TETRA'S MATH

数学と数学教育

つなぐものの存在感/比例定数とアクリルたわし圏

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。

 (図4.1)には、左側に3本、右側に3本の矢印が描かれていますが、左を見れば各bとaを結ぶ矢印があり、右を見ればaと各cを結ぶ矢印があります。つまり「●→●」の組み合わせの図です。そして全体を見ると、矢印にはさまれたaに焦点があてられているように見え、「→●→」が中心になった図に見えます。

 この場合、「●→●」に見えるか「→●→」に見えるかは、視点のおきかたしだいですが、「●→●」を転換させて「→●→」にすることもできるように思います。

 以下、再び過去の図を使いまわして、上記のことを比例関係につなげて考えてみたいと思います。

***

 下の対応表は、あるエレベーターが上昇しているときの時間とエレベーターの高さとの関係を表したものです。途中で止まることや微妙な速度の変化は想定しておらず、単純に比例関係としてとらえてあります。(48の欄の黄色は気にしないでください)



 たてに並んだ2つの数値について、(高さ)÷(時間)を計算してみると、どこも「8」になります。



 この8は、比例定数であり、時間をx秒、高さをymとすれば、y=8xという式が成り立ちます。8に単位をつけるとしたらm/秒となり、このエレベーターの上昇する速さを示しています。

 また、2秒後から5秒後までの3秒間では16mから40mまで24m上昇しており、このときにも24÷3=8(m/秒)は成り立っています。なので、このエレベーターの動きを時間と高さという2量の関係でとらえた場合、「8m/秒」という数値が、この動きの“質”を表していると考えてもいいように思います。

 そして、対応表でたてにならんだ2つの数値の組は、瞬間、瞬間のできごとをとらえた数値の組み合わせと言うことができます。実際には、1と2の間にも、6と7の間にも、秒数はたくさんあり、どの瞬間をとらえても、「8m/秒」という“動きの質”はたもたれています。

 つまり、「時間が2倍、3倍、・・・になると、それにともなって高さも2倍、3倍、・・・になる」ということは、このエレベーターの動きのタイプ(正比例)を表しているけれど、具体的には「8m/秒」というある種の量が、この動きの質を表していると言ってもいいのではないかという気がしてきます。

 そこで、一瞬、一瞬について、時間と高さの組み合わせのカードを作ることを考えてみました。

  

 左に「時間」、右に「高さ」を置き、まんなかには「高さ÷時間」の数値を置きます。いま、矢印を示す数値はすべて「8m/秒」となるので、これらのカードを重ねてぱらぱらマンガのようにめくると、時間と高さは刻々と変わるのに、矢印の部分は止まっているように見えると思います。

     

 そうなると、このエレベーターの動きの本質は、8m/秒にあるように思えてきます。ともなって変わる2つの量を、ともなって変えさせるための、留め具のようなもの。

 この発想のもとになったのが、「アクリルたわしの圏」でした。当時、アクリル毛糸でたわしを作っていたので、たわし1個をつくるときに出てくる様々な量-----「値段:220円」「重さ:45g」「長さ:67m」「面積:275^2」を取り出して、これらを圏の対象とし、分母を始域、分子を終域にした分数を圏の射として、圏が作れないかを考えたことがあるのです。

   

 それぞれの分数を小数第2位までの概数で表して単位を添えると、次のようになります。

   

 これらの値が何を表しているかというと、丸1は1円あたりの重さ、丸2は1gあたりの長さ、丸3は毛糸1mで編めるたわしの面積、丸4はたわし1cm^2を編むのにかかる毛糸の値段、丸5はたわし1cm^2を編むのに必要な毛糸の重さです。図には示していませんが、「220円」と「67m」も結ぶことができます。ちなみにそれぞれの矢印をひっくり返した矢印も考えられます。

 射の合成は「かけ算」で考えることにして、恒等射を「1」にすれば、圏の定義を満たすのではないか…と考えたしだいです。

 エレベーターの例にしろ、アクリルたわしの圏にしろ、2つのものの間にある量は、数教協でいうところの内包量と考えられます。そして、関係を考えられている2つのものは外延量です。

 なお、数教協がいうところの外延量とは、合併がそのまま加法につながる量だと私は理解しています。それに対して内包量は合併がそのまま加法につながらない量のことなのですが、「加法につながらない量」というと曖昧なので、外延量のわり算によってできる量と考えると私はすっきりします。

 ということは、内包量は外延量がないと成り立たない量ということになり、先に外延量ありきと思えてきますが、今回まとめたことは、内包量そのものの存在感を感じるためにやってみたことです。すなわち、「●→●」を「→●→」にする試みです。

関連エントリ>抽象的な関数より、具体的な内包量
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2つのものが作る1つのものと、1つのものが作る2つのもの

 今回は、これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことのひとつを書きます。

 表題の件については、自分でも「またそれか…」と思うくらいしつこく考えてきました。2点があればそれを結ぶ線分がひけ、1本の線分があればその両端としての点が2つできるということ。2点の間に線分がひけるのは2点が別々の点であればこそであり、線分は2点をつなげるものであると同時に、2点の隔たりを確認するものでもあるということ。

 また、私が私であるためには、私と私以外のもののあいだに境い目がなければならず、その境い目が私と私以外を区別して私をつくるのと同時に、私を外界へとつなぐということ。についてもしつこくこだわってきました。なかなかその先に進めないまま。

 以下、生活ブログ>カテゴリー:鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・に書いたことから、部分的に抜き出してあらためてまとめてみます。

***

 区切られた場所を2つに分けるには1本の線をひけばよい。

    

 しかし区切られていない場所の場合、1本の線では2つに分けることができない。

     

 ならば、線の端と端をつなぎあわせて、わっかにしてみようか。

     

 そうすると、「内側」と「外側」が生まれる。「1」が生まれる。「1」がたくさんあるとどうなるだろう?

