TETRA'S MATH

数学と数学教育

かけ算、関数、モノとハタラキ (2)

 いろいろ書いてきましたが、結局、かけ算における「ハタラキ」という言葉の整理以上のことは書けない気がしてきました。トラックバックするほどの記事にはならなかったな・・・

 結果的には、メタメタさんがおっしゃっているように、遠山啓は「被乗数×乗数」の「乗数」をハタラキからモノにかえ、「4」「×6」から「4」×「6」に変えたことになるのだと思いますが、そうまとめてしまうと何か違うように感じて(そして自分のなかの混乱を整理するためにも)、一連のエントリを書いてみました。

 思うに、「6人の子どもにみかんを4こずつ配ったときのみかんの総数」を、6×4と書くほうが自然だと感じる人も、「消費税率を5%として、2000円買ったときの消費税の金額を求めなさい」になると、2000×0.05と書くほうが自然だと感じる場合が多いかもしれませんね。もちろん、後者の場合も0.05×2000と書いてもいいわけですが、この式にバツがつけられて納得できないという話はあまりきかないような気がします。実際にバツにならないのか、子どもがそういう式を書かないのか、そもそもそういう式を書く以前の問題(難しさ)があるのか、親の目に届かないのか、親が疑問に思わないのか、単に私がその疑問の声を知らないだけなのか・・・はわかりませんが。

 この場合、モノ・ハタラキの順であることよりも、「もとにする量」×「割合」であることがミソなのかもしれませんね。なにしろ、「もとにする量」なのだから。

 それはそうとして、遠山啓および銀林浩がいうところの「もの」と「働き」のポイントは、「この対立は固定的なものではない」というところにあるのだと思います。ハタラキは、モノとしてとらえることもできる(>抽象的な関数より、具体的な内包量)。そうすると、より高次な場面で、元ハタラキであるモノへのハタラキも考えることができる(>「構造と素子」と、圏論)。そこに、数学の1つの自由があるのかもしれません。

 また、「どちらがどちらに働きかけるのか」ということについても、固定されていないのかもしれないなぁ、と思うことであります。



 気がつけば、カテゴリー:「かけ算の順序」論争のエントリ数が80を超え、1日1行の『記憶と生』を追い越してエントリ数最大のカテゴリーになってしまいました。なんか途中から半分惰性でこのカテゴリーを指定していたような気がしないでもありませんが(^^;、ひとまず気はすみました。

 結局のところ、かけ算の順序をどうすんの、ということについては何の意見も出しておらず、なんのお役にも立っておらず、申し訳ないことであります。ただ、私もかけ算について考えてみたくなったので、自分の視点で考えてみました。

 「割合」については、高橋誠『受験算数』を読んだあと、また考察したいと思います(^_‐)。特に「2 金貨と食塩水の四千年」が楽しみ!

 さて、娘はいよいよ5年生。

 算数濃いよ〜〜 

 楽しみじゃ。

 というわけで、本人登場

 ↓

はいは〜いぴまりんで〜すもうすぐ私も5年生です。
よく学校の先生達がいっていたのは、今ちゃんと勉強しておかないと学年が上がるった時こまるという話です。
ゲームとかでしたらどんどん難しくなるとかありますが、あれも基礎が大事なのかな。
だとしたらすごいかもゲームって楽しいしハマるし勉強とは大違いだから、そんな共通点があったとしたらすごいと思います
   


 余計なツッコミはしないでおきますか(^^) 
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かけ算、関数、モノとハタラキ (1)

(あとエントリ1つで終わりの予定でしたが、長くなったので2つに分けました。)

 というわけで、やっとここまできました〜

 小数のかけ算と、ブラックボックスと、圏論 (1)というエントリで、「ハタラキ」という言葉をぐちゃぐちゃに使ってしまった手前、この言葉をお借りしたメタメタさんのもとの記事にトラックバックする記事を書かなくちゃ・・・と思いつつエントリを書き始めてはや幾日。(っていうか、いかなくていいところまであれこれ寄り道していたので、こんなに時間がかかったのですが・・・^^;)

 あのときリンクさせていただいたページは、

「交換法則が成り立つかけ算」と「成り立たないかけ算」(その2)
http://ameblo.jp/metameta7/entry-11137286843.html

でしたが、これとは別の記事、

「マニュアル先生の「治療」法」
http://ameblo.jp/metameta7/entry-11188652088.html

についてのコメントで、(ついでの形で恐縮だったのですが)「モノとハタラキ」のことに触れさせていただいたところ、メタメタさんから、そもそも「もの」と「働き」という対の用語を知ったのは遠山の『無限と連続』だったという話をうかがいました。

 なので、その話から。

 遠山啓の『無限と連続』では、第2章が“「もの」と「働き」”というタイトルになっています。で、遠山啓がこの章に“「もの」と「働き」”というタイトルをつけた意味は、近代の「関数」から、現代の「群」へというエントリで書いた内容とほぼ同じことだろうと私は理解しています。

