TETRA'S MATH

数学と数学教育

ライプニッツの「よく基礎づけられた現象」と数学

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。

 デカルトの次はライプニッツです。

 カヴァイエスは、デカルトの学問のなかで充分に定義されなかった「延長」の観念の規定(つまりは数学の定義)をライプニッツの議論のなかに見出すべく、ライプニッツの数学の哲学の検討をしているようです。その議論は、「ライプニッツはカントの図式論への道を準備していた」というところから始まります。

 なお、カヴァイエスは、ライプニッツの普遍記号学の構想についてはほとんど積極的な議論を行っていないのだとか。カヴァイエスが間違いなく読んでいたと思われるであろう先行研究では積極的に取り扱われているだけに、「カヴァイエスによる普遍記号学にたいする省略は注目に値すると思われる」と近藤さん。

 で、カヴァイエスのライプニッツ解釈をみていくにあたっては、「よく基礎づけられた現象」[phénomène bien fondé] なるものをおさえねばなりません。「よく基礎づけられた現象」というからにはこれも「現象」なのですが、ただの現象ではなく、よく基礎づけられた現象なのであり。

 先走って書いてしまうと、ライプニッツ哲学においては、たんなる「現象」と、「よく基礎づけられた現象」と「論理学」あるいは「形而上学の平面」の3つが区別され、数学はこのなかの「よく基礎づけられた現象」に位置しているということらしいのです。数学(延長、図形、運動)は、「色や熱」といった真に現象的なものよりも判明に判断されるとはいえ、むしろ「現象」に属する、というのがその前段階です。

 そしてさらに前にもどると、2つの連続性の区別が出てきます。現象的な連続性と形而上学的な連続性。後者には、「(諸実体からなる離散的な複数性)」というかっこ書きがついています。

 現象的な連続性と離散的な複数性の対比からは、いろいろと連想が広げられそうです。

 たとえば、「稠密」という言葉がありますよね。有理数の稠密性とか。「ぎっしりつまっている」というとき、それは隙間がないのか、むしろ隙間があって単体だから「ぎっしり」になるのか、どっちなんだろう?と考えることがあります。ヘタすりゃ、ぎっしり=スカスカという妙なことになってしまう思考です。そう思うと、分数って整数だけで構成できるのに不思議です。無理数はもっと不思議。いったい数直線上のどこにいるんだよ?って感じ。

 あるいは、つぶあんとこしあん。「ゆで小豆」の缶詰にはゆで小豆がぎっしり詰まっているけれど、「こしあん」でもぎっしりという言い方をするのかな?とか。

 ぎっしりというのは隙間はほとんどないかもしれないけれど、境目はあるだろう。小豆の皮のように。でも、自身が点で中身がないものだったら、境目という発想もおかしい。そうなると、切断したときの切り口でしかありえないのか? でも、1つのゆで小豆を適当な切断で確実に取り出すことはできない。

 話をもどすと、この区別は「連続体」の問題を考慮することによって、結果として導かれるとカヴァイエスは書いているようなのです。なお、「連続体」には、「(たんなる連続性というよりも形而上学的には諸モナドの理念的な調和のことであり、同時に数学的には実数連続体のこととかんがえられる)」というかっこ書きがついています。

 そして、離散的な複数性と現象的な連続性をより詳しく言うと、「神の意思における唯一の実在性である諸実体の離散的複数性」、「時空的な連合による現象的な連続性」となります。ほんでもって、この「現象的な連続性」が、デカルトにおける「物体」およびその本質としての「延長」の観念に対応するというわけです。なるほど。(離散的複数性に対応するものも書かれてあるのですが、デカルトの該当箇所を端折っているので割愛。そうなると逆に、「数」ということでダイレクトに対応してしまいますか。)

 整理すると、「連続体」の問題を考慮することによって、連続性に2つの区別が導かれる(離散的複数性と現象的な連続性)。そして数学は「現象的な連続性」のがわにおかれる。しかし、現象は現象でも、「よく基礎づけられた現象」として、たんなる「現象」とは区別される。つまりライプニッツは、数学を、「よく基礎づけられた現象」として定義した。

 問題はこの先。

 ライプニッツは、微分計算が真であることを支える基礎としての数学的な実数連続体の基礎を、図形や運動のなかに求めることを拒否し、そのかわりに、数学とは根本的に異なる平面に求めたのだそうです。それが、論理学あるいは「形而上学の平面」と呼ばれるもの。