     

 寄せてみると・・・

     

 細胞みたいだ。これをぎゅっと凝縮させると・・・



 網の目に見えてくる。しかし、このときの青い線は、「つなぐ線」ではなく「へだてる線」だ。ここまでが「私の領域」ですよ、となわばりを示す線。この状態から、膜を点に凝縮してみる(下図の黄色の点)。そして、それぞれの「へだてる線」を横切る赤い線を考えてみる。たとえば青い線が国境だとしたら、赤い線は出入国のルートのようなものなので、国が2つ接しているところに、ルートが1つできる。

     

 このときの赤い線は、「つなぐ線」となる。面を凝縮させた黄色の点は、膜内を制御していた「核」ではなく、青い膜を凝縮させたもの。

***

 長くなるのでひとまずここで区切ります。なお、鈴木健『なめらかな社会とその敵』については、このブログでもカテゴリーを作って、かなりの数のエントリを書いています。
http://math.artet.net/?cid=61004

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これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明

 久しぶりの更新らしい更新です。表題の件、さっそくリンクします↓

谷村省吾「物理学者のための圏論入門」
https://drive.google.com/file/d/0B-wUHJlJ-mgXRnFpcXE5Q1lVLUk/view

 ″物理学者のための…”と銘打ってありますが、物理学者ではない人もまったく臆する必要のないものです。

 このブログでは以前、谷村省吾さんの著書についてご紹介させていただいたことがありました↓

谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』のp.24〜25とp.200に感動するhttp://math.artet.net/?eid=1421783

 それがきっかけとなり、谷村さんから直接メールをいただくというしあわせなできごとがあったのが昨年11月。その後、何通ものメールをやりとりさせていただき、このたび上記リンク先の文章を知ることができたのです。

 今年の2月に行われた研究会の講演をまとめたもので、後半では手書きのノートも公開されています。なお、谷村さんは現在、3か月に2回のペースで月刊誌『数理科学』に連載記事を書いておられます。

 谷村さんの文章に出てくる比喩はとてもわかりやすく、谷村節とでも呼びたい語り口調があって楽しいです。

 このような種類の文章にネタバレもなにもないのかもしれませんが、興味のある方は、まず全文を通して読んでいただければと思います。

***

 では、私の感想を書いていきます。

 読み始めていきなり「三種の矢」に目から鱗でした。「圏論のテキストたち、最初からそう言ってくれよ〜」と思うことでありました。私の場合、最初に時間をかけて圏の定義を理解しようとして、なんとなく「射」のイメージがつかめてきたところで「関手」や「自然変換」という用語に出会い、すでに「射」のイメージが固定的になってしまっているうえスタミナ切れで、「関手」や「自然変換」まで理解する気力がわかなかったのです。

 最初から「三種の矢」があるよと言ってもらうと見通しが立つし、そのことで「射」の理解もかえって進むのではないかと感じました。というか、そういうびっくりすることは最初に言ってもらうと助かる…という感じでしょうか。なぜ3つなのかについても触れられていてありがたいです。

 そして「4 圏論の考え方」、″谷村節炸裂”という感じで楽しいところです。自分の意識がいろいろな方向へぐーんと広がっていくのを感じました。なんだったら圏論をはなれちゃってもいいくらいの気持ちになりました。そんなことでいいのでしょうか。いいのでしょう。

 特に、「関係性があって初めて個性が定まる」というお話は、これだけでしばらくご飯が食べられそうな魅惑的なフレーズです。さらにその先の「木を気にせず森を見る」という表現については、最初は「なるほどなるほど」と能天気に読むだけだったのですが、読み返すうち、かすかな緊張感をともなう考え込みの時間をもつこととなりました。

 考え込むうち思い出したエントリを1つリンクします↓

倉田令二朗が、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」という、その意味 http://math.artet.net/?eid=1421664

 そうしてその先、ようやく圏の定義が出てきて、いくつかの用語や図式の説明へと入っていきます。自然数の「大小関係の圏」「約数の圏」の例がとてもわかりやすいです。

 後半の手書きのノートには「ひらがなしりとり圏」と「カタカタしりとり圏」の文字も見えます。なるほどわかりやすそうです。檜山正幸さんのしりとりの圏については、私も圏論の学びはじめのとき大変お世話になりました。

 さらに普遍射のところでは、「肩書のないaさんがF社と取引をする話」が出てきていて、なんだか楽しそうでわかりやすそうです・・・

 と、「わかりやすい」を連発しているので、ちょっとここで話を変えます。そもそも「わかりやすい」というときの「わかる」とはいったいどういうことなのでしょうか。筋道が追えるということでしょうか。正しく理解するということでしょうか。

