TETRA'S MATH

数学と数学教育

『圏論の歩き方』第2章のつづき/懐かしの unique up-to-isomorphism

 『圏論の歩き方』第2章を読んでいます。

 先日、直積についての自分の解釈・表現を書いたとき、最初は「ZよりX×Yのほうが上のはず」の前に「同じでないのならば」と注釈をつけていたのですが、いまその表現をすると話がややこしくなると思い、削除したのでした。

 というわけできょうは、直積の圏論的な特徴付けをみたす X×YX×Y があるとき、X×YX×Y がいえるのかどうかについて考えたいと思います(ちなみに本では文字の上にバーがついているのですが、ここでは下線で示します)。

 結論からいうと「=」とはいえないらしいのです。そこまでしぼりこめない、と。

 『圏論の歩き方』では、まず、ある意味は“同じ”でも「同じ集合とはいえない」状況を、単元集合を使って説明してあります。たとえば同じ単元集合であっても、{*}と{※}は別物だ、と(本とは違うマークを使っています)。この区別はいかにも要素至上主義で、圏論とは相性が悪そうですよね、ということも書いてあります。これに代わるのが同型という、より粗い見方だと。

 そして同型射(isomorphism)および同型(isomorphic)の説明に入っていくのですが、同型射っていわゆる iso(アイソ)のことですよね? 『圏論の歩き方』に iso という用語は出てきませんが。集合でいえば、全単射に対応するものだったような…

圏に出てくる「アイソ(iso)」について考える
http://math.artet.net/?eid=1310441

 X×YX×Y も圏論的な直積の特徴付けをもっているとき、後者から前者に向かう射 f があり、前者から後者に向かう射 g がある。ということは、X×Y から X×Yfg という射があるということになる。という流れで進んでいくシンプルな証明が本には書かれてあり、この証明は「圏論的議論のエッセンス」がつまっているらしいのですが、最後で恒等射が出てきて、またまた頭がこんがらがってしまいました。

 恒等射というのは、ある対象からその対象に向かう射で、合成したときに結果に影響を与えないようなもの(←私の表現)でしたよね。これに対して同型射というのは、射としては違う対象へ向かうものなんだけど、行って帰ってこれて、合成すると恒等射になるような相手がいるということですよね。

 でも、谷村さんのテキストには、「自己同形射」(ある対象からその対象への同形射)というものも出てきていて、恒等射と何が違うんだろう!?というふうに、わかっていたと思っていたものが急にわからなくなる感覚が生じるのでした(ちなみにこちらでは「同"形”」の表記が採用されているもよう)。

 そもそも私の圏論の学び始めは、しりとりの圏()、行列の圏アミダの圏だったのだから、1つの対象から同じ対象に向かう射がいっぱいあることは体験済みのはずなのです。なのにともするとすぐにそのことを忘れてしまうのです。

 たとえば行列の圏でいえば、2×2行列はみんな「2」から「2」へ向かう射でした。そのうち、他の射と合成してもその射に影響を与えないのが恒等射なのだから、2×2の単位行列があてはまると考えていいですよね? 同型射は合成したときに恒等射になる相手がいるということだから、逆行列をもつ行列でいいのかな? ということは、2×2行列に対象をしぼった行列の圏でいえば、逆行列をもつ行列はみんな自己同型射と、そんなふうに考えてもいいのでしょうか。

 じゃあ、行列の圏の直積は……あるの!?

 だめだー、限界だ。

 とりあえず話をもどすと、そんなこんなで、直積の特徴付けを満たすX×Yを等号で結べるほどの"1つ”にはしぼれないけれど、「同型を除いて一意(unique up-to-isomorphism)」ということになるようなのです。私にとっては懐かしい言葉です。

unique up to isomorphism ・・・って何?
http://math.artet.net/?eid=1363060

 あれから5年半。あらためて読んでみると、「あのころ自分はわかってなかったなぁ」とも思うし、「あのころの気持ちもわかるなぁ」とも思います。もしかすると当時は、「単一集合」という言葉のなかに、すでに同型の意味が含まれているようなイメージをもっていたのかもしれません。っていうか、いまでももっていますが。

 ちなみに、単元集合、単集合、単位集合、単一集合というのは、みんな要素が1つの集合のことを指していると理解しています。

 それはそうとして、unique up-to-isomorphism と「同型を“除いて”一意」とではニュアンスが違うと感じるのは私だけでしょうか!?
 
