TETRA'S MATH

数学と数学教育

かけ算の式を「外延量」「内包量」の視点で考えてみる

 かけ算の式について、外延量・内包量の視点で考えることをまだしていなかったので、ちょっと考えておくことにします。

 遠山啓&数教協の「量の体系」では、まず、量を分離量と連続量に分けるところから始まり、連続量は外延量と内包量に分けられます。なお、外延量・内包量という用語は遠山啓が使い始めたわけではないようなのですが、算数・数学教育のなかにがっちり取り入れようとしたのは遠山啓および数教協なのだろうと私は認識しています。

 というわけで、本来ならば連続量のなかで外延量と内包量の区別を考えるのがスジなのですが、、小2で出てくるかけ算との関わりを考えられるよう、いまは外延量的分離量、内包量的分離量も含めて、外延量と内包量の区別を考えたいと思います。

 外延量というのは物体の合併がそのまま加法を意味するような量で、長さや重さなどがあてはまります。内包量というのは、密度、速度、濃度など、2つの外延量の関係で決まる量で、外延量が“大きさ”もしくは“広がり”の量であるのに対し、内包量は、いわば“性質の強さ”を表す量と考えればよさそうです。

 既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算というエントリで2つのかけ算の種類を示しましたが、青枠で示した「1あたり量」も、赤枠で示した「倍」も、どちらも内包量であり、2つの外延量のわり算で求めることができます。なので、「1あたり量」のかけ算のほうは「内包量×外延量」だし、「倍」のかけ算は、「外延量×内包量」の形をしています。



 そして今回、外延量と内包量の関係式をもう少し詳しく……というか、外延量だけで書くとどうなるんだろう?と思いつき、次のようなことを考えてみました。



 割合のほうがやや不安です。同種の量の割合だからこう書くしかないのだけれど、本来、分母も分子も「未測の外延量」のほうがいいのではなかろうかという疑問があり、その場合、Bという記号をつけることが、少し気持ちわるいからです。「1人あたり4こ」と「1mあたり4g」は違うものだけれど、4この「6倍」と、4gの「6倍」は、同じ「6倍」だから。消費税の10%も、食塩水の濃度10%も、生産量増加の10%も、同じ10%だから。

 ついでといってはなんですが、「1あたり量」のかけ算と関わりの深い「度の三用法」(ここでは「1あたり量」の三用法とよぶことにします)と、「倍」のかけ算と関わりの深い「割合の三用法」についても、外延量・内包量の区別でとらえてみることにりました。


 
 等分除・包含除の発展形は、ほんとうにそう考えてよいのかどうかまだもやもやしていますが、外延量と内包量の区別でかけば同じ形になる除法が、包含除・等分除という区別でいけば別物になるというのが、なんとも不思議です。ここではA、Bの区別をつけなかったのですが、やはり異なる種類の外延量であるか、同じ種類の外延量であるかで、商の意味はかわってくるのかもしれません。

 それにしてもやはり不安なのは割合のほうです。

 「割合」って、やっぱり量じゃなくて、数なのかな。

 ちなみに。

 遠山啓も、「倍」「比」を内包量に入れた系統図と、「倍」「比」は内包量からのぞいた系統図の両方を、同じ時期に書いています。著作集・数学教育シリーズ5のp.105(『算数教室』1960年11月号)では、内包量を度・率・倍・比の4つに分け、それをまた割合として1つに括っていますし、シリーズ6のp.23(『数学教室』1960年11月増刊号)では、内包量を度と率の2つに分け、これに倍と比を加えた4つを割合で括っています。

 その分類自体がどうよ?という話はありますが、あれこれあれこれ考えるにつけ、もしかすると、小2のかけ算自体を、「倍」で定義しちゃうという道が、現実的になっていくということがないともいえないなぁと感じるきょうこのごろです。歴史的にはあともどりになるでしょうか。

 そして、「単位量あたりの大きさ」も「割合」も「二重数直線」で、ほぼ同じもとして扱う。違いは、下の線に単位があるかないかだけの話。そうすれば、数教協が「単位あたり量」と称した量も、教科書で称しているように「単位量あたりの“大きさ”」となり、それは「数としての割合」と、ほぼ同義のものとなる。また、「単位量あたりの大きさ」は、比較としての平均や人口密度、すなわち除法の段階にとどめ、速さは単独で扱う。さらに関数は、いっそのこと変量を扱う関数ではなく、対応関係として扱う。なんなら思い切って算数教育から量を排除してしまう?……と、そんなところまで妄想はいってしまうのでした。それを望んでいるというわけではなく。

 遠山啓の21世紀のサウンズは、どのようなものなのでしょうね……>

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数教協が除法を「度の第一用法」で一本化しようとしていたとき

 過去にも話題に出している小豆の含有率の問題()は、遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5『量とはなにか〈1〉』のなかに書かれてあるもので、初出は1960年です。どういう話かというと、小豆の含有率が3割の「米と小豆の混合物」4kgにふくまれている小豆の重さを、子どもたちが0.3×4=1.2という計算式をつくって求めたという話です。なお、実際にどういう形で問いを設定したのか、どういう数値だったかはわかりません。

 単純に割合の問題として考えれば、4×0.3のほうが一般的だと思いますが、子どもたちは実験から混合物1kgあたりに小豆が0.3kg含まれていると考えて、0.3×4という式をつくったようなのです。実は「割合×もとにする量」という形で書いていたというオチが絶対にないともいえませんが、おそらく「1あたり量×いくつ分」の発想だったのだろうと私も思います。

 遠山啓はこのことについて、p.133で次のようなことを語っています。

この考え方だと,率の第三用法もいままでとは考え方がちがってくる。含有量がPで,含有率がRであるとき,全体の量Sは,
   S=P/R
となる。いままでの考え方だと、
   P=S×R
の逆算と考えられ,拡張された等分除と考えられてきた。ところが,ここでのべているやり方によると,「1gあたりRgだけふくまれているから,Pgふくまれているためには,全体がP/Rgだけなくてはならない」という考え方になってくる。これは,等分除ではなく,包含除である。分数や小数で割るときには等分除より包含除のほうが考えやすいことを思い起こすと,この新しい方法のほうが考えやすいのではないかと思う。この点は現場の実践によって試してみるとおもしろい。

 しかしそれから数年後。数教協は2本立てになっている除法を「度の第一用法」で1本立てにすることを考えました。これについては遠山啓著作集・数学教育論シリーズ4『水道方式をめぐって』所収「除法の合理的なアルゴリズムとはなにか」に書かれてあります。初出は1964年。

 遠山啓は、最初の段落でこのように語っています。(丸付き数字はかっこ付き数字で示しています)