 私はブログを始めて10年以上たちましたが、昨年度は、「自分はブログでわかったふうなことを書きすぎてきたなぁ…ほんとうは何もわかっちゃいないのに…」と思うことがありました。

 しかし、このたび久しぶりに更新をするにあたり、思い出したのです。自分は「何かをわかろうとするプロセス」を書き記すためにブログを書いてきたのではなかったか、ということを。

 ふりかえれば「わかる」ということ自体についてもこれまで何度も書いてきました↓

わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび
あとで考えたいことの整理(合理主義と経験主義、ハイデッガーとスピノザ)

 もしかして「わかる」ということは、「自分のものとして感じられる」ということなのかもしれません。ということであればつまり、わかりやすいということは、「自分のものにできそうな予感がする」ということなのでしょう。

 もっとも、自分のブログの昔の記事を、まるで人が書いたもののように新鮮な気持ちで読むことがしょっちゅうあります。

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『圏論の歩き方』第12章/比喩とは何か?

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 3つ前のエントリで書いた「molと米原駅」の比喩の話は、先生と学生の会話調で進んでいくのですが、間をはさんでまた同じ学生さんが出てきます。どうやらその学生さんはmolのことがわかったようです。つまり、その学生さんの問題意識に対して、米原駅の比喩は効き目があった、と。

 molと米原駅の間に共通する本質なんてまったくないと言っていいにも関わらず、なぜ比喩として(一応は)成立したのか。

 それは,molおよびそれを取り囲む量の体系=「圏」と,米原およびそれを取り囲む旧国鉄の路線体系=「圏」の構造とが,似ているからです.
 つまり,わたしが苦し紛れに考え出した「比喩」は,「関手」だった,ということです.思い切って言うと,molと米原駅の例は,「比喩」を単に「対象レベルの関係」としてみることの不十分さを示しているのではないでしょうか.

(p.204)

 この最後の部分に欄外注があり、「比喩を関手としてとらえる」という考えは、本質的には、文芸学者西郷竹彦氏の文芸理論に基づいていることについて書いてあります。(「虚構の方法としての比喩」という言葉も出てきます)

 上記の指摘を読んで、私は2つのことを思い出しました。

 まず、遠山啓のこと。遠山啓がこの "比喩” に近いことを語っていたような気がして、それをブログに書いた記憶がうっすらとあり、検索してさがしてみました。が、どんぴしゃりなものは見つからず、このあたりのことかなぁ…と思ったのが次のエントリです。

現代数学は、本来は素人にわかりやすいはずのもの
http://math.artet.net/?eid=1421661

 さらに検索して見つけたのは、先日リンクしたばかりのこちら。

近代の「関数」から、現代の「群」へ
http://math.artet.net/?eid=1421656

 このなかの引用部分、
 しかし,ここで注意しておきたいのは,<もの―はたらき>の対立はけっして固定的なものではない,ということである。数学者はそこを自由自在に考えて,すこぶる融通のきくつかみ方をするのである。
のなかの、「数学者はそこを自由自在に考えて,すこぶる融通のきくつかみ方をする」というフレーズを思い出したかったかもしれません。ここは「比喩」についてではなく「ものとはたらき」の対立の話ですが、「molと米原駅って全然関係ないじゃーん!ただの比喩じゃーん!」と取り付くしまもないほど頑固に拒絶するような態度を数学(者)はとらないというイメージが、共通しているように思います。

 もうひとつは、思い出したというより、『圏論の歩き方』第12章の上記のフレーズを読んだあと読み直して、逆に上記のフレーズを思い出した記憶がある、銀林浩『量の世界・構造主義的分析』の第4章です。たとえば次のようなことが書いてあります。
 これまでの章を通じて,量と正比例関係とで1つのまとまった全体をなしていることがくどいほどわかったが,このことは純数学的にも保証されたわけである。
(p.161)

 私が現在理解している関手は、対象間の写像だけではなく、射たちの集まりの写像でもあり、そのことが『圏論の歩き方』第12章の先の引用部分や、『量の世界・構造主義的分析』の上記の引用部分につながるのかな?と感じています。その感じ方が的を射ているのかどうか、いまはわかりません。

 さらに上記引用部分に続けて、次のようなことも書いてあります。
 このことから得られる結論は何か? それは,正比例は量の体系と切り離しては考えられないということである。いいかえると,正比例関数はこの量圏の型射として扱われるべきものなのである。したがって,教育的にも,正比例関係は量の体系を構築してゆく手段として取り扱われるべきであるし,そうしてこそ初めて正比例というものの意義も理解されるということになる。
 ところが,これまで,正比例関係は y=ax というただの数学的パターンとしてのみ扱われていたし,量の世界の構築とは関係がなかった。一方,理科や社会科における諸量は,正比例を利用できないために,まったく非系統的にバラバラに,経験的にか天くだりにか与えられていた。これは,量にとっても正比例にとっても不幸な事態であったといわなければならない。
(p.161〜162)
 
 一方、『圏論の歩き方』第12章の先の引用部分に続く部分も、話の内容は異なりますが、教育について言及しています。
 教育においては適切な比喩というものが不可欠です.「比喩=関手」という理解は,したがって,教育においても重要になってくるのではないでしょうか.
(p.205)

 そして、数学内部における「比喩=関手」の効き目の一例として、ホモロジー理論の話が少しだけ出てくるのでした。

(つづく)