 カヴァイエスいわく、「諸実体からなる離散的複数性においては、……神の意思においてすべてが一気に肯定される。無限数はそもそも矛盾であるが故に、[真の無限である]モナド全体の数は存在しない」。

 数学は「よく基礎づけられた現象」に位置しており、それと論理学あるいは「形而上学の平面」は区別されているのだから、数学的な実数連続体を基礎づけるはずの無限集合の実在性は、数学ではないものによって(すなわち形而上学によって)肯定されるということになります。(じっさい、この問題は、このあと19世紀数学の大問題となることについての注釈あり)

無限の点(モナド)からなる集合の実在性は、形而上学の平面において肯定されるがゆえに、連続体の問題の解決が形而上学的な予定調和によって約束されているとかんがえられることになる。

(p.38)


(つづく)

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デカルトは、代数方程式をもたない曲線を真正の曲線から排除していること

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第1章を読んでいます。

  カヴァイエスは、デカルトが『幾何学』において、代数方程式をもたないという理由によって「機械曲線」を真正の曲線から排除していることに言及しているそうです。早い話、デカルトが数の世界にもっていけない曲線を真正の曲線から排除していることに対して、カヴァイエスはまず突っ込みを入れたかったのだろうと思います。先に見てきたように、デカルトは、「数」と幾何学的対象としての「延長」は、明晰性と判明性において等質であるとしておきながら、「延長」の観念と「数」の観念とのあいだに完全な一致をみることができないことを認めていることになるわけであり。

 さらには、「延長」の観念のなかには「数」の観念に還元することのできないなにか積極的なものがあるとデカルトは想定していた、とカヴァイエスは考えたようなのです。カヴァイエスいわく、「三角形の観念とはその方程式ではなく、『省察』の文章が示しているように、三角形を作りあげるための規則なのである」。

 それで、先をがーっととばしてまとめを読んでみますと、次のように書いてあります。

カヴァイエスによるデカルト解釈とは、物体のがわには還元されず、さりとて代数方程式や「数」の概念のがわにも還元されずに、そのあいだにあって自然を理解することそのものを可能にする「操作」(「延長」の観念あるいは「思考の作用」)というあらたな審級を、デカルト哲学のなかから引きだしてくるものだからである。

(p.35)

 「思考の作用」とはなんぞやということと、「思考」と「操作」(あるいは「数」と「延長」)の二元性についての記述を読んでいませんが、カヴァイエスがデカルト解釈から「操作」の概念をどのようにひきだそうとしているかについては、この最後のまとめの文章がいちばんわかりやすいと感じました。

(つづく)

 

〔2018年3月19日:記事を整理・修正しました。〕

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カヴァイエスが問題にした、デカルト哲学の「数」と「延長」の不一致

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。

 前回までは序章を読んでいましたが、いよいよ第1章に進むことにします。

 「第1章 カヴァイエスの哲学史解釈と操作概念」では、カヴァイエスの「操作」概念に注目しながら、カヴァイエスによる古典的な数学の哲学(ここでは、デカルトとライプニッツとカントのそれぞれの哲学における数学についての解明)の解釈が整理されています。

 なお、近藤さんはいろいろと慎重に注意を書いておられますが、要は、ここに書いてあることは、デカルトやライプニッツやカントが哲学史のなかで実際にどのような議論を行ったのかということの考察ではなく、カヴァイエスはどう捉えていたのか、ということを見ていく作業なのだと思います。

 まずはデカルトだ。

 カヴァイエスがデカルト哲学に「操作」の概念を見出すにあたって重要となるのが、「延長」という概念です。近藤さんは、カヴァイエスが言及している「延長」[étendu]とは、幾何学的対象としての幾何学的「延長」のことであり、「物体」と等値された「延長」ではないことに注意しておくことがある、と書かれています。しかし、物体の本質としての「延長」も(物体の本質としての延長をこそ)考えに入れているので、“等値された”ものではないかもしれないけれど、幾何学的延長だけにしぼったら先につながらないと私は思いました。

 ただし、ここでいう「延長」が、「数」[nombre]との対として話が進んでいくことは頭に入れておいたほうがよさそうです。そういう意味では幾何学的延長と捉えたほうがいいのかもしれません。

