TETRA'S MATH

数学と数学教育

非可述的定義のこと

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読んでいます。

 そんなこんなで、カヴァイエスはブラウアーの直観主義を批判的に継承することになるのですが、その先を読むためには「非可述的定義」というものについておさえておかなければなりません。

 カヴァイエスが言うには、直観主義数学と古典数学とが本質的に袂を分かつのは、たんに排中律を認めるかどうかという点ではなく、「非可述的定義」を使用することになる点、あるいは再帰的に構成する手段をもたない対象の全体性を、数学的考察のあらたな出発点として認めるかどうかという点にある、ということらしいのです。
 
 そして、非可述的定義の例として、最小上界の公理というものが出されています。「上に有界な任意の実数集合は、最小上界をただ1つもつ」という実数集合がもつべき性質を述べた公理であり、この公理によって定義されるべき実数集合がその公理のなかに登場しているので、「非可述的定義」ということになるようです。

 という話をきくと、「ん? 自己言及のこと?」と思ってしまう私。でも、非可述的定義については、カヴァイエスの説明の中で「換言すれば、無限体系をその出発点とする定義であり、・・・」というかっこ書きもあるので、単なる自己言及ではないのでしょうね。

 ほんでもって、「非可述的定義」についてもう一声!な気分だったので、「非可述性」で検索をかけていたら、池田真治さんという方の次のページにたどりつきました。
http://d.hatena.ne.jp/theseus/20110310/p1

 しかし理解できそうにないのでさらに検索をかけたところ、「タイプ理論の起源と発展」という論文を発見。
http://paris-sorbonne.academia.edu/
ShinjiIkeda/Papers/1297534/
_

 これも池田さんが関わっておられるようで、最後の所属?専攻?のところに「エピステモロジー」という文字を発見。やっぱりそういうことになるんだ。

 ちなみに、上記のような非可述的定義がラッセルのパラドクスと関わることはわかりますし、したがって、タイプ理論につながっていくこともなんとなく理解できます。

 というわけで、カヴァイエスが選んだ道はどういう道だったかというと、直観主義の功績は認めながらも、実数体系の公理系のようないくつかの「非可述的定義」(無限体系を定義のための出発点とする定義)の使用を正当化する方向へとむかう道だったようなのです。

(つづく)
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主観と客観、主意と主知

 久しぶりに、近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読むことにします。

 さて、ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さんで書いたように、カヴァイエスとブラウアーのつながりについてはこれまであまり考えられてこなかったようなのですが、その理由として、「カヴァイエスのテキストの中にブラウアーの直観主義よりも形式主義者らによる古典数学の擁護のほうに肩入れしているとおもわせる箇所があること」、「カヴァイエスの哲学的主張がブラウアーの哲学的主張と対立していること」があげられています。

 後者については、具体的に次の2つの対立点として分析することができる、として話は続きます。すなわち、主観主義(ブラウアー)と客観主義(カヴァイエス)。そして主意主義(ブラウアー)と主知主義(カヴァイエス)。近藤さんいわく、これらの哲学的には古い歴史をもつ対立図式のなかで、ブラウアーとカヴァイエスの関係を理解しようとしてしまうかぎり、彼らのあいだの近さということに目を向けることは難しいだろう、と。なるほどなるほど。

 で、そのあとカヴァイエスとブラウアーの直観主義をつなぐ、「真理観」の話になっていき、「問題は、それが解かれるかぎりにおいてのみ、可解である」という話になっていくのでした。

 ほんでもって、カヴァイエスがブラウアーから受け取らなかったものはなんなのかといえば、例の「意志の作用」です(>)。ブラウアーの「自由選列」の概念は、「意志の作用」という“もっとも数学的ではない”概念設定に全面的に依存している・・・という説明のところに「(ブラウアーにとってはそれこそがもっとも数学的であるのだが)」というかっこ書きがついているのが面白いです。

 つまり、ブラウアーの考え方は、哲学的には主意主義的と言わざるをえないので、主知主義を徹底するカヴァイエスはこれを受けいれることができない、というわけです。

 だからといって、カヴァイエスにとって、直観主義は丸ごと廃棄されるべきものだったかというと、必ずしもそうではなかった。カヴァイエスは、「古典数学と直観主義数学とは相互に独立の建築物ではなく、1つの建築物のなかで重なりあう部分をかなりもっており、そのかぎりで相互排他的なものではない」と考えたようなのです。