※ 読み落としや勘違いがあったときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』第12章/算数から現代数学へ

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 私はかつて、アクリル毛糸で編むたわしに関する量の圏を作ろうとしたとき、こんなことを書きました。↓

 で、恒等射が難しいのですが、とりあえず1つの量を分母と分子とする分数を考えると「1」という数とみなせ、これが実質的に何を意味するのかは自分でもさっぱりわからないけれど、とりあえずかけ算においては他に影響を与えないので、恒等射の条件は満たしそうです。


 『圏論の歩き方』第12章の「molの話」でも、やっぱり恒等射は「1という数」になっています。そして著者は、大学で同期で数学を学んだというある友人の次の言葉を紹介しています。

「自分は小学校時代から,数1とは何か,ということがずっと引っかかっていた.1Lや1kgはわかるが,何の単位ももたない1が不思議だったのだ.恥ずかしながら,大学で数学を勉強して何年か経って,はじめて1とは何かはっきり腑に落ちた.それは,『なにもしない』というはたらき,つまり恒等射なのだ」

(p.200 ※ リットルの単位の表記を「L」にかえています。)

 「もちろんこれは誇張でしょう」というコメントのあと、次のように続きます。

しかし、数(より一般には量)を「矢印=射」として,あるいはまた「はたらき」としてとらえるという考え方は、たしかに教育の中で見過ごされがちだと思います.

(同上) 

 そして、著者が講義でとりあげたという、2つの話題が示されていきます。1つは分数について。もう1つは、(−1)^2はπ回転を2回繰り返して何もしないはたらき(=1)になる、といったような内容の話題です。

 分数のほうを見ていくと、5/3(分数の3分の5)は「5の1/3倍」なのか、「1/3の5倍」なのかと、小さな弟妹に聞かれたらどう答えるか、「どっちも」であることをどんなふうに説明することができるかについて、学生たちに問いかけながら説明していく様子が会話調で綴られていきます。

 そのなかに出てくる羊羹の図を描き起こしてみました。↓



 左の図は、羊羹を並列にたばねた図の網かけ部分を5/3として、これは「5倍して1/3倍したもの」であると同時に「1/3倍して5倍したもの」でもあることを示したものです。

 ここまでは算数の話だけど、大学で学ぶ線形代数においては、もはや2つの「正比例関係」の掛ける順序を無制限に入れ替えることはできないとして、非可換性という言葉が出されています。そうすると逆に、矢印の合成がいつ等しくなるのか、という問題が本質的になってきて、上記の右側のようなタイプの図(可換図式)が大切な役割を果たすようになる、と。

 このあたりで学生たちは、未知の用語が出てきてぼんやりしはじめるので、先生は慌てて数の話にもどり、(ー1)^2=1の話に入っていくのでした。(こちらの話は割愛します)

 著者が言いたかったことは、算数から現代数学への道を、「もの」としてだけではなく「はたらき」として見る、という見方の深まりとして捉えてはどうだろうか、ということです。

 そういう話になると遠山啓を思い出しますが、話のニュアンス(というか段階)がちょっと違うかもしれません。なお、『圏論の歩き方』第12章の参考文献では、銀林浩先生の書籍が含まれている関係で、遠山啓および数学教育協議会の名も確かに出てくるのですが、著者が銀林先生の本を読んだのは執筆後とのことで、念頭にあったのは別の本のようです(英語の書名が示されています)。銀林先生の書籍のほか、小島順先生の『数学セミナー』所収の文章も示されています。

 「もの」と「働き」と言えば、まさに遠山啓『無限と連続』の第2章がこのタイトルになっています。おもに群(そのもの)の話になっていると私は思うのですが、このブログのエントリとしては、別の本を参照して書いた次のことがらが近いので、リンクしておきます。↓

 近代の「関数」から、現代の「群」へ
 http://math.artet.net/?eid=1421656

 ついでに書いておくと、先ほどの羊羹で出てくる「分数」は倍としての分数、つまり割合としての分数ですね。このあたりについてもいくらでも話が広げられそうですが、いまは深追いしないことにして、ひとまずこれだけリンクしておきます。↓

 手島勝朗さん、杉山吉茂さんを手がかりに、「1あたり量」の問題点について再考する。
 http://math.artet.net/?eid=1422167


 一方、『圏論の歩き方』ではこんなふうに書かれてあります。
 たとえば,先ほどの講義で展開した話は,ちょうどモノイドを「演算の定義された集合」として見るだけではなく,「ただ一つの対象をもつ圏」として見ることに対応しています.つまり,群やモノイドの元を,(互いにいつでも合成可能な)「矢印=射」として見る,ということです。
(p.203)

 そうして、ケイリーの表現定理と、米田埋め込みが(語句だけ/欄外注あり)出てきて、くらくらくら〜なのでございます。
 
(つづく)

※ 読み落としや勘違いがあったときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』第12章/molは米原駅みたいなもの

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 まずはじめに前回の補足ですが、長浜バイオ大学の入試のページや twitter でいただいた情報から考えると、微積分やベクトル・行列をほとんどやっていない新入生がいるというのは、不思議なことではなさそうだと思うにいたりました。

 で、「量の計算ができない」話です。掛けたらいいか、割ったらいいか、わからないまま適当にやる学生がしばしば見受けられるという状況があるらしいのです。「これはもちろん,恐るべきこと」だとも書いておられます。試薬の分量を間違えたら命にかかわることだってあるわけで。

