TETRA’s MATH

圏論「積関手・冪関手」、関手の感触

 『圏論による論理学』(清水)と『圏論の道案内』(西郷・能美)で示されている随伴関係は、見た目がずいぶん違う。もちろん、まったく違うということはないしそうなるわけもないのだけれど、少なくとも私の目にはだいぶ違って見える。

 『圏論による論理学』では、まず略式の定義を示してあり、ぱっと見はそちらがわかりやすい。が、あえて略式の定義が示してあるということは、それだけ正式な定義が難しいということのあらわれだと思うし、実際、正式なほうになるといまのままでは歯が立たない。

 一方、『圏論の道案内』の随伴関係では、積関手、冪関手というものが出てくるので、これについてわかっておくと少し先に進めるかもしれない。それを期待して、まずはこれらの関手について見ておくことにする(なお、本を参考にしつつも、自分の理解の流れと表現で書いていきます、図式も含め)。

 まずは積関手について。をのぞいたときに射の積を知ったので、対象の積のみならず射の積も考えられるようになった。そうなると、「Aとの積をとる」という関手A×( )を定義することができる。

 つまりはこういう感じになる(今回はidAではなく1Aで表記)↓




 積関手があるならば、冪関手も考えることができそう。その場合、対象はいいとしても、射をどうすればいいのかがまだわからない。つまり、次の図の「?」をどうするか。




 いったん冪の定義にもどると、評価射というものがあった。いまはXとYがあるのでそれぞれの評価射をεX、εYとする。




 そうすると、冪の普遍性より、X^AからY^Aへの射uで以下を可換にするものが存在する。




 冪関手( )^Aは f をこの u にうつすものとすればいいことになる。その雰囲気を出すため、uのことをf^Aと表すことにする(これは本でもそう書いてある)。




 そして、積関手をFA、冪関手をGAとして2つ上の図を書き換えると次のようになる。




 つまりはこういうことなのかな?と現時点では理解している。A×X^Aというのは、Xを冪関手でX^Aにうつしたあと、積関手でA×X^Aに移したものとすれば、FAGA(X)と表せる、と。A×Y^Aも射も同様に考えることができる、と。

 さらに、積関手も冪関手も、最終的にできた形が、恒等関手への自然変換になっていることへの言及がある。冪関手について示すと、以下のようになる。




 その意味がまだよくつかめていないのだけれど、次のような雰囲気でいまはとらえている。積の場合はいわゆる「射影」(A←A×B→Bのそれぞれの射)、冪の場合は評価射が、XやYに向かう形になっているから、束ねたとき、何もしない恒等関手への自然変換になりうるのかな?と。

 自然変換までもっていけるのも関手のおかげだと思うし、こういうことを考えていると、以前より関手の手触りがほんの少しだけ感じられるようになってくる気がする。
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圏論「転置」、どこへ行きたいか

 圏論の勉強でいま願っていることが2つある。ひとつは、相対擬補元との関係をもう少し具体的に感じたいということ。それから、随伴の雰囲気だけでもなんとかつかめるところまで行けないだろうか、ということ。

 そのためには、とりあえず「転置」をおさえておかなければならない。というわけで、まずは『圏論による論理学』(清水義夫)を参考文献として転置をみていくことにする。

 圏論「冪」、ものと働き図1のなかに、同じ記号gを使って片方だけ^をつけた2つの射があった。いま、gのうえに^がのった記号を^gと表すことにすると、^gはgの「転置」(transpose)と呼ばれるものであるらしい。




 余談だが、上の図ではgを本にあわせてループテールにしてみたのだけれど、やはりこれで書き続けると疲れるので、今回はふつうの手書きのgで書くことにする。それから、圏CのCは、これまで同様、花文字をイメージした我流の字体のCにて。

 gはC×A→Bの射、^gはC→B^Aの射であるわけだけれど、対象A、B、Cを登場人物として、かたや積から対象への射、かたや対象から冪への射となっている。

 この積と冪の関係には、次のような定理があるらしい。




 つまり、「C×A→Bの射の全体と、C→B^Aの射の全体は、全単射」ということになるらしいのだ。同じ記号gを使って片方にだけ^をつけているのだから、何かしらそういう関係のようなものがあるのかな?というニュアンスははじめから感じるが、実際そうであるらしい。

 証明は省略して先に進むと、この関係は次のようにも表される、と話は続く。




 これをふまえて、半順序集合の圏について考えると、任意の二つの要素に対して交わり∧が存在する半順序集合Pについて、AのBに対する擬補元(相対擬補元)と呼ばれる要素A⊃Bが