加法にしろ乗法にしろ,その背後には無数に多くの現実的な過程が存在していて,それらを代表する一つのパターンにすぎないのである。
このことを念頭におくなら,算法をどのように意味づけるかの問題は,おのずから解決の方向が見い出されるであろう。

(1)――算法が代表する現実的な過程のすべてに,たやすく一般化できるような実例をもってくる必要がある。
(2)――将来,算法の意味の拡張が行なわれるさいにも,障害なく拡張できるものでなければらならない。

(p.225)

 そして次の段落で「度の三用法」を出してきています。「度」というのは異種の2量の割合、つまり「単位量あたりの大きさ」のことです。たとえば密度を例にとると、次のようになります。

 第一用法  質量÷体積=密度
 第二用法  密度×体積=質量
 第三用法  質量÷密度=体積

 「割合の三用法」(遠山啓は「率の三用法」とよんでいる)と見比べる全体的に構造が異なっていますが、除法についてはひとまずおいといて、第二用法だけみると、「割合の三用法」とは式の順序が構造的に異なっていることがわかります。その違いを詳しく見るためには外延量と内包量の違いをおさえておかなければならないのですが、これがまた一仕事なのであとにまわすとして先を読んでいくと、「乗法の意味づけに第2用法が用いられることはいうまでもない。ほかに乗法は存在しないからである。ところが,除法になると,第1用法と段3用法のうち,どちらを選ぶかという問題がおこってくる」と遠山啓は語っています。

がんらい,第1用法は,その意味からすると等分除の拡張であるし,第3用法は包含除の拡張である。従来のように,等分除と包含除をたがいに氷炭相容れないような別物と考えるのは正しくない。少なくとも分離量の段階では同じ過程を別の角度から眺めたものと考える柔軟な見方のほうがよい。たとえば,12枚の紙を3人に分けるという問題は,意味の上からは明らかに等分除であるが,1人1枚ずつのトランプ配りの方法をとれば,包含除とみなすこともできる。

(p.226〜227)

 というわけで、遠山啓は「6×4,4×6論争にひそむ意味」()という文章を書くよりも10年前に、すでにトランプ方式に触れています。「6×4,4×6論争にひそむ意味」では、6人の子どもに4こずつみかんを配るとき、「4こ/人×6人」という式だけが「1あたり量×いくつ分」の式ではなく、1人に1こずつ6こ配ることを4回くりかえせば「6こ/回×4回」というふうに、「1あたり量」と「いくつ分」の数値を入れ替えることができるじゃないか、という意味でこの話を出していましたが、除法の側からみれば、24このみかんを4こずつ6人に配るという状況は、「24こ÷6人=4こ/人」という等分除でもあるし、「24こ÷6こ/回=4回」という包含除でもある、というわけです。

 しかし連続量になってくるとこの2つは明らかに別物だ、と話は続きます。13Lのショウユを3人にわければ答えを分数で出すことになるけれど、13Lのショウユを3Lずつに分けるとあまりが出る。「ましてや,第1用法と第3用法になると,その意味のちがいはますます明瞭になってくる」と。

 そんなこんなで、除法をどちらで意味づけするかという問題は軽くみることのできない重要な問題だけれども、量の体系が出てくるまではこういう問題意識さえなかったし、量の体系が現われてからも明確な方針がなく、あるときは第一用法、あるときは第三用法というような形になっていた、と遠山啓は書いています。それが1963年あたりから、一貫して第一用法で除法を意味づけることの具体的な導入法が探究されるようになったようなのです。
 

 というわけで、1963年頃の数教協は「量の体系」をつくるなかで、除法を「度の第一用法」で一貫して意味づけることの具体的な導入法を探究していたようです。「度」は異種の2量の割合で小学校の教科書でいえば「単位量あたりの大きさ」に対応し、「率」は同種の2量の割合なので、小学校の教科書の単元でいえば「割合」に対応します。なお、ややこしいのですが、数教協の「量の体系」では、内包量は「度」と「率」に区別され、これに量ではない「倍」と「比」を加えた「度・率・倍・比」が、「割合」とされています。

 現在、小2のかけ算は「1つ分の数×いくつ分=全部の数」で導入されているわけですが、ここで出てくる「1つ分の数」は、「単位量あたりの大きさ」に対応します。「6人の子どもに4こずつみかんを配る」というときの「4こ」は「1人あたり4こ」だし、「8こ入りのキャラメルが7箱ある」ときの「8こ入り」は「1箱あたり8こ」です。なので、単位をつけて「1あたり量」を書こうとすると、「4こ/人」「8こ/箱」のように、○/△の形になります。

 したがって、かけ算は「度の第二用法」で意味づけされている、ということができます。

 かけ算はそれでよかったとしても、わり算をどうしようかということで、1963年頃の数教協は、「度の第一用法」で一貫して意味づけることを考えたらしいのです。度の第一用法というのは「全体の量÷いくら分」という形の式で、つまりは「1あたり量」を求めるわり算です。それも当然な話で、そもそも「度の第二用法」は、第一用法に出てくる除法の結果としての「1あたり量」があればこそ成り立つ式であり、第一か第三かとなったら、できれば第一で……となるのが当然の成り行きでしょう。

 そしてこのとき数教協が利用したのが、水の体積と水槽でした。4.83L÷2.3は、4.83Lの水を次の図のように目盛った水槽に流し込んだときの“1当たり量”を求めることだとしたのです。

   

 「ああ、これが乗法&除法のためのタイル図の原型だったのか」と、ひとり勝手に納得&推測した私なのですが、歴史的な前後関係はよくわかりません(なお、数教協の“教具”として実際に「水槽」がありますが、こういう細かい目盛りのついたものを私は見た記憶がありません)。

 この水槽を前から見た様子をそのまま平面図として考えると、斜線部分の「1あたり量」(と、ここでは書いておきます)は横の長さが必ず1なので、結果的にはたての長さが「1あたり量」に相当し、数教協のタイル図のたての長さが内包量を表すことと一致します。

 なお、「÷2.3」に入る前に、「÷2」や「÷3」を同じ水槽でやってみせて“助走”を行なうことがのぞましい、とも書いてあります。そうすることで、「÷2.3」の答えが「÷2」と「÷3」の答えの中間にくることもすぐに納得できるだろうし、ここから「÷1.3」にうつり、さらに「÷0.3」に進むことも可能だろう、というわけです。

 思えば包含除というものはひき算とつながりやすい考え方なので(24このみかんを4こずつわける場面を具体的に考えるとき、24−4−4−4−4−4−4=0という計算をしているともみなせる)、加法・減法と乗法・除法を切り離して考える(遠山啓はこのことを主張していた)とき、減法につながりやすい包含除よりも、等分除的発想の度の第一用法で除法を一貫して意味づけるというのは、なるほどな流れです。

