果たしていた.

 遠山啓の1950年代については、このブログでも、汐見稔幸先生の分析や生活単元学習批判などについてのエントリで書いてきましたが、当時の遠山啓は「生活主義」や「政治主義」の潮流に対する「科学主義」の論客と見なされていました。しかし、10年あまりして「政治主義」の潮流が「科学主義」に転じたころには、もはや彼は新しい時代を見ていたし、当時の論敵だった「生活主義」の梅根悟とは70年代における盟友だった、と森毅は書いています。

 それぞれの時代についての説明は割愛しますが、遠山啓が第一期(50年代)、第二期(60年代)、第三期(70年代)でどう変わったかについては、次のような観点で見るとわかりやすくなることを、森毅の文章を通して知りました。なるほど、そういう見方があったか。

第一期の主題が進歩的な「教育運動家」のレベルにあったとするなら,第二期はふつうの「教師」,そして第三期ではただの「市民」が対象となる.この時代の遠山の眼は,「学校」から離れてラジカルになり,こども自身へと向かっていった.かつての「学校嫌いの少年」の魂がよみがえったかのように.

 私の小学生時代は1970年代であり、確かに私にとっての数教協は、「学校の外」にありました。ここが原武史さんと違うところかな?() 地域のサークル活動は地域の保護者の協力のもとに行われていて、校区内なので、そこに集うのは同じ小学校に通う児童と保護者ではありましたが、でもやはりそれは学校外の活動でした(ただし、学校の教室を借りての、数教協の授業というのも1度経験した記憶がうっすらとあります)。

 とにもかくにも、高度成長期の技術革新の声のもとで時代がうねっていた第二期(60年代)は、民間教育運動の時代でもあり、遠山啓の影響は大きかったのだと思います。このあたりについては民間教育団体の啓蒙主義的発想(60年代)で少し書きました。

 そして60年代の革新は、その後半から70年代へとつながっていき、主要な流れとしては、政党や組合の力であったろう、と森毅は続けます。こうした反体制的な制度のなかにあって、遠山の威信は大きかった、と。

 しかし,遠山自身の心には,かつてのドロップアウト時代の魂があって,制度になじまぬところがあったろう.

 70年代は遠山啓が大学を定年になったあとであり、自身が大学という制度から解放された時期ともいえます。そうして、制度の中で行うのではない教育というものに眼が向いていったのかもしれません。なお、この時期に主軸となるのが「ひと塾」です。60年代末の養護学校とのかかわりが教育に開眼させた、と遠山啓は語っているようです。

(つづく)

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森毅が「遠山啓の深さ」を語る、その深さに圧倒される。

 小冊子『いま,遠山啓とは』を読み始めた私は、まず第1章のオープニング、森毅の『遠山啓著作集』の書評に圧倒されました。『思想の科学』1982年2月号から転載された文章だそうですが、この文章を読めただけでも、小冊子『いま,遠山啓とは』を手にした意味があると感じました。また、自分の遠山啓の読み方は基本的に間違っていなかった、という感触も得ました。基本的に方向は間違っていないが、まだまだ浅い、とも。

 遠山啓の著作集は、「教育論」「数学論」「数学教育論」の3つのシリーズに分かれており、それぞれの中でもテーマ別になっています。つまり、年代順には並んでいません。したがって、「テーマに照準を合わす便宜があると同時に、歴史の文脈を補完する必要」があり、各巻ごとの解説者にある程度頼ることができるが、なによりも読者の歴史感覚を必要とする、と森毅は語っています。

 ここまでは私も認識していました。認識するもなにも、遠山啓著作集を読んでいるとおのずとそうなります。

 がしかし、ここから先がさすがに森毅は違う。

 なぜ、遠山啓の著作集は、読者の歴史感覚を必要とするものになったのか。それは、遠山の生き方自体が、時代状況の問題性に誠実だったからだ、と森毅は分析します。

「見通しのよさ」とか,「問題意識の一貫性」などが,思想家にたいして賞賛されることは多いし,遠山にしてもそうした賞賛に値するかもしれないが,遠山の生き方がそれにふさわしかったとは思わない.
 それぞれの時代において,つぎの時代で問題になることを先どりしていることが,しばしばあったにしても,それはその時点での「未来の洞察」であるよりは,その時代そのものを深く見ることによって,結果的に,次の時代で問題となることが見えてしまったのだと思う.
 終世を変わらぬ硬骨の冷徹な知性の眼があったとしても,それは遠山自身の人間性に由来するだけのことであって,「意見を変えない」ことのイデオロギー的倫理性にこだわっていたとは思えない.何年か先にも通用しそうで,ツジツマの上での「無謬性」にこだわりたがる,文化官僚精神のようなものとは,遠山はむしろ無縁だった.
 森毅はここで「文化官僚精神」という言葉を持ち出してきていますが(というところにまた時代性を感じます)、私はむしろ、この話は、まさに数学および数学教育の問題として考えられるのではないか、と感じました。文化的官僚精神というようなものにつなげて終わらせてはもったいない。