をみたすものとして定義されることがあり(A、B、CはPの要素)、相対擬補元が定義されている半順序集合の圏Poにおいては、Pの下限がPoの積であることを考え合わせると、上の関係はPoでは




であり、これはまさに(※)に相当しており、Poでの冪B^Aは相対擬補元A⊃Bに他ならない、ということらしいのだ。

 なぜ相対擬補元に興味をもっているかというと、相対擬補元はハイティング代数のなかで出てくるもので、ハイティング代数は直観主義論理と関わりがあると理解しているから。つまり、直観主義論理への興味のひとつとして相対擬補元がある。

 上記のような話の流れを「ふむふむ」と読むことはできても、それがいったいどういう意味を成すのかがわからないでいるのだった。

 次は参考文献を『圏論の道案内』(西郷甲矢人・能美十三)にかえて、転置をさらにみていく。こちらには転置、transposeという名称は見当たらないが、カリー化、アンカリー化の説明がなされている。

 カリー化というのは、「多変数関数」をただ一つの入力をもつ「一変数関数」の連鎖に交換することで、アンカリー化というのはそれを元の射にもどすことであり、『圏論の道案内』では、カリー化は「はたらき」を「もの」へ、アンカリー化は「もの」を「はたらき」へ、と説明してある。

 これがどう転置とかかわるかというと、gと^gでいうならば、gを^gに対応させるのがカリー化、逆の対応づけがアンカリー化ということになるらしい。

 その見方で上記(※)をながめていると、確かにそんなふうになんとなく見えないこともない。それが「多変数関数を一変数関数の連鎖に交換する」ということとどう関わるかはこれだけではよくわからないが、ひとまずこのくらいのことを理解しておけば先に進めそうな感じがする。わからなくなったらまたもどろう。
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圏論「冪」、ものと働き

 「冪」という漢字には「おおう」という意味があるらしい。確かによく見れば「幕」という感じが含まれているし、しかも「幕」にワかんむりがかぶさっていてなんだかすごくおおわれている感じはする。

 「冪(べき)」と聞いてまず思い起こすのは、累乗のこと。次に思い浮かべるのは「べき集合」。いわゆる部分集合全体の集合。このあたりまでの冪はなんとなく「べき」と平仮名で書きたい気分。

 そして、圏論にも「冪」が出てくる。まずは『圏論による論理学』(清水義夫)の定義の図を見るだけ見ておく。なお、この本では「巾」の漢字表記になっており、一意的に存在する射の点線記号は採用されていない。本を参考に自分で描き起こしたこの図を図1とする。

  図1
  


 次に、『圏論の道案内』(西郷甲矢人・能美十三)の次の記述に目を向ける(右肩に小さなAがついているBはB^Aと示した)。
AからBへの写像全体の集合を B^A と書いたりするが、圏論における冪はこれを一般化した概念だ。より正確にいうと、この集合と先ほど述べたような「ものから働きへ」を支える写像との組を一般化したものだ。
(Kindleの位置No.2910-2912)

 AからBへの写像全体の集合B^Aなるものがあったのか。べき集合と紛らわしいのだけれど。少し調べてみたところ、どうやら配置集合と言われるものであるらしく、ブルバキはこれを冪と呼んだとの注釈も目にした。

 上記引用部分からわかるように、『圏論の道案内』では「冪」のところで「もの」と「働き」の話が展開されており、私にとっては懐かしい響きだった。しかも、「もの」を「働き」と思ったり、「働き」を「もの」と思ったりするという話になっており、ますます懐かしい。

 そういう話を聞くと、図1の「B^A×A→B」の見え方も変わってくる。AからBへの写像とAの組からBが出力されるように見えてくる。ちなみに、射についている ev というのは evaluation のことで、『圏論による論理学』では「値づけ」、『圏論の道案内』では「評価射(evaluation morphism)」と呼んでおり、『圏論の道案内』ではevalと書いてある。

 『圏論の道案内』ではAからBへの冪の定義を「一般射圏(コンマ圏)(A×()→B)の終対象」としてあり、こうなるとコンマ圏を理解せねばならず、これがまた一仕事というかそれなりの大仕事なので、そこまで理解するのは今後の宿題にするけれども、その話を聞いたあとで図1を見ると、なんとなくそんなふうにも見えてくる。

 ところで、図1には積から積への射が含まれていて、しかもそこに射のかけ算が示されていたりする。ここはおさえておきたい。『圏論による論理学』の図を、向きを変えて示すと次のようになる(図2とする)。なお、射についての説明は省略している。π1とπ2が2つずつあって紛らわしいのだけれど、そのまま書いた。