 まずは、数と延長の「明晰性」、「判明性」をおさえておきます。カヴァイエスは、デカルトの『精神指導の規則』から、数と延長は同じ資格のもとで単純本性であること、『省察』から、数と延長はたがいに等しい明晰性と判明性を有している用語であるということを読み取り、思考の様態としての数と延長のあいだの同等性を確認したあとで、延長の観念の十分な定義をデカルト哲学のなかに見出せないと指摘しているらしいのです。

 で、話は結局のところ、心身二元論につながっていきます。ブランシュヴィック(カヴァイエスの高等師範学校時代の指導教官だった人)は、デカルトの学問の方法に、魂と身体の分離が反響しているというようなことを指摘しているらしいのですが、カヴァイエスもそれに同意しているようです。

 デカルトの心身二元論については、身体(あるいは物体)から魂(あるいは精神)を引きはなし、魂のがわにもっぱら真理の「明晰判明」の規範を位置づけるものとして説明がなされています。

 さて、さきほど「数」も「延長」も同等の「明晰さと判明さ」をもっている(とデカルトは考えている)ことを確認しました。しかしカヴァイエスは、延長の(ひろがりとしての)「連続性」と、「数」の(単位としての)不連続性とのあいだにある不一致を問題としているようなのです。

「数」は「延長」よりも観念として、こう言ってよければより純粋であるがゆえに、不連続性(あるいは単位性)を有し、他方で「延長」はそれが「観念」ではあるるものの「物体」の本質でもあるがゆえに、連続性を有さざるをえないということがここでの隠された問題となっているのである。

(p.31)

と近藤さん。さて、「数」は「延長」よりも、より純粋であると言ってよいかどうか?

 もし、次のようにごく単純に考えてよいのなら、それはそれでわかりやすい話にはなります。つまり、「連続していないもの」のほうが、「連続している」ものよりも、扱いやすいでしょ? だから、「連続していないもの」と「連続している」ものは違うでしょう?というふうに。「分節化」という言葉も思い浮かびました。これがそのまま「分析と総合」の話にもつながっていくと思うし。でも、さすがにそれは単純に考えすぎなのでしょう。

 だとしても、カヴァイエスが言いたいことは、デカルトは数と延長に明晰判明な観念として同等の資格をあたえているけれど、延長は数とは区別して考えなければいけないのではないか?ということなのだろうと私は理解しました。

 ということを考えるためには、「思考」(pensée)という用語についてみていかなければならないのですが、むしろ、その次に示してある曲線と代数方程式の話を先に読んだほうが、カヴァイエスがデカルトの「延長」をどう捉えようとしたかがわかりやすくなるような予感。

(つづく)

 

 

〔2018年3月19日:記事を整理・修正しました。〕

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カヴァイエスのいう「数学的経験」としての「操作」とはどのようなものであるのか

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。

 これまで、巻末註と「あとがき」を参照しながら、序章をゆっくり読んできました。本文としてはまだ7ページ分くらいで、序章の3分の1くらいのところです。

 で、カヴァイエスのいう「操作」とはいったいどのようなものであるかを、そろそろみていくことにします。もちろん、ここは「序章」なので、だいたいこんなもの、ということを頭に入れておくために。

 私がとても面白いと感じたのは、「操作」という概念の特徴がまとめてある6項目よりも、「操作」という概念はなにでは“ない”かをまとめてある7項目のほうが、「操作」とはなんぞやがわかってくる気がしたことです。

 「操作」概念の特徴として、ひとまず1番目の「「操作」は「数学的経験」である」はおさえておくとして、あとは、「なにでは“ない”」かのほうに目を向けてみます。それぞれの詳しい説明は割愛して、なにではないか、だけを抜き出すと、

1.この「操作」の「遂行」は、たんなる知覚作用とは異なる

2.この「操作」とその「遂行」は身体行為ではない

3.「操作」は脳神経生理学の対象ではない

4.「操作」は通常の言語活動とも異なる

5.「操作」を、論理的で抽象的な定義によってカテゴリー化することはできない

6.「操作」は、物理的実在あるいは物理的対象ではない

7.「操作」は、プラトニズム的なイデアでもない

 こんなに「なんでもない」操作ってなんだよー!?と思いますが、近藤さんいわく、

 これほどまでになんでもない「操作」であるにもかかわらず、われわれには、5+7=12という「操作」をみずから「遂行」することが実効的に可能であるという厳然たる事実がつきつけられている。

(p.25)