 なお、『圏論の歩き方』ではカノニカル(canonical)という言葉も出てきています。はじめて聞く言葉だったので検索してみたところ、「規準的な」「標準的な」という意味があるのかしらん?と思いきや、欄外注やウィキペディア>積(圏論)から察するに、「自然な」という意味があるみたい。「自然な」ってなんだー!?

 とにもかくにも、2つの直積をつなぐ同型射の取り方は「カノニカルに定まっている」ということらしいです。

(つづく)

※ 読み間違いや勘違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
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『圏論の歩き方』で直積の英語ありました

 第2章の直積のところにちゃんと書いてありました(p.024)。productだそうです。
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またまたさっそく補足/直積の定義、圏論の図の形状のこと

 1つ前のエントリで、圏論では対象と射の3つ組で直積が定義されると書きましたが、『圏論の歩き方』の第1章では、対象X×Yそのものを直積と呼んでいるようです。はて? もっとも、そのどちらなのかでどのくらい困るかは、いまの私にはわかりません。

 また、「直積のところで恒等射の図と同じようなひし形の図が出てくる」という内容のことを書きましたが(修正済)、全体の形状がひし形になっていて似ているということでした。矢印の方向が違っているのでこれを「同じような」と表現するのは不適切だったかもしれません。(しかし、シロートには同じような図に見えます)

 ちなみに『圏論の歩き方』では「直積」の英語を見つけられていないものの(見つけたら追記します→追記:p.024に product とあるのを見落としていました)、谷村さんのテキストでは「直積(direct product)」となっており、清水義夫『圏論による論理学ー高階論理とトポス』では、「積(product)」として同じ定義が示されているように私には読めます。なお、清水さんの本の図は、AA×BBが一直線上に並んでいる二等辺三角形のような形状になっています。それはいいのですが、清水さんのテキストの図には破線が含まれていません(私の老眼のせいかもしれないと思って虫眼鏡で確認しましたが)。

 いろいろ小さな「?」がひらひらとんでいます。「?」が舞い降りて腑に落ちてくれたら、また報告します。
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『圏論の歩き方』いきなり第17章/可換図式の「筆順」

 『圏論の歩き方』第2章を読んでいるところですが、ここでいきなり「第17章 圏論のつまづき方」の一部を読んでみたいと思います。

 というのも、次は「直積」について見ていこうとしていたところ、やっぱり『圏論の歩き方』だけで理解するのはきびしいなぁ…と思い、また谷村さんのテキストをのぞいていたら、直積を説明するときの図の形の違いが気になってきたのです。

 で、『圏論の歩き方』にもどってぱらぱらとページをめくっていると、第17章のなかの ″可換図式の「筆順」″ が目にとまったしだい。ということは、いい感じで圏論につまづいているということでしょうか私!?

 そうそう、本で勉強していると何が困るって、1つの図や数式がどんなふうに書かれたのか、細かいところでその「筆順」がわからないことですよね。

 私の場合、圏論に出てくる飾り文字、花文字というのでしょうか、くりんくりんしたアルファベットのあの字体はなんなのかというところから検索を始めなくてはならない状態でいます。「C」はわかるんだけど(っていうか、たぶん「C」なんだろうと思える)、「O」っぽいやつが出てきたところがあって、それが「O」なのかなんなのか、どんなふうに書けばいいのか、本で読んでいてもわからない。また、そんなことをいちいち説明するわけにもいかないですよね。

 そういえばかつて恒等射について考えたときにも、図を分解して段階的にみていったことがありましたっけ。この理解でいいのかいまだよくわからないままですが。↓

恒等射(同一矢)とはなんであるかをもう一度考える
http://math.artet.net/?eid=1305876

 これに似ているひし形の図が、直積でも出てきます。矢印の方向や種類がちがいますが。

 どうやって描くのかというと、次の図の青、緑、赤の順になるらしいのです(本の図はカラーではなく、3段階に分けて示してあります)↓

     
        X×が直積であるとは
        かってなZfに対して
        こういう射が一意に存在する

  ※ 赤い射は〈fg
    破線の矢印は「存在してしかも一意」と読む。

 一方、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』では、ひし形ではなく、矢尻のような形の図が示してあるのです(Pが上図の×にあたる)。↓
   