  図2
  


 図2を次の図3の左側のように描きかえれば、右側のふつうの積の図と同じような感じになるな、と思った。

  図3
  


 なので、図1のC×A→B^A×Aを射の積の定義にしたがって『圏論による論理学』を参考に図示すると、以下のようになる。

  図4
  


 ちなみに『圏論による論理学』でも、「Setの場合を考えると,A,Bを集合として,B^Aは{f|f:A→B}といえる」と書いてある。
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圏論「sieve」、10年めの再挑戦

 『時間の正体』(郡司ペギオ-幸夫)に出てくる「ジーブ」がなんなのかわからず、悶々とした過去から幾年月。圏論で出てくるsieve(ふるい)のことだとようやくわかってきた。それにしても、どうして「シーブ」じゃなくて「ジーブ」だったんだろう?

 圏Cの対象aについて、aを終域とする射の集合で、ある条件を満たすものをaにおけるsieveというらしいのだけれど、終域ではなく始域の場合もあるようで、『時間の正体』の「ジーブ」は後者にあたる。どちらかをsieveと呼ぶと、もう一方はcosieveということになるのだろう。

 sieveのある条件というのは、圏Cの射fがその元であるならば、fと合成できる圏Cの射gがあるとき、gfも集合の元になるということ。つまり、含まれている元と合成することによりa→〇の形になるものはみな元になると私は理解した。

 aを始域とする射の集まりといえばコスライス圏のことを思い出すけれども、実際、nLab の cosieve のページには under category の文字がある。

 sieveもわかってきたことだし、『時間の正体』に出てくるジーブについて、とても久しぶりに考えてみることにした。例として以下のような出来事系列が示されている。なお、本を参考にしつつも私の理解と表現でまとめていくことにする。


 このなかに、aから始まる射はa→b、a→c、a→d、a→eの4つある。これらを元とする集合は2^4=16(通り)考えられるが、ジーブは元になっている射と合成してできる射も含んでいなくてはならないので、16通りすべてがジーブになるわけではない。

 たとえば、a→cという射を含む集合はa→dも含んでいなくてはならないし、a→bという射を含む場合は、結果的にすべての射が元となる。

 そうなると、元が1個なのは{a→d}と{a→e}だけで、元が2個になるのは{a→c,a→d}、{a→d,a→e}、元が3個になるのは{a→c,a→d,a→e}とわかる。これらに名前をつけて整理すると、ジーブは以下の7個となる。

  Sa={a→b、a→c、a→d、a→e}
  S0={}
  S1={a→e}
  S2={a→d}
  S3={a→c、a→d、a→e}
  S4={a→c、a→d}
  S5={a→d、a→e}

 このことが時間論とどう関わるかといえば、「いずれ過去になる程度を見積もる評価システム」として、「未来を見通せる出来事系列の集まり」を考えているのだと私は理解している(なお、この前に、内的限定観測者の話がある)。

 それはいいとしても、sieveを使って何をするのか、何ができるのかということが問題となってくるわけであり、それはかなりの大仕事になりそう。用語は書かれていないが、まずは真理値対象の説明がブール代数をもとに行われている(と私は理解している)。そして、ジーブを使うとどうなるのかの説明があり、束、分配束の説明を経て、排中律の乱れへと進んでいく。

 その道筋が理解できるともちろんうれしいけれど、そのためにはものすごくがんばらねばならず、そのがんばりのモチベーションがいまいちわかないのは、時間の意味論としての結論のメドがだいたいたっていることと、それを圏論で示したことになるのだろうか?という疑問があるからだった。

 実際、郡司さんも、マルコポーロさんの時間の意味論でこれ「これこういう部分が不十分だ」ということを示すために、まずはその内容を示しているのであり、肝心なのはその不十分さに対して郡司さんが何をしたのか、というところだと思うわけなのだ。

 そこまで理解するのには、10年では足りなかったと感じるきょうこのごろなのだった。
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圏論「トポス」、ちら見の既視感

 圏論を勉強しようとすると、視野のなかに「トポス」という文字が何かと入ってくる。忘れていたわけでもないのだが、思えば「場所」を意味する言葉だった。どう考えても難しそうだし、いくら圏論に興味をもったからといって自分がそれに関わることがあるようには思えなかった。