 自分としては、2、4、5、6、7は「まあ、そんなものなんだろう」と思えますが、1と3が気になるところです。

 なので、続きを読んでみますれば、1については、知覚はたしかに数学的「操作」を助けはするが、それのために不可欠なものではなく、むしろ場合によっては邪魔にさえなる、と書いてあります。なるほど、そう言われてみればそうなのかもしれない。

 それから3については、たしかに「操作」を数学者が「遂行」するさいに生じている神経系の活動を調べることで、「操作」の「遂行」と並行的に生じる神経系活動を記述し解明することができるかもしれないが、そのようにして明らかになった知見から、直接的に数学的結果、すなわちあらたな定理の証明や数学的対象の産出がえられるわけではない、というようなことが書いてあります。ああ、そうか、なるほど。

 それにしても、上記7項目のうちの1と3がひっかかった私は、哲学は数学をどのように分析してきたか のうち、4の立場に近いということになるのかもしれません。逆にいえば、「操作」はなにで“ない”のかを示す最初の項目が「知覚」なのだから、「操作」は「知覚」と関わりが深いと思われがち、ということにもなりそうな気がします。

 あと、4の言語活動については、面白いことが書いてあります(「操作」はその「遂行」によって「結果」を産出するが、言語活動はその遂行によっては同じような「結果」を産出しない、ということの例)。

通常の言語活動において、「車」と発話することによって実体としての車が生みだされることはない。しかし、数学の場合、規定された手続きに則って三角形を描く「操作」を「遂行」すること、あるいは三角形の存在の証明を「遂行」することは、結果としての三角形を対象として産出することと同義であり、むしろそれ以外のしかたで三角形の存在を主張することができない。

(p.23〜24)

 いずれの項目も序章だけでは納得することができませんが、「操作」とはなんであるかが「なにではないか」ということを知ることにより、少し見えてくる気がしました。

(つづく)

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真理の「無尽蔵性」とゲーデル

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。

 きのうのエントリでも示したようにカヴァイエスの「概念の哲学」にとって、真理の本質的な特徴の1つは、「無尽蔵性」(inexhaustivité)ということになるらしいのです。この「無尽蔵性」に対しては、「非網羅性」というかっこ書きもついています。

 そして、この「無尽蔵性」という言葉のところに巻末註がついており、次のように書かれてあります。

この「無尽蔵性」は、ゲーデルがすでに注意していたが、彼はこの内容的なものを正当化するために、あっさりプラトニズムの看板を掲げてしまう。この点において、カヴァイエスの立場に立つ筆者は、彼の立場をそのままの姿で擁護することはできない。あるいは、ゲーデルの立場との比較という限定的な文脈でかんがえれば、カヴァイエスの数学の哲学の1つの利点は、ゲーデルが主張しようとしたこと(内容的な無尽蔵性、非可述的定義の正当化、新公理をつけくわえる推論の正当化)を、ゲーデルのようにプラトニズムにまで足を伸ばすことなく、正当化しうるということにあると述べることができるだろう。

(p.218)

 ゲーデルといって思い出すのは、辻下徹「生命と複雑系」(『複雑系の科学と現代思想―数学』所収)にあった、(結果的に)構成主義的な立場を否定する発言のことでした(p.141〜142)。ゲーデル「ラッセルの数理論理学」から、「この分析の中で意外なことも述べている。」という前置きつきで、次の部分が引用されています。文中に出てくる悪循環原理というのは、ラッセルが提唱した“悪循環回避原理というべき”原理のことです。

第一の形の悪循環原理は、論理学と数学の対象、特に命題やクラス、観念などに対して構成主義的な(あるいは唯名論的な)立場をとったときにのみ当てはまるように思われる。

 「構成主義的な」という言葉に、「あるいは唯名論的な」というかっこ書きがあるのが印象的です。で、ゲーデルはこの第一の形の悪循環原理は数学の重要な部分を破壊するものとして誤りであると主張しているので、結果的には構成主義的な立場を否定していることになる、という話の流れです。

 また、金子洋之『ダメットにたどりつくまで』にあった、ゲーデルのアナロジーの話も思い出します。(p.11)>数や集合や関数は、どんなふうに「存在」するのか

 私は、近藤和敬さんの註の「あっさりプラトニズムの看板を掲げてしまう」の“あっさり”という言葉が面白かったのですが、ダメットも、これこれこういうアナロジーを認めたからといって、ゲーデルのアナロジーまでもが成立するわけではない/ゲーデルのアナロジーが成立しないからといって、これこれこういうアナロジーまでもが成り立たなくなるというわけではない、という議論を展開しているようなので、ゲーデルが主張したこと(カヴァイエスについては真理の「無尽蔵性」、ダメットが扱っているのは存在の正当化のアナロジーであり、直接扱っているものは違っているけれど)を、実在論まで足を伸ばさずに正当化しうるという立場があり、それが意味論的な反実在論につながるのかもしれません。