 しかしなぜ「量の計算」ができないのか。職場の教員の方々と著者が至った共通認識は、「量には単位があるということの認識が薄いから」というもの(物理的ディメンションについての欄外注がついてます)。これは彼らのせいではないということも添えられています。
単位を意識するということはたしかに自然科学では重要とされていますが,それを「数学的構造」としておさえることは,よほど意識の高い先生に出会わない限りほとんどないのだろうと思います.その結果,頭が計算モードに入った途端,「量の計算」ということを忘れ,数値ばかりに目を奪われてしまう.
(p.197〜198)

 量の単位に着目すれば、「掛けたらいいか,割ったらいいか」は本来間違えようがないはずなのに、とのこと。

 そこで著者も次第に、こういうことを数学においてもきちんと位置付けるべきだと考えるようになったそうなのですが、ある日、「掛けたらいいか割ったらいいかわからない」学生と話をしていると、目の前に圏が舞い降りたのだとか。

 その学生は物質量の単位「mol」というものがなかなかスッキリわからなかったようなのです。いろいろ説明を試みたけれどなかなか伝わらない。で、思いついた喩えが、米原駅。

 何がどう比喩になるかというと、米原駅というのは京都・名古屋・長浜をつなぐ駅であり、一方、化学で物質を扱うときに出てくる基本単位「g」「L(本とは表記を変えています)」「個」は、「mol」という単位を持ち込むことでうまくつながるので、molは米原駅みたいなものだ、という話です。

 そのそれぞれについて図が示されています。「米原」を中央におき、「京都」「名古屋」「長浜」をまわりに配置して、それぞれ「米原」と2本(2方向)の矢印で結んだ図と、「mol」を中央におき、「g」「L」「個」をまわりに配置して、それぞれ「mol」と2本(2方向)の矢印で結んだ図。

 molのほうの矢印は、「根元1あたりの先端の量」を意味しており、

● 矢印の先端を根元で割れば,矢印がわかる.
● 根元に矢印を掛ければ,先端がわかる.
● 先端を矢印で割れば、根元がわかる.

という形で量の計算原理を表現している、と。

 ここでいったん自分の感想をはさみますれば、むかし懐かしアクリル毛糸圏(もどき)を思い出しましたです〜! もう、「もどき」をとっていいのかしらん!?

   
 「アクリル毛糸の量の圏」を作りながら思ったこと
 http://math.artet.net/?eid=1349680


 ほんでもって、先の計算原理の説明をし終えた瞬間、著者ははっとしたそうなのです。この小さなシステムは、

● 和が定義できる「量の集合」(線形空間,あるいはその一般化である加群)を「対象」として
● その間の「正比例関係」(線形写像,あるいはその一般化である準同型写像)を「矢印=射」として

定義されるような圏(の一部分)を書きだしたものだ、と気づいたから。そして合成としては、

● 「正比例関係」の合成=1あたりの量の掛け算

をとるので、結合律も満たしている、と。

となると、あとは「恒等射」です。

(つづく)

※ 引用部分以外は我流でまとめています。読み落としや勘違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』「第12章 すべての人に矢印を」―圏論と教育をめぐる冒険

 『圏論の歩き方』をどう読んだものか模索していましたが、やっぱり12章から読めばよかったんだと思うきょうこのごろ。

 著者は長浜バイオ大学の西郷甲矢人さん。「ほかに専任の数学者がいない大学で,数学者を目指さない学生に数学を教える」という仕事に取り組んだ新米教員が,圏論的な思考にどのように助けられ,どのようなことを考えたか」という正直な経験を書き連ねたものだそうです。

 組み立ては次の通り。

・読者に
・なぜ数学を教えるのか
・掛けたらいいか,割ったらいいか
・molは米原駅みたいなもの
・算数から現代数学へ
・比喩とは何か?
・間奏:ホモロジー理論
・見える矢印,見えない矢印
・Q&A

 (参考文献)

 『圏論の歩き方』にこの章があってよかったな〜!としみじみ思うのと同時に、いままで考えてきたことに対して、このような視点からのお話がきけて、本当によかったと思っています。

 まず驚いたのは、著者の働いている大学では、微積分やベクトル・行列についてほとんど「やったことがない」と言う新入生も多いという話。「やったことがある」の「やった」の程度もあることでしょうが、そんなことがあり得るんだろうか?と素朴に首を傾げました。

 長浜バイオ大学という名称からして理系っぽいし、少なくとも微積分をほとんどやってないってことはあり得ないのではないかと。なお、高校の現在の教育課程を詳しく知らないまま、印象として書いています。

 そんな状況のなか、これからの勉強をすすめていく上で、ある程度の数学の素養は必要になってくる一方で、数学の勉強にあまり時間をかけられるわけでもない。

 そこで、「数学はどのようなものか」というイメージをつかんでもらうことを最優先することにしたそうなのです(たとえばオイラーの『無限解析入門』にならって微積分の初歩を教えてみたりなど)。

 同時に、さらに基本的なところにも目を向けなければならないという危機感もあった(今でもある)そうで、学生が生物学を学ぶ「実地」で何につまずいているか、担当の教員の方々に聞いてみたり、質問に来た学生と話したりしてきた結果確信できたことは、