 しかし、もしかしてもしかすると自分の探し物のヒントがそこにあるのかもしれず、少しのぞいたら何かいいことがあるかもしれない。

 というわけで、ひとまず『圏論による論理学』(清水義夫)を開いてみる。トポスの定義を理解するには、「終対象」「積またはp.b.(プルバック)」「冪」「subobject classifire」の4つを理解しなくてはいけないもよう(なお、「冪」は本では「巾」の表記)。

 開いてみての既視感。といってもいわゆるデジャヴではなく実際に開いたことがある記憶のある既視感。これらの概念に果敢にも……というか無謀にも挑もうとした過去があったような気がする。

 とにもかくにも、トポスというのは「ある条件を満たす圏」であるらしい。それらの条件に上記の4つが関わってくる(「または」とあるのは、清水さんの本では定義が2通り示してあるから)。

 次に、『圏論の道案内』(西郷甲矢人・能美十三)のトポスのところをのぞいてみる。「第7章 圏論的集合論」で出てくる。こちらでは、トポスを理解するには「CCC」と「部分対象分類子」の理解が必要になってくる。

 「CCC」は「カルテジアン閉圏」のことで、「終対象」「積」「冪」をもっている圏であり、「部分対象分類子」は「subobject classifire」のことなので、定義は一致した。なお、「特性射(characteristic morphism)」も出ていていて、これまた既視感。

 ブログの該当記事を削除してしまったらしく足跡がたどれないのだが、おそらく『時間の正体』(郡司ペギオ幸夫)になんとかついていこうとしている途中かその派生での接触なのだろうということが7年越しの『時間の正体』から推測される。

 以前は物理学者マルコポーロさんの論稿がWeb上から読めた記憶があり、無謀にも読もうとして、そしてさっぱりわからなかった思い出があるのだが、いまは有料になっているのかどうか、とにかくアクセスできなかった。

 今思えば、郡司さんはよくこの本を一般向け(と言っていいのだろうか?)に書いたなぁと思うし、私もよく読みこもうとしたなぁと自分で思う。専門用語をあまり使わないようにされたのだと思うけれども、かといってまったく使わないわけにもいかず、やっぱりこれを一般人が理解するのはそうとうに厳しいと思う。かといって、専門的な知識がある人が喜んで読むようにも思えないし。

 ただ、それなりの冊数がある郡司さんの本から、自分にとってこの1冊がヒットしたというのは、何か意味があったのかもしれない。

 subobject classifire の図は、『圏論の歩き方』「第17章 圏論のつまづき方」にもちょろっと出てきていた。「筆順」がわかりくい例として。

 アップロードした手描きの図がブログ内の画像として残っていたので、そのころ私は書き順について考えようとしていたのだろう。特性射のところが点線になっていなくて、いまはそれが気になるので、あらためて『圏論の道案内』と『圏論による論理学』を参考に図を描いてみた。ついでに説明も入れてみた。「p.b.」も加えておいた。monoは単射と示した。



 なお、『圏論による論理学』では subobject classifire は真理値対象とも呼べるといったようなことが書いてあるが、『圏論の道案内』ではΩを真理値対象として、subobject classifire は「1→Ω」という射のことを指しているように読める。

 結局、「トポスってなんなんだ?」「どういうときに使うんだ?」「なんのいいことがあるんだ?」ということについてはいまだによくわかっていないのだけれど、とりあえず「論理」方面の話であるらしいということと、直観主義論理と関わりがありそうだということだけはなんとなく感じている。

 圏論の学び始めで『圏論による論理学 ―― 高階論理とトポス』にお世話になっておきながら、いまだにこんなことしか書けない。
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圏論「コスライス圏」、名前と記号のあれこれ

 圏論を学ぼうとすると、たくさんの「コ○○○」に出会う。

 コドメインから始まって、コイコライザーとかコプロダクトとかコユニットとかコリミットとかココーンとか。これらの「コ○○○」は、コを省いた「○○○」の言葉があるのでコをつけて新たな言葉にできるのだと私は理解している。

 それを言うなら、三角関数にだってcosine、cosecant、cotangentがある。つまり、「コ」は「余」なのだと思う。そういえば余事象という用語もある。

 日本語で考えれば「余」は「それ以外」という意味を表すと思うのだが、なぜ英語では「co-」(共に)になるものが「余」に対応するのだろう? ペアをなしている一方に対する他方と考えれば「余」、2つでペアをなすことができるという意味で「co-」なのか、と思ってみたり。それとも「余」や「co-」の意味が違うのか。