 ただし、ダメットの場合は、「むしろこれこれこういうアナロジーを展開することによって、プラトニズムの魅力をもっと適切に理解できる」というふうに、プラトニズムをできる限り上等に仕上げたうえで葬り去る前の議論の前段階であることは、頭に入れておいたほうがよさそうです(プラトニズムに対する不信の念が多くはこのゲーデルのアナロジーに由来すると考えていたので)。

 また、近藤さんが示したカヴァイエスの哲学の1つの利点も、「ゲーデルの立場との比較という限定的な文脈」ではそうなるということを、頭に入れておいたほうがよさそうです。


(つづく)

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真理の発掘と、空からの俯瞰の間にある運動を生け捕りにする

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。

 そういえば前回のエントリで書くのを忘れていたのですが、「概念の哲学」というのは、カヴァイエスの哲学のことを指してこう称されています。また、カヴァイエスの哲学を理解するうえで、「操作」という言葉がとても大切なキーワードになるのですが、「概念」にしろ「操作」にしろ、言葉が“普通”すぎて、かえってわかりにくいというような印象を最初にもちました。ちなみに序章には、「「操作」というテーマについて」というタイトルがついています。でも、「内在」という言葉が、その言葉だけで何かわかったような気になるのに対し、「概念」や「操作」は、「なにをさしてこういう言葉を使っているのだろう?」という気持ちにさせてくれるので、いまとなっては、普通すぎる言葉でよかったかもと感じています。

 ほんでもって、カヴァイエスの「概念の哲学」は、条件の認識が条件づけられる真理に内在していると徹底して考えるものなのであり、この立場において、形式とは、内容との相関関係によってのみ把握され、その全体を一挙に把握することはできないものであることが肯定的に認められる、と近藤さんは書いておられます。さらに、このような内在の思想は、ある種の哲学とは根本的に相性が悪いのかもしれない、と。

 ある種の哲学とは、

つまり、生身には触れることなく、その全体を眺望しようという超越論的哲学である。

(p.11)

 そして、こう続きます。

 しかし、「概念の哲学」がある種の経験の俯瞰ではまったくないというわけではない。数学的真理にかんして言えば、純粋な内在の立場とは、もはや哲学ではなく数学そのものであるだろう。そうではなくて、「概念の哲学」は、空から俯瞰することと地面のしたを潜ること、あるいは超越と内在とのあいだに生じる弁証論的な生成そのもののメカニズムを把握することを企てるのである。数学者は地面のしたに潜り真理を発掘し、超越論的哲学者は空のうえから真理のはてを俯瞰するが、概念の哲学者はそのあいだにあって、その運動それ自体を生け捕りにしようとする。(中略)
 条件と条件づけられるものについての、2つの異なる立場(それらが独立しているとかんがえる立場とそれらがたがいに含みあっているとかんがえる立場)は、真理と知性についての形而上学的な理解の違いによるものなのかもしれない。

(p.11〜12)

 で、上記引用部の最後のところに巻末註がついていて、この註が、3日前に書いたエントリ:哲学は数学をどのように分析してきたかの最後で示したものにあたります。すなわち、「形而上学」的な立場の違いというより、ダメットが定着させた語用法に基づけば、(真理論という意味での)意味論的な実在論と反実在論のあいだの立場の違いということになる、という補足説明がなされているのでした。で、さらに続けて、「内容の無尽蔵性」(inexhaustivité)、あるいは真理の生成を主張するカヴァイエス(と筆者)の立場は、意味論的には反実在論ということになる、ということについても書かれてあります。「無尽蔵性」については加えて面白い註があるので、次回のエントリで。

 ほんでもって、序章本文にもどりますれば、上記引用部分のあと、次のようにまとめてあります。

 すなわち、真理の不動性や永遠性を知性の規範とするか、あるいは真理の生成や産出や進展や修正を知性の規範とするかという違いである。

(p.12)

 近藤和敬さんを知らなかったころの私がこれを読んだら、きっと興味をもつに違いない、うん。


(つづく)

