TETRA'S MATH

数学と数学教育

結婚披露宴のスライドショーと過去性

 結婚式や披露宴というものに出席したことがほとんどないので、実物はあまり見たことがないのですが、結婚披露宴やパーティーなどで、新郎新婦を紹介するために、2人の生い立ちや出会いなどをまとめたスライドが使われることがしばしばあるかと思います。

 あれを見ているときって、どんな気分なのでしょうね。新郎側の親戚・友人が新婦の生い立ちを見るときや、新婦側の親戚・友人が新郎側の生い立ちを見るとき。あるいは、新郎側、新婦側の歴史の中に、自分が含まれているのを客観的に見るとき。

 たとえば一例として、新郎新婦が会社の同僚で、お互い23歳のときに出会って、27歳で結婚したとします。そして、新婦の叔父は、結婚式で初めて新郎に会い、その人となりを知ったとします。そんな新婦の叔父は結婚パーティーで、ついきのうまでは他人だった新郎の生まれたときから今日までのスライドを見ることになるわけなのですよね(いや、実際にどういうスライドかはわかりませんが…)。新郎が小学生のころ、彼と新婦の叔父とは交わりようのない位置関係にいたはずなのに、いまこうして同じ場にいて、しかも、彼の成長過程をスライドで体験している。そのとき新婦の叔父は、新郎と新婦の結婚によって、新郎の過去が自分の過去をもになることを実感するのでしょうか。

 郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』第3章で、マルコポーロさんの使っている「ジーブ」を説明するにあたり、こんなことが書かれています。

ある人Bの小学校時代を、まだA氏は過去としていない。しかし五日後A氏はB氏に会い、B氏の小学校時代を因果的に過去とすることになる。そこに存在するB氏は、まさに小学校時代のB氏がいたからこそ存在するのだから。このとき未来(5)を持っていれば、未来(5)が「Bの小学校時代」を過去とすることによって、この出来事がいずれ過去となること、しかもそれはたった五日待てばよい未来に実現すること、がわかる。
 
 新婦の叔父が31歳のときに新婦である姪っ子が生まれ、58歳のときに姪っ子が結婚したとします。そして新婦が入社したとき叔父は54歳となり、このときは新婦はまだ結婚していないのですが、その4年後に結婚することになるので、叔父は54歳の時点で「4年後に姪っ子の夫の過去が自分の過去になる」未来をもっているのかもしれません。さらにいえば、31歳の時点で、「今年生まれた姪っ子が27年後に結婚するとき、その夫の過去が自分の過去になる」未来をもっていると考えることもできるのかもしれない。

 というような「まだ起きていない事柄の過去性」を考えるのが、結局ジーブなのだと、郡司さんの『時間の正体』を読む限りでは理解しています。上記の例では、年齢や、あるいは西暦何年といった共通のベースをもとに考えることで、それが過去なのか未来なのか、どちらが先なのかを判断できる例かもしれませんが、そのような共通のベースなしで、因果関係だけで過去や未来を考えること、「まだ過去になっていないけれどいずれ過去になることがら」が、どのような精度で内的限定観測者の過去になっていくか、その程度をはかる道具がジーブなのだろうと現時点では理解しています。って、最初からそう書いてあるのですが、実際に使われているジーブという道具がどうにも大掛りで、なかなかその全体像をつかめずにいます。なので、ここらでちょっと勝手に考えてみることにしました。ちょっと考えたあと、そろそろ第4章に入っていこうと思います。
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現在に帰属しない過去

 2つの過去の共立で書いたように、「窓の外の人」体験をしたとき、まずここに[現在]のタグがつきます。これは、「現実の身体あるわたし」です。そうして、「世界を境界づけるわたし」としての過去と、「世界の住人であるわたし」としての過去が激しく衝突するわけですが、この2つの過去が[現在]という目印の取り合いを始めた刹那に、もう一つ別のタグ、「世界=わたし」というタグがたまたま作られ、このタグによって「超越者としてのわたし」であった過去がかき消されることなく温存された、というわけです。
二つのタグによって、二つの過去の共立が保存されたわけだ

  