     

 直積になるための条件が示されたあとこの図が出てきて、「つまり,AXAYというAから発する2本の矢は,APという1つの矢に束ねられ,いったんPを通ってから枝分かれする矢として表現できる」という説明が加えられています。こうなると少しイメージが違ってきますよね。

 なお、圏論の場合、直積というのは、対象X×Yと、そこから出ている2つの射をあわせた3つ組をさすようです。谷村さんのテキストの図でいえば、(P,p,q)がXYの直積ということのようです。(追記:『圏論の歩き方』の第1章では、対象そのものを直積と呼ぶ記述もあるようです。はて。)

 直積については、谷村さんのテキストのほうが十分な行数が割かれていて、なおかつ卑近化した例で説明してあるのでわかりやすいのですが、こちらでイメージをつかんだあと『圏論の歩き方』を読むと、なるほどと思えてきます。

 それらのイメージをふまえて、私は次のように考えてみました。以下、(*)から(*)まで、あくまでも我流の解釈・表現でございます。

(*) 集合XYの直積というのは、Xの要素とYの要素のペア(x,y)からなる集合のことだけれど、これを例のごとく要素を使わずに表現するにはどうしたらいいかと考えた場合、やっぱり対象間の関係性で語るとよさそう。

 で、直積にあたる集合にはXの要素とYの要素の両方が入っているけれど、XにはYの要素が入っていなくてYにはXの要素は入っていないので、この3つの間に矢印をつけるとしたら、XX×YYとするしかないだろう。これを、X×Yから情報を取り出すとイメージしてみる。

 対象間の関係で語るために、直積に立場の近い対象Zをもうひとつもってくる。立場が近いというのは、X×Yと同様に、XYの両方に矢印が出ている、XYの両方の情報をもっているということ。

 X×Yの場合、必要な情報をみんなそろえていて、しかも余計なものはないのだから、XYに関する情報の過不足のなさの度合いはZよりX×Yのほうが上のはず。だから、からX×Yに矢印を出すことができる。(一意に決まるということをどう表現したらいいのかについてはまだぼんやりしています)(*)

(なお、私は「情報を取り出す」という表現をしましたが、実際には「射影写像」という言葉を使う必要があるのだと思います)

 谷村さんは直積を説明するにあたり、卑近化した例として次のような集合を使っておられます。詳しい説明は省略しますが、これだけでもかなりイメージしやすくなるのではないでしょうか。

 X={赤,黄,緑}
 Y={甘い,辛い,酸っぱい,水っぽい}
 A={レモン,りんご,スイカ}

 f(レモン)=黄
 g(レモン)=酸っぱい
 h(レモン)=(黄,酸っぱい)

 一方、『圏論の歩き方』では、先ほどの図式のインフォーマルな読み方が2通り示してあり、そのうちの1つは谷村さんの「枝分かれ」のイメージに近いのですが、2つめでこんな読み方がしてあって面白いです。X×YXY両者に作用しているもののうち一番えらいものであり、ほかのZfgを通じてXYにちょっかいを出そうという際には、まずX×Yに〈fg〉を通してお伺いをたてなければならない、と。この「お伺いのたて方」〈fg〉を仲介射(mediating map)と呼ぶのだそうです。なるほどー。

(つづく)
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『圏論の歩き方』第2章から/要素を隠して、矢印で語る。

 では、さっそく、『圏論の歩き方』を読んでいきたいと思います。といっても、どこまで読めるんでしょうか、いまは見当もつきませんー。

 まずは第2章で定義の復習(ちなみに定義は第1章にも載っています)。"今の段階では「ふーん」でいいです” と書いてあるのですが、私は「ふーん」ではなく、「えっ」と思いました。

(category)とは,次のような4つ組C={OA,id}のことをいう.