 先日、話題に出てきたスライス圏についても、コスライス圏という相棒がいる。このことに関して、圏論の学び始めで大変お世話になった檜山正幸さんのブログに、なんでもかんでも余をつけるのははイタダケナイナーということで、自分はオーバー圏、アンダー圏と呼ぶことにする、という主旨のことが書いてあるのを見つけた。

檜山正幸のキマイラ飼育記(はてなBlog)
オーバー圏、アンダー圏

 なお、檜山さんも『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』に「ソフトウェアの数理モデルと圏論」というタイトルで寄稿されている。

 私も、オーバー圏、アンダー圏がいいな、とそのときには思った。

 がしかし、人間やはり慣れというものがあり、一度、スライス圏やコスライス圏で書かれた文献を読む経験をすると、この言葉に慣れてしまって、別の言葉に変換するのが逆に大変になってくる。

 オーバー圏、アンダー圏という呼び方は、何をもってしてオーバー、アンダーと言っているのか、もとの意味はわからないのだけれど、たぶん、上方の対象からなる圏、下方の対象からなる圏という意味なのではないかと推測している。

 自分としてはその逆で、Aに向かうということ、Aが矢印の先にあるという意味でオーバー、Aから向かうということ、Aが矢印の元にいるというイメージでアンダーを考えるとわかりやすいと思っていた。なんて書くと、混乱してしまうのだけれど。

 これに記号表記が加わると、自分としてはさらに混乱してしまう。

 同じく圏論を学び始めのころお世話になった清水義夫『圏論による論理学 ―― 高階論理とトポス』(2007年)では、スライス“圏”という言い方はされていないが、「スライス」という圏について述べてあるところはあり、「↓」という記号が使われている。CのBによるスライスは「C↓B」というふうに。そして、CのBによるスライスは、CのBによる「カンマ圏」とも呼ばれることがある、という内容の注意書きが添えられている。コスライスは見当たらない。

 この書き方だとスライス圏とコンマ圏がイコールになってしまうが、まんまイコールではないと私は理解している。「↓」がどこから来たのかわからないのだけれど、私としては、「↓」はアンダーのイメージがあってわかりにくい。もしかすると、先にアンダーの発想があったのだろうか?

 ちなみに、『圏論の道案内』(西郷+能美)では、コンマ圏は一般射圏という呼び名になっており、一般射圏に「コンマ」のルビがついている。そのことについては本でも注釈が少し書いてあるが、あえてそうしているらしいという話を以下で読んだ。なお、このページはソーシャルボタンがついているので、リンクOKと判断した。

gihyo.jp
『圏論の道案内』発売記念 西郷甲矢人先生講演会 レポート
 第3回 自由な発想で圏論という景色を眺めてみよう
https://gihyo.jp/science/serial/01/category_theory_report/0003

 なぜコンマ圏というかというと、昔、コンマを使って表していたからだ、という話はほかでも読んだことがあるのだが、『圏論の道案内』では、「いろいろな記号があるが、どれもイマイチのような感じがする」という話も書いてあった。

 とにかく、「ここではこういう表記をするよ」と最初にことわればいい話なのだろう。

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圏論「米田の補題」、勇気を出して立ち話

 圏論を学ぼうとすると、とにかくこの「米田」さんのお名前によく遭遇する。遭遇しては、敬意を払いつつ軽く会釈して通りすぎるだけだったのだけれど、さすがにそういうわけにもいかなくなってきた。というわけで、勇気を出してお声をかけてみることにした。

 まずは、「米田の補題」のなんたるかについて、その一つの意味を日本語で語ってある表現と、記号を使って数学的に、しかしシンプルめにわかりやすく示してある表現をあげてみる(12の番号はこちらでつけたもの)。

1.「作用を受けるコト」と「作用を受けるモノ」の間の
  自然な一対一対応


2.Fを局所的に小さな圏CからSetへの関手とする。
  Cの任意の対象Aについて、
  「hAからF への自然変換」と「F( A)の要素」とは
  一対一に対応する。


 1は、『圏論の歩き方』所収、春名太一「圏論と生物のネットワーク」より(p.255)。2は、西郷+能美『圏論の道案内』第4章より。

 なお、春名太一さんも『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』に「普遍性とそのゆらぎ ―― ネットワークの圏論的諸展開」というタイトルで寄稿しておられる。

 とりあえず米田の補題は、何かと何かが一対一対応するということを言っているものらしいということはわかった。12の対応を考えると、「作用を受けるコト」が「hAからFへの自然変換」、「作用を受けるモノ」が「F(A)の要素」にあたると考えてよさそう。