 なぜそこでタグが立つんだ?という疑問はありますが、きのう書いたように郡司さんの場合(そしてこのケースの場合)、たまたまそれが作られたということなのでしょう。逆にいえば、しょっちゅうそういうタグが立つと困るわけで。

 さて、2つのタグがついたことで、2つの過去の共立が保存されますが、

  

 私たちは1つの現在によって紡がれていく時間を生きる者なので、複数の現在を知覚することはありません。ということは、2つのタグのうち1つが現在だということになり、もう1つのタグは、現在ではない何かに帰属する過去ということになります。郡司さんはこの過去を「行き場のない過去」と呼んでおり、この行き場のない過去に帰属した過去完了という感覚がデジャブではなかろうか、と結論づけておられます。

 そんなことよく思いついたなぁ〜!という感想と、うーん、それはちょっと無理があるかな…という感想の両方がありますが、それはそうとしてもこれが「木」と「森」にどうかかわっているかが知りたい。

 まず1つは、超越者であろうとする過去は、世界を対象化するという意味で「木」として体験される過去であり、世界の住人としてのわたしを体験する過去は、わたしを取り巻く不定で大きさのわからない世界を体験するという意味で「森」を体験することなので、2つの過去は、木と森の強い対比および補完関係を成し、共立しやすい性格を有していた、ということがあげられています。なるほどそれは確かに。

 でも面白いのはもう1つの「木」と「森」の話、出来事(木)と、出来事の系列・集合(森)との関係です。
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ウイスキーが半分入っている瓶と「わたし」の関係

 郡司さんは、「もう半分」の場合も「まだ半分」の場合も、残ったウイスキーを「木」、ウイスキーが飲まれてできた瓶の中の空間を「森」として話を始めておられますが、私は、「もう半分」の場合は空間が「木」だと考えたほうがしっくりくるように感じていました。half empty と half full になると、ますますそう思えてきます。空間もウイスキーも、ともに同じレベルで「木」になれる、と。

 なお、ここで「木」と「森」のなんたるかを確認しておくと、「木」は輪郭をもつ明示的な対象、「森」は不定性、曖昧さをもつ背景の全体です(と私は理解しています)。

 空間もウイスキーも同じレベルで「木」だという私の感覚(そうでないと「半分」という言葉が生きてこない)はあとで回収されていくのですが、いずれにしろ、瓶の中に半分だけ残ったウイスキーを見て「もう半分!?」とわたしが言うとき、まずは残ったウイスキーのほうを見ている、といえばたぶんそうなのだろうと思います。とりあえず、一等最初はウイスキーが「木」であり、空間が「森」と考えることに異論は挟まないことにします。問題は、そのあと「もう半分」と「まだ半分」で何が変わってくるか、ということであり。

 さて、「もう半分」にしろ「まだ半分」にしろ、半分だけウイスキーを残した瓶がわたしにどのような機能を及ぼすかというところに出てきた言葉です。

 そう考えると、ウイスキーが「木」、瓶の中の空間が「森」という対立のほか、瓶全体が「木」、瓶がわたしという環境に与える機能が「森」というもうひとつの対立も考えられます。(なお、このエントリで示す図は、p.35の図2−3を参考にして私が自分の考えて勝手にかきおこしたものであり、本に掲載されているものではありません。お醤油のビンみたいになっちゃったわ…)

  

 そして、「もう半分」の場合、瓶の中にできた空間(すでに飲んでしまった部分)に目がいきます。そんなふうに何もない空間が個物として意識できるのは、その空間がガラス瓶で囲われているから。

 そうすると、「瓶内の空間」という森が、「半分だけウイスキーの残った瓶」という木に転倒します。これは、瓶の全体というものが個物化され、瓶の全体の外部を否定的に示すことでもある、というわけです。