 期せずして岡潔の言葉を思い出します。「計算能力だけのお先まっくらな目では、起ったことを批判できるだけであって、未知に向かって見ることはできないのである。」

 批判といえば、森毅はこうも語っています。
形式的に「誤謬」だの「矛盾」だのをあげつらう気になれば,ぼくなどはその身辺にいただけに,いくらでもできる。形式的な「遠山批判」をすることは,少なくともぼくにとっては,きわめて容易である.もちろんそのことは,それがまったく価値のない「批判」であることを知りつくしているからでもあるが.
 さらに続けます。
 この点で,遠山の発言の「明解さ」について,ぼくには留保がある.遠山自身が,「人間なんて複雑なものが,そう単純に見すかされてたまるものか」といった意味の発言をしたのを,ぼくは耳にしたことがある.ぼくはそれで,遠山啓という人間は,世評以上に,複雑な屈折を持った,心の底の深い人間だったと思っている.

(つづく)
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小冊子『いま,遠山啓とは』について

 今年6月に、『いま,遠山啓とは』という小冊子が刊行されました。制作は数学教育協議会・遠山啓小冊子編集委員会です。

 この小冊子は非売品であり、部数も限られているため、特に宣伝・告知をしていないそうです(関係者に配られたほかは、数学教育協議会の全国研究大会やいくつかの会合で希望者に実費負担で配布されたときいています)。関係者ではない私が入手できたのは、長年、数学教育協議会の会員であった母のおかげであり、このブログのおかげなのでした。
 
 もともとは2009年10月10日に東京で行われた数学教育協議会主催の「遠山啓記念パーティ―生誕100年,没後30年―」の講演(明治大学:佐藤英二さん)と、そのときのいろいろな方々の発言を記録することを目的として企画されたようです。
 
 しかし、それ以外にも遠山啓について語ってある貴重な文章、たとえば森毅の遠山啓著作集書評や『数学セミナー』に掲載された小島寛之の文章などが納められており、当初の目的を超えた(私はパーティーには参加していませんが)非常に読み応えのある小冊子に仕上がっているかと思います。
 
 内容は次のようになっています。

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■小林道正「『いま,遠山啓とは』によせて」

■第1章 その仕事をふりかえる

 森 毅「いま遠山啓とは」
 上野健爾「遠山啓に学ぶ」
 黒木哲徳「遠山啓先生から学んだこと」
 江沢 洋「量の理論について」
 「エッセイ撰集・遠山啓の主張(1)」(小沢健一・編)
  
■第2章 数学教育改革運動のなかで

 銀林 浩「いま語る,遠山啓と戦後数学教育運動」
 小島寛之「遠山啓氏の思想から見えるもの」
 佐藤英二「遠山啓先生の数学教育思想」
 上垣 渉「遠山啓没後30年の数学教育と数教協」
 「エッセイ撰集・遠山啓の主張(2)」(小沢健一・編)

■第3章 そのひとを語る

 森 毅「異説 遠山啓伝」
 吉本隆明「混沌たる敗戦のあとで」
 奥野健男「文学の師,遠山啓」
 「エッセイ撰集・遠山啓の主張(3)」(小沢健一・編)

■第4章 教育運動の源泉に向かう

 鶴見俊輔「遠山啓の思い出」
 榊 忠男「『見える学校』と『見えない学校』」
 江藤邦彦「遠山先生と『ひと塾』の思い出」
 小島靖子「遠山先生と障害児教育」
 遠山啓「私の教育観」

■第5章 「遠山啓」を読む

 岩澤健吉「遠山啓教授の数学的業績」
 亀井哲治郎「『数学セミナー』と遠山啓」
 小池正夫「名著発掘『数学入門』書評」
 遠山啓「『数学入門』はしがき」
 山本義隆・上野健爾・吉田洋一・柴田望洋 『数学入門』短評
 粟津 潔「遠山啓さんは亀さま―『水源をめざして』装丁裏話.」
 遠山 啓「『無限と連続』はしがき」
 大岡昇平・杉原厚吉・杉浦光夫「『無限と連続』書評(1)(2)(3)」

■遠山啓 著書目録

■編集後記

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 このような非売品の刊行物についてブログでご紹介することに若干の躊躇はありましたが、編集委員の方にうかがったところまだ残部があるとのことで、希望者には実費と送料の負担で配布可能というお話でしたので、関係者の枠を超えて是非この冊子のことをお伝えしたく、ご案内のエントリを書くことにしたしだいです。