 自然変換は関手と関手の関係だったので、hAはなんらかの関手なのだろうということはわかるが、このhとは何だろう? どうやらhom関手のhらしい。homという言葉は、射の集まりを示す記号として見た覚えがある。圏CのXからYへの射の集まりをHomC(X, Y)と書く、というふうに。

 ところでhomの語源って何だろうと思って調べてみたのだが、「同じ、似ている」を表す接頭辞のhomo-から来ているのかな?というくらいのことしか推測できなかった。

 ちなみにホモ・サピエンスのホモはラテン語で「人間」という意味らしい。上記のhomoはギリシャ語起源とのことなので、特につながりはないのだろうか。

 そういえば『圏論の道案内』の第1章に、「Homo sum.(わたしは人間だ)」から始まる詩が紹介されていた。ちなみにそんな細かいところまで覚えているわけではなく、検索して見つけた。こういうときKindle版って便利だなぁと思う。

 話をもとにもどすと、射の集まりは、いつでも集合になるとは限らない。対象X、Yを選ぶごとにHomC(X、Y)が集合になるような圏を「局所的に小さな圏」というそうなのだ。これで2の「局所的に小さな圏」の意味もわかった。

 あとは、『圏論の道案内』をメインの参考書として、hAだけ確認しておく。圏Cの対象Aを固定すると、圏Cのどれかの対象Xを選ぶごとに、HomC(A,X)を考えることができる。いま、これは集合になるから、Setの対象にできる。つまり、圏CのXをSetのHomC(A,X)に対応させるような関手を考えることができる。

 では、射はどうするか。

 射を考えるときには、合成が手がかりとなる。

 XからYへの射をfとして、HomC(A,X)のうちのひとつをαとすると、fαはAからYへの射となるから、HomC(A,X)からHomC(A,Y)への写像をHomC(A,f)にすればいい。


※『圏論の道案内』とは少しだけ描き方を変えています(向きなど)

 と一応書くけれど、HomC(A,f)に対して、「Aからfへの射の集まりって何?」とは思う。

 が、これ以上のことは立ち話では無理そうなので、きょうはとりあえずこの辺りで失礼しようと思う。

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圏論「自然変換」のひとつの経験としての量の理論

 この文章は、『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』p.147に示された図(以下、「単位系換算の図」)に触発されて書いている。なお、「量の理論」といっても、かつてこのブログに書いていたような数学教育協議会の「量の理論」の話ではない。

 「単位系換算の図」は、谷村省吾「科学の書き言葉としての圏論」の中で示されているもの。

 圏論を学ぼうとするとき、「射」はとりあえず理解できた気になれて、「関手」もなんとなく雰囲気はわかるけれど、「自然変換」でお手上げになる感覚があった。そしてどうやら、自然変換でつまずくのは私だけではないらしい(『圏論の道案内』第1章より)。

 「単位系換算の図」は、そんな私のような人が自然変換をつかみやすくするのにとても役に立つと思う。というわけで、「量を圏論で語る」ためではなく、「量を使って圏論の経験をひとつ重ねる」ために、この図について書いていこうと思う。

 なお、私の理解と表現で書いていますので、興味や疑問をもたれた方は、ぜひ、『現代思想』2020年7月号を直接確認してみてください。本文とはかなり違う書き方をしています。

        *     *     *

 まずは、圏の基本をおさえておく。といっても定義ではない。圏には3つの矢があることについて。

 ・ 対象から対象への矢である「射」
 ・ 圏から圏への矢である「関手」
 ・ 関手から関手への矢である「自然変換」

 これを比例関係で考える。

 たとえば、「分速aメートルでx分歩くとyメートル進む」という関係は、y=axという式で表すことができる。このxとyの関係を x → y と表すならば、aを「→」そのものと考えてもよい気がしてくる。「時間」と「道のり」のあいだに「速さ」があると考えることもできるし、「時間」をもとにして「速さ」が「道のり」を決めていると考えることもできる。

 矢印で表される関係があるのだから、そこには圏の可能性がある。(圏の定義については文末のリンク先を参照してください)

 ところで、x分とyメートルで考え始めたが、ここにはすでに「測る」というアクションが含まれている。「測る」前に量は存在するのか?という難しい議論はひとまずおいといて、まだ測られていない「生の量」を考え、それで構成される圏をつくり、ひとまず「生の量の圏」と呼ぶことにする。

 生の量は、このままだとどうすることもできないので、数値化したい。その方法は複数ある。たとえばAさんは、時間を秒で数値化し、道のりをメートルで数値化することを考えた。この場合、速さは毎秒○メートルで表すことができる。