  
だから、瓶の全体への個物化は、瓶の全体がわたしに及ぼす機能やその不定性を退け、輪郭をもった具体的個物として、瓶とわたしとの関係を結晶化させる(図2−3上の矢印の系列)。すなわち、もはや変えることのできない過ぎ去った過去として、瓶とわたしの関係が成立する。こうして「もう半分」は、瓶内の森から、亀裂を有する瓶とその外部の関係の全体を、むしろ木(半分だけウィスキーの残った瓶)とみることによって、完了・過去を生成している。
 一方、「まだ半分」の場合は、残っているウイスキーに視点があり、ウイスキーは琥珀色の塊としてそのもの自体で具体的な輪郭をもっているので、空間のようにガラス瓶による境界づけを必要としません。そして、瓶の全体という木が無効にされて、瓶の外部という森への転倒が生じる、というわけです。

  
逆説的に、半分ウィスキーの残った瓶の、その開かれた外部=森として、亀裂のある木と森の対立図式をみることになる。わたしは、「まだ半分」によって、森を志向し、これから行為する未来を生成することになる。
 なるほど。

 私は、「まだ・もう」を自分なりに考えるために、全体(ウイスキーでいうところの瓶)がはっきりしない例を使いたかったので、「入学試験までまだ1ヶ月ある」「入学試験までもう1ヶ月しかない」という場合についてあれこれ思いをめぐらせていました。しかし、この場合は1ヶ月というのがそのまま時間的な幅になっており、過去・完了&未来の生成を考える例としてはあまり面白くないというか、かえってわかりにくい設定のようです。
 
 ウイスキーの話で面白いなぁと思うのは、不定性、曖昧さをもつ「森」への志向が未来を生成するという発想です。私はこれまで、瓶に半分だけ残ったウイスキーに対して「まだ半分」という印象を持つ人は、そのウイスキーの内部に広がる可能性---そのウイスキーがわたしにもたらす豊かな時間---を感じているのだと思っていました。しかし考えてみれば、その可能性がわたしに意味をなすのは、ウイスキーが外部のわたしになんらかの働きかけをしてくれるからであり、ウイスキーからわたしへの機能は輪郭のない森なのだ、という発想が新鮮だったのです。わたしはウイスキーに視点を落とすことで、“逆説的に”半分ウイスキーの残った瓶の開かれた外部=森を志向する。その森とは、いわば空間的なものであり、そういう空間的な森への志向が未来を生成するという考え方。

 給料の2割・8割()の例のような「見方の変更」は、悲観的な判断から楽観的な判断への変更が可能だという、心理学でいえばリフレーミングということになるようです。ちなみに、青年は、「給料の2割を貯金するように」と言われたとき、「無理だ」と行動を完了させました。しかし、「8割で暮らしてごらん」と言われたときは、「やってみる」というように、行動を未来へ向けています。この場合、森に追いやられたのは、2割という具体的な金額だけでなく、「貯金する」という行為も含めての転倒だったのだろうと私は思います。

 もし、瓶に半分残っているのがウイスキーではなく、全部飲むことを義務づけられた苦い薬の場合どうなるか…

 と連想はつきません。

 きのうも書いたように、郡司さんは、あるレベルで意識的に見方を変えること(リフレーミングのように)は可能だけれど、木と見るか森と見るかはそうたやすく分離して扱えるものではなく、本質的な両義性が私たちのより原理的なレベルに食い込んでいて、その木と森の区別と混同の反復が時間を創り出し、時計を進めるということなのではないか、と語っています。

 まだ直結はしていませんが、区別と混同の反復は、前章の膨張と収縮の話を思い起こさせます。

 しかし、「もう半分・まだ半分」の例は素朴なもので、印象・解釈にすぎない。この延長上に何かあるか? 何があるか?

 ということで、次を読んでいきます。
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大和証券グループのCMと、ウイスキーのポスター

 郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』を読んでいます。きょうから、第2章の「デジャブ・木/森の可換性」に入ります。

 ここは、「木」と「森」の話です。「木」と「森」というのは、いわば「図」と「地」、「対象」と「背景」のことです。

 先に結論を言ってしまうと、「木と森の区別と混同が時間や現在を創り出す」という話です。こんなふうに時間を考えたことがなかったので、びっくり。そっか、こんなふうに時間を考えることができるんだ。