(つづく)
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ブラウアーがいうところの数学的観照

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読んでいます。ブラウアーの「選列」を理解するために、『カヴァイエス研究』p.72に出てくる式と、林晋「「数理哲学」としての種の論理」に出てくる式をつきあわせながらしばらく考え込んでいたのですが、いまひとつ飲み込めないので、この式はしばらく寝かせることにしました。(そしてspreadにももどれず・・・)

 結局、コイントスの話(林さんはコインフリップという言葉を使っています)がいちばんわかりやすよなぁと思うのですが、林さんの説明の中ではコイントスが「偶然性の象徴」として出されており、『カヴァイエス研究』と並行して読むと、「ん?」と首を傾げてしまうのです。というのも、『カヴァイエス研究』のほうでは「意志の作用」に焦点があてられており、そしてこの点こそ、カヴァイエスがブラウアーをそのまま丸ごとでは受け入れない理由であるようなので。

 そこで、いったんページをもどって、ブラウアーの哲学について記述してある箇所を読んでみることにしました。ブラウアーってば、こんなことを言っているらしいのです。(原語は省略)↓

「数学と科学と言語は、人間の活動の主たる機能である。それによって、人間は自然を支配し、自然のただなかで秩序を維持する。これらの機能は、それらの起源を、個々の人間の生における意志の形成作用のなかにもつ。1.数学的な観照、2.数学的抽象、3.音をとおして意志を課すことである」

 そして、「ブラウアーの独自の用語法のために理解しづらいが」という注釈付きで、ブラウアーが述べていることで重要なことを、近藤さんが3点にまとめておられます。

〈1〉数学と言語と科学を、人間という生命的存在の「活動」として理解しなければならない。
〈2〉その活動の主たる目的は、自然のなかに秩序を建設することである。
〈3〉その秩序形成の能力の起源は、人間の意志の働きである。

 ほんでもって、ブラウアーは、「活動」の第一段階としての「数学的な観照」を、「時間的態度」と「因果的態度」とに分解して説明を試みているらしいのです。あら・・・どこかできいたような話に・・・

 ブラウアーがいうには、時間的態度は、ある生命の一瞬間が、質的に区別され2つのものに分離するという知性の原現象以外のなにものでもない、ということらしいのです。それらについて人間はどちらも同じくらい柔軟であると感じるが、それにもかかわらず、記憶作用をとおして固定されていると感じる、と。そのさい、分裂した生命の瞬間は私から切りはなされ、直観的世界として特徴づけられるべき世界に、みずから運びこまれるようになる・・・

 近藤さんは「このあたかもベルクソンの哲学を想起させる一文」と書いておられますが、巻末註によると、ブラウアーとベルクソンのそれぞれの「直観」概念のあいだに、厳密な内容的一致を見ることはできないことが指摘されているとのこと。

 それにしても思い出すのは、ブラウアーのある種の“世間の感覚”のこと(>数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワー)。この方、数学的業績をあげていなかったら、単なる「へんなこという人」あるいは「イっちゃっている人」になっていたのでしょうか。でも、業績をあげていても、「ちょっとついていけないな・・・受け入れなられないな・・・」と思われることが多い(?)ようなので、やっぱり上記のような独特の表現はひとつの壁になっているのでしょうね。でも、私、嫌いじゃないな、ブワウアー。バランス感覚保ちつつ興味もちたい人だけど。(^^;

 それにしても「観照」という言葉を初めて変換したように思いま・・・・・と書こうとして念のためサイト内検索したら、あらまっ、過去にも書いているじゃないか。引用部分だけど。(>「担体」という言葉/郡司さん&松野さんのあとがきから) 宗教的な言葉ですよね。ためしに「観照の語源」でGoogleで検索してみたら、スーフィズムという言葉が目に入って苦笑してしまいました。TATA-STYLEで立川武蔵『空の思想史』のこと書き始めています。>イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教の違い  当初の予定では『カヴァイエス研究』読んでからTETRA'S MATH で書こうと思っていたのだけれど、考えたいこと山積みで追いつかないので、もう並行して読んでいく。
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ブラウアーの「選列」(3)/コイントスと連続性

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読んでいる途中ですが、web上で見られる他の論文を参照しながら、ブラウアーの「選列」について考えています。

