TETRA'S MATH

数学と数学教育

突然ですが、ガラスの話。/強迫神経症から、高見順の詩まで

 この夏は「ニート道」(←私の勝手な造語)にすっかりはまり、生活ブログの更新にいそしんでおりました。TATA−STYLEカテゴリー:pha著『ニートの歩き方』

 で。

 突然ですが、ガラスの話です。

 私は、自分が強迫神経症的であることを自覚して久しく、いまもその感覚と行動でもってして日々をすごしているのですが、いま現在、強迫症状が出る頻度がもっとも高いのが「ガラス」に関することなのです。

 ガラスの窓やドアのすぐそばを通っただけで割ってしまっていないか気になるし、スーパーの陳列棚のガラスも気になるし、飲食店で出てくるコップや、机の上にある調味料が入ったガラスの容器も気になります。

 そして、ちょっと遠出をしてお洒落なビルなんかに入ると、「世の中どうしてこんなにガラスだらけなんだ・・・」とくらくらしてしまいます。外壁、仕切り、エスカレーターの側面、吹き抜けの手すり・・・

 もちろん丈夫なガラスを使っているのでしょうし、いろいろと利点はあるのだと思います。当然のことながら、あれこれ検索もしていて、強化ガラスの特徴なども頭に入れてはいるのですが、そうはいっても現代のこのガラスだらけの建物、ガラス恐怖症からするとけっこうなストレスです。へんな話です。本来、軽量で圧迫感を感じさせず、開放感があるというのがガラスの特徴のはずなのに、そんなガラスに囲まれて、かえって重圧感や閉塞感や緊張感を感じてしまうなんて。

 ほんでもって、しょっちゅうガラスなどの確認行為を行ってしまう私は、一度家に帰ってからまた見にったり、翌日見に行ったり、へとへとになるのでございますが、最近は確認してもただじゃ起きない(!?)精神で、確認行為に付加価値というか意味を見出そうとする知恵がついてしまいました(これはたぶん、治癒の観点からはよくないことだよなとは思いつつ)。

 たとえば先日ICCに行ったときのこと()。行ったことがある方はわかると思うのですが、東京オペラシティタワーのICCの入り口のほうは大きな吹き抜けがあり、ガラス強迫の人が入れるような施設ではございません。なのになんで入れるのか自分でも不思議なのですが、強迫状態に陥っていなくて予期不安がないときには大丈夫なのです。っていうか、行きたいし。あと、少し気を張ってるし。その気がふっとはずれた直後、ふっと強迫観念におそわれると、もういけません。

 先日もそういう状態に陥ってしまい(このときにはアクリル?もからんでいた←という説明を追加する自分がつくづくめんどくさい)、一度は家に帰ったのですが、どうしても気になってしまい、結局、翌日またひとりで見に行ってしまいました。ついでにもう一度オープンスペースの《時折織成 ver.2――落下する記録》をちゃっかり堪能したので、この段階ですでに、確認行為というよりは「単にもう一度行った」だけの状態になっていたとはいえますが、それではなんだか終われなくて、何をしたかというと、書店に寄って、前日は立ち読みでさらっとページをめくっただけの『群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序』(郡司ペギオ-幸夫著/2013/PHP研究所)を購入したのでございます。自分の確認行為を正当化するために、「これは買えということだな」と勝手にメッセージに転化したわけなのでございます。

 そういえば、もはや詳細は覚えていませんが、『記憶と生』(アンリ・ベルクソン著、ジル・ドゥルーズ編、前田英樹訳/未知谷/1999)もこのノリで購入したような記憶があります。翌日ではなかったし、もしかしたら確認のために買ったわけでもなかったかもしれないけれど、この本のことが、リブロ青山店のエスカレーター近くのガラスとともに私の記憶にインプットされているので。

 でも、こういうちょっとしたご縁が、大きな分岐点になることも、人生においてはあるのかもしれないなぁ、とも思います。

 ほんでもって、そういえば大学の卒業文集の中で、私は「ガラス」の詩を紹介したぞと思い出し(照れくさいのでカラスのイラストを添えて…)、詩の内容は覚えていたのですが、だれの作品だったか思い出せなくて、検索でも見つけられなくて、あきらめていたところ、きょう、ふとしたきっかけで見つけることができました。

 まずは三好達治の名前を目にして(ちなみに私は『雪』が大好き。「太郎をねむらせ・・・」のあの詩です)、三好達治がヒントになる可能性はあるかも…と思って検索をかけたら、こちらのページにたどりついたのです。↓

用管窺天記高見順「ガラス」

 このページからそのままコピーさせていただきました。↓


  高見順「ガラス」

  ガラスが
  すきとほるのは
  それはガラスの性質であって
  ガラスの働きではないが
  性質がそのまま働きになっているのは
  素晴らしいことだ


 そうだったそうだった、高見順だった。名前が漢字3文字で、確かお子さんが芸能人だったぞと思いながら「檀一雄」で(それっぽくないなぁと思いつつ)検索かけたりしていたのですが、高見順でした。