 木と森の区別と混同については大きく4つの例が出されていますが、きょうはその中のひとつ、「まだ半分、もう半分」をのぞいてみたいと思います。

 最初に行動経済学者ギロビッチの基本財産効果の話が出てきて、そのあとギロビッチも登場しているテレビコマーシャルが紹介されています。郡司さんの本ではなんのCMかわからなかったのですが、検索でさがしたら大和証券グループのCM(「ギロビッチ博士 フレーミング」篇)だとわかりました。

 店の主人から「給料の2割を貯金するように」と言われた青年は「無理だ」と答えるのですが、「給料の8割で暮らしてごらん」と言いかえてみると「やってみる」と答えるのです。言われていることの内容は同じなのに、なぜ青年の返事が違っていたのか? それは、「給料の2割を貯金するように」と言われたときには2割が対象(木)となり、青年は2割を具体的個物として意識して、その金額の大きさにおののくから。一方、「8割で暮らしてごらん」と言われたときには、2割は背景(森)となって輪郭があいまいになり、青年はその金額の大きさを把握できず、「やってみる」となるわけです。おなじ2割でも、木となるか森となるかで青年の意思決定に違いが生じるという話です。

 しかし、木と見るか森と見るかはそうたやすく分離して扱えるものではなく、本質的な両義性が、我々の認識のより原理的なレベルに食い込んでいると郡司さんは考えます。

むしろ、木と森を区別した刹那、混同を余儀なくされ、混同に起因する論理的混乱を回避するため、さらに別の次元で木と森の区別を必要とする。まさにこの反復こそが、時間を創り出し、時計を進めるということなのではないか。

 郡司さんが、このような時間についての話を近畿大学四谷アートステュディウム主催のシンポジウム「時のかたち」においてとりあげたら、パネリストの1人である松浦寿夫さんが、「その話はよくわかる」として、昔のサントリーのポスターの例を出されたそうです。そのポスターには、ウイスキーを半分残した瓶があり、左には“もう半分”、右には“まだ半分”と書かれていたそうです。

 左右に日本語が書かれたこのポスターは検索で見つけることができなかったのですが、ほとんど同じ内容だといってもいいであろうシーバス・リーガルのポスターを含む記事を見つけました。そのポスターには英語で「To the host it's half empty. To the guest it's half full.」(主にすれば、もう半分。客にすれば、まだ半分。)と書かれています。

 郡司さんは日本語のポスターをもとにこれを木と森の観点から分析しておられますが、英語版だと「主」と「客」の対比があり、さらに、言葉として、「half empty」「half full」という対比もあって面白いです。日本語の場合、完了・過去を意味する「もう」と、未だ・未来を意味する「まだ」でそのまま時制に関係していますが、empty と full は、瓶の中で空になった空間とウイスキーが残った部分をストレートに表しており、そのまんま、森と木になっています。

 思えば、給料の話も、ウイスキーの話も、どちらも全体に対する割合になっているところが面白いです。給料の場合はまだ、「4万円貯金するように」「16万円で生活してごらん」という話になっても成り立つかもしれませんが、ウイスキーの場合、「もう500ml」「まだ500ml」ではピンときません。

 そしてウイスキーの場合、「半分」という言葉からもわかるように、「空になった部分」と「ウイスキー」が入っている部分の全体が瓶で覆われているので、その瓶が「わたし」にもたらす機能についても考えやすいことが面白いです。

 というわけで、ウイスキーが半分入っている瓶をめぐる、木と森の二重の対立について見ていくことにします。

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収縮する「わたし」

 では、膨張する「わたし」に対して、収縮する「わたし」のような現象 ―― 幽体離脱に対する金縛りのようなもの ―― は、経済活動においてもあるのでしょうか。「わたし」が際限なく収縮するというのは、欲望の基盤が収縮することであり、わたしが抽象的な存在となって、具体的欲望を規定できなくなる、欲しい商品の不在によって交換が実現できなくなるということです。

 もしくは逆に、欲望の評価を失うことで、動物的な欲望、歯止めのきかない欲望が暴走するだろう。それは根拠のない、過剰な自信であり、過剰な期待である。金縛りと暴走は、コインの表裏である。