 あのとき参考文献にした遠山啓著作集の数学論シリーズ5『数学つれづれ草』をもう一度みてみると、遠山啓は「操作の数学」「紋章と模様」の中で、群について説明したあとp.25で次のように書いています。

これまでの説明では群は何かの構造Sを自分自身の上に写し,しかも,Sの構造を変えないような操作の集まりであった。紋章を自分自身の上に重ねる操作の群は紋章によっていろいろあるし,また,平面上の無限の模様もそうであった。
つまり,Sという構造があってはじめて,それに働く操作の集まりとして群Gが考えられるのである。そのさい,Sは働きを受ける“もの”であり,Gは働きそのものである―図21。Sは名詞的であり,Gは動詞的なものである。このようなばあい,Gはoperatorといい,Sはoperandということがある。

 というわけで、ここで出てくる対はオペレーターとオペランドになっています。オペランドとコンテンツでは微妙に意味が異なるとは思いますが、ひとまずこの対を「ハタラキとモノ」で考えても差し支えないでしょう。そして遠山啓は、このような(ハタラキとモノの)対立は人間の思想のなかでももっとも根本的なものの一つであり、19世紀になってはじめてでてきたわけではなく、初等数学における数と演算の対立も、広い意味でのモノとハタラキの対立だとみられる、というようなことを書いています。

 たとえば「4×6」という計算においては、「4」と「6」がモノで、「×」がハタラキにあたるのだと思います。したがって、かけ算は、(4、6)→24 の「→」にあたるハタラキなのだと思います。この段階では、「×6」がハタラキである、という発想もないのでしょう。

 しかし、次には関数fの話が出されており、数xにある関数fがはたらいてyになると考えたら、f(x)=yという関数は、やはりそのような対立の形でつかむこができる、としています。そこで、かけ算を関数の1場面ととらえることにしたら、「×」のみならず、「ある数値との乗法」というハタラキがうまれるな・・・と私は思いました。
 
 どういうことかというと、4×6=24 または 6×4=24 というかけ算を、4を固定して6から24を生み出すハタラキととらえることもできれば、6を固定して4から24を生み出すハタラキととらえることもできるな、ということです。

 たとえば、小数のかけ算と、ブラックボックスと、圏論 (1)では、1mの重さが2.3gの針金の長さと重さの関係をブラックボックスで表しましたが、あの場合、入力xは長さ、出力yは重さであり、ブラックボックスのなかに「2.3」という数値がひそんでいます。つまり、あの例では「2.3と乗法を行う」というのがハタラキとしての関数fなのだと思います。もし、xが加工されてyが出てくると考えるならば「x×2.3」と書いたほうが自然でしょうし、すでにあるハタラキfに入力xを反応させると考えれば、「2.3×x」と書いたほうが自然かもしれません(しかし、このことと「かけ算の順序」問題は、何の関係もないだろうと思います)。

 ほんでもって、新算数・数学教育実践講座」刊行会発行の『心に広がる楽しい授業 第11巻 比例の考え 正比例・1次関数』(1989年)において、最初は「(倍としての)割合」が出てくる話を書きましたが、ここでもブラックボックスは出てきています(本に載っている図とほぼ同じになるよう書き起こしました)。↓


  (上から順にp.11、38、46)

 ここではブラックボックスの中に「倍」としての数値がひそんでいます。数教協の先生方が、「1あたり量」と「倍」の違いをどれくらい意識していたかは不明ですが、とにもかくにもブラックボックスって便利だね・・・という感じではあります。っていうか、「倍」でもブラックボックスを使うのですね。

 しかし実際、「倍」をハタラキとみなす関数だってあるのでしょうし、2倍にするときにはy=2x、3倍にするときにはy=3xというような式で表せるのでしょう。遠山啓の比例水槽からして、比例定数を数値で表すならば「倍」になるわけであり(yの部分に入る水のかさ÷xの部分に入る水のかさ)。

 「倍」のブラックボックスって、適用範囲が広いなぁと思います。「6倍」は6倍するもののすべての量に適用できるし、10%は含有率だろうが消費税率だろうがなんだろうが適用できるので。

(つづく)
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「倍」のかけ算は「内包量×内包量」であるという考え方(シカゴブルースさん)

 今回の一連のエントリを書くなかで、検索中にもう1つとても興味深いページを見つけました。どうしていままで見つけられなかったのだろう・・・と、自分で不思議。

シカゴブルースさん>
■割り算から見た量(1)―内包量と外延量
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-159.html
■割り算から見た量(2)―絶対量と相対量
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-160.html

 (2)のページで、「3m×4倍」という「倍」のかけ算は、本質的には「3m/1 × 4= 12m」のように表記されるべきものなのであると書かれています。このことは、既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算で示した図(青い「1」の上に4このオレンジの丸がのっている図)を見ると、なるほど確かにそうかもしれないと思えてくる話です。