 具体的には、時間が180秒、道のりが360メートルのとき、速さは毎秒2メートルとなる。

 一方Bさんは、時間を分で数値化し、道のりをフィートで数値化した。そうすると時間は3分、道のりは1180.8フィート、速さは毎分393.6フィートとなる。

 余談だが、「フィートで測るものさしってあるのかな?」という疑問から、このたびスティンプメーターなるものの存在を知った。ゴルフ場のグリーンコンディションを示すための器具であるらしい。ゴルフをやる人にとってはおなじみのものなのかもしれないが、私は初めて知った。器具も測り方もきわめて素朴で、逆に感動した。

 話をもとにもどすと、AさんとBさんは、それぞれの別の単位(時間も道のりも)で「生の量」を数値化した。これらの数値は比例関係にある。なので、実数の集合を対象とし、実数から実数への比例関係を射とする「数値の圏」を用意すれば、Aさんの数値化もBさんの数値化も、それぞれ「生の量の圏」から「数値の圏」への関手となる。

 というわけで「数値の圏」も登場したことだし、これから先は「生の量の圏」の“生の”を省いて「量の圏」とする。

 AさんもBさんも、「量の圏」から「数値の圏」への関手を作ったが、その方法は異なっていた。何が異なっていたかというと、使う単位が異なっていた。異なっているのは単位だけだから、ここに出てくる数値はお互いに関係しあっている。

 先ほどの例でいえば、Aさんの場合は「180――(2)―→360」、Bさんの場合は「3――(393.6)―→1180.8」と表すことができる。「180」から「1180.8」までもっていくとき、先に2をかけて360としたあとフィートの値にするために3.28をかけてもいいし、先に180を分の値にするために3にしたあとで、393.6をかけてもいい。

 そんなふうにして、Aさんの採用した単位系から、Bさんの採用した単位系へと換算することができる。これがいわゆる「自然変換」にあたるということだと私は理解した。

※ 以下は、『現代思想』2020年7月号(青土社)p.146、147からスキャンした図です。



(p.146より)



(p.147より)


 「生の量」を数値化するとき、その必要に応じていくつもの方法が考えられるけれども、そういう具体的な必要性を抜きにすれば、Aさんの方法が絶対的なものだとか、Bさんの方法じゃないとだめだとか、そんなことはない。どっちでもいいし、同じ生の量を、その構造を保持したまま数値化するという意味では同じことだ。同じことだけれど、やっていることは違う。同じだけど違うから、変換を考えることができる。

 こうやって考えると、自然変換がとてもイメージしやすくなる。

 さらには、「自然変換って、ふつうにやってることじゃね?」とさえ思えてくる。

 もちろん、自然変換のイメージをこれでかためてしまうのはよくないだろうが、「今回の自然変換経験」に「これまでの自然変換経験」や「これからの自然変換経験」を重ねることで、「自然変換」というものをよりクリアに、あるいはより深く、あるいはより幅をもって理解できるようになるのではないかと思うのだった。


※ 各種定義は、たとえば次のページを参考にしてください。

谷村省吾「物理学者のための圏論入門」
https://drive.google.com/file/d/0B-wUHJlJ-mgXRnFpcXE5Q1lVLUk/view
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量の次元

 前回、同じ量のお米を、いろいろな数値と単位の組み合わせで示せることについてみていきました。体積と重さ、尺貫法とメートル法、SI単位とそうでないものをごちゃまぜにして考えましたが、あらためて考えてみれば、体積と重さの違いと、尺貫法とメートル法の違いとは、同じ「違う」でもその違いかたが違いますね。

 どれがいちばん"違うっぽい"かは一概にはいえませんが、やはり体積と重さの違いは、とーっても違うという感じがします。他のことは、取り決めは大変だとしても、ストレートな換算のイメージがあるのに対し、「体積←→重さ」の場合、「お米ならば……」という前提が必要になってくるので。

 同じ1合でも、水だったりお酒だったりすると、数字が違ってくることでしょう。お酒の種類によっても違ってきそうです。つまり比重や密度の問題がかかわってくるのであり、g/^3 という新しい単位が必要になるわけであり。

 「長さと重さ」のような質の違いが、どうやら量の次元と関わるらしいのです(ここで「質」という言葉を使うのは、銀林浩『量の世界・構造主義的分析』の影響を受けてのこと…かもです)。

 個人的には、次元ときくと、1次元、2次元、3次元、……が浮かびますが、「量の次元」はちょっと趣が異なるみたい。というわけで、国際単位系(SI)をのぞいてみることにします。