 経済活動における収縮する「わたし」をイメージするなかで私が思い出したのは、糸井重里の「ほしいものが、ほしいわ。」という西武百貨店のコピー(1980年代末)でした。鷲田清一『死なないでいる理由』にこのコピーのことが書いてあるのです(p.234〜235)。

 1980年代の終わりは高度消費社会であり、はてしなくほしいものがあり、なんでもすぐ手に入った。何をほしいと言ってもだれも驚きもしないし、たとえ手に入っても感動も薄くなっていく。わたしがいまほしいのは、これがないと生きてゆけないというぐらいに心底ほしいもの。つまりは、「ほしい」という切実な気持ちがほしい。こういう、「ほしい」という気持ちにみんなの心が渇きだした、飢えはじめたんだというメッセージが、あのコピーだった。

 つまり、消費社会の象徴的存在であった西武百貨店やパルコが、じぶんたちは欲望をあおって多様なものを次から次へとつくるなかで、欲望じたいをしだいに萎えさせてきた、という自己批判をやったようなものであり、欲望のギラギラする社会のなかで、ひとびとは欲望じたいを萎えさせてきた、それが高度消費社会、バブルだったんだという痛切な自己批評の広告だったというわけです。

 しかし、このような考え方は、ややこしい問題を連れてきます。「わたし」の極端な膨張・収縮で「時代」を考えようとすると ――「実際の時代背景」をふまえて「わたし」の極端な膨張・収縮を「現代」の特徴にしてしまうと ―― じゃあ、むかしは「わたし」の膨張・収縮はなかったのか(稀薄だったのか)?という話になってしまうこと。

 また、経済活動を例にとって「わたし」の膨張・収縮を考えるときに、互助組合のクーポン券と物々交換が例に出されていましたが、では「貨幣」というものが登場したら「わたし」の膨張・収縮はどうなるんだ?という問いも出てきてしまいます。

 そうなると、「時代によって時間は変容するのか?」という、とってもややこしい話になってしまいます。

 このややこしさが郡司さんの時間論と関わっていることなのか、実は重要なことなのか、それとも脇においといていいのかどうか、いまは判断がつきません。なので、あまり意識せず、先を読みたいと思います。

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膨張する「わたし」

 というわけで、しばらくのあいだ、郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』を読んで考えたことと、本の内容について書いていきます。

 第1章は「なぜ時間なのか」という章タイトルになっており、幽体離脱と経済活動の話から始まります(ちなみに、ここでいうところの幽体離脱は幽体の実在を問題にしない知覚体験のこと)。ひとことでいえば、膨張する「わたし」と収縮する「わたし」についての話です。これから展開される論の序章の位置にありますが、私はこの1章だけで当分のあいだ考えごとができそうだと思ったし、この1章を別の形に展開することで別の本ができそうだとも思いました。

 まず、「サイエンス」に掲載された幽体離脱(と同様の知覚体験)を体験する実験の論文が紹介されています。また、幽体離脱に近く、もっと日常的な身体感覚の話も出てきます。私はそういう幽体離脱感を味わったことがなく、むしろ幽体離脱と対になっている「金縛り感」の話が知覚体験的に納得できました。幽体離脱が「わたし」の膨張であるならば、金縛りは「わたし」の収縮であるという感覚が、とてもよくわかったのです。「わたし」が私の身体をもてあまし、扱いきれないという感覚。
 

 「わたし」の膨張、収縮によって、「わたし」と「わたし」が認識する対象、または、「わたし」と「わたし」を配分する世界、のような階層性が顕在化する。そしてその階層性において、世界か対象のいずれかのように振る舞う「わたし」は、その境界が常に不定であり、点線であることによって、常に新たな変化を抱え込もうとするのである。

 「わたし」の収縮についてはあした書くとして、まずは膨張です。

 経済活動については、「ベビーシッターエコノミー」(経済学者クルーグマンのエッセイからの引用)の例が出されています。私にとって切実な問題であるせいか、これまたわかりやすい例です。