 ご希望の方は、数学教育協議会の事務局まで問い合わせてみてください。数協教事務局の連絡先は、数学教育協議会事務局連絡先に掲載されています。広く広告していない小冊子なので、「TETRA'S MATH」を見たと書き添えていただくと話が早いかと思います。なお、ブログでの案内掲載については、編集委員の方々に許可をいただいております。問い合わせ先がよくわからない場合や、万が一話がうまくつながらない場合には、tamamiまでご連絡いただければ幸いです。
 
 内容については後日もう少し詳しく触れることにして、ひとまずきょうはご案内まで。

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吉本隆明が受けた遠山啓の講義

 遠山啓『文化としての数学』の巻末に収められている、吉本隆明「遠山啓 ―― 西日のあたる教場の記憶」(初出『海』/1979年/原題「遠山啓さんのこと」)によると、戦後まもない時期に吉本隆明が受けた遠山啓の講義は、「量子論の数学的基礎」というものだったそうです。その内容は「量子化された物質粒子の挙動を描写するために必要な数学的な背景と概念をはっきり与えようとするもの」だったとのこと。

わたしははじめて集合・群・環・体・イデヤアル・ヒルベルト空間・演算子などの概念に接して、びっくりしていた。そしてむさぼるように講義を聴きつづけた。敗戦にうちのめされた怠惰で虚無的な学生のわたしが、一度も欠かさずに最後まで聴講したたったひとつの講義であった。

 吉本隆明は遠山啓に講義をしてくれと依頼にいった学生ではなく、「そんな殊勝な心がけなどすでにひとかけらも持ちあわせていないどん底の落ちこぼれ」だったそうですが、だからこそこの講義に衝撃をうけたのだともいえる、と書いています。

遠山さんには敗戦の打撃からおきあがれない若い学生たちの荒廃をどこかで支えなければという使命感が秘められていて、その情感と世相への批判が潜熱のように伝わってきた。それを理解することが数学上の概念を理解することと同一であった。


 なお、吉本隆明が数学者としての遠山啓に接したのは、「拡張された因子および因子群」の発表を聴きにいったのが最後だったのだそうです。

 吉本隆明のイメージの中では、晩年の遠山啓は「新たな視点から数学基礎論の建設に向おうとしているようにおもわれた」とのことで、著書『代数的構造』を引きながらその萌芽について語ったあと、次のように書いています。

数学者たちはつぎつぎに<構造>を融解して新たな構造をつくりだしてゆくにちがいない。だがかれらはじぶんたちが何をしているのかを内省し基礎づけることはありえない。ここで内省とか基礎づけとかいうのは、数学者たちがひとりでにやっているフッサールのいわゆる(einklammern)を解除してみせることに該当している。その内省を介して数や図形の集合の意識学ともいうべきものが<構造>の無限の上昇と、事実や自然の世界とを結びなおさなければならない。
 遠山さんのもっていた哲学と文学の素地は、おのずからその方向をさしているようにおもわれた。


 そしてこう続けます。

あの徒労にも似た強靭な数学教育の方式の創設と実行の背後にあって、遠山さんをささえたのは基礎論の研鑽と整序された構想であったろう。
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数学の時代区分の境い目に、いつも幾何学があること

 遠山啓は、古代、中世、近代、現代の4つの時代を分ける大きな標識として、次の3つの著作をあげています。
 
     ユークリッドの『原論』

     デカルトの『幾何学』

     ヒルベルトの『幾何学基礎論』

 つまり、ユークリッドの『原論』から中世が始まり、デカルトの『幾何学』から近代が始まり、ヒルベルトの『幾何学基礎論』から現代が始まった、ということなのでしょう。

 遠山啓は、4つの時代を区分する著作がすべて幾何学にかんするものであることは、たんなる偶然ではない、と語っています。

 なぜなら、幾何学はもともとわれわれの外部に存在すると考えられている図形や空間にかんする科学であり、したがって、数学は客観的世界とどのような関係をもっているか、という問題を不問にして通りすぎることのできない分野だからである。

 ちなみにロバチェフスキー・ボヤイの非ユークリッド幾何学とリーマン幾何学は、例の構成的方法の“懐妊期間”のなかに含まれており、アルキメデスは、本人は時代を超越していたけれど中世数学の本質をかえることはできなかったので、“中世における一つの狂い咲きともいうべき特異な現象”と書かれてあります。19世紀のF.クラインは、中世数学が静的であったことを語るときの対比としてちょろっと出てきています。

 数学教育協議会と幾何学の関係について、ちょっと面白い思い出があります。あれは確か母だったと思うのですが、数教協の分科会に参加するときには「図形」を選ぶと面白い、というようなことを言っていたことがありました。おそらく数教協では未開拓の分野というか、数量分野に比べると確固たる方法論が確立されておらず、結果的に、個性的でユニークなレポートが多かったのでしょう。