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現象学とカヴァイエスの違いを軽くおさえておく―超越と内在と

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。

 気がはやいですが、現象学とカヴァイエスでは何が違うと書かれているのかについて、軽くおさえておこうと思います。

 で、軽くおさえたいのだけれど、そのためにはまず、「内在」という言葉を、近藤さんの立場とともに軽くおさえておいたほうがよさそうなのです。

 またまた「あとがき」にとびます。

 近藤さんの立場は、戦後の現代思想のなかで、とりわけ「内在論の哲学」と言われる一連の思想家たちの立場と共鳴するものなんだそうです。戦後の現代思想で言えば、ドゥルーズ、ガタリ、フーコー、90年代以降で言えば、アガンベン、ネグリ、エスポジト。なぜ「内在論の哲学」なのか、エスポジトの言葉がそれを的確に要約してくれているとして、次の部分が引用されています。

「いまや政治と生とのあいだに決定されるのは、相互に錯綜した内在的な関係であって、これは、かたちは異なるとはいえカントからハイデガーにいたる超越論的な哲学をとおしてはもはや解釈不可能なものです。そうではなくて、不連続的で断片的であるとはいえ、スピノザからニーチェを結び付ける、まさしく内在論の哲学によって解釈されるのです」(岡田温司訳『近代政治の脱構築』)

(p.258)

 このあと、「内在論の哲学」と言語的な構築というアイデアの関係について触れたあと、近藤さんは次のように書いています。

 しかし、なぜ「内在論の哲学」は言語構築主義と一定の関係を保つことを必要としてきたのか。それは、超越論の哲学がもつ真理と本質という抑圧的機制を無効化するためであったと言ってよいようにおもう。

(p.259)

 これ以上立ち入ると“軽く”でなくなってしまうので、ひとまず「超越論と内在論の対立」ということだけ頭に入れておくことにします。

 で、きのうのエントリ:哲学は数学をどのように分析してきたかにおいて、「カヴァイエスの研究プログラムをこのようにまとめると、それは現象学ではないのかという指摘がなされることが予想される」という巻末註の補足に触れておきましたが、近藤さんは、「この指摘は本質的なものである」としたうえで次のように説明しています。

 実際、カヴァイエスは現象学に関心をもっていたし、現象学と距離をとるようになってからも、カヴァイエスにとって現象学は重要な参照点であった。では、カヴァイエスがやろうとしたことと、現象学との差異はなんなのか?

現象学にたいするカヴァイエスの「概念の哲学」の距離は、第4章の結論、第5章、第6章で徐々に明らかにされる。その分析を先取りして、これらの差異を「概念の哲学」のがわの特徴として述べれば、「真理の実効的な経験は数学に内在的である」という文にまとめることができる。(中略)すなわち、これら現象学と「概念の哲学」のあいだの本性的な差異は、超越論的審級へとむかう「志向性」の分析と、内在的平面へとむかう「操作」の分析とのあいだに位置してくる。

(p.217)

 というところまでをふまえて、序章本文にもどります。きのうのエントリで「新しい真理という言葉ほど形容矛盾した言葉も存在しない」という部分について書きましたが、では、真理の「新しさ」の問題にたいする常識的対応にはどのようなものがあるかということで、3つの類例が示されています。1番目と3番目は省略して、2番目だけをみてみますと、

〈2〉 個別の数学的真理は、たしかに知られていないものがおおく存在するかもしれない。しかし、それがいかなるものであれ、発見される真理には、それがしたがっているある条件が存在している。そして、われわれはその条件を、個別の真理からは独立に把握することができる。

(p.9)


となっています。結局のところ、現代のおおくの哲学者が採用するのはこの2番目の立場である、と近藤さん。だとすると、その「条件」になにを代入するのか?ということになり、きのうのエントリで示した数学の分析プログラムの4つの分類のどれに進むかが決定されます。近藤さんは4つの分類を「論理学か、メタ数学か、超越論的意識か、認知メカニズムかである」とまとめています。

 論理学、メタ数学、認知メカ二ズムはいいとしても、3番目は「現象学的分析」ではなく「超越論的意識」となっています。私は前回のエントリで分類の文章そのものを引用せずに、註の具体例だけを示したので、「フッサールの現象学的分析」としたのですが、本文ではこの3番目の項目は「〈3〉 数学的真理を超越論的な観念性として理解し、現象学的に分析する。」と示されています。