 ベビーシッターエコノミーとはどういうことかというと、子どもをあずけて外出はしたいがベビーシッターの出費はおさえたい夫婦たちの互助組合制度の話で、自分が暇なときに他の組合員の子守を引き受け、組合発行のクーポンをもらい、自分たちが外出するときにはこのクーポンを使って他の組合員に子守をしてもらう、というシステムです。

 ところがこのシステムはすぐに破綻します。誰もがとりあえず手元に十分なクーポン券を貯めておこうと考え、外出を控え、結果的に誰も子守を必要とせず、誰も子守ができないという状況になってしまったからです。

 この話が、「わたし」の膨張とどうつながるのか。

 来週金曜日の予定のために今日誰かの子守を引き受けることにした時点での「わたし」は、来週の金曜日までを含む「わたし」です。そして、もともとは行く予定ではなかった来週土曜日のイベントにも子守クーポンがあるなら行ってみたくなり、土曜日の分も含めてクーポンを欲する「わたし」は、来週の土曜までを含む「わたし」へと膨張します。さらに突発的な出来事に備えクーポンを保有する必要があるのではないかと考える「わたし」は、ある有限の未来までしか含まないわたしであるにも拘らず、点線の「わたし」、無限定な「わたし」として発見されることになります。

 いってみればこれは「わたし」の欲望の時間的な拡張ですが、時間的な拡張のみならず、空間的拡張、集合的拡張というのも考えられ、それは物々交換の話で説明されています(経済学でいうところの「欲望の二重の困難の一致」の話)。

 商人が、有限種類、有限個の商品を所有している。また、自分の欲しい商品をリストアップしていて、これが「わたし」の欲望ということになる。商品交換は、各々の商品が相手の商品群の中に自分の欲しい商品を見つけることで成立するが、これは簡単な条件ではない。そこで商人は、他者の欲望を代行し私の欲望とすることで、交換を実現する。たとえば、女物のバッグは自分には必要ないが、家族の欲望に思いを馳せれば、女物のバッグも欲望の範疇に入ってくる。それはつまり、「わたし」の欲望を拡張するということ、家族にまで拡張された集合的わたしとなることである。

 つまり、経済活動は、一般に、欲望の基盤である「わたし」が膨張・収縮可能であるべく、その境界を点線とすることで可能なのだ、というわけです。

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郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと

 ICC(NTTインターコミュニケーションセンター)の公開記録HIVEの中に、

ICC開館10周年記念セッション・シリーズ Vol.2
連続シンポジウム「メディア・テクノロジーと生成する〈知〉」
「インターフェイスの可能性:創造の接面を探る)」

(2007年6月9日)

というものがある。再生スタート1時間21分後くらいから、郡司さんのプレゼン映像を見ることができる。

[2017年4月10日追記] 後半の映像です↓
http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20070609_2

 初めてこの映像(郡司さんのところだけ抜き出した映像をHIVE経由ではないところで見つけた)を観たとき、へたくそなプレゼンだなぁと思った。もう少し整理してゆっくり話してくれ〜と思いながら聴いていた。あとでわかったのだが、他2人のプレゼンの内容を意識した上で当初の予定をかえて4〜5日で用意した内容だったらしく(?)、持ち時間の制約あるいは首のヘルニアの影響もあるのか、とにかく頭のスピードに発話機能が追いついていない感じだった。こんなふうに大学の授業をされたら学生さんも大変だろうなぁなんて思いながら観ていたのだが、そのうちに郡司さん自身に対する関心が発表内容に移っていき、気がつけばその内容に引きこまれている。話の続きがききたくなり、「なんか面白そうなことやってていいなぁ」なんて気持ちもわいてくる。

 私もそうだったし一般的にそうだと思うのだけれど、あのプレゼンのわかりやすさ&面白さは、後半の「おもちゃのモデル」の動画---まるで生きもののような動き---にあると思う。しかし、この動画自体がものすごく画期的で目新しいもの、という印象はなかった。むしろ、前半の「痛み=傷み」という言葉が気になってきた。しかし、この「痛み=傷み」に説得力をもたせるには、やはりあのようなモデルが不可欠だろうとも思った。