 「1人あたり4こ」ではなく、「4こ」そのものを「1」とみなすことは、「1」あたり「4こ」という意味なのだと考えれば、まさにあの図では、青い「1」の上に、オレンジの「4こ」がのっているわけであり。

 これを私は、「3m × 4/1」と考えようとして、「3m × 4ナントカ/1ナントカ」にしなくちゃいけなくなって、なんだか気持ちわるかったわけなのでした。>かけ算の式を、「外延量」「内包量」の視点で考えてみる

 そしてシカゴブルースさんは、「割合(倍)のかけ算における(1にあたる量)は内包量である。」として、

普通の1あたりの量のかけ算が 内包量×外延量=外延量 という構造をしているのに対して、割合(倍)のかけ算は 内包量×内包量=外延量 (外見的には 外延量×内包量=外延量 とも解釈できる) という構造になっているのであり、これが倍(割合)のかけ算の特殊性である。この特殊性が割合(倍)の問題の難しさの主な原因となっている。

とまとめたあと、絶対量と相対量の話を書いておられます。これでいうならば、遠山啓は、小学校低学年においては、相対量ではなく絶対量で学ばせるべきと考えていたのだろうと思います。

 「倍」のかけ算が、「内包量×内包量=外延量」なのだとしたら、割合の三用法で出てくるわり算は、全部「外延量÷内包量=内包量」ということになるのですね。つまり、「24こ÷4こ=6倍」は、「24こ÷4こ/1=6」ということなのでしょう。そうなると、「6」という数は、4こ/1という内包量の存在を前提としてつくられるということだろうか。

 考えてみれば、4mだって、1m×4なのですが、この「1m」も内包量なのだろうか・・・という、新たな疑問もわいてくるのでした。

 いずれにしろ、「1あたり量」としての内包量と、「倍」としての内包量は性質が違っていて、「6人の子どもにみかんを4こずつ配るときのみかんの総数を求める」という同じ状況を、同じ4×6=24という式で表しているのに、考え方によって「4」や「6」や、あるいは「×」の意味が変わるというのは面白いなぁと思います。

 「倍」のかけ算は「内包量×内包量=外延量」であるか、ということについては、いずれ機会があったらまたゆっくり考えたいと思っています。
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ちょっと比例の話を広げてみる>エレベーターとアクリルたわし圏もどき

 秒速8mで上昇するエレベーターで比例について考えています。

 小学校方式の比例の定義でいけば、このエレベーターは、動いた時間が2倍、3倍、・・・になると、高さも2倍、3倍、・・・、になるので、高さは時間に比例するということが言えます。しかし、具体的には「8m/秒」という数値が、このエレベータの動きの“質”を表していると言えるのではないか、というところまで見てきました。

 このことを考えていたら、アクリルたわし圏もどきのことを思い出しました。エレベーターの時間と高さの対応表では、たくさんの時間と高さの組み合わせがあるけれども、瞬間、瞬間の時間と高さは1組に決まっているので、その一瞬について、時間と高さを対象にすれば、「アクリルたわし圏」もどきと同じ発想で、時間から高さへの矢印(射)が考えられるなぁ、と。

   

 一瞬を表す1組の時間と高さを対象として考えて、それを1枚の紙の上に描くとすると、エレベーターが動く様子を表すには、無限枚の紙が必要ということになるかと思います。「0.5秒→4m」の紙、「1と3/8秒→11m」の紙、「2.03秒→16.24m」の紙、・・・というふうに。

 でも、どの瞬間でも時間から高さへ向かう矢印(射)は「8m/秒」という数値になっているので、無数の紙をぱらぱらマンガのようにめくっても、矢印(射)の部分は止まっているように見えるのだなぁ・・・と思ったのです。

     

 そうなると、いよいよもってこのエレベーターの動きの本質は、8m/秒にあるように思えてきます。ともなって変わる2つの量を、ともなって変えさせるための、変わらない量というか。



 もう1つ考えてみたいことがあるので、今度はそちらのほうを。それは何かというと、高橋誠『かけ算には順序があるのか』(岩波書店)を読んで考えたこと(4)/個人的にはここが要(かなめ)で示した、積分定数さんの単位のことです。

 あのとき私は、この単位を考えることで、ますます「1あたり量」で定義するかけ算の勉強は、比例の勉強だということがわかりやすくなったと書きましたが、その点について考えなおさなくては・・・という気になってきたきょうこのごろ。

 どういう単位かというと、時速4kmで3時間歩いたときの道のりの式は、「1あたり量×いくつ分」の順序でいけば、一般的には「4km/時×3時間」になりますが、「3km/(km/時)×4km/時」と考えれば、3も1あたりの量の数値となる、という話で出てくる「3km/(km/時)」という単位です。