({ }のなかの3番めの〇は、小文字のオーではなく、もう少し小さい丸です)

 かつてそれなりに勉強したので意味はわかりますが、もし勉強していなかった自分がこれを見たらどう思ったでしょうか。4つ組?……ってなにーーー!?という感じだったんじゃないかと思います。いや、勉強していた自分でもそう思います。フォーリーブスみたいなものかしら?と。(なつかしー)

 このあとは、4つ組のそれぞれがなんであるのか(対象、射、射の合成、恒等射)の説明と、結合律、単位律についての説明になっています。この約1ページ分の"定義”を理解するのに、かつてどれほど時間を費やしたことか。

圏の定義に出てくる「射」と「矢」 
圏の定義に出てくる「域」、「恒等射」
圏の定義に出てくる「合成」 
圏の定義に出てくる「恒等射(同一矢)」
圏の定義についての現段階での疑問点 
恒等射(同一矢)とはなんであるかをもう一度考える 

 以上の理解が正しいのかどうかいまだによくわかっていません。とりあえず私の圏論勉強のプロセスとしてリンクさせていただくものでございます。

 そのあと集合と関数の圏Setsに進み、ここであることを再確認しましたワタクシ。圏Setsにおいて大切なのは、集合の要素x∈Xが(少なくとも直接的には)現れていない、ということ。

 先日も書いたように、この本が到着する前に、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)を再び開いていたのですが、「第5章 圏論」の mono についての説明を読んでいるときに、ハっとしたことだったので。気づいてしまえば「いまごろー!?」な話ではありますが。以下、p.122より。
 圏論は集合よりも写像を優先させると言ったが,集合論における基本的な概念,例えば「写像が単射である」といったことを,集合の元に言及することなく表現することができるだろうか?
(ちなみに谷村さんは「モノ(monic)」と表記されていますが、私は「物」としての「モノ」という表記もよく使っていて紛らわしいので、今後は mono と書きます)

 以前、monoを勉強したときには、定義と具体例から考えようとして頭がこんがらがってしまいました。そうではなくて、単射を「要素、元」という言葉を使わずに表現するにはどうしたらいいのか?と考えていけば、以前よりも mono がつかめるのではないか…ということに、ようやく気づいたしだいです。もっとも、monoを定義した人(←だれ?)のもともとの発想はどうであったのか、私にはわかりませんが。

 単射とは、異なる要素に対して、その行き先が重ならないような関数ですよね。ということは、行き先が同じなのに、そのもとが異なっていた、ということはないわけですよね。

 つまり、関数 f が単射じゃなかったら、「違う道筋でそこにたどりついた」ということも起こり得るんだけど、単射だったらそんなことはない。たとえば、学校に行くときに、郵便局の前を通る道と図書館の前を通る道の2つがあると、「学校に着いた」という事実だけを見たとき、そのどちらの道を通ってきたのかはわからない。

 でも、学校に着く道が1本しかなくて、その道はかならず郵便局から続いているのだとしたら、学校に着いたという事実だけで、その人は郵便局の前を通ったことがわかる。

 ということは、ある人が学校に着いたのだとしたら、必ず郵便局の前を通ったということになる。郵便局の前を通りさえすれば、どこから郵便局までたどりついたかは関係ない。言い方を換えると、その人が郵便局の手前にある駅を出て学校に着いたとき、その人は必ず図書館の前を通ったのだとすれば、学校に着く道は郵便局から続いていることが確定する、と。

 なんだか比喩が限界になってきてしまいましたが、とにかく『圏論の歩き方』では、monoの定義のところに「左キャンセル可能」という言葉がかっこがきで添えられていて、なるほどこの言葉はわかりやすいと思いました。

 実際には、f、g、hの3つの関数でmonoは定義できるんだけれど(fg=fh ならば g=h)、g、hがそれぞれ合成関数であってもかまわないわけですよね?(本にはそんなことは書かれてありませんが)

 つまり、「駅から学校に着いたのだったら(fg=fhならば)、その人は駅から郵便局まで進んだ(g=h)」ということと、「郵便局の前を通らずして学校に行く道はない(f は単射)」ということは同じことを表している、と。なぜなら、学校に行くには必ず郵便局に前を通らないといけないとしたら、駅を出て学校に着いた人は、必ず駅から郵便局まで進んだわけなので。

 こんな理解でいいのでしょうか?