 なので、この〈3〉をひとことでまとめるとしたら、「現象学的分析」よりも、むしろ、「超越論的意識」のほうが的確なのだろうと思います。そしてカヴァイエスの哲学は、現象学を参照としながらも、現象学とは異なっており、先の4つの分類に還元されない研究プログラムなのだから、その特徴をおさえるときには、先の「内在」という言葉が手がかりになるのではないかと思うわけなのです。

 すなわち、先の研究プログラム4つの分類のうちのどれに進んでも、

 彼らはいずれにせよ、条件が条件づけられるものに内在しているとはかんがえない。すなわち、個々の真理からは独立に、真理を手にするための条件を把握することができるとかんがえているのである。

(p.10)



 せっかく著者が、整理して流れを作ってわかりやすく書いてくださっているのに、わざわざ私が小難しくしてはいないだろうか!?という懸念がなきにしもあらずですが、とりあえずこんなふうに読んでいますということで。


(つづく)

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哲学は数学をどのように分析してきたか

 というわけで、近藤和敬『構造と生成機.ヴァイエス研究』を読んでいきます。近藤さんいわく、この研究は、おそらくは現代哲学史研究ないし哲学研究に位置づけられることになるとおもう、とのこと。本の中で数学や数学史に直接かかわる部分はけっこう扱われているわけですが、だからといってこれが数学についての哲学であるかどうかは、人によって判断のわかれるとこだと思う、筆者はあえてこれが数学の哲学であると主張したいとはおもわない、と書かれています。

 そうそう、最近……っていうか、もっと前からだろうけれど……思うんですよね。自分がいま考えたいこと、これから考えようとしていることが、もし数学でなくても、数学の哲学でなくても、全然かまわないって。数学だから考えたいわけではなく、考える価値があるというわけでもない。でも、これから考えようとすることは、数学と無関係でないことは確かだと思います。

 で、まずは序章において、「どのようなアプローチで、厳密科学の土台としての数学を分析するか」という哲学の最初の問題に関して、数学を分析するプログラムが4つの分類で示されています。それぞれちゃんと文章で示されているのですが、私はむしろ巻末の「註」に示されている具体例をみたほうがわかりやすかったので、私がわかる人名だけをあげて分類の雰囲気をお伝えしますれば、1番目は論理主義、論理実証主義の人たち、フレーゲ、ラッセル、カルナップなどのアプローチ、2番目はヒルベルトのメタ数学的な観点、3番目はフッサールの現象学的分析、そして4番目は心理学的・認知科学的・脳神経科学的な分析で、最初期のフッサールや一時期のピアジェなどが例にあげられています。

 ほんでもってカヴァイエスの研究プログラムはといえば、これらの分類のどれにも属さないらしいのです。

カヴァイエスの哲学は、おおくの場合、それらの成果にたいして慎重に耳を傾けている。しかし、その一方で、そのどれからも距離を取り、どれにも還元されない特徴も有している。

 (p.8)

 なので、カヴァイエスの哲学は、既存の研究プログラムの一部ないし変種として提示することはできないということになります。

 では、カヴァイエスの研究プログラムとはどういうものか? という特徴について、端的にまとめてあるものの、私にとっては非常に魅惑的なこの言葉を引用していいものかどうか……と、よくわからない不安のもと迷った末、引用しますれば、「経験としての数学という地平を切り開くこと」あるいは、「数学と名指される経験の本性を明るみにだすこと」ということになるらしいのです。実際は傍点付きで強調されています。なお、こうまとめると、それは現象学ではないのか?と思う人もいるかもしれないことについては、巻末註に補足説明があります。

 話をもとにもどすと、上記の特徴が示されたあと、すぐに続けて、「これは、数学という経験を可能にする構造を明らかにすることを意味しているわけではない」とも書かれてあります。なお、今後、傍点付きの文字は太字で表すことにします。

ここで「経験としての数学」という言葉が意味しているのは、数学という経験が、ほかのいかなるものにも還元不可能なしかたで、経験として現にあたえられているという事実である。
 カヴァイエスの「概念の哲学」は、真理の直接的経験という意味での数学という特異な経験がもっているある特徴に注目することから出発する。すなわち、必然的で超越的とさえ言われる数学的真理はなぜかそのすべてを一挙に開示するしかたではわれわれの手にはあたえられておらずしかしわれわれはそれにもかかわらず現に手にしている真理から出発してあらたな真理を獲得することができるという特徴である。