 2回目にHIVE経由で郡司さんのプレゼン映像を観たときには、「面白くてわかりやすい話だなぁ」という印象をもった。聴き手って(というか私って)勝手なものだ。シンポジウムの会場にいて、前後の流れもあわせてこのプレゼンに接していたらもっと深く感じるところがあったかもしれないが、何度も再生して観られるのは録画ならではのありがたさだ。初めて聴いたときには整理されていないと感じた言葉も、3回目に聴くころには1語1語に納得がいき、テープリライトさえできそうな気がした。その面白さ、わかりやすさは、自分のこれまでの興味・関心の上に成り立っていることも感じた。

 何がわかりやすいかって、オートポイエーシスのこと(皮肉なものだ)。郡司さんがオートポイエーシスに対して批判的(プレゼンで本人も言っているように、共感しつつの批判的検討だと思う)なのは別の本で少し読んだ記憶が微かにあるのだが、そのときにはよくわからなかった。でも、今回「時間」をからめてオートポイエーシスを説明してもらって、ようやくオートポイエーシスのなんたるかが少しわかってきた気がするのだ。オートポイエーシスはなぜ時間と無関係であるか。それは、外部との接触面にできる亀裂---インターフェイス---、痛み=傷み、ダメージを想定していないから(と私は理解した)。という話が、とても面白く興味深かったのだ。

[2017年4月10日追記]
ルイジ・ルイージの議論がもとになっているようです。

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『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』(郡司ぺギオ-幸夫)を手にしてから数日間のあいだに思ったこと

 本日、常体にて。

 過去に、郡司ぺギオ-幸夫さんの本を3冊(単著2冊、共著1冊)図書館から借りたことがある。3冊ともほとんど読まずに返却した。読めなかったのだ。3冊手にして読めないのなら普通はもう手にしないだろうに、なぜかそうならなかった。タイミングの問題だろうと思った。あるいは、郡司さんの本は図書館から借りたものでは読めないのかもしれない、とも思った。

 で、先日、雑誌「かぞくのじかんVol.11」をamazonで注文したときに、一緒に『生きていることの科学』を買おうかなぁ〜と物色していたら、『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論 (講談社選書メチエ)』のほうが目にとまった。一応チェックしておこうと思い、レビューはないようだったので内容説明を読み始めたら、次の一文につかまった。

「わたし」には現在しか許されない。
 おお。

 なんというポジティブな否定形。

 この一文でしばらくご飯が食べられそうだ。

で、購入。いま思うと、しばらくこのこの一文だけで自分の勝手な妄想を広げるのも手だったかもしれない。ちなみにamazonでの内容説明の一節は、本の裏表紙にも書いてある。本文からの引用。うまい抜き出し方だと思う(そしてやはり、この一文のみを読んだときと、本文の文脈の中で読んだときとでは、ずいぶん印象が変わると思った)。

 借りた本ではなく買った本だと、扱い方がラクだ。汚すことを気にしなくていいので、コーヒーを飲みながら読めるし、食卓の上にも置いておけるし、いつでも気軽に手にできる。そのリラックス感が功を奏したのかどうかはわからないけれど、読み始めのとき、「へぇ、郡司ぺギオ-幸夫さんもこういうわかりやすい文章を書くことがあるんだ〜」という印象をもった。そしてしばらく読み進むうちに、「このわかりやすさは大丈夫なんだろうか…」とだんだん不安になってきた。読者って(というか私って)勝手なものだ。すべてがすぐにわかるとは思わなかったけれど、丁寧に読んでいけば理解できるだろうという感触があった。これまでの本にはなかった感触だ。ふと気になって発行年を確かめてみると、これまで手にしたどの本よりも新しい(2008年9月)。なんというのか、わかりやすさに加え、著者の使う一人称としての「私」の語調が若干マイルドになっているような気がした。この本よりあとに刊行されている共著もあるので、いつかのぞいてみて、これがたまたまなのかどうかいつか確かめてみようと思った。

 さて。

 それはそうとして。

 話はいったん変わり、郡司ぺギオ-幸夫さんの、とあるシンポジウムでのプレゼン映像のことをあした書こうと思う。
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