 が、しかし。

 上の図の「2.3」には単位がありません。包含除ではないので「2.3L」ではないのは確かです。では、「2.3」に単位をつけるとしたらなにになるのか? 「cm」と考えれば細長〜い水槽になり、「m」と考えれば幅広〜い水槽になるかもしれませんが、そうだとしても、1cmあたり○Lや、1mあたり○Lに、どんな意味があるのだろう?と首を傾げてしまいます。そう考えると、これは「度」の図ではなく、「倍」の図に見えてきます。というか、「倍」の図だと思うのです。

(つづく)


〔2018年4月9日〕
 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。
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「わられる数=わる数×商+あまり」においても教科書にぬかりはなかった

 かけ算を、「1つ分の数×いくつ分=全体の数」で導入すると、その逆算として、「1つ分の数」を求める等分除と、「いくつ分」の数を求める包含除が考えられるということをみてきました>。そして「あまりのあるわり算」というものもあるわけで、これも3年生で学びます。基本的には「あまりのあるわり算」は包含除で考えるのが自然かと思いますが、等分除も出てきます。

 たとえば、娘が使っていた学校図書(平成16年検定済、22年発行)の小3下の教科書では、導入は包含除(23このみかんを4こずつふくろに入れる)ですが、そのあと「42このくりを,5人の子どもに同じ数ずつ分けます。1人分は,何こになって何こあまるでしょうか」という等分除的な問題が出されています。当然のことながら42cmのリボンを5等分するような問題は出されていません。

 そして4年生。ここでは「小数×整数」に限定して小数のかけ算を学んでおり、「1つ分の数×いくつ分=全体の数」というかけ算の式に照らし合わせると、整数はかならず「いくつ分」であり、そうすると当然、「小数÷整数」は「いくつ分」でわるわり算、すなわち等分除になりそうなものですが、学校図書の小4下の教科書(平成22年検定済、23年発行)をみてみると、確かに導入は等分除(5.7mのリボンを3人で分ける)なのですが、ちゃんと包含除も出てくるのです。「あまりのあるわり算」で。

 どういう問題を使っているかというと、「テープが13.5mあります。2mのテープで花かざりを1こ作ります。花かざりは何こできて,テープは何mあまるでしょうか」という問題。そしてここで、「わられる数=わる数×商+あまり」を学ぶのです。

 私は以前、このあたりの段階で「1つ分の数×いくつ分=全体の数」の順序がくずれるんじゃないかと思っていたのですが、上記のテープの問題では「13.5÷2=6あまり1.5」→「13.5=2×6+1.5」となり、見事に「1つ分の数×いくつ分=全体の数」は守られています。

 「あまりがある計算」は包含除で考えるのが自然なので、ということは「1つ分の数」でわることになり、自然、「わる数×商」が「1つ分の数×いくつ分」になるという流れです。というか、だからこそこの言葉の式になっているのかもしれません。方程式風に考えれば、「わられる数÷わる数=商」の変形は、「わられる数=商×わる数」のほうがしっくりくるわけであり。

 等分除だってわりきれないことがあるだろうに……と思いきや、ちゃんと「2.3Lのジュースを6人に同じ量ずつ分ける」という問題があって、ここでは何を学ぶかというと、「わり切れなかったり、けた数が多くなったりしたときには、がい数で求める」ということを学ぶのです。もはや小数まで世界は広がっていてわられる数は連続量なので、等分除を整数でとめるのも不自然だし、がい数を学習済みなので、こういうことができるわけです。

 あまりのあるわり算って、整数の世界の話(がメイン)という印象があるのですが、そんなこんなで、整数のわり算の段階では、「わられる数=わる数×商+あまり」の式は出せないわけです(×、+の混じった式を既習か否かも関わってくるかも)。なぜならば、等分除「全体の数÷いくつ分=1つ分の数」に適用したときに、「全体の数=(制限のある)いくつ分×1つ分の数+あまり」となってしまうので。いっそ、「等分除であまりのあるわり算ってないんだ」とすれば話はスッキリするのですが、立派でリアルな「あまりのある等分除の問題」を作ってくださっているのです。
 
 一方、東京書籍(平成22年検定済)はどうなっているかというと、やはり「小数÷整数」を等分除(3.6Lの水を3人で等分する)で導入したあと、あまりのあるわり算を計算問題として考えさせて、「13.5mのリボンから4mのリボンは何本とれて、何mあまるか」という包含除的な文章問題を出しています。

 さらに東京書籍の小6上の教科書で「分数のわり算」をみてみると、そこにあるのも等分除の発展形(3/4dLのペンキで板を2/5m^2ぬれるとき、1dLのペンキでは板を何m^2ぬれるか)ですが、もはや“等分”の雰囲気はなく、「1dLのペンキでぬれる板の面積」や「ホース1mの重さ」を求める問題になっています。

 つまり、△dLで□m^2ぬれるとき、1dLで○m^2ぬれるとすると、□÷△=○という式ができることを分数にまで発展させたものですが、○と△と□を使って「1あたり量×いくつ分=全体の量」の形の式を作ると、○×△=□となります。これも「商×わる数」の形になっているのですが、いまは「あまり」が出ないので、例の公式は関係ないということになるのでしょう。「あまりが0」というのは考えないのだな。

 いやはや、教科書にぬかりはないようです。というか、実にうまいことやってます(表面的には)。とにもかくにも「1あたり量×いくつ分=全体の量」の順序は、徹底されているようです。

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割合の三用法と「倍」のかけ算との関係

 念のため学習指導要領で確認しておこうと思って「割合」で検索をかけてびっくり、指導要領では「単位量あたりの大きさ」にしか「割合」という言葉を使っていないのですね。同種の量の比較としての「割合」の学習に該当するのは、第5学年の次のところくらいです。

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〔第5学年〕 「D.数量関係」より
 (3) 百分率について理解できるようにする。
===============================

 なお、「歩合」については「3. 内容の取り扱い」でちょっと出てきます。5年生ってけっこう「割合」で苦労すると思うのですが、学習指導要領における文面としてのウェイトは意外と低いのですねぇ。

 さて、「割合」について考えていくために、便宜上、次のように番号をつけて割合の式をよぶことにします。

 (第一用法) くらべる量÷もとにする量=割合
 (第二用法) もとにする量×割合=くらべる量
 (第三用法) くらべる量÷割合=もとにする量 
 
 たとえば、10回シュートして8回入ったら、

 (第一用法) 8回成功 ÷ 10回シュート = 成功率0.8
 (第二用法) 10回シュート × 成功率0.8 = 8回成功
 (第三用法) 8回成功 ÷ 成功率0.8 = 10回シュート 