 単位だけに注目して考えると、「○/△×△」の形になっていれば、つねに「1△あたりのいくつ分」の式になるわけなので、△が分数の形になっていたってその考えはたもたれているとあのとき思ったのですが、果たしてたもたれているのだろうか・・・と不安になってきました。

 量にもどって考えると、「3km/(km/時)」というのは、やっぱり道のりを速さでわっているので、包含除的な「1あたり量」(「度の第三用法」)であり、“ならす”ということを前提としている等分除的内包量としての「1あたり量」と同じとは考えられないのかもしれない、と思うわけであり。

 ただ、「速さ」をきわめて外延量に近いものにする発想を思いつけば、「3km/(km/時)」は等分除的内包量になれるのかもしれません。この点については、まだ保留というか、考え中です。

 でも、あのとき面白いなぁと思ったのは、単位の分母に分数の形の単位がきていることだったのです。

 たとえば、速度、加速度、加加速度の関係を思いおこすと、「単位時間あたりの位置の変化が速度(m/s)」、「単位時間あたりの速度の変化が加速度(m/s^2)」、「単位時間あたりの加速度の変化が加加速度(m/s^3)」というふうに、「1○あたり」の1○はつねに時間なので、結果的に単位の分母のsの次元が増えていく形になります(加加速度は、エレベーターの速度制御にも役立っているという話をネットで読みました。そうなんだ〜)。

 だけど、分母側に分数の形の単位がくる量ってなんだろう?と興味津々なのです。「アクリルたわし圏もどき」では、(金額も連続量的に扱って)アクリル毛糸玉1玉に付随する「外延量」を取り出し、対象にしましたが、ここに「内包量」も入れて、内包量から外延量に向かう矢印(射)を考えることができたとしたら、「3km/(km/時)」のような“新しい量(のとらえかた)”ができるのかな?なんて思ったわけなのです。このあたりのことは、また機会があれば考えてみたいと思っています。 

 あとエントリ2こで、算数のこの話題は終わりの予定〜
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比例の対応表についてさらにつっこんで考える

 引き続き、秒速8mのエレベーターを題材にして、比例の対応表について考えていきます。

 いま、エレベーターが上昇しはじめてからの時間と、エレベーターの高さが比例関係にあることがわかっていて、下の表の黄色の数値がわからない&知りたいとします。



 その場合、黄色に対応する水色の部分もわかっているはずです。↓



というか話は逆で、この人はそもそも、6秒後のエレベーターの高さが知りたいのだと思います。そして、黄色の数値を求めるためには、どれか1つ、表の中で上下に並んだ数値の組み合わせが必要となります。下のピンクのように、3秒と24mでもいいし、8秒と64mでもいいし、1秒と8mでもいいわけで。



 たとえば3秒と24mという数値の組がわかっているとすると、だいたいは次の2つの方法のどちらかで黄色の数値を求めることになろうかと思います(三数法は除外)。



 帰一法のほうは、24÷3=8、8×6=48という流れです。もし小5の段階でこのような作業をすることがあるとしたら、倍比例で解くか、地道にたし算で求めていくことになるのでしょう。もちろん、帰一法を使ってもいいわけですが。

 ほんでもって、帰一法の場合、必ず「1○あたり」の数値にもどることになり、そのときに出てくる「1○あたり」、上記の例では「1秒あたり8m」の数値を使って、いろいろな場合について考えていくことができます。時間がわかれば、「8m/秒×時間=高さ」で高さが求まるし、高さがわかれば「高さ÷8m/秒=時間」で時間が求まるというわけです。

 こんなことができるのも、どの時間と高さの組み合わせについても、「高さ÷時間=8m/秒」がなりたっていればこそ。

 また、2秒後から5秒後までの3秒間で、16mから40mまで24m上昇しており、このときにも24÷3=8(m/秒)は成り立っています。なので、このエレベーターの動きを時間と高さという2量の関係でとらえた場合、「8m/秒」という数値が、この動きの“質”を表していると考えてもいいように思います。

 そして、対応表でたてにならんだ2つの数値の組は、瞬間、瞬間のできごとをとらえた数値の組み合わせと言うことができます。実際には、1と2の間にも、6と7の間にも、秒数はたくさん・・・というか無数にあるのですが、どの瞬間をとらえても、「8m/秒」という“動きの質”はたもたれています。

 つまり、「時間が2倍、3倍、・・・になると、それにともなって高さも2倍、3倍、・・・になる」ということは、このエレベーターの動きのタイプ(正比例)を表しているわけですが、具体的には「8m/秒」というある種の量が、この動きの質を表していると言ってもいいのではないかという気がしてきます。

(つづく)

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東京スカイツリーのエレベーターを題材に、比例の対応表について考えてみる

・・・の予定だったのですが、諸般の事情により速度を落とし、「高速だけどスカイツリーのエレベーターほどではないエレベーター」を題材にすることになりました(^^;

 もともとは、比例についてもう少し具体的に考えてみようと思い、何を題材にしようかなぁ〜とあれこれ思いめぐらせていたら、学校図書のパラシュートタワーから垂直方向の等速運動を連想し、スカイツリーのエレベーターのことを思い出したのです。