 それにしても、ブラウアーの「選列」を考えるようになって、「あれ、これ、何かに似ている・・・」とか、「どこかで触れたことがある」という感覚を味わうことしばしば。値域が{0,1}の関数と言われると特性関数のこと思い出すし、郡司ペギオ‐幸夫『時間の正体』で出てきたマルコポーロさんのことも思い出します。あと、きのう書いた「制限の規則」では、ハッセ図の一部を抜き出す作業のようにも思えてきます。抜き出す(=一部を取り出す)のだけど「・・・(←ずっと続きますのマーク)」を消せないというか。検索中に層とかトポスという言葉もみかけますが、何がどうつながるのかさっぱり見当がつきません。いつかどこかでつながるんでしょうか、どうなんでしょうか。

 さて、きょうは、いったんspreadをはなれて(もどってこれるかどうかは不明)、ブラウアーの「自由選列」に関する論文3つでリンクした3つめの論文、林晋「「数理哲学」としての種の論理」を読んでみます。このなかにある説明がとてもわかりやすいのです。服部さんや金子さんとまったく別の話をしているの??と思うくらい。

 というわけで、いつものように我流でレポート。

 まず、コインを1枚用意して、表に「右」、裏に「左」と書いておきます。それから、0から1までの区間の数直線を用意します(林さんは数直線という言葉は書いていませんが、ひとまずそう考えることにします)。そして、0から1/2までの区間を「左」、1/2から1までの区間を「右」とします。

 これから、コイントスによって、0から1までの間にある実数を選ぶことを考えます(という言い方は不正確かもしれませんが、とりあえずそういうことにします)。まず、コインを1回なげて、右が出たら右、左が出たら左を選択します。たとえば「左」が出たとすると、0から1/2までの区間が選ばれるので、今度はこれを半分に分けて、0から1/4までを「左」、1/4から1/2までを「右」として、またコインを投げ、そして出たほうを選択していきます。

 この方法で選択を繰り返していくと、たとえば「左→右→右→左→右」と出た場合、下図の赤い部分が選択されることになります。
   

 コインをどんどん投げて、どんどん選択していくと、もっともっと区間の幅はせまくなり、コイントスによって選ばれようとしている実数の幅はせまくなっていきます。せまくなっていくけれど、それぞれの段階において、その幅のどこにいるかは決まっておらず、たとえば1回めの選択の段階では、0から1/2までの間にあるすべての実数が、これから選ぼうとしている実数の条件を満たしている、ということになります。どうやらこのあたりが、「連続性」と関わってくるらしいのです(注:ものすごく乱暴な説明のしかたになっていると思います、はい)。

 で、林さんの説明がわかりやすいのはいいのですが、これがどうspreadと結びつくのか、服部さんや金子さんの論文とどう関わってくるのか、疑問符とびまくり状態。

 そしてはたと気づけば。近藤さんが『カヴァイエス研究』(p.32)の中で、記号Cを使った数式を書いていたような記憶が・・・

 (確認中)

 あら、これって、組み合わせのCじゃなかった。有限2進分数だって。

 おお、上記の話となんか近くないかい?

(つづく)
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ブラウアーの「選列」(2)/spread

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読んでいる途中ですが、web上で見られる他の論文を参照しながら、ブラウアーの「選列」について、考えているところです。いまは、服部裕幸「選列の理論について」を読みながら、自分なりの理解を書きつづっています。

 さて、前回の例ではどちらも1ケタの数で列を作っていき、コンマを使わずに数字を並べていきましたが、別に1ケタの数ではなくても、たとえば12と345を並べれば[12,345,・・・]という列ができるし、そのあとに354628をくっつければ[12,345,354628,・・・]という列ができます。とにかく、自然数(いまは0も含めて考える)を並べて列を作りたいのだから、最初にくる自然数は0、1、2、3、・・・と無限にあるし、2番目にくる自然数も0、1、2、3、・・・と無限にあります。なので、「場合の数」を考えるときのような樹形図を描くと、はじまりも無限ならば、そこから分岐する枝の数も無限になるかと思います(上記リンク先論文のp.4にそのような図があります)。

 で、自然数ならなんでもいいということにせずに、たとえば0と1だけを使って列をつくってみようということになると、最初は0か1、次も0か1、その次も0か1、・・・となるので、枝が2本ずつ分岐していく樹形図を描くことができます。さっきの図のように枝分かれの数に「・・・」をつける必要はなくなりますが、枝が分かれたあとにはあいかわらず「・・・」が続きます。