ということになります。

 第一用法はどの教科書にものっていると思いますし、第二用法もおそらくのっているでしょう。第三用法については、まったく触れていないことはないかもしれないけれど、第一、第二のように罫囲みで強調されてはいないかもしれません。

 手元にある東京書籍の教科書(平成22年検定済)では、「割合=比べられる量÷もとにする量」「比べられる量=もとにする量×割合」というふうに第一用法、第二用法を示し、第三用法については、

 もとにする量を求めるときは,□を使って,比べられる量を求めるかけ算の式に表して考えると,求めやすくなります。

と罫囲みで説明しています。「割合」そのものの説明としては、「比べられる量が,もとにする量のどれだけにあたるかを表した数を割合といいます。」となっています(割合に「わりあい」のルビ付)。もちろん百分率の説明もあります。

 話が脇にそれますが、「くらべる量」がいいのか「くらべられる量」がいいのか迷うところです。いったいだれが“くらべる”んだよ?、だれが“もとにする”んだよ?、だれがなにに“くらべられる”んだよって感じ。こういう言葉の式は本当にわかりにくいですが、小学校の算数の教科書では仕方がないことでしょうね。大人になって新しい概念を学ぶときも、定義よんでもさっぱりわからないってことよくあるし。定義って実は、「そこから始めるもの」ではないのかもしれない。とにかく、アレコレ具体的に考えてきてわかってきたときに、一般性をもたせるための「まとめ」の式と考えればいいのでしょう。実際、東京書籍の罫囲みの説明には、「まとめ」の文字が右肩についています。

 話をもとにもどすと、「割合」は基本的にわり算が先なのだと思います。そもそも「くらべる量」や「もとにする量」は、それぞれ独立した外延量として存在&測定可能だけれども、それがだれかの都合によって、くらべられたり、もとにされたりするからこういう名前がつけられ、そして「割合」が生まれた・・・と考えることができると思うので。だから、「割合」を求める式が第一用法であっても不思議ではないかと思います。(そうなると、わり算をかけ算の逆算としてとらえていいのか?というところから考えなおす必要がありそうです)

 しかし、第一用法に負けず劣らず世の中で使われるのが第二用法。実生活の中ではむしろこっちのほうがよく使うかもしれません。何しろ、比べるのが目的ではない、他人が作った割合、他人が見出してくれた割合が世の中にはいっぱいあるわけであり。たとえば、消費税率が10%のとき2000円買ったら200円もっていかれる〜という場合、先にあるのは200円ではなく10%ですよね。また、先日うちで飼っている金魚が転覆病のような症状をみせ、塩浴に挑戦したのですが、このときにも割合の第二用法のお世話になりました(金魚、復活しました^^)。ちなみに、第二用法を使わせたい問題は、ともすれば「問題のための問題」になりがちだと思います。

 そして、「4こ×6倍=24こ」という「倍」としての計算は、この割合の第二用法の仲間としてみなせます(>既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算)。ということは、「倍」としてのかけ算をもとにして、その逆算として考えるわり算はどういうことになるかというと、きのう包含除に近いとみなした「24こ÷4こ=6倍」は第一用法にあたりますし、等分除に近いとみなした「24こ÷6倍=4こ」は第三用法にあたります。この第三用法は、東京書籍がそうしていたように、そのまま公式のように扱うのではなく、第二用法の逆算として考えさせる場合が多く、その背景には、「小数や分数でわる等分除」の発想の転換の難しさがあるかもしれません。

 しかし割合の学習はそれでいいとしても、「○÷小数」や「○÷分数」の計算そのものは学習しなければならないわけで、「等分除」「包含除」の視点でその学習内容をみてみると、なかなか興味深いものがあります。

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かけ算と「等分除」「包含除」との関係

 小3でわり算が出てくるとき、「1つ分をもとめるわり算」と「いくつ分かをもとめるわり算」に分けて学習するようになっています(何倍かを求めるわり算は、あるところとないところがあるようですが、私が見落としているだけかもしれません)。

 そもそもかけ算を「1つ分の数×いくつ分=ぜんぶの数」で定義しているのだから、このかけ算をもとにわり算を考える場合、「1つ分の数」か「いくつ分」かを求めることになるのも自然な流れです。

 たとえば、1人に4こずつ6人の子どもにみかんを配ったとき、みかんの総数は「4こ×6人=24こ」という計算で求められるわけですが、24このみかんを6人に配れば1人分の数は「24こ÷6人=4こ」になるし、4こずつ配れば「24こ÷4こ=6人」に配れることになります。

 この区別を簡単な用語を使って考えていくために、「等分除」「包含除」という呼び名を採用することにします。「等分除」は“等分する”ので、人数でわって「1人分の数」を求める計算、「包含除」のほうは、いくつ含まれているかを求める計算なので、1人分の個数でわって「いくつ分(何人分)」かを求める計算、というふうに私は覚えています。この用語をいつだれが作ったのか、私の理解が正しいのかはわかりませんが、だいだいそんな雰囲気でこの用語を使用することにします。

 ほんでもって、「1あたり量」は基本的に平均値なので、等分除によって求められる値と考えることができます。しかし、「3こ、4こ、5こ、4こ、5こ、3こ」と配ったあとの平均としての「4こ」ではなく、“一様に”4こずつ配っているという意味での「4こ」です(平均値って言葉、やっぱりまぎらわしいかな?)。なので、「1あたり量」をあたえるかけ算は、2量の比例関係を前提としています。

 なので、(ちょっとわかりにくい文章ですが→)「16このみかんを4人で同じ数ずつわけました。このときの1人分の数と同じになるように6人の子どもにみかんを分けると、みかんは全部で何こいりますか」というような問題では、

   (16こ÷4人) × 6人 = 24こ 

という計算になりますし、はり金だともっとわかりやすくて、「3mで6.9gのはり金があります。このはり金の4m分の重さは何gですか」という問題では、

   (6.9g÷3m) × 4m = 9.2g

という計算になります。「“この”はり金」という言葉に、「同じ種類のはり金です→1mあたりの重さが同じです」という意味をこめています。なお、これを「6.9g × 4/3倍」で解こうとするのが、倍比例です。

 で。

 わり算を、かけ算をもとにして考える場合、かけ算を構成している2つの数に別々の役割があるならば、1つのかけ算から2種類のわり算ができると考えてもおかしくはないわけで、これまでみてきたように「1あたり量×いくつ分=全体の量」のかけ算からは、「1あたり量」を求める等分除と、「いくつ分」を求める包含除の2通りができます。では、「倍」のかけ算からはどんなわり算ができるんだろう?という疑問がわいてきます。