 で、速さを調べてみたら、第一展望台までのエレベーターは分速600mとのこと。
http://www.skytree-obayashi.com/moresky/qa/index.html#a3-01

 秒速10m!?・・・・・・ひえ〜私、乗れないわ〜(娘いわく「じゃないといつまでたっても着かないでしょ」・・・確かに)と思いきや、池袋のサンシャイン60も同じくらいの速さらしいという噂。ちなみにランドマークタワーは分速750mだそう。

 ほんでもって、秒速10mという数値はきれいすぎてイマイチなので、ちょっと速度落として秒速8mで考えることにしました。これは分速にすれば480mであり、高速は高速のようなのですが、どんぴしゃりの建物を国内に見つけられず・・・。とあるサイトによると、東京都庁のエレベーターがこの速さだそう。ただし、展望台のエレベーターはもう少しおそいみたい。というわけで、いずれにしろ全然タイムリーな話題にならず、こうなると高速である必要も全然ないのですが、ひとまず分速480mのエレベーターで比例を考えてみることにします。

 分速480mは秒速8mなので、エレベーターが出発してからの時間(秒)と高さ(m)との関係は、次のようになるかと思います(最初と最後は加速と減速があるのでしょうが、そこは考えに入れないとして)。



 エレベーターは整数秒ごとにワープするわけではないので(笑)、実際には時間のところに「0.5秒」や「3と1/7秒」や「6.012秒」もふくまれていて、それに対応する高さもあるわけですが、ひとまず整数だけを時間としてとりだし、それに対応する高さを考えて、表にまとめていることになります。

 ちなみに、遠山啓が比例の「シェーマ」として水槽を使ったのは、連続して変化し、しかもその様子がよくわかる量を使いたかったからだと思います。針金の場合、長さは目に見えても重さは見た目では変化がわからないし。また、水を入れる時間と水面の高さを使わなかったのは、時間的なものよりは空間的なものがわかりやすいという認識があったからでしょう。その結果、xとyの関係が「倍あるいは比」になっており、この点を遠山啓はどう考えていたのだろう、という疑問があります。倍・比につなげるためあえてそうした考えることもできないこともないですが、帰一法との関連を考えると、最初から内包量として「倍または比」を採用することにはやはり無理があると感じています。

 それはそうとして、上記のような対応表をつくると、時間の変化にともなって高さがどう変わるのかがつかみやすくなり、まず、時間の数値がふえると高さの数値もふえることがわかります。さらによく見ると、高さの数値は8ずつ大きくなっていることがわかります。8の段の九九みたいだ。

 ほんでもって、時間の数値が2倍、3倍、・・・になると、高さの数値も2倍、3倍、・・・になることに注目して比例を定義していくのだと思います。ひとまず2倍、3倍、・・・の様子は、時間を1から2、1から3、・・・と変化させていくことでわかりますが、それだけではなく、2から6へ3倍したり、4から8へ2倍したり・・・というふうに、いろいろな場合について、2倍、3倍、・・・を確かめるのでしょう。

 まだ教科書を確認してはいませんが、小5ではだいたいここまでで、小6で「高さ÷時間」が一定であることと、時間をx秒、高さをymとしたとき、y=8×x という式で表せることを学ぶのだろうと思います。おそらく小6では、どの教科書も「1あたり量」にあたるものが比例定数になるように問題を設定しているだろうと推測しています。2量として異なる種類の量を使っているだろうし、「y=x×決まった数」になると気持ちがわるいでしょうから。

 なお、「新算数・数学教育実践講座」刊行会発行の『心に広がる楽しい授業 第11巻 比例の考え 正比例・1次関数』では、「倍」としての「割合」でも、ブラックボックスを使っています。このことの意味については、またのちほど考えます。

(つづく)
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かけ算の式を、「外延量」「内包量」の視点で考えてみる

 かけ算の式について、外延量・内包量の視点で考えることをまだしていなかったので、ちょっと考えておくことにします。

 遠山啓&数教協の「量の体系」では、まず、量を分離量と連続量に分けるところから始まり、連続量は外延量と内包量に分けられます。なお、外延量・内包量という用語は遠山啓が使い始めたわけではないようなのですが、算数・数学教育のなかにがっちり取り入れようとしたのは遠山啓および数教協なのだろうと私は認識しています。>外延量と「加法性」

 というわけで、本来ならば連続量のなかで外延量と内包量の区別を考えるのがスジなのですが、、小2で出てくるかけ算との関わりを考えられるよう、いまは外延量的分離量、内包量的分離量も含めて、外延量と内包量の区別を考えたいと思います。

 外延量というのは物体の合併がそのまま加法を意味するような量で、長さや重さなどがあてはまります。内包量というのは、密度、速度、濃度など、2つの外延量の関係で決まる量で、外延量が“大きさ”もしくは“広がり”の量であるのに対し、内包量は、いわば“性質の強さ”を表す量と考えればよさそうです。