● すべての学生に教えるべき「数学的なものの見方・考え方」があり
● それは高校までの数学教育では見失われがちで
● なんと圏論的な発想と深くつながっている

ということだったのだそうです。

 1番目の●の部分を読んで、ふと遠山啓を思い出した私。

 私が思う「量の理論」の根本思想

 まさに、次の1行が、
「とにかく量の計算ができないのですよ.」
となっているのです。(p.197)


 ここから、「掛けたらいいか,割ったらいいか」の話に入っていくのでした。


(つづく)

※ 引用部分以外は我流でまとめています。読み落としや勘違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』いきなり第17章/可換図式の「筆順」

 『圏論の歩き方』第2章を読んでいるところですが、ここでいきなり「第17章 圏論のつまづき方」の一部を読んでみたいと思います。

 というのも、次は「直積」について見ていこうとしていたところ、やっぱり『圏論の歩き方』だけで理解するのはきびしいなぁ…と思い、また谷村さんのテキストをのぞいていたら、直積を説明するときの図の形の違いが気になってきたのです。

 で、『圏論の歩き方』にもどってぱらぱらとページをめくっていると、第17章のなかの ″可換図式の「筆順」″ が目にとまったしだい。ということは、いい感じで圏論につまづいているということでしょうか私!?

 そうそう、本で勉強していると何が困るって、1つの図や数式がどんなふうに書かれたのか、細かいところでその「筆順」がわからないことですよね。

 私の場合、圏論に出てくる飾り文字、花文字というのでしょうか、くりんくりんしたアルファベットのあの字体はなんなのかというところから検索を始めなくてはならない状態でいます。「C」はわかるんだけど(っていうか、たぶん「C」なんだろうと思える)、「O」っぽいやつが出てきたところがあって、それが「O」なのかなんなのか、どんなふうに書けばいいのか、本で読んでいてもわからない。また、そんなことをいちいち説明するわけにもいかないですよね。

 そういえばかつて恒等射について考えたときにも、図を分解して段階的にみていったことがありましたっけ。この理解でいいのかいまだよくわからないままですが。↓

恒等射(同一矢)とはなんであるかをもう一度考える
http://math.artet.net/?eid=1305876

 これに似ているひし形の図が、直積でも出てきます。矢印の方向や種類がちがいますが。

 どうやって描くのかというと、次の図の青、緑、赤の順になるらしいのです(本の図はカラーではなく、3段階に分けて示してあります)↓

     
        X×が直積であるとは
        かってなZfに対して
        こういう射が一意に存在する

  ※ 赤い射は〈fg
    破線の矢印は「存在してしかも一意」と読む。

 一方、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』では、ひし形ではなく、矢尻のような形の図が示してあるのです(Pが上図の×にあたる)。↓
   
     

 直積になるための条件が示されたあとこの図が出てきて、「つまり,AXAYというAから発する2本の矢は,APという1つの矢に束ねられ,いったんPを通ってから枝分かれする矢として表現できる」という説明が加えられています。こうなると少しイメージが違ってきますよね。

 なお、圏論の場合、直積というのは、対象X×Yと、そこから出ている2つの射をあわせた3つ組をさすようです。谷村さんのテキストの図でいえば、(P,p,q)がXYの直積ということのようです。(追記:『圏論の歩き方』の第1章では、対象そのものを直積と呼ぶ記述もあるようです。はて。)

 直積については、谷村さんのテキストのほうが十分な行数が割かれていて、なおかつ卑近化した例で説明してあるのでわかりやすいのですが、こちらでイメージをつかんだあと『圏論の歩き方』を読むと、なるほどと思えてきます。

 それらのイメージをふまえて、私は次のように考えてみました。以下、(*)から(*)まで、あくまでも我流の解釈・表現でございます。

(*) 集合XYの直積というのは、Xの要素とYの要素のペア(x,y)からなる集合のことだけれど、これを例のごとく要素を使わずに表現するにはどうしたらいいかと考えた場合、やっぱり対象間の関係性で語るとよさそう。

 で、直積にあたる集合にはXの要素とYの要素の両方が入っているけれど、XにはYの要素が入っていなくてYにはXの要素は入っていないので、この3つの間に矢印をつけるとしたら、XX×YYとするしかないだろう。これを、X×Yから情報を取り出すとイメージしてみる。

 対象間の関係で語るために、直積に立場の近い対象Zをもうひとつもってくる。立場が近いというのは、X×Yと同様に、XYの両方に矢印が出ている、XYの両方の情報をもっているということ。

 X×Yの場合、必要な情報をみんなそろえていて、しかも余計なものはないのだから、XYに関する情報の過不足のなさの度合いはZよりX×Yのほうが上のはず。だから、からX×Yに矢印を出すことができる。(一意に決まるということをどう表現したらいいのかについてはまだぼんやりしています)(*)

(なお、私は「情報を取り出す」という表現をしましたが、実際には「射影写像」という言葉を使う必要があるのだと思います)

 谷村さんは直積を説明するにあたり、卑近化した例として次のような集合を使っておられます。詳しい説明は省略しますが、これだけでもかなりイメージしやすくなるのではないでしょうか。

 X={赤,黄,緑}
 Y={甘い,辛い,酸っぱい,水っぽい}
 A={レモン,りんご,スイカ}

 f(レモン)=黄
 g(レモン)=酸っぱい
 h(レモン)=(黄,酸っぱい)