 こういうふうに、「0と1だけ」といったような制限をつけることを、ひとまず「制限の規則」と呼ぶことにします(ほんとは別に名前がついているけれど、ここでは私が勝手に命名)。

 ほんでもって、きのうのトランプで作った列

    55824・・・ → 558243・・・ → 5582431・・・

について、その途中でできる1つ1つの列に対して、ある1つの有理数を割り当てることを考えます。たとえば、55824に「7/5」、558243に「14/13」、5582431に「1」というふうに(ちなみにそれぞれ分数は、「偶数の数字の和/奇数の数字の和」で作ってみました)。そうすると今度は、

   7/5,14/13,1,・・・

という有理数の列ができます。もとの列が生成過程にあるのだから、この有理数の列も生成過程にあります。こういうふうに、最初につくった列の、途中でできる有限数列に1つの有理数(正確には、数学的実体)を割り当てる規則を、「割り当ての規則」(ひきつづき私が勝手に命名)と呼ぶことにします。

 そして、このような有理数の無限列は spread の要素と呼ばれます。って、なぜかここだけ本来の名前。ちなみに金子洋之さんは、spreadに「域」という訳語をあてておられます。「拡張」と訳されることもあるもよう。これってあれですよね、パンとかにべた〜っとぬる“スプレッド”のことですよね? 「ひきのばす」というような意味なのかな。お、検索したら面白ページ発見→東京ガスディップ、スプレッド、ペーストの区別

 で、服部さんの論文では、「制限の規則」と「割り当ての規則」という2つの規則のペアでspreadが定義されると書いてありますが、金子さんの論文では「自然数からなる有限列の集まりを定義域とし, {0, 1}を値域とするような関数に他ならない」と書いてあるのです(12ページめのp27)。関数? なぜいきなり・・・ と思いきや、「割り当てる」のだから、なるほど、関数といえば関数っぽいです。でも、{0,1}にしぼるの? はて・・・

(つづく)
 
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ブラウアーの「選列」(1)/自然数で列をつくる

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章と、金子洋之「選列と論理 I : 直観主義解析学における連続性原理」を並行して読んでいます。

 さて、1つ前のエントリで、直観主義者はどのように実数を構成するのかということをちょっとのぞきましたが、金子さんの論文のなかでは実数生成子というものが出てきます。そして、古典的にはコーシー列なのだけれど、直観主義的には許容されない列として、円周率πの小数展開の中に0123456789という数の並びがあるかどうかという問題を含む例が示されています(なので、“すべての”実数を構成する方法は、まだ得られていない)。ちなみに近藤さんの本でも、このπの小数展開の話は出てきます

 で、金子さんの論文では、このあと実数間の外延的同一性の話が出てきていて(内包的同一性も言葉だけ出てくる)興味津々なのですが、それはひとまずおいといて、p.22あたりの「関数」の話も割愛して、ぼちぼち「選列」のことを考えていきたいと思います。

 なお、先に書いておくと、ブラウアーの「選列」の基礎となる哲学的な議論を、カヴァイエスは受けとらなかったらしいのです。ちなみに、金子さんの論文のなかで、「選択の主体」という言葉が出てきますが、ブラウアーとカヴァイエスの考えを分かつものは、どうやらこのあたりにありそうな予感がします。

 何を選択するかというと、自然数です。自然数は前もって獲得された数学の対象なので、その自然数の選択という際限のない行為の継続をもってして規定されるのが、「選列」というものあるらしいのです。

 以下、私の理解で書きます(このへんからは、ブラウアーの「自由選列」に関する論文3つで示した最初の論文、服部裕幸「選列の理論について」を読んでいくとわかりやすいです)。

 いま、私が勝手に、55824・・・ という列を作ったとします。「・・・」のところにはまだ自然数が続くのですが、現段階では55824というところまでわかっています。で、次に3がきたら、558243までわかり、1がきたら、5582431までわかります。
 