 近藤さんいわく、「新しい真理という言葉ほど形容矛盾の言葉も存在しない」。
 
 この少し先の文章につけられた「註」によると、カヴァイエス(&近藤さん)の立場は、「一見奇妙なことではあるが」という前置きつきで、意味論的には反実在論になる、と書いてあります。ちなみにこの「註」にはダメットの名が出てきます。そうそう、最近、もう私、観念しました。「あなた、実在論者でしょ?」と言われれば、とりあえずしぶしぶ「はい」と答えます。ただし、反実在論者に憧れる(あわよくば反実在論者に寝返りたい)実在論者。でも、「はい」と答えても「いいえ」と答えても、あいかわらずねじれは解消されないのであった。

(つづく)

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『構造と生成 カヴァイエス研究』(近藤和敬/月曜社/2011)

 近藤和敬『構造と生成機.ヴァイエス研究』を購入しました。手にして最初に読んだのは「あとがき」。そして、前から順に全体的にざざざっとめくったあと、巻末注釈を読みつつ前から読み直しています。

 予想に反して読みやすい、というのが第一印象です。これまで、数はそれほど多くないものの書籍やブログで近藤和敬さんの文章をいくつか読んできた印象から、ある程度の難しさ、読みにくさは覚悟していました。しかし、思っていたよりかなりわかりやすいです。第一印象としては。親切とも言えるかもしれない。もちろん、この読みやすさを助けているのは、自分の興味の持ち方だと思います。そして、読み込むうちに全然わからなくなる可能性もおおいにあると思います。

 引用したくなる魅惑的なフレーズがたくさんあります。ただ、部分的に引用しちゃっていいのだろうか?という気持ちもあります。かといって前から順に感想を書いていったら、すごい量になりそうだし。とりあえず、近藤和敬さんのブログを見つけていなかった頃の自分を想定して、「あなたが興味をもちそうなこんなことが書いてあるよ」ということを伝えるつもりで、しばらくこの本について書いていこうと思います。




 私は、近藤さんのブログを見つけるまで、カヴァイエスという人名を知りませんでした。でも、それも不思議はないのかもしれません。この本は、カヴァイエスの思想をあつかった、おそらく日本でのはじめてのまとまった研究書である、とのこと。

 なぜ近藤さんがカヴァイエスにたどりついたのかというと、現代思想と呼ばれる一連のフランス現代哲学を理解しようとするなかで、ある疑問を抱き、フランス哲学の論者たちがなにげなく参照している戦前の(とくにあまり知られていない)哲学者たちを中心に調査を開始したところ、カヴァイエスにたどりついたらしいのです。

 つい先日、クワインに興味をもったときに、三浦俊彦さんの書評を読んだ私は、「フランス思想だけが現代哲学じゃないんだよ〜」というニュアンスのメッセージを感じたのですが、近藤和敬さんの場合、フランス現代哲学に共通しているあることに注目し、それをさかのぼって、ある1人の(日本ではその存在すらあまり知られていない)数理哲学者にたどりついたというのがまず面白いと思いました。ちなみに、謝辞に名前があるのはおふたりで、1人は指導教官の檜垣立哉氏、そしてもう1人は月曜社の小林浩さん。
本書のようなマイナー哲学の研究書は、その思想史的意義を理解してくださっている小林さんのような編集の方が存在しなければ、絶対に実現不可能な類のものであることは間違いないのだから。

そうなんだろうな、と思います。

 で、いきなり「あとがき」にとんでしまうのですが、あとがきには、「むしろ容易にファッションと消費のなかに沈む危険のある現在の思想とかかわるわたし自身にたいする戒めであり、警告なのだ。」といたようなことも書かれてあり、面白いです。いきなりここを引用してしまうと、本全体の印象を誤って伝えてしまいそうで、「なんでいきなりそんな話??」ということになるかもしれませんが。この「あとがき」には、「そもそもこの本はいったいどういう本なのか」という副題がついており、本人も「このような蛇足は一切破棄すべきではないのか」と迷いつつ書いていて、「近代にどう始末をつけるのか」という問題意識について述べてあり、大変興味深いです。松野孝一郎『内部観測とは何か』のあとがきとは別の趣の「切実さ」があります。こういうところに研究者の“痛み”を感じて、こういう痛みを感じるときに、何かほっとするもの、未来を感じる私なのでした。ほんと、たった3600円だ。

 

〔2018年3月18日〕記事を整理・修正しました。

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