 一方、『圏論の歩き方』では、先ほどの図式のインフォーマルな読み方が2通り示してあり、そのうちの1つは谷村さんの「枝分かれ」のイメージに近いのですが、2つめでこんな読み方がしてあって面白いです。X×YXY両者に作用しているもののうち一番えらいものであり、ほかのZfgを通じてXYにちょっかいを出そうという際には、まずX×Yに〈fg〉を通してお伺いをたてなければならない、と。この「お伺いのたて方」〈fg〉を仲介射(mediating map)と呼ぶのだそうです。なるほどー。

(つづく)
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『圏論の歩き方』第2章から/要素を隠して、矢印で語る。

 では、さっそく、『圏論の歩き方』を読んでいきたいと思います。といっても、どこまで読めるんでしょうか、いまは見当もつきませんー。

 まずは第2章で定義の復習(ちなみに定義は第1章にも載っています)。"今の段階では「ふーん」でいいです” と書いてあるのですが、私は「ふーん」ではなく、「えっ」と思いました。

(category)とは,次のような4つ組C={OA,id}のことをいう.

({ }のなかの3番めの〇は、小文字のオーではなく、もう少し小さい丸です)

 かつてそれなりに勉強したので意味はわかりますが、もし勉強していなかった自分がこれを見たらどう思ったでしょうか。4つ組?……ってなにーーー!?という感じだったんじゃないかと思います。いや、勉強していた自分でもそう思います。フォーリーブスみたいなものかしら?と。(なつかしー)

 このあとは、4つ組のそれぞれがなんであるのか(対象、射、射の合成、恒等射)の説明と、結合律、単位律についての説明になっています。この約1ページ分の"定義”を理解するのに、かつてどれほど時間を費やしたことか。

圏の定義に出てくる「射」と「矢」 
圏の定義に出てくる「域」、「恒等射」
圏の定義に出てくる「合成」 
圏の定義に出てくる「恒等射(同一矢)」
圏の定義についての現段階での疑問点 
恒等射(同一矢)とはなんであるかをもう一度考える 

 以上の理解が正しいのかどうかいまだによくわかっていません。とりあえず私の圏論勉強のプロセスとしてリンクさせていただくものでございます。

 そのあと集合と関数の圏Setsに進み、ここであることを再確認しましたワタクシ。圏Setsにおいて大切なのは、集合の要素x∈Xが(少なくとも直接的には)現れていない、ということ。

 先日も書いたように、この本が到着する前に、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)を再び開いていたのですが、「第5章 圏論」の mono についての説明を読んでいるときに、ハっとしたことだったので。気づいてしまえば「いまごろー!?」な話ではありますが。以下、p.122より。
 圏論は集合よりも写像を優先させると言ったが,集合論における基本的な概念,例えば「写像が単射である」といったことを,集合の元に言及することなく表現することができるだろうか?
(ちなみに谷村さんは「モノ(monic)」と表記されていますが、私は「物」としての「モノ」という表記もよく使っていて紛らわしいので、今後は mono と書きます)

 以前、monoを勉強したときには、定義と具体例から考えようとして頭がこんがらがってしまいました。そうではなくて、単射を「要素、元」という言葉を使わずに表現するにはどうしたらいいのか?と考えていけば、以前よりも mono がつかめるのではないか…ということに、ようやく気づいたしだいです。もっとも、monoを定義した人(←だれ?)のもともとの発想はどうであったのか、私にはわかりませんが。

 単射とは、異なる要素に対して、その行き先が重ならないような関数ですよね。ということは、行き先が同じなのに、そのもとが異なっていた、ということはないわけですよね。

 つまり、関数 f が単射じゃなかったら、「違う道筋でそこにたどりついた」ということも起こり得るんだけど、単射だったらそんなことはない。たとえば、学校に行くときに、郵便局の前を通る道と図書館の前を通る道の2つがあると、「学校に着いた」という事実だけを見たとき、そのどちらの道を通ってきたのかはわからない。

 でも、学校に着く道が1本しかなくて、その道はかならず郵便局から続いているのだとしたら、学校に着いたという事実だけで、その人は郵便局の前を通ったことがわかる。

 ということは、ある人が学校に着いたのだとしたら、必ず郵便局の前を通ったということになる。郵便局の前を通りさえすれば、どこから郵便局までたどりついたかは関係ない。言い方を換えると、その人が郵便局の手前にある駅を出て学校に着いたとき、その人は必ず図書館の前を通ったのだとすれば、学校に着く道は郵便局から続いていることが確定する、と。

 なんだか比喩が限界になってきてしまいましたが、とにかく『圏論の歩き方』では、monoの定義のところに「左キャンセル可能」という言葉がかっこがきで添えられていて、なるほどこの言葉はわかりやすいと思いました。

 実際には、f、g、hの3つの関数でmonoは定義できるんだけれど(fg=fh ならば g=h)、g、hがそれぞれ合成関数であってもかまわないわけですよね?(本にはそんなことは書かれてありませんが)

 つまり、「駅から学校に着いたのだったら(fg=fhならば)、その人は駅から郵便局まで進んだ(g=h)」ということと、「郵便局の前を通らずして学校に行く道はない(f は単射)」ということは同じことを表している、と。なぜなら、学校に行くには必ず郵便局に前を通らないといけないとしたら、駅を出て学校に着いた人は、必ず駅から郵便局まで進んだわけなので。

 こんな理解でいいのでしょうか?