(1) 55824・・・ → 558243・・・ → 5582431・・・ 

という流れです。

 もう1つ別に列を作ります。今度は、「xを2乗した数の一の位を並べる」という規則に、x=0,1,2,3,4,・・・を代入します。そうすると、

(2) 01496・・・ → 014965・・・ → 0149656・・・  

という流れになります。しかし、(1)の場合と違って、(2)の場合は、「・・・」がついていたとしても、「・・・」に何が入るのかは決まっています。

 実は(1)の列は、私が10枚のトランプを使って、そのなかから1枚選ぶという方法で作った列です。この方法を繰り返すことで、いくらでも自然数をつぎたせますが、(2)の場合と違って、次にどの数字がくるかは、私がカードをひくまでわかりません。だけど、私がカードをひいて出した数字、ということは決まっています。だから、(2)が、「2乗したときの一の位」という規則にしたがって生成されるものだとすると、(1)も、「10枚のトランプから1枚ひく」ということにしたがって生成される列、と言ってもいいのではなかろうか・・・というのが、服部さんの論文p.3に対する私の理解です。

(つづく)
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直観主義者は自然数「2」をどのように構成するか

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいる途中ですが、別の論文も参照しつつ、ブラウアーの「自由選列」のなんたるかを少しずつつかんでいこうとしているところです。

 さて、直観主義の場合、「存在するとは構成されること」なわけですが、たとえば自然数、整数、そして有理数までだったら、具体的な構成方法を示すことができます。自然数は1に+1をくりかえし適用すればいいし、整数は自然数にプラス、マイナスをつければいいし(0からの自然数の引き算の解として構成すればいいし)、有理数は整数aとbを用いて、b/aで構成することができます。しかし、問題なのは、実数。

 ということをみていく前に、きのうリンクした論文のうちの1つ、

■「選列と論理 I : 直観主義解析学における連続性原理」
  金子洋之
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/
2115/33559/1/39(1)_PL17-50.pdf


をちょっとのぞいてみたいと思います。この論文の4ページめ(p19)に、直観主義数学が自然数2を構成する様子が示されています。

ある事象と時間系列上でその次に来る事象とを取りまとめ,それらが二つの事象であることを承認しつつ,同時に一つの事象として認識することが自然数2の構成である。

 この記述を読んで私が思い出したのは、ブラウワーがいうところの数学の無言語性で出てきた二−一性(the two-ity,the two-oneness)のことでした。あのときには、「はいぃ?」という感じだったけれど、なんだかいまは、ブラウワーが言わんとしていることが、あのときよりはわかるような気がします。

 で、自然数2を構成したあとは、「ストロークを継ぎ足すことによって自然数を構成する有限主義の場合と形式上は同様な自然数の系列が得られる」ということで、これは上記の+1を好きなだけ繰り返す、ということを言っているのだろうと理解しています。

 そして、自然数にしろ整数にしろ有理数にしろ、個々に考える限りは完結した対象なのだけれど、自然数全体からなる集合や有理数全体の集合のようなものは、直観主義の場合は完結した対象とは見なされません。なので、有理数の無限集合や無限系列を前提とする実数を構成するにあたっては、古典的な方法や概念をそのまま利用することはできない、ということになります。

そこで個々の実数を構成するために直観主義者が採った道は,実数を完結した対象としてではなく,絶えず生成途上にある未完の対象として扱うことであった。

 このあと、実数の構成法の例として区間縮小法とコーシー列が示されています。私はウィキペディアのコーシー列の説明のなかに、「自己漸近」という言葉があるのを見て、ちょっと苦笑してしまいました。そうか、自己規定から自己批判にうつるまえに()自己漸近も面白かったかもしれないな。でも、ここでいう自己ってなんだろう? 自分に近づいていくということかな、自分で近づいていくということかな・・・

 なお、コーシー列のおおよそのイメージをつかむには、「物理のかぎしっぽ」さんの「コーシー列と完備の概念」がわかりやすいです。
http://hooktail.maxwell.jp/kagi/
68b2c1796f6b209765ddd66925a2f9d1.html


 ちなみに、「実数を完結した対象としてではなく、絶えず生成途上にある未完の対象として扱うこと」というフレーズからは、野矢茂樹『無限論の教室』を思い出しました。あの本に、0.999・・・と1の違いについて、何か面白い言葉で説明してあったような記憶がうっすらとあるのですが、思い出せず・・・です。

 いまさらの話だけど、思えば「収束」も、自分の人生においてけっこうなキーワードになっているのかもしれません。でも、だんだん近づいていく、どんどん近づいていくということよりも、まっぽすそれではない、そこに行き着けない、というところがミソであり、「収束」という言葉はその気になりどころにあまりフィットしないのかもしれません。