 大学卒業時の自分がどういう理由でこの詩を選んだのか、いまとなっては思い出せませんが、たぶんあんまり深い意味はなくて、詩歌集か何かで見つけてきて「いいな」と思ったとか、その程度の話だったと思うものの、「自分の性質がそのまま機能になる」ような、そういう人生を望んでいたのかもしれないなぁ、という感じはします(ちなみにこの頃は確か、ガラスの強迫はあまりなかった)。

 で、それは実現できたのだろうか?とつらつら考えていて、あることに気づき、苦笑してしまいました。この場合の「働き」を、私は当初から、「機能」つまりfunctionと考えていて、ニートの「働かない」と同じ漢字であることを、すっかり忘れていたのです。ほんとうに、すっかり。

 あらためて考えてみると、「働く」「働かない」「働きたい」「働きたくない」「働ける」「働けない」というふうに動詞由来でこの言葉を変形させるのと、「働き」というふうに名詞でとらえるのとでは、その響きがずいぶん違ってくるように思います。働く人から「働き」が分離するようなニュアンスというか。

 たとえば私が、ニートの人の生き方から何かを得た場合、そこに「働き」はあると思うわけで、そのニートの人は、自分の意思とは無関係に、働いちゃったわけです。

 また、上記のページでこの詩が「なんまんだぶ」につながるというのも興味深いです。というのも、「ニート道」が気になるようになってから、私は一度「托鉢」で検索をかけたことがあり、さらにその後、坂口恭平さんの本を読んで、このなかに「教会で衣服をタダで手に入れることができる」話は書いてあるけれど、同じ宗教でも「お寺で何かもらえる」という話は載っていない、それはなぜなのか、ということが気になっていたいりしたので。

 このあたりについても、何か思考が広がったら、また生活ブログで書いていけたらいいなぁ、と思っています。

 さて、こちらでは何を書こう。何について考えようか。
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子育てブログで算数の話題(習熟度別学習/分数のかけ算・わり算)を書いています。

 こどものちかくのほうで、算数の話題(習熟度別学習/分数のかけ算・わり算)について書いています。いま、ここまで書きました。↓

1.2つの気持ち/習熟度別学習における分数の授業を観て
2.算数の問題のリアリティってなんだろう?
3.かけ算・わり算の文章問題における「1」の存在感
4.『「分数のかけ算・わり算」がペンキを塗る話になるわけ』
というテキストのこと

5.教科書における分数のかけ算の導入
6.「量の算数」は実現できているか?

 あえて子育てブログで、できるだけ平易な言葉を使うように心がけて書いていますが、やはりちょっとは用語っぽいものを使うことになっちゃています。

 あしたあたりから、習熟度別学習について考えていこうと思っています。

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(小さな連絡)

 読むために入会していたmixiを退会し、やはり読むために登録していたfacebookのアカウントを削除することにしました。 facebookは何もいじってないし、mixi経由でメッセージをやりとりすることが多かった方には個別にご連絡させていただいたので、そのほか特に影響はないと思いますが、念のためご連絡をば・・・
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レンタルDVDを返却する前に確認していたら気づいたこと>『電脳コイル』

『電脳コイル』について(ネタばれ含む)。

 1つ前のエントリで、

ところが、ヤサコがイサコを救う直前に2人がいる異空間は、それまでの“あっち”の空間ではないらしいのです。メガばあいわく、コイルドメインによく似た精神空間だ、と。そして、モニターを見つめながらこう言うのです。
これは分離ではない・・・リンク先は・・・内側?
と書きましたが(訂正済み)、DVDを見直してみたら、「あっちによく似た精神空間」にいるのはイサコでした。そして、そのあとヤサコの身体が「NO DATA」となるのだけれど、これは分離ではなく「内側にリンクした状態」ということのようです(2人の人体図がそうなっている)。

 だから、イサコはCドメインからそれによく似た別の精神空間(イサコの心の世界?)へ移り、ヤサコはヤサコで自分の心の世界(内側)にリンクし、お互いの心の世界がつながって、会うことができたということではないかと私はとらえました。と、野暮の上塗り・・・(−−;
 
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『電脳コイル』感想・3/人と人のつながり、空間のリンク(ネタばれ含む)

 鈴木健『なめらかな社会とその敵』がきっかけとなり、『電脳コイル』を全話通して観て、感動したので、その感想を書いています。きょうは、物語終盤になってはじめてわかることもバリバリ書きますので、ネタばれを避けたい方は、読まずにいてくださいね〜(^^)。

『電脳コイル』
http://www.tokuma.co.jp/coil/



 『電脳コイル』の中心となる登