 数教協ならではの図形分野の題材はといえば、「しきつめ」だったと記憶しています。古くさかのぼれば「折れ線の幾何」があり、ピックの定理なども一時はやっていたかもしれません。ユニット多面体などの折り紙もあるのかも。というわけで、それなりに図形の題材はあるのでしょうが、数量分野ほどの“体系化された方法論”はなかったのだろうと思います。

 そういえば以前リンクさせていただいた遠山啓による数学教育現代化における比例と比の位置(北海道大学教育学院修士課程 村上 歩)では、水槽は比指導のシェーマとなりにくいことと、遠山啓の「比」は幾何学に位置づきにくいことについて論じてありました。遠山啓が比よりも比例関係を先に、と主張したことについても書いてあります。遠山啓にとって、比とはなんであったか。

 もし、数学の歴史的区分が、「現代」からその次に移るときにも、なんらかの幾何学の著作があるとしたら、それはいったいどのようなものなのでしょうね?

 遠山啓の数学未来予想図でいえば、それは時間・空間的な数学につながるものなのですよね。

 もうすでに、ある?

 

〔2018年3月20日:記事を整理修正しました。〕

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拡張された「帰一法」

 「10cmで2gの針金は、30cmで何gになりますか」

という問題を出されたとき、私だったら、30÷10=3(倍)、2×3=6(g)という計算をすると思います。30cmという長さは10cmという長さの3倍なので、重さも3倍になる、という考え方です。しかし、

 「7cmで35gの棒は、15cmで何gになりますか」

という問題だったら、35÷7=5(g/cm)、5×15=75(g)と計算しそうです。15cmが7cmの何倍かと考えるのは面倒なので、1cmあたりの重さを利用して、15cm分の長さを求める、という考え方です。 

 これらの考え方にあえて名前を与えることにして、前者を「倍比例」、後者を「帰一法」とよぶことにします。

 倍比例も帰一法も2段階の計算で答えを出していますが、倍比例の場合は、最初の段階で出てくる「3」は量ではありません(といていいかどうかには微妙な問題がありますが)。これに対して後者の帰一法の場合は、最初の段階で出てくる「5」も量です。ただし、長さでも重さでもない、「1cmあたりの重さ」という新しい量です。

 別の言い方をすれば、倍比例では最初に同じ種類の量どうしを計算(長さ÷長さ)しているのに対し、帰一法では最初に違う種類の量の計算(重さ÷長さ)をしています。

 そうして、どちらの場合も、針金や棒は均質であることを前提にしています。

 さて、上記は小学校での算数の問題として考えた場合ですが、これが中学校での比例の練習問題だとすると、解法が変わってきます。

 「7cmで35gの棒は、15cmで何gになりますか」

   棒の重さは棒の長さに比例するので、
   棒の長さをxcm、重さをyg、比例定数をaとすると、
   y=axと表せる。
   x=7のとき、y=35なので、35=7aより、a=5
   よって、y=5x
   これにx=15を代入すると、y=5×15=75

 この場合の比例定数5は棒1cmあたりの重さなので、比例定数を求めることで答えを出す方法は、帰一法そのものということになります。つまり、aの値は、x=1のときのyの値であるので、「帰一法」というネーミングもぴったりです。

 さて、この問題を多次元量のベクトルの考え方にあてはめて考えます。レストランでの会計お会計不透明カフェも、かっこの中に4つの数値が入っていて、いわば4次元の世界を考えていましたが、こちらは「1次元」の世界です。つまり、7cmで35gの針金の関係を、

       (?)(7cm)=35g

と表す世界です。(  )は本来「要素の組み合わせ」つまりベクトルなのですが、要素が1つしかないもんだから、どちらも単に数値をかっこでくくったものになっています。

 これを帰一法で解くというのはどういうことかというと、(?)に(1cm)をかけたときの値(5g/cm)を求めるということです。

       (?)(1cm)=5g/cm

 したがって、15cmの重さは、

       (5g/cm)(15cm)=75g

となります。

 逆に言えば、お会計不透明カフェでの合計金額をY円、単価の組をA、それぞれいくつ注文したかの組をXとすれば、Y=AXという正比例のような式ができます。単価の組み合わせであるAが変わらない限り、いくつ注文するかで合計金額は決まるので、Xが決まればYが決まります。

   
  
 
 お会計不透明カフェでは、このAの要素をどうやって求めたかというと、

   

をかけることで、それぞれの単価を出すことができました。このように、多次元において
 
     
     

に対するYの値を並べたものは、いわば正比例での比例定数のようなものになります。遠山啓は『量とはなにか〈2〉』p.203において、これを“拡張された帰一法”と呼んでも差し支えないだろうと書いています。

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