 で、金子さんの論文のその先を読み進みますと、

 さて,以上では自然数から実数までの構成をごく簡単に概観したのであるが,このように形成された直観主義数学の内に連続体の占める余地がないのは明かである。
という話になっていきます。

(つづく)
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ブラウアーの「自由選列」に関する論文3つ

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいる途中ですが、これから先出てくる、ブラウアーの「自由選列」の話を読みやすくする(あるいは、より深めて読む)ために、web上で見つけた論文3つをリンクします。


■「選列の理論について」服部裕幸
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/
xoonips/download.php?file_id=34185


 ブラウアーの「自由選列」については、きっと樹形図のような図を使った説明があるはずだと思っていたのですが、果たしてありました。後半ではクリプキ・モデルも出てきます。


■「選列と論理 I : 直観主義解析学における連続性原理」
  金子洋之
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/
2115/33559/1/39(1)_PL17-50.pdf


 『ダメットにたどりつくまで』の金子さんの1990年の論文。33〜34歳のときですね。いまの近藤和敬さん(32歳?)とほぼ同じ年齢のときだ。


■「「数理哲学」としての種の論理」林晋
http://www.shayashi.jp/Tanabe/
shyunoronri20101110.pdf


 田辺元の「種の原理」は、ブラウアーの自由選列の実数論をモデルにしているという話。>
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「自律性」について、もう少し/小島寛之の遠山啓観、オートポイエーシス

 カヴァイエスを読んでいく前に、もう少し「自律性」のことについて考えてみます。

 「自律性」といえば、昨年の秋、遠山啓を考える新しい視点を、小島寛之から与えられる。のところで出てきました。小島寛之さんは遠山啓の発想の本質を、「大胆にまとめるならば」という注釈付で、次の2点に集約させていました。→「数学は現実を抽象化したもの」「数学の自律性の利用」

 前者については私も考えてきていましたが、後者の自律性についてはまったく考えてこなかったので、びっくりしました。小島寛之さんは、遠山啓を語る中で、「意味から独立して自己発展できる」という性質こそが数学の「自律性」なのであり、この発想が「一般から特殊へ」という問題配列の方法論「水道方式」として結実することになった、というようなことを書いていました。まさにここで、自己展開ならぬ自己発展という言葉が出てきています。オートマチックという言葉も出てきています。

 なるほど、もしかするとここに、遠山啓を理解する、私がこれまで気づかなかった大きなヒントがあるのかもしれません。しかし、その自律性の話が、小島寛之が語る、遠山啓の「量の理論」で示した次のような話------「タイルによる数教育」や「水道方式」や「量の教育」は、「ハウツー」だけで子どもたちに目覚ましい効果を発現させ、バックボーンなしでも「実践」を通じて広がっていく生命力を持っており、それこそまさに「数学の自律性」がそのまま体現されたことの自己証明と言ってもいいだろう------につなげられると、「えっ、自律性ってそういうことですか??」と首を傾げてしまうのでした。

 とはいえ、やはりあのとき、小島寛之さんから大きな宿題をもらっていたように思います。

 そしてもうひとつ気になる「自律性」は、オートポイエーシスのこと。過去に、擬自律性というエントリを書いています。擬自律性というタイトルは池田清彦さんの書籍から引いた言葉ですが、そっちはおいといて、いま問題にしたいのは、あのエントリの中で書いたオートポイエーシスのその後のことです。

 オートポイエーシスという概念は、マトゥラーナがあたためていた構想と、ヴァレラの位相空間論とが混合されて一つの理論構想となったものでしたが、やがて2人の見解は食い違っていき、ヴァレラは、オートポイエーシスはごく特殊な対象(細胞システム、免疫システム、神経システム)にしか適用できない原理だと判断し、生命の基本原理としては、「オートノミー」(自律性)こそがふさわしいと認定したようなのです。

 そして、郡司ペギオ‐幸夫がオートポイエーシスを批判的に検討していることについても、郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったことで書きました。オートポイエーシスは外部との接触面にできる亀裂を想定していないので、時間と無関係である、と。

 あら、久しぶりに映像を観に行ったら、前半と後半に分かれていて、郡司さんのプレゼンは後半になっているのだけれど、後半がなぜか観られない・・・

 カヴァイエスの「自律性」という言葉に動揺するあまり、わけもわからず宇多田ヒカルのAutomaticの歌詞を調べに行ったりした私なのですが(^^;、小池龍之介のことも思い出していました。>TATA‐STYLE→小池龍之介が語る、「DNAの罠」小池龍之介『貧乏入門』から、「無我」の意味、そしてエゴ