 なお、epi(「全射」に対応する概念)についても同じ発想で考えていたら、これまた「いまごろー!?」な感想が出てきました。「圏論って、もしかしたらかなり抽象的なもの?」と。だって、要素や元を使わずに語るには…というふうに頭の中で矢印をいじっていると、「なにがどう関わっているのか」の「なにが」ではなく「どう」に気持ちが向かっていくので。

 そうして思い出したのが、このエントリです。↓

倉田令二朗が、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」という、その意味
http://math.artet.net/?eid=1421664

 倉田令二朗さんの気持ちが以前よりわかるのと同時に、でもやっぱり、「現代数学観」はともかく、遠山啓が考えていたことは反圏論的ではないのではないか…と、あらためて感じています。この文章ももう一度読みなおさなくちゃな。

(つづく)
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自分の圏論への興味はどこからきて、どう進み、どう停滞しているのか。

『圏論の歩き方』の第一印象と、衝撃の第二印象 >

 というわけで、『圏論の歩き方』を読む前に、自分の圏論への興味がどこからきていまどういうことになっているのか、一度ふりかえってみることにしました。

 このブログでは、圏論という名のつくカテゴリーを圏論圏論と初等数学の2つ作っているわけなのですが、最初に「圏論」という言葉を出したのはいつかというと、サイト内検索の結果、このエントリのようです。↓
 
『ブルバキとグロタンディーク』のレビューのレビュー・2
http://math.artet.net/?eid=588367

 なるほど確かにそのあたりでした。しかし、このときにはすでに圏論という言葉は知っていたようで、これがはじめてということでもなさそうです。そうなると、やはりきっかけはここだったでしょうか。↓

辻下徹「生命と複雑系」の組み立て
http://math.artet.net/?eid=1290635

 もしそうであれば、私の圏論への興味の第一歩は、複雑系から始まったということになります。郡司ペギオ-幸夫さんに興味を持ったのも、この本を経由してのことだと思われます。

 では、最初に買った圏論関連の本は何かといえば、確か『圏論による論理学―高階論理とトポス』(清水義夫著)でした。2009年11月頃のこと。一方で、『量の世界−構造主義的分析』(銀林浩著)に「圏」の文字があることも認識していました。

私が圏論を学ぶ手がかり
http://math.artet.net/?eid=1302402

 また、『集合の数学』(銀林浩著)も購入していました。ちなみに『層・圏・トポス―現代的集合像を求めて』(竹内外史著)は、図書館から借りて組み立てだけメモしているようです。↓

圏論の本の、圏の説明の組み立て
http://math.artet.net/?eid=1317594

 しかし本ではなかなか理解が進まず、圏に少しなじむことができたのは、次のwebページのおかげだったと記憶しています。
 
檜山正幸のキマイラ飼育記はじめての圏論 その第1歩:しりとりの圏
http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20060821/1156120185

 その後もう1冊、圏論が関わる本を購入。

谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』のp.24〜25とp.200に感動する
http://math.artet.net/?eid=1421783

 やっぱり圏論は面白そうだと思ったことと思います。自分のことなのに「ことと思います」というのもヘンですが。

 さらに2013年3月頃、独立研究者の森田真生さんのことを知り、森田さんは圏論をひとつの専門にしているという話をどこかで読んで、やっぱり…という思いを強くしたのだったと記憶しています。

(今回、検索して見つけたページ↓)

尹雄大(ユン・ウンデ) 公式ウェブサイト :
プリセッション・ジャーナル 第1号 独立研究者 森田真生 Vol.3

 興味をもった経緯はだいたいこんなところです。では、自分は圏論のどういうところに惹かれたのだろうかとあらためて考えてみると、最初はとにかく「自分が考えたいことを考えるにあたり、圏論という概念は有効であるらしい」という期待感で近づこうとしたのだと思います。

 そうこうするうち、銀林先生が使っているだけあって、どうやらこの圏論というのは遠山啓の「量の理論」にもつながっていきそうだと思うようになったしだい。「モノとハタラキ」の関係、「ブラックボックス」のこと、「動的なものを扱う」話、そして「構造と素子」あたりで。

「構造と素子」と、圏論
http://math.artet.net/?eid=1336334

 とはいえ、いまださっぱり、圏論のココロのようなものをつかめておりません。せめて、銀林先生いうところの「屋上屋にまた屋を重ねるように,新しい圏をどんどん作り出す」ということを、なんとか感じ取りたいです。

(つづく)
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さっそく補足

 1つ前のエントリで、『圏論の歩き方』の第12章の参考文献のところに、銀林浩『量の世界-----構造主義的分析(教育文庫8)』があるという話を書きましたが、この章を書くにあたり参考にした本というわけではなく、執筆後に古本を取り寄せて読んだとのことです。
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『圏論の歩き方』の第一印象と、衝撃の第二印象