 SIで使用される基本量7つ(長さ、質量、時間、電流、熱力学温度、物質量、光度)と、そのそれぞれの次元の記号が載っています。他の量はこれらの基本量によって組み立てられ、組立量の次元は基本量の次元のべき乗の積で表されるとのこと。

 無次元もしくは次元1の話も出てきています。これがいわゆる「ディメンジョンがない」というやつですね、きっと。数教協いうところの「率」。速さや密度のような異種の量がつくる内包量(こちらは「度」)ではなく、2つの物体に属する1種類の量からつくられる内包量。

 遠山啓は、ディメンジョンがない量を区別するため、「度」と「率」を分けたのでした。

 考えてみれば、秒速8m も 8秒 も 8 も 8g も 8^3 も 8g/cm^3 も、みんな「8」という数を使っているのに、どういう単位がつくかで量の質がまったく違ってくるのが面白いです。

 式でいえば、4×6=24 は、4m×6m=24m^2 かもしれないし、4m^2 × 6m = 24m^3 かもしれないし、4m/秒 × 6秒 = 24m かもしれない。

 24÷4=6 は、24m^2÷4m=6m かもしれないし、24g ÷ 4cm^3 =6g/cm^3 かもしれないし、24m ÷ 4m/秒 = 6秒 かもしれない。

 ということを、『数理科学』の谷村省吾さんの連載を読みながら考えています。もちろん、上記のようなことが書かれているわけではありません。この連載で「ベクトル空間の枠」なるものと初めて出会い、最初は「何それ!?きいてないよー!」となったのですが、どうやらこの枠が量の単位と関わってくるらしいのです。

 「枠」とは何かというと、雰囲気は「基底」に近いのですが、基底よりもしばりがあるもののようです。そのしばりというのは、並び順のこと。気づいてみれば、基底って順序は関係なかったのね。

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単位の森/180000と2.5をつなぐお米の事情

 前回、かけ算で新しい量をつくることを考えるにあたり、お米の量を題材として取り上げました。まずは「1合」で、そして「150g」で。150gという数値は実測から導いたわけではなく、検索してだいたいそのあたりらしいと知りました。ふだんは計量カップではかるだけで、重さを意識したことがなかったので。

 「とりあえず」150gで設定することになったのは、米1合はジャスト150gではないという意識があったからなのですが、mLなら180ジャストかというと、そうでもないらしいのです。検索したら180.39という、これまた中途半端な数値が出てきました。

 1人1泊1合にしたのは、「人数×宿泊数」にそのまま「合」をつければよいため簡単なのと、それなりにリアルな量だからということがありました。そして条件は同じのまま150gという量に変えることもできます。比例定数としては1より150のほうがわかりやすいかと思います。

 そういう意味では、150gじゃなくて180mLにすることもできるし、180佞砲癲180cm^3にもできます。「合」が尺貫法の体積の単位であることを考えると、同じ「体積」という量に換算したほうが自然といえば自然かもしれません。でも、はかりやすいのは重さかな。

 大量になったときにはどうすればいいかというと、kg や L という単位がいてくれます。あるいはこの際、どーんと「俵」で考えてみる!?

 「あれ?そういえば"俵"って……」と調べかけて、こういうことしてるとまた単位の深い森に迷い込みそうだと感じたので引き返すことにして、同じ量を示すいろいろな数値と単位についてもう少し考えることにします。

 たとえば、50人が20泊する合宿で必要なお米の量1000合は、1合を150g、180mLと考え、1俵=4斗=40升=400合とすると、150000gでもあり、150kgでもあり、0.15tでもあり、180000mLであり、180000佞任△蝓180000cm^3であり、0.18m^3であり、180Lであり、100升であり、10斗であり、2.5俵でもあることになります。

 重さだったり、体積だったり、単位系が違ったり…と状況は様々ですが、とにかくこれらのどれでオーダーしても、同じ「量」といっていいであろうお米が用意されるというのがなんだかおもしろいです。「1000」と「150」と「150000」と「0.18」と「2.5」はまったく違う数値なのに。もっとも、体積と重さを「同じ」というのはちょっと反則っぽい気がしないでもありません。

 単位のことを考えると、いつも頭がくらくらしてきます。と同時に、「単位って社会的なものなんだなぁ」としみじみ感じます。

 あっ、先日「木と森」についてのエントリを書きましたが、今回の表題の「森」という言葉はそのことは意識せずに書きました。俯瞰するのではなく、迷い込んだら自分がどこにいるのかよくわからなくなる場所というイメージで。

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