 だけどそのあと、柳宗理は、なぜ「花紋折り」に惹かれたのか。のことも思い出したのです。「花紋折り」の自然発生的な図形、“自分が”創りだすのではない美しさ、意外性を、私は楽しんでいる・・・

 これまで、(自分ではそんなつもりではなかったのだけれど)もしかしたら見ないようにしていたのかもしれない「自律性」という言葉を、カヴァイエスから「生成」とセットでつきつけられ、ライプニッツがいうところのものとは別の“予定調和のようなもの”にからめとられそうな危機感、これからじっくり否定していこうと思っていたところなのにあっさり消滅させられそうな“自己”を感じて、つい身構えてしまったここ数日間だったように思います。そろそろ先を読もうっと。
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「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考

 本日、常体にて。

 「自」という文字の成り立ちが知りたくなって、ネットで調べてみたら、どうやら“鼻”と関わりが深いもよう。「鼻」の旧字体ということなのかもしれない。自分を指すときに鼻をさすので、そういうことになったという説あり。そうか、自分=鼻、なんだ。

 もともと自己相似に興味があった。たとえば、子どもの頃、思い描いていたイメージに、「白いピアノの置物」というものがある。白いピアノの上にピアノの置物がのっていて、そのピアノの置物は白いピアノのミニチュアなので、その置物のピアノの上にもピアノの置物がのっていて・・・と延々と続くイメージ。

 あわせ鏡による繰り返しよりも、単体で繰り返されるものに対する興味が強かった(なので、正四面体が自己双対だと知ったとき、妙に納得した)。そして、自己相似に対する興味のひとつの集約地点が、黄金比だったのだと思う。その後、必然的な流れとして、「自己言及」も気になるようになってくる。早い話、入れ子構造に興味があったのだと思う。

 1つのもので繰り返されるということは、閉じているのだろうか、開かれているのだろうか。永遠に双方向に繰り返されるということは、開かれていることであるような気もするし、所詮は1つのもので構成されていると思うと、孤独のきわみのようにも思える。サイズや次元を変えてどんなに繰り返しても、そこに質としての変容はない。異なるもの、他者との出会いがない。1つのもので永遠に繰り返され得るということは、さびしいことなのだろうか、賑やかなことなのだろうか。

 しかし、今度は自己そのものが気になるようになってきた。繰り返される前の「1」へ。そうなると、自己規定や自己制作というものへ興味が向かう。「境界」を手がかりとして。

 そうこうするうち、自己批判というキーワードが生じる。そこには時制が関わってくる。自己の解体と新たな制作の繰り返し。同一性の問題。

 そして昨年あたりから、ぼちぼち仏教のことを考え始めることにした。たぶん、「自己否定」に向かっているのだろう。

 ところが。

 ここにきて、カヴァイエスから「自己展開」を提示され、「自律性」を提示される。問題は、「展開」ではない。そうではなくて、これまでずっと私にとっては「わたし」だった自己が、「オート」になってしまったこと。ある種の「自己消滅」。カヴァイエスがそう言っているわけではなく、私が勝手に動揺しているだけのことなのだが。「自己否定」までは、自分でできる。と思う。だけど、自己展開は、自分ではできないし、そもそも、自分の話ではない。自律性の「自」は、「鼻」ではないだろう。どうせだったら、自分で自分をきっちり否定したあと、オートの展開を受け入れたかったような気がしないでもない。

 落ち着いて考えれば、カヴァイエスが言おうとしていることは、これまで自分が考えてきたこと、感じたことを覆すものではないのだと思う。だけど、その「必然性」を、私は、<時を越えた私>と称していて、どうしても、「私」をはずせずにいた。

 人間は自然物であるか、数学は発明なのか発見なのか。数学はきわめて個人的な作業なのか、まれにみる人類共通の知的活動なのか。「実証」の意味ではない経験主義、「子どもの思いつき」と見なされるレベルで終わらない構成主義が、相対主義や多元主義に陥らずに、「かたく閉じた心の窓を力強く押し開く()」教育へと結びつくことは可能か。私は、何かの掌の上で生きつつも、「私」であることは可能か。それとも、“掌”込みで生を受け入れるところに、私の意味があるのか。

 先の動揺は、いろんな問いへとつながっていく。
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