 『圏論の歩き方』(圏論の歩き方委員会編/日本評論社/2015年)を購入しました。「まえがき」および第1章の座談会の段階までは、「ごきげんな本だな〜♪」と思いながら読んでいたのですが、第2章に入ったとたん・・・

 ななな、なにこのむずかしさっ 汗

と、ひるみましたワタクシ…。いえ、第2章は「圏の定義」なので、前半はある程度わかるのです。がしかしそれは、かつてそれなりに勉強したからであって、あの作業がなかったら「無理!」とページを閉じていたと思います。あのくらい勉強してようやくこの1ページについていける、そんな世界なのかここは!?

 その他の章も「いったい何の話をしているの??」という感じで気持ちは萎え、流し読みさえできず(そのことにあとで気づいたしだい)、パタンと本を閉じたあと落ち込みましたのワタクシ。楽しみに待っていた本なだけに。そしてこんなフレーズが浮かびました。
 
 私の頭はもう終わっているかもしれない。

 落ち込むあまり、責任の所在に想いを馳せたりして…
 → 私の頭がわるいせい?
 → 圏論がむずかしすぎるせい?
 → 語り部たちの能力不足のせい?(^_^;

 いや、少なくとも2番目は違うはず。というのも、他にも私が理解できていない、できそうにない数学の概念は山ほどあるわけでありそんなものばかりであり。だからそうだ。こういうことなんだ。

 → 一般人なのに圏論に興味をもったせい。

って。自分で書いておきながらなんですが、それはあまりにもあんまりだ。そんなことを感じるためにこの本を買ったんじゃなーい!

 なおかつ、「圏論ってなに?」もさることながら、異分野協働というものにも興味があるし、きっとこの本はそれぞれのジャンルで圏論が見せている表情を感じさせてくれるものなんだろうし、安くはないお金で買ったのだから、もう少し食いついていきたい、いかなければ!と思いなおしました。

 あらためて「まえがき」を読み直してみれば、この本は「圏論をできるだけわかりやすく説明します!」という目的の本ではないのです。圏論という数学の「コトバ」を習得するために、

● 情報処理能力をはるかに超えた量の情報の洪水
● トライ・アンド・エラーの機会

の2つのことに力点が置かれた入門書なのでございます。まずはそのことを念頭においておかなければなりません。そして、委員会の方々は、(最初はともかく)この本の最後まで流し読むことと、何度も読んでみることを推奨しています。

 じゃあ、がんばってみるかということで、まずは第1章の前半をもう一度落ち着いて読んでみました。そうしたところ、前よりは入り込めそうだと感じました。実はこの本が到着する前に、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)を再び開いていたのですが、以前は意外と苦戦したmonoについてハっとしたことがあり、そのことを『圏論の歩き方』でも再認識する思いがしました(後日くわしく書く予定でいます…書けたら)。

 それから、「第3章 タングルの圏」も再び読みました。この章に関しては、最初に読んだときにも、ここなら理解できるかも…と感じたところだったのですが、いまとなってはこれを第3章にもってきたのは正解だったかもしれないと急にえらそうなことを思ってしまうゲンキンなワタクシ。

 続くプログラムの話はやっぱり読めなくて、その先も読めなくて、「うーん、私が読みやすいところはないかなぁ…」と目次をながめていたら、「第12章 すべての人に矢印を」という項目が目に入りました。「圏論と教育をめぐる冒険」という副題がついています。「あら、教育論かしら?」といまさらのように気づいたワタクシ。最初に一度ぱらぱらとめくったはずなのに、そういう内容であったことをまったく意識していなかったようなのです。

 で、読んでいくうちに……

 あれ………あれ!?……あれぇーーー!?