 既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算というエントリで2つのかけ算の種類を示しましたが、青枠で示した「1あたり量」も、赤枠で示した「倍」も、どちらも内包量であり、2つの外延量のわり算で求めることができます。なので、「1あたり量」のかけ算のほうは「内包量×外延量」だし、「倍」のかけ算は、「外延量×内包量」の形をしています。



 そして今回、外延量と内包量の関係式をもう少し詳しく・・・というか、外延量だけで書くとどうなるんだろう?と思いつき、次のようなことを考えてみました。



 割合のほうがやや不安です。同種の量の割合だからこう書くしかないのだけれど、本来、分母も分子も「未測の外延量」のほうがいいのではなかろうかという疑問があり、その場合、Bという記号をつけることが、少し気持ちわるいからです。「1人あたり4こ」と「1mあたり4g」は違うものだけれど、4この「6倍」と、4gの「6倍」は、同じ「6倍」だから。消費税の10%も、食塩水の濃度10%も、生産量増加の10%も、同じ10%だから。

 ついでといってはなんですが、「1あたり量」のかけ算と関わりの深い「度の三用法」(ここでは「1あたり量」の三用法とよぶことにします)と、「倍」のかけ算と関わりの深い「割合の三用法」についても、外延量・内包量の区別でとらえてみることにりました。


 
 等分除・包含除の発展形は、ほんとうにそう考えてよいのかどうかまだもやもやしていますが、外延量と内包量の区別でかけば同じ形になる除法が、包含除・等分除という区別でいけば別物になるというのが、なんとも不思議です。ここではA、Bの区別をつけなかったのですが、やはり異なる種類の外延量であるか、同じ種類の外延量であるかで、商の意味はかわってくるのかもしれません。

 それにしてもやはり不安なのは割合のほうです。

 「割合」って、やっぱり量じゃなくて、数なのかな・・・>濃度は純粋な「数」

 ちなみに。

 遠山啓も、「倍」「比」を内包量に入れた系統図と、「倍」「比」は内包量からのぞいた系統図の両方を、同じ時期に書いています。著作集・数学教育シリーズ5のp.105(『算数教室』1960年11月号)では、内包量を度・率・倍・比の4つに分け、それをまた割合として1つに括っていますし、シリーズ6のp.23(『数学教室』1960年11月増刊号)では、内包量を度と率の2つに分け、これに倍と比を加えた4つを割合で括っています。

 その分類自体がどうよ?という話はありますが、あれこれあれこれ考えるにつけ、もしかすると、小2のかけ算自体を、「倍」で定義しちゃうという道が、現実的になっていくということがないともいえないなぁと感じるきょうこのごろです。歴史的にはあともどりになるでしょうか。

 そして、「単位量あたりの大きさ」も「割合」も「二重数直線」で、ほぼ同じもとして扱う。違いは、下の線に単位があるかないかだけの話。そうすれば、数教協が「単位あたり量」と称した量も、教科書で称しているように「単位量あたりの“大きさ”」となり、それは「数としての割合」と、ほぼ同義のものとなる。また、「単位量あたりの大きさ」は、比較としての平均や人口密度、すなわち除法の段階にとどめ、速さは単独で扱う。さらに関数は、いっそのこと変量を扱う関数ではなく、対応関係として扱う。なんなら思い切って算数教育から量を排除してしまう?・・・と、そんなところまで妄想はいってしまうのでした。それを望んでいるというわけではなく。

 遠山啓の21世紀のサウンズは、どのようなものなのでしょうね・・・>
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小学校算数教科書6社のプチ比較(小5における比例の導入)

 学習指導要領に示されている、小学校の関数の学習の流れで示したように、現在の指導要領では、小4で「ともなって変わる量」を学び、小5で比例をさわりだけ学び、小6で比例をより深く学ぶようになっています。

 ほんでもって、先日、東京書籍は比例を「体積」のなかで学ぶ構成になっていると書きましたが、「体積」の単元のなかで比例のさわりを学ぶ構成になっているのは東京書籍と啓林館の2社であり、他の4社は、比例を学ぶための単元を設けていました。

 定義はやはり、「ともなって変わる2つの量○、△があり、○が2倍、3倍、4倍、・・・になると、それにともなって△も2倍、3倍、4倍になるとき、△は○に比例するという」の形です。また、比例そのものの導入の題材は、

 学校図書・・・パラシュートタワーの上がる時間と高さ
 東京書籍・・・直方体の体積
 啓林館・・・直方体の体積
 教育出版・・・ストローで正方形を作る
 日本文教出版・・・正方形の1辺の長さとまわりの長さ
 大日本図書・・・水そうに水を入れる時間と高さ