 「倍」のかけ算、およびそこから派生するわり算は、「割合の三用法」とからめて考えるほうがよさそうなのですが、それは後日別エントリで考えることにして、あえて、等分除、包含除のどちらに近いか、どちらかに近いと考え得るかということについてみていきます。

  4こ × 6倍 = 24こ

からつくれるわり算はといえば、

(1) 24こ ÷ 6倍 = 4こ

(2) 24こ ÷ 4こ = 6倍

の2種類になります。このうち(2)については、式をぱっと見た限りは、包含除に近そうです。実際、既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算で示したaとbの関係をみると、aにはbが6こ含まれているので、(2)を包含除と考えてもよさそうな気がしてきます。

 一方、(1)のほうは、「1とみなす量」を求める計算と考えれば、どちらかというと等分除に近いと言えそうです。(2)の場合と同様にaとbの関係を考えると、aはbを6等分したものなので、等分除の発展形と考えてもわるいことはないかもしれない。せっかく「1」の違いを考えたのに、結局同じことか……と、ちょっとひっかかるものはありますが。

 もし、そんなふうに考えていいとすると、「1あたり量」は等分除によってできる“割合”、「倍」は包含除によってできる“割合”と考えることができて、面白いです。

 なお、いまは整数で考えているので(1)を“等分”除と考えてもよさそうに見えますが、わる数が小数、分数となると、話は変わってきます。「小数・分数でわる包含除」は比較的考えやすいですが、等分除の場合、整数のわり算の「分ける」という発想から、「1人あたり量」「1mあたり量」、あるいは「1とみなされる量」を求める計算という発想に移らなければならないので、発想の転換が必要となります。このあたりのことは、割合の三用法をみてから考えたいと思います。

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既測量を「1」とおくことは困難か?/「倍」としてのかけ算

 まず、かけ算を次の2種類に分けて考えるところから始めます(「かけ算とはこの2通りである」と断言しているのではなく、この2種類に分けて考えてみる、ということです)。



 青枠、赤枠で囲まれた部分は、どちらも「わり算」で作られる数値ですが、そのことについては後日考えます。青枠のある上の2つの式は「1あたり量×いくつ分」の定義によるかけ算で、赤枠のある下の2つの式は「倍」としてのかけ算です。このうちの「倍」としてのかけ算に注目します。

 以前、分数と互助法というエントリで、2つの連続量から分数や小数が生じる様子について示しましたが、これと同じ図を、分数や小数ではなく、「6倍」の図として表すと、次のようになります(aはbの6倍)。

    

 このように倍で考えるとき、bの長さはどんな長さであってもかまいません。もっといえば、長さがわかっていなくてもかまいません。知りたいのはaとbの関係なので。そのへんにある2本の棒をもってきて片方が片方のちょうど6個分ということはなかなかないかもしれませんが、とにもかくにも、aやbを定規ではかる必要はなく、お互いの関係だけで「6」という数値は生まれます。つまり、この「6」という数値は、関係としての数です。

 この関係としての数である「倍」を使って答えを求めるときに、そのもとになる量、つまりbにあたる量は、どんな数量であれ「(単位のつかない)1」とみなされます。4こでも「1」、2.3gでも「1」。へんな話ではあります。1つの数量に、2つの数値がついているのだから。

   
 
 「4こ」や「2.3g」のように、明確に量としてすでにわかっているもの、もう測られている量をあえて単位のともなわない「1」として捉え、関係としての「数」を使って答えを出すということは、子どもにとってわかりにくいと遠山啓は考えていたのではないかと思います(「1あたり量×いくつ分」という定義は、のちのち比例や微積分につながるという意味で積極的に導入したものであるのだろうけれど、一方で「倍」の難しさへの考慮もあったのではなかろうか)。

 ほんでもって、現在の教科書では、2年生のかけ算の導入時に上記のような図は示されていないのではないかと思います。お皿なり袋なり箱なりで「いくつ分」をきっちり分離させて表し、「1つ分の数×いくつ分=ぜんぶの数」で定義しているのではないかと。すべての教科書を確認してはいないので、あくまでも私の推測ですが。

 そして、娘が使っていた学校図書の教科書では、導入と練習問題が終わったあと、「倍ともいいます」という形で、テープを使った問題が示されています。

 2cmのピンクのテープが問題文中でも図として示されたうえで、「2cm(図)のテープがあります。このテープ1こ分,2こ分,3こ分は,何cmでしょうか。」という問題が出されています。そして、2cmのテープ1こ分の図、2こ分つなげた図、3こ分つなげた図が示された横に「2×1=2」「2×□=□」「2×□=□」という式があり、その下に、「1こ分,2こ分,3こ分のことを,1ばい,2ばい,3ばいともいいます。」という説明がついています。(『みんなと学ぶ 小学校 算数 2年下』学校図書/平成21年発行/p.10)

 これまではずっと、なんらかの個数でしたが、ここでテープの長さが出てきて、そのまま具体的に図示することで「テープ図」になっていくわけです(という印象を個人的にもちました)。

 この「倍」としてのかけ算は、小5で学ぶ割合の式「もとにする量×割合=くらべる量」(第2用法とよばれるもの)に結びつくと私は考えています。(それにしてもこの言葉の式、わかりにくいですよねぇ)

 つまり、

   2000円の3割は? → 2000×0.3=600(円)

   300gの5%は? → 300×0.05=15(g)

というような計算のこと。この計算は、2000円や300gを「単位のつかない1」とみなし、この1に対して「0.3」という関係にある量や、「0.05」という関係にある量を求めていることになります。

   
 

 

(つづく)
 

 

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ゆうべ娘と、小数、分数の混じったかけ算について考えて感じたこと

 まずは、きのうのエントリの補足をば。
学校教育では、「1あたり量×いくつ分」が採用されていることは、事実だと思います。単に採用されている、というだけのことです。その採用の不当性を訴えていけばいいのだと思います。
と書きましたが、このあとに
(そこに問題があると思うのなら)
を追加しました。 

 ゆうべもまた2人で小数のかけ算について考えました。といっても小数に飽きてきたので、最初は分数で考えました。なんだかんだで「15000×1/5」がお題となり、こんな問題ができました。↓

// パソコンの修理に1回来てもらうと、15000円かかる。ふつうは、ちゃんとしたプロが1人で来て全部の作業をやるのだが、まだ一人前ではない、半人前でもない5人組がやってきた。1人はファン交換、1人は最近調子がわるいタッチパッドの修理、1人はデスクトップをきれいにしてくれる(娘の希望)、……というふうに、それぞれ分担して5人で仕事をする。でも、はらう料金は15000円。さて、1人いくらもらえるでしょう?  //