 なお、epi(「全射」に対応する概念)についても同じ発想で考えていたら、これまた「いまごろー!?」な感想が出てきました。「圏論って、もしかしたらかなり抽象的なもの?」と。だって、要素や元を使わずに語るには…というふうに頭の中で矢印をいじっていると、「なにがどう関わっているのか」の「なにが」ではなく「どう」に気持ちが向かっていくので。

 そうして思い出したのが、このエントリです。↓

倉田令二朗が、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」という、その意味
http://math.artet.net/?eid=1421664

 倉田令二朗さんの気持ちが以前よりわかるのと同時に、でもやっぱり、「現代数学観」はともかく、遠山啓が考えていたことは反圏論的ではないのではないか…と、あらためて感じています。この文章ももう一度読みなおさなくちゃな。

(つづく)
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『圏論の歩き方』の第一印象と、衝撃の第二印象

 『圏論の歩き方』(圏論の歩き方委員会編/日本評論社/2015年)を購入しました。「まえがき」および第1章の座談会の段階までは、「ごきげんな本だな〜♪」と思いながら読んでいたのですが、第2章に入ったとたん……

 ななな、なにこのむずかしさっ 汗

と、ひるみましたワタクシ。いえ、第2章は「圏の定義」なので、前半はある程度わかるのです。がしかしそれは、かつてそれなりに勉強したからであって、あの作業がなかったら「無理!」とページを閉じていたと思います。あのくらい勉強してようやくこの1ページについていける、そんな世界なのかここは!?

 その他の章も「いったい何の話をしているの??」という感じで気持ちは萎え、流し読みさえできず(そのことにあとで気づいたしだい)、パタンと本を閉じたあと落ち込みましたのワタクシ。楽しみに待っていた本なだけに。そしてこんなフレーズが浮かびました。
 
 私の頭はもう終わっているかもしれない。

 落ち込むあまり、責任の所在に想いを馳せたりして…
 → 私の頭がわるいせい?
 → 圏論がむずかしすぎるせい?
 → 語り部たちの能力不足のせい?(^_^;

 いや、少なくとも2番目は違うはず。というのも、他にも私が理解できていない、できそうにない数学の概念は山ほどあるわけでありそんなものばかりであり。だからそうだ。こういうことなんだ。

 → 一般人なのに圏論に興味をもったせい。

って。自分で書いておきながらなんですが、それはあまりにもあんまりだ。そんなことを感じるためにこの本を買ったんじゃなーい!

 なおかつ、「圏論ってなに?」もさることながら、異分野協働というものにも興味があるし、きっとこの本はそれぞれのジャンルで圏論が見せている表情を感じさせてくれるものなんだろうし、安くはないお金で買ったのだから、もう少し食いついていきたい、いかなければ!と思いなおしました。

 あらためて「まえがき」を読み直してみれば、この本は「圏論をできるだけわかりやすく説明します!」という目的の本ではないのです。圏論という数学の「コトバ」を習得するために、

● 情報処理能力をはるかに超えた量の情報の洪水
● トライ・アンド・エラーの機会

の2つのことに力点が置かれた入門書なのでございます。まずはそのことを念頭においておかなければなりません。そして、委員会の方々は、(最初はともかく)この本の最後まで流し読むことと、何度も読んでみることを推奨しています。

 じゃあ、がんばってみるかということで、まずは第1章の前半をもう一度落ち着いて読んでみました。そうしたところ、前よりは入り込めそうだと感じました。実はこの本が到着する前に、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)を再び開いていたのですが、以前は意外と苦戦したmonoについてハっとしたことがあり、そのことを『圏論の歩き方』でも再認識する思いがしました(後日くわしく書く予定でいます…書けたら)。

 それから、「第3章 タングルの圏」も再び読みました。この章に関しては、最初に読んだときにも、ここなら理解できるかも…と感じたところだったのですが、いまとなってはこれを第3章にもってきたのは正解だったかもしれないと急にえらそうなことを思ってしまうゲンキンなワタクシ。

 続くプログラムの話はやっぱり読めなくて、その先も読めなくて、「うーん、私が読みやすいところはないかなぁ…」と目次をながめていたら、「第12章 すべての人に矢印を」という項目が目に入りました。「圏論と教育をめぐる冒険」という副題がついています。「あら、教育論かしら?」といまさらのように気づいたワタクシ。最初に一度ぱらぱらとめくったはずなのに、そういう内容であったことをまったく意識していなかったようなのです。

 で、読んでいくうちに……

 あれ………あれ!?……あれぇーーー!?

となったしだい。かくして参考文献のところに銀林浩『量の世界-----構造主義的分析(教育文庫8)』の文字をはっけーん!(追記:ちなみにこの章を書くにあたって参考にしたということではなく、執筆後に古本を取り寄せて読んだ本ということのようです)

 えー! 気がつかなかった〜〜

 最初にページをめくったときには、第12章あたりまでくるともうほとんどあきらめかけていて、「流し読み」さえしていなかったのでしょう。

 というわけで、とっかかりはありそうだとわかり、少し気持ちが落ち着いてきて、この本に取り組む勇気がわいてきたところです。

(つづく)
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