となっています。

 教育出版のストローの正方形は、数を増やしていくものだったと記憶しているのですが、私の記憶違いでなければ、変数に整数を使っていますね。日本文教出版は、小2のかけ算の式でかけばy=x×4ですが、たぶん小5では「y=決まった数×x」の式は出てこないと思うので、問題ないのでしょう。

 対応表が示されている場合もありますが、さすがにy/xが一定であることに注目させるところまではいっていないようです(おそらく小6でやるのでしょう)。2倍、3倍、・・・のほかに、xが1増えると、yが一定量で増えていくことに注目させている場合もあるので、ここである意味、比例定数はあらわれます。(例のごとくざざざっとチェックしただけなので、細かいところで見落としがあるかもしれません。気がついたらまた訂正します。)
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「公式」は“悪”で、「図式」は“善”か?(2)/現在の教科書

 先日、「割合の「公式」は必要悪か?」という興味深いページを見つけました。
http://www.d1.dion.ne.jp/~amajima/wariai.htm

道草学習のすすめ〜公式カリキュラムへの挑戦!〜あのね、「割合」の公式なんか覚えちゃダメなんだよ!というページ経由で)

 いまはどのような立場にいらっしゃる方なのかわからないのですが、もと小学校の先生で、平成18年から教育委員会の指導主事になられた間島哲さんという方のサイトのようです。このページの最後に、

割合の学習で,問題解決する際に必要な表現とは何か?

ずばり,対応数直線と,関係図である。

と書かれてあり、「ん?」と思った私は、お名前で検索して別のホームページを発見しました。↓
http://www.d1.dion.ne.jp/~amajima/indexold.htm

 割合の指導案↓
http://www.d1.dion.ne.jp/~amajima/h13wari.htm

 小数をかける計算の指導案↓
http://www.h4.dion.ne.jp/~amajima/h15shidouan.pdf

 自己紹介の下に日本数学教育学会HPのリンクがあり、経歴に附属新潟小学校の文字があることを見つけて、いたく納得したしだい(別のところには、筑波大学附属小学校の文字も)。二重数直線について調べていたとき()、えらく新潟の学校関係のページがひっかかってくるなぁと思っていたので。

 最近、いろいろな会社の小学校の算数の教科書をながめるようになって、小学校の教科書って、けっこう個性があって面白いなぁ〜!と思っていたのですが、そのなかにあって、二重数直線の大量採用には何か異様なものを感じます。

 しかし慣れというのはこわいもので、娘の教科書で“二重数直線”をはじめてみたときには「なんじゃこれ!?」と思った印象も、最近ではすっかり薄くなってしまいました。もう、昔から知っている図のよう。小学校高学年の数量分野のかなりの部分を貫くことのできる、便利な図・・・でしょうか?

 私、思うんですよね。実は「図」って、教える側が思っているほど具体的なものでも、思考を助けるものでもないのではなかろうか・・・と。また、一般的な本を読んでいるときに思うのですが、「図」にはけっこう個性が現われますよね。図は、その人の思考回路を表すものだと思う。

 もちろん図に表すことでわかりやすくなるということはたくさんあると思うし、算数の問題を解くときに“自分で”図をかくことはとても有効なことだと思うのですが、算数・数学教育で使われる「図」は、いつのまにかそれが「覚えるべき共通の言語」のようになっていき、なんらかの概念を理解するために図を使っているのか、図を理解させようとしているのかわからなくなってしまう・・・という場面がしばしばあるように思うのです。

 二重数直線も、それを“使える”ようになった子どもたちにとっては、もしかすると正しい答えを出せる「計算機」のような役目を果たすものになっていくのかもしれません。そうだとすると、公式を覚えて使えるようになることと本質的に何が違うのだろう?と考えこんでしまうのです。

 私は娘が「かけ算とわり算のテープ図がわからない」と言ったとき、教えることをしませんでした(>かけ算とわり算のテープ図ってなんだ?)。大切なことは、この図を理解することではなく、どんなときにかけ算の式になり、どんなときにわり算の式になるかを、自分の“わかる道筋”でわかることだから。あのとき娘は、「かけ算やわり算の文章題がわからない」とは言わなかったのです。
 
 小4のあの段階から二重数直線を使う教科書に、したたかさのようなものも感じます。先日調査したようにこの先二重数直線のオンパレードなのですが、そのときのためにいまから準備しているみたい。「いや、そういうことではない。同じ図を使うことで、背後にある共通した構造を理解させるのだ」という意味なのでしょうか。

 いずれにしろ、平成23年発行の教科書の二重数直線に、かつての数教協のシェーマと同じ発想の香を感じ取ってしまう私なのでした。細かい話でいえば、間島哲さんの「ずばり」という言葉にも、数教協のタイルに通じる“切り札”的なニュアンスを感じます。