 そして、再び小数のかけ算にチャレンジ。

// 1枚のハッピーターンには、1.5gのハッピーパウダーが使われています。0.3枚では何gのハッピーパウダーが使われているでしょうか? //

 0.3枚の前に、2枚では……3枚では……0.5枚では……ということを考えました(パウダーの重さは最初、整数だったかも)。そして、2枚だったら「1.5×2」、3枚だったら「1.5×3」とできるように、0.3枚だったら「1.5×0.3」ってしてもいいんじゃないかな、そうできるように考えられないかな……ということで話をもっていったように記憶しています。

 しかし、この作業をやったあと、「じゃあ、0.2×0.3となる式を作ってみて。ハッピーターンでいいから」と娘に言うと、「えっと、1枚を2つにわけたのがあって……んん??……」となります。つまり、0.2→1/2と考えているうえ、「1あたり量」にあたる量を自分で設定することができません。

 そこで、ハッピーターン1枚には0.2gのさとうが使われていることにして、0.3枚分では0.2×0.3=0.06(g)使われている、この計算は、もう○○ちゃんは答えを出している計算と同じだよね、というあたりでゆうべのかけ算談義は終わりったのでした。

 そして感じたことは2つ。

 まず、遠山啓が、かけ算の定義を「“1あたり”から“いくつ分”を求める計算」と示したうえで、
この定義のなかには、“たし算”は一つもはいっていないことに注意してほしい。
と書いていたこと。(遠山啓著作集 数学教育論シリーズ5『量とはなにか−機拿蠎「6×4,4×6論争にひそむ意味」p.118)

 このかけ算の定義の効力は、いくつ分が「1」、「0」、「小数」、「分数」になったときに発揮されるわけですが、つまりは一般化しやすい発展性のある定義を、最初から採用しようとしたのだろうと私は理解しています。で、あらためて考えると、「1あたり量×いくつ分」という書き方をするのも、ちょっとへんな話なのかもしれません。そうではなくて、「○×△」は、「1あたり量○から△分を求める計算」と、いっそ全部言葉で言ったほうがいいのかもしれない。そう考えると記号「×」の見え方がだいぶ変わってきます。

 それから、娘と小数のかけ算について考えながら、「1あたり量」は比較的拡張しやすくても、「いくつ分」を小数に拡張するのはハードルが高いなぁと思っていたのですが、問題を作らせようとすると逆に、「1あたり量」を見つけることが(娘にとっては)難しいのかもしれない、ということを感じました。ハッピーターンの類題を作るのならば、ハッピーターン1枚に付属するなんらかの量を見つけなければならないのですが、それをすぐに見つけることができない。まあ、さんざん「0.3枚」について考えたあとだったからかもしれませんが。

 そういえば、きのう娘と「0.2×0.3」について考えてみたにおいて、
「かけ算」は2つの量で成り立っている、ということをあらためて思い知ります。それは、(1あたり量)×(いくつ分)の定義であろうが、(「1」とみなされる量)×(倍)であろうが、同じことだろうと思います。(長さ)×(長さ)=(面積)であっても。
と書きましたが、(「1」とみなされる量)×(倍)は、やっぱり「2つの量を必要とはしない」かも。
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きのう娘と「0.2×0.3」について考えてみた

 きのうの夕方、娘が学校から帰ってきたあと、宿題も終わって、毛布を敷いて2人でゴローンと休憩タイムをしているときに、小数のかけ算について話し合ってみました。以前も「こどものちかく」で書いたことですが、「紙とえんぴつ」なしで考えることの面白さをしみじみ感じるきょうこのごろです。そのかわり私自身も起こったことをその場でメモできないので、記憶しておかねばなりません。さて、どのくらい再現できるでしょうか。

 まずは、「0.2×0.3」ってどうやって計算しようか?ということを考えました。最初に娘は0.6という答えを出してきましたが、「ん?」と思ったのか、少し考えて、0.06という答えを出してきました。「0.8×9.2」の筆算では73.6という答えだったのに、今回は小数点を2つずらすということを思いついたようです。なぜそういう展開になったのかというと、おそらく「紙とえんぴつがないので筆算ができなかった」ことと、「2つとも1より小さい小数を使った」ことがミソだったような気がします。

 ほんでもって、どうして0.06になるのかということについて話し合ってみたところ、例の「小さくなる」という発想のほかに、「2×3=6は変わらないんだから……」「20×30=600なんだから、その逆をすればいい」というようなことを言っていました。ちなみに、途中途中で「うちの子、天才〜!」と親バカぶりを発揮したのは言うまでもありません、はい。

 そして今度は、「0.2×0.3」という式になる文章題を作ってみようということになりました。これは、0.2こずつのものが0.3こ分ということだけれど、0.2こずつの0.3こ分ってなによ?

 ここで2つの疑問がわきます。1つは、「小数って何?」ということ。もう1つは、「かけ算って何?」ということ。

 ちなみに娘は、かけ算よりもわり算のほうが好きなようで、しかも小数が好きらしいのです。「1÷8」によほど感動したのでしょう。これまでぜったい無理だったわり算ができるようになったこと。しかもそれがわり切れることの気持ちよさ。おかげで、絶縁した「2ケタでわるわり算」とも復縁しました。

 で、0.2を考えるにあたり、娘は「1このパンを5人で分ける」という案を出してきました。なるほど、そっか、0.2このパンね。それはそれで1切れだけど。0.2こずつ0.3人に分ける……0.3人って?