となったしだい。かくして参考文献のところに銀林浩『量の世界-----構造主義的分析(教育文庫8)』の文字をはっけーん!(追記:ちなみにこの章を書くにあたって参考にしたということではなく、執筆後に古本を取り寄せて読んだ本ということのようです)

 えー! 気がつかなかった〜〜

 最初にページをめくったときには、第12章あたりまでくるともうほとんどあきらめかけていて、「流し読み」さえしていなかったのでしょう。

 というわけで、とっかかりはありそうだとわかり、少し気持ちが落ち着いてきて、この本に取り組む勇気がわいてきたところです。

 それにしても。

 私にとって、どこから圏論への興味が始まったのだろう、なぜわかりたいと思っているのだろう…ということをあらためて考えています。

(つづく)
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ベクトルで主客反転を考える---「あなたはだれ?」

 というわけで、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)の第1章にもどります。「1.5 外延と内包」の次は「1.6 双対性」となっており、ベクトル空間という文脈で議論が展開されているのですが、一形式(あるいは線形汎関数)、双対空間の説明は割愛して、かつてこのブログで例にとったある具体的な状況について再び考えてみたいと思います。

 それは何かというと、「レストランの会計」のこと。もとはといえば、遠山啓はベクトルを矢線ではなく多次元量として教えるべきだと主張していたことから始まった話なのですが(>遠山啓はベクトルをどう教えるべきだと語っていたか)、あのときには、ベクトルの内積をレストランの会計として考えることと、「お会計不透明カフェ」の会計を透明にするための単位ベクトルのことを考えました。

 で、作用するベクトルで示した行列の式---4つのお店と、4つのグループ---を使って、ベクトルの主客反転のことを考えたいと思います。

 メニューは、コーヒー、ミルクティー、ジュース、アイスクリームの4品。そして、4つのお店でのそれぞれの単価を左側の行列で示し、4つのグループのそれぞれの注文数を右側の行列で示したのでした。この中から、どれか1つのお店の単価の組をヨコベクトルで取り出し、どれが1つのグループの注文数をタテベクトルで取り出すと、「単価×注文数」の合計で、グループが支払う金額を求めることができました。

 それで、お店の立場から見れば、単価は一定であり、グループによって注文数が異なっているので、お会計も異なってきます。このときはグループの注文数が変数になり、お店の単価の数値は関数側の数値になります。

 一方、グループとしては、どのお店に行ってもいつもこの注文数でオーダーするとしたら、どのお店に行くかで会計は異なるわけで、この場合は、お店の単価のほうが変数で、グループの注文数は関数側の数値になります。

 なので、お店の単価とグループの注文数の、どちらが変数になるのか、どちらが関数側になるかは、お店の立場にたつか、グループの立場にたつか、その立ち位置に依存することになります。

 谷村さんはこのことを、「太郎、次郎、・・・」といったいろいろな人と、「身長計、体重計、・・・」といったいろいろな測定器を例について説明しておられます。測定器を1つ選んで、いろいろな人を測ることもできるし、人のほうを固定しておいて、いろいろな測定器で測ることもできる。まさに学校で健康診断が行なわれるときの保健室の状況は前者にあたるでしょうし、わが子の健康手帳に綴られた内容は後者の記録にあたるでしょう。

 つまり、どちらが変数でどちらが関数かは、一時的、相対的なものにすぎない。もっといえば、関数と変数は対等の立場にある。

 というようなことが、paring、線形同型写像という言葉の説明とともに示されているのですが、そのあたりは割愛して、ひとまずベクトルには双対空間というものが存在することだけおさえておきます(ちょっと乱暴すぎる考え方ではありましょうが、上記のタテベクトルであらわされるベクトル空間に対して、上記のヨコベクトルで表されるような双対空間というものがある、といまは理解しています。いずれちゃんと考えることにします)。

 思えば、どちらも4つの数字の組み合わせで、とりあえずヨコとタテで区別しているだけの話であり、これを反転させることは、それほど奇異なことでもないように思えます。

 それで、関数fが変数vを別のものに変換させるものだとすると、このときハタラキとしての関数fは変数vを見つめているわけですが、実はfは変数でもあり、別の関数Tによって見つめられていた、ということになります。

 ほんでもって、双対空間の双対空間は自分であり、双対は2回施すと元に戻るので、ベクトルの双対空間で考えるとき、上記のTはもとの変数vであり、fは自分が見つめていたつもりのvに実は見つめられていた、ということになります。

 このことを、谷村さんは次のように書かれています(Rは白抜き)。

Vというのは正体のよくわからないものなので,実数Rという正体のよくわかっているものに対応させてやろう,何らかの測定値を引き出してやろうという働きの集合が双対空間V*=(V→R)である.言わば,V*はVに対して「あなた誰?」という問いかけを発しているのである.問いかけて答えを引き出すことがV→Rという矢で表されるのである.さらに,V**はV*に対して「あなたこそ誰?」と問うている.ところが,じつはVがV*に対して「あなたこそ誰?」と問い返す側に回っていたわけで,「『あなた誰?』と言っているあなたは誰?」という質問を発する者は,当初の「あなた」と呼ばれていた者である.この問いかけ合いが
  V**=(V*→R)=((V→R)→R)=V
という輪を描いてV自身にはね返って来るのである.