 「教える側」がさんざん研究して、理論を構築して、それを表現するための切り札を携えて教室にやってくる。教室では子どもたちが丸腰の状態で待っている。そうして算数の授業は、「僕、これで考えたら考えやすかったんだ、君もそんなふうに考えなよ」ということを教師が伝える時間になる。なんだかそこにある算数って、もう終わった「過去の算数」のような気がするのです。過去の算数は他人の算数だから、退屈でも、わからなくても、しかたがない。

 算数を教える「万能なツール」ってないんじゃないかな?算数を学ぶって、そういうことじゃないんじゃないのかな?というようなことを、教師にならなかった私は、お気楽に呑気に書いてしまうのでした。



もうひとつ別に、ちょっと面白いページ見つけました↓
http://slashdot.jp/journal/478318/



(メタメタさんへ公開私信(笑))

最新エントリ読みました。
http://ameblo.jp/metameta7/entry-11205732285.html

もうちょっとケンカ相手を選んだほうがよいように思います。
論争の質は、論争の相手にかなり左右されると思います。
「かけ算の順序」論争 | permalink

「公式」は“悪”で、「図式」は“善”か?(1)/数教協のシェーマ

 以前も書いたように、数教協が「失敗したな・・・」と私が思うのは、「シェーマ」という言葉に頼りすぎたことです。単なる「教具」と言っておけばよかったのに、「シェーマ」というとなにか意味深長なありがたいものに思えたのでしょう。実際、遠山啓は「教具」の意味で「シェーマ」という言葉を使っていたわけではないのですが、結果的に、それは「タイル」であり、「水槽」であり、「ブラックボックス」であり、早い話が「教具」に終わったのだろうと思います。
 
 「タイル」についていえば、佐伯氏も言っているように、くりあがり、くりさがりのあるたし算、ひき算までは、とても役に立ってくれると思います。でも、子どもによっては硬貨や紙幣のほうがわかりやすいかもしれないし、絶対にタイルでなきゃダメということはもちろんなく、「こういうのもあるよ〜」くらいの話だと思う。

 さらに、加法・減法と乗法・除法をまったく別の演算とみなすならば、「シェーマ」もまったく別のものになるはずであり、乗法・除法をタイル図で考えることはそもそも無理があるのではないでしょうか。タイル図で乗法・除法を理解しようとすると、ある種の翻訳作業を必要とし、とても抽象的な作業になるように思います。もちろん、タイルがわかりやすい人は、自分はタイルを使えばいいわけであり。

 一方「ブラックボックス」については、もっと奥深いものがあったと私は感じていて、この先もっと突っ込んで考えていきたいと思っています。

 タチがわるかった(?)のが「水槽」です。こちらも、「平均」の学習では、実にあざやかに役立ってくれることでしょう。水槽に等間隔で仕切りを入れておいて、それぞれのスペースにバラバラの量のジュースを入れ、仕切りを上げて水面を平らにしたあと仕切りをもどせば、「平均とは何か」が一目瞭然だと思いますし。だけど、きのうの「度の第一用法」を説明する水槽や、金網で仕切るなどして2つの部分に分けた数教協の比例水槽は、かなり抽象的な“図式”に見えます。

 「水のかさ」というのはいかにも連続量で、しかも水面が平らになってくれるし、おまけに水槽は直方体で正面からみれば長方形になってくれるので、何かと便利だったのだと思いますが、なんだか教える側の都合を感じてしまいます。わからない人がわかるためのものではなく、もうわかっている人が意味づけてわかるものというか。

 さて。

 以前、うわ〜〜〜 というエントリで、『心に広がる楽しい授業 第11巻 比例の考え 正比例・1次関数』(1989年)のことを書きました。あのときには「(遠山啓なきあとの)数教協の先生たち、何やってんのー!?」と思ったわけですが、やはり責任は遠山啓にあると思いなおしました。私は、そうなると話は比例の定義・導入に集約されていくにおいて、「私が認識している遠山啓の「量の理論」でいくならば、比例は小学校の段階から中学校方式で定義・導入しなければならないことになります」と書きましたが、当の遠山啓自身が比例の定義を「xが2倍、3倍、・・・」のほうで定義することを提案していますし、遠山啓は比例を割合と関わりの深いものだとしています。というようなことから、あのような構成になったのだろうと想像しています。

 そして遠山啓は、比例の定義を<量×量>の公式から出発すべきであるという意見を一理あるとしながらも、自分は反対であると述べています(遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5『量とはなにか−機p.135)。なぜならば、もし<速度×時間=長さ>の公式を出発点とすると、公式を忘れたらいきづまってしまうだろうし、無数にある比例関係の一つ一つに公式がつくられているわけではなく、適用範囲はいちじるしく狭められてしまう、それに比例をはじめて学ぶ小学校6年生に公式をもとにする思考が自由にできるとはとても期待できない、という理由で。それよりも公式の背後にある基本的な思考法をじゅうぶんに定着させるべきであろう、と。

 量の体系にあれこれつっこみたい気持ちをおさえて、そろそろ現代に目を向けてみますと・・・

(つづく)
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