 そうこうするうち娘は、平方センチメートルという単位を出してきました。1cm^2のパンを5人で分けるというらしいのです。しかも0.3をかけると小さくなるという発想があるので、もはやそれはパンくずじゃないか〜〜ということになり、だいたいこのあたりでお互いの集中力は切れ、小数のかけ算談義は終了したのでした。

 最終的に娘が出してきた案は、「ポケモンの、より複雑な規則を作って、0.2×0.3が出てくるようにする」ということでしたが、具体的にどういう規則か……というところまでは思いつかなかったようです。

 娘が平方センチメートルを出してきたとき、私がまったく誘導尋問をしていないかというと、なんともいえません。そんなつもりはないけど知らず知らずのうちにやっていたかもしれません。というか、そもそも記憶をたどって書いているので、記憶を改ざんしている可能性も低くないわけであり。

 いずれにしろ、「私はこのように受けとめた」ということのレポートであり、すべての子どもがこうであるということではなく、ある1人の子ども(うちの娘)がこう考えた、それをある1人の人間(私)がこう捉えた、というだけの話ではあります。だとしても、そんな子どもが1人いて、そんな大人が1人いたのだ。

 娘と「0.2×0.3」について考えながら、私は2つのことを思いました。1つは、「0.2×0.3=0.06」という計算をしたときの娘は、かけ算を「計算のルール」だけを念頭において考えているということ。いわば、数の世界で小数の計算を考えています。

 しかし、「0.2×0.3」というかけ算の式が使える文章問題を作るということになると、とたんに話は難しくなります。「小数」の登場により、それまでできなかった「1÷8」というわり算ができるようになった。しかし、そうなると今度は、「かけ算とは何だったのか」というところを考えなおすことになる。あるいは、「小数でもかけ算は使えるのだろうか?」と。そういうふうに考えていくと、「かけ算」は2つの量で成り立っている、ということをあらためて思い知ります。それは、(1あたり量)×(いくつ分)の定義であろうが、(「1」とみなされる量)×(倍)であろうが、同じことだろうと思います。(長さ)×(長さ)=(面積)であっても。(追記/やっぱり、(「1」とみなされる量)×(倍)は、2つの量を必要としないかも)

 学校でやることとは話がひっくりかえっていて面白いのですが、実は教科書を作った人も、私と同じ発想を出発点にしているかもしれません。教科書では具体的に量を使ってある場面を設定し、2×3をもとにして0.2×3を理解させ、0.2×0.3を理解させるけれども、きのうの私たちは、まず0.2×0.3ありきで、これに対応する現実的な問題をさがしました。教科書の目的も、実際には針金の重さやジュースの値段を求めることにあるのではなく、かけ算を小数の世界まで拡張させるために、説明しやすい題材をさがした。そして、反転させて学ばせる。のかもしれない。そうじゃないかもしれない。

 「かけ算の順序」問題について、「小数、分数」を含む計算、および「単位量あたりの大きさ、割合」という「小学校高学年」の学習内容を念頭においた議論が(膨大な議論のなかの)どこかにないか、いずれさがしたいです(きっとあるでしょう)。探しつつ、自分でも考えていきたいです。

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小数の計算をめぐる、「かけ算の式の順序」の考察

 現在、娘は小4で、「小数×整数」のかけ算の学習を終えました。「整数×小数」と「小数×小数」は小5で学ぶことになります。もし、かけ算の式の順序にこだわることがおかしいということになれば、「小数×整数」と「整数×小数」の区別は妙だということになるでしょうか。被乗数・乗数という区別を使わずに、因数(メタメタさんのブログのエントリから拝借)という言葉を使っていうならば、「小数と整数を2つの因数とするかけ算」として同時に学ぶべきだ、と。実際、「小数×整数」と「整数×小数」に(学年をまたいでまで)分けて学習するのも、「1あたり量×いくつ分」というかけ算の定義があればこそ。

 で、娘といっしょに小数のかけ算を勉強するようになって、触発されることが多く、いろいろと考えこんでいます。

 まず、小島寛之さんが遠山啓を語るときに言及していた自律性のこと()、あるいは筆算の威力。一度「小数×整数」を筆算で学ぶと、「整数×小数」であろうが、「3×0.02」というような暗算でやったほうがはやそうな計算であろうが、娘は筆算でサクサクこなします。ちなみに、「3×0.02」も「0.02×3」の筆算でやりました。たぶん、もう、0.01の2×3=6つ分、という発想はしないのでしょう。この発想は導入部分だけで。しかし、筆算の威力は、「小数×小数」までには行き渡りませんでした。ここでまた、娘は「意味」にもどることになるでしょう。

 次に思うことは、文章問題の立式の意味。「1mの重さが4gのはり金があります。このはり金1.5m分の重さは何gですか。」という問いの答えを、娘は「4+2=6」で出しました。何も指示をしなければ、「4×1.5」あるいは「1.5×4」という式は出してきません(なお、最初からこの発想で解くのではないかと思って4×1.5 と 6×0.5 という計算問題を出したのですが、娘はどちらも筆算で解きました)。

 はり金1.5m分の重さが知りたければ、たし算で答えを出せばすむ話です。しかし、いまの目的は「小数×整数」の計算の仕組みを知ることなので、この数値を使った出題のしかたは、あまりうまくないと言えそうです。そうなんですよね、結局いまの目的は、「小数の計算の仕組みを知ること」なのだから、そのために適切な問題を選ぶ必要がある。題材含めて。しかし、計算の仕組みを知るだけではなく、その計算を使って問題を解けるようにならなくてはならない。たとえば、上記の問題で、「1.5×4=6」はマルにできるとして、「4+2=6」はどうしましょうか。そんなふうに考えていくと、結局、学校のテストの目的は、「与えられた問題に正しい答えが出せるかどうか」をみるためのものではない、ということになりそうです。知りたいのは学習目的が果たせたかどうかであり。テストでそれがわかるかどうかは疑問ですが、少しでも知りたいのだったらば、問題を周到に作っていかなくてはならない。

 で、それはそうとしても、「1あたり量×いくつ分」のかけ算の定義って、やっぱり“便利”かもなぁと思うきょうこのごろ。だから便宜上こうしておくのはわるいことではないかもしれません。ただし、問題と感じる点が2つ。

 1つは、現場での教え方が極端になってしまっている場合があるらしいということ。なぜこういうことが起きてしまうのでしょうね。

 もう1つは、たぶん、何かがねじれている(あるいは途中で何かがすりかわっている)ということ。って、私の頭がねじれているだけで、教科書的にはスッキリ系統化されているのかもしれませんが。例の二重数直線はもうあたりまえのツールになっているようで、その結果、「単位量あたりの大きさ」が、するっと「割合」に移行しているような印象があります。というか、数教協的には「単位あたり量」だったものが、量ではなく、「大きさ(ある種の割合)」ということで、まとまりつつあるのでしょうか。このあたりまだまだ考察が必要です、個人的に。でも、その場合、「1あたり量×いくつ分」の定義はそのままでいいのかな。この定義、便利なんだけど、やはり「いくつ分→いくら分」で無理が生じるような。
 

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久しぶりに「かけ算の順序」問題を考える(4)/遠距離

 最後に、小学生の保護者として、かなりひいた位置から「かけ算の順序」問題について考えてみようと思います。

 誤解をおそれずに言えば(これだけ書いてきているので誤解されないとは思いますが)、保護者としての自分にとって、「かけ算の順序」問題は、ほぼどうでもよい問題です。テストでかけ算の式にバツをされてもうちの子は不幸にはならないし、マルをされたからといって幸福になれるわけでもありません。

 「評価」という面でいえば、たとえば1学期の通知表で娘は1つだけ「がんばりましょう」をもらってきており、それは算数の「計算や作図ができ、面積を求めたり、数量の関係を調べたりする」という項目に対してでした。おそらくテストで角度を測る問題が全滅だったことが反映されているのではないかと推測しています(実際どうであったかはわかりません)。

 角度の問題でバツになったことについて、娘にくやしかったかどうかあらためて聞いてみたら、少しくやしかったとのこと。でも、あの答えを書いたことを後悔していない?と聞いたら、「うん」と軽やかに答えていました。それでもう十分。

 で、通知表やテストというのは、わが子の学校での様子、あるいは、学校そのものの状況を知るための1つの手がかりではあると思いますが、実際に学校に行かないとわからないこと、学校に行ってもわからないことはたくさんあるかと思います。そのなかからきょうは、学校に行って感じたことを書きます。2学期の学校公開で見た授業の感想です。



 娘の学校の算数の授業は少人数制がとられており、2つの学級を3つのクラスに分けて授業が行われています(担任の先生に算数専科の先生が加わる)。クラスと担当教師は固定されてはいるわけではなく、単元ごとに組み替わっているようです。

 4年生になると単なる少人数制ではなく、コース別になります。それぞれ平仮名4文字の副詞をつかって○○○○コースという名前がついているのですが、ここではAコース、Bコース、Cコースと呼ぶことにします。Aコースは、「どんどん力をつけていこう」、Bコースは「普通にやっていこう」、Cコースは「ゆっくりやっていこう」という感じの進め方で、児童本人が自分でコースを選ぶようになっています。65名くらいを3つに分けるので均等に分ければ20数名ずつになりますが、Cコースは人数が多くなりすぎないように調整されているかもしれません。

 娘は、Cコースを選びました。そして、学校公開が始まる少し前の時期から、「最近、算数が面白い」と言うようになったのです。「小数が面白い」とも言うので、ちょっと驚いてしまった私。小数の勉強って地味そうだし、計算が嫌いな子なのに、小数が面白いってどういうこと??

 で、学校公開中に見学(参観と言うべきか)に行きました。このときの担当は、Aコースが若い先生(娘の担任の先生)、Bコースが算数専科の先生、Cコースがベテランの先生でした。

 見学し始めた私は考え込んでしまいました。特に工夫された教え方というわけではないし、奇をてらったことは何もしていないのです(逆にいうと、余計なこともしていない)。

 いったい何が違うんだろう……?

 出てきた答えは、「空気感」でした。教室の空気が1つになっていて、それが動いている。みんなが1つの空気の中にいて、淀んでいるところがない。まず何よりも人数が少ないことが大きな要素になっているのでしょうが、やはりその空気感は先生がつくっているのだと思いました。そして、教室の空気が1つになっていると、子どもたちは各々1人でいられて、授業に参加できるのかもしれないなぁ、とあとで思いました。

 ちなみにAコースとBコースも廊下から窓越しにちょっとのぞいてみましたが、名前どおりの進度という印象でした。Aコースはさすがに練習量が多く、例の二重数直線のような図も黒板に書いてあった記憶があります。

 私はまずなによりも、Cコースを選んだ娘の選択をほめたいと思いました。算数やるなら、Cコースだよ!と。娘のいう「面白い」は、おそらく、「わかる」ということだったのだと思います。そして、教室の空気が1つになっていて、それが動くことが心地よかったのではなかろうか、と想像しています。

 そのほかの授業もいくつか見学したのですが、本来のクラスでの理科の授業のこととか、そのあとに見た体育の授業のこととか、いろいろ思うところはありました。

 評価も大事でしょう、テストも大事でしょう、教材研究も大事でしょう。でも、やっぱり、学校の基本は授業の時間なんだ……という、ごくあたりまえのことを感じた今回の参観でした。

 家庭教師時代に思ったことなのですが、子どもたちって、大人からみればあたりまえだったり地味に思えたりすること、意外に抽象的なことに、興味をもったり、疑問をもったり、集中したりするんですよね。子どもって基本的に、知りたい生き物だと思う。色つけなくても装飾しなくても、地色のまま、むしろ地色のほうが、入り込んでいける。

 あらためて考えると、工夫しようとすることは、「算数ってもともとつまらないもの」という先入観の裏返しなのかもしれません。もっとシンプルにストレートに、子どもたちに入り込んでいける力が、算数にはあるのではないか。いや、この言い方は、逆方向かもしれない。



 以上、久しぶりに「かけ算の順序」問題について3つの視点から考えてきました。あいかわらず私は、「教師は、かけ算の式の順序にこだわってバツをつけるべきではない」というふうに、意見をまとめることはできません。それよりも、もしかしたら数年後に、バツをつける先生がけっこう減るのではないか?なんてことさえ考えることがあります。「昔はバツだったんだけどね」というコメント付であっさりマルをつけるようになる日が。(反順序派の方々からは、事態はそれほどあまくないと言われるでしょうか)

 で、思うのです。それで、何が変わるのだろう、何か変わるだろうか、と。ひょっとしてひょっとすると、先生によっては、バツにすることも、マルにすることも、根は同じかもしれない。そうだとしても、マルならばそれでいいのか。

 1つ前のエントリでリンクした、JVC>長野県梓川高等学校放送部『漢字テストのふしぎ』に登場する小・中・高の先生たちの話を他の先生方がきいたとき、どういう感想をもたれるでしょうか。代弁してもらったと思うのか、共感するのか、傍目八目で何か思うところがあるか、反感を抱くのか。あのビデオに登場する先生方は、まず、生徒側の疑問をしっかりと受けとめることのできる(インタビューに応じることのできる)先生方だと思いましたし、応答は様々だけれど、それぞれに揺れておられて、なんだかほっとしました。信用できないのはバツをつける教師ではなく、揺れなくなった教師だと思う。そして揺らしたのは生徒たち。

 このエントリの最初で、「かけ算の順序」問題は、わが子の幸せとは関係ない、と書きました。しかし、もちろんのこと、どうでもいいと思っているわけではありません。ですが、たまにはこう言ってみたくなる、言わなくちゃいけないという気持ちになることがあります。なので、言ってみました。

 「かけ算の順序」問題に、“1点突破”の力はあるでしょうか? ここを切り開くと、何かが起こるでしょうか。これだけ長期間話題になって、しかも話題に出るたびに盛り上がり、いろいろな立場の人が興味をもって参加されるのだから、もしかしたら、その力があるのかもしれません。


(年明ける前にこの話題終わらせられてよかった〜)

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