 「なんて面白い話なんだ!」と思ったあと、さらにこう続くのです。

この問いかけ合いは,自問自答ではなく,他者との対話であることに注意してほしい.双対性とは,他者との対話を通して,自他の立場を交換することによって自己認識を深める過程なのである。

 この部分にドキッとして、大変に感動したのでした。

 思い出されるのは「他者の他者」としての自己のことと、学校はなんのためにあるのかで紹介した井上正允先生の「自分とは異なる他者を自分のなかに取り込み,自足してきた自分から抜け出す<自分探し>を始める。」という言葉のこと。

 これまで双対というと、すぐに自己双対のことを思い浮かべていた私ですが、他者と対話すること、自他の立場を交換することにこそ、双対性の意味はあるらしいということを教えられました。しかし、まだ私は、実際にはその数学的内容を知らずにいます。知らずにいますが、このようなものならば是非理解したいと思ったわけなのでした。

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外延と内包の絶えざる往復と問いかけ

 谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエ ンス社)の第1章の後半を読んでいますが、p.24〜25について書く前に、p.200のまとめをのぞいてみることにします。

 前回のエントリでは、円の外延的定義と内包的定義について触れましたが、第1章では、そのほか平面についても外延的定義と内包的定義が示されています。おもえば曲線や平面のまえに、直線で表される関係、すなわち高速エレベーターを題材に、比例の対応表について考えてみたときの対応表も、(整数だけを示しているとはいえ)ある意味外延的な表現であり、これをy=8xと表すことは内包的表現といえるのかもしれません。

 つまり、方程式は内包的性格のものであるのに対し、解は外延的性格のものであり、方程式を解くということは、内包から外延に迫ろうとするアプローチだと言えそうです。

 これを物理学の立場からいえば、物理法則は方程式で書かれ、物理現象は方程式の解で書かれる、ということになるのでしょう。「なるのでしょう」というか、そういうものの見方に私たちは慣れている、と。「チコ・ブラーエの天体観測データからケプラーが見出したものは,惑星の楕円軌道であって,万有引力の法則ではない.ガリレイは振り子の等時的振動を見たが、調和振動子の微分方程式を見たわけではない.」(p.200)

 という話をきいて私が思い出すのは、やっぱりバルマーの公式のことです(量子力学/バルマーとリュードベリの目のつけどころでもこの話題を書いています)。水素原子から発せられる4つの可視光線(赤、青、藍、紫)の振動数を1つの公式で表したものですが、この公式がうまれた背景には、外延から内包への強烈な意識、ひらめき、幸運があったのではないかと勝手に想像しているのでした。あるいは、ウィーンの輻射式からプランクの輻射式への流れも面白いなぁと思います。また、ハイゼンベルクの見えることだけ考えるという姿勢のことも思い出されます。

 こういうことを考えていると、おのずと「帰納と演繹」という言葉が浮かんできますが、実際この言葉はp.200のまとめの文章に出てきます。

あまたの現象から法則性を見出すことは,解から方程式への推察であり,外延から内包への帰納である.こうして基礎方程式が仮定され,その解が演繹され,実験・観察という手段でテストされる.そのような外延と内包の絶えざる往復と問いかけが自然界のありようであるし,人間が考えながら生きているということなのだろう.

 おそらくこのことは物理学のみならず、数学にもいえることなのだろうと思います。というより、物理学者にしろ数学者にしろ、あるいはどちらでもない一般人にしろ、みんな「自然の中で考えながら生きている人間」だと思うし、その「考える」ときに、物理学や数学といったいろいろなアプローチがあるのではなかろうかと思うわけなのでした。

 それはそうとして、上記の最後の一文に感動した私ではありますが、これだけだったら「そうだよねぇ」で終わっていたように思うのです。新しい発見まではいかなかったというか。でも、p.24〜25では、ちょっとドキっとすることが書いてあったのです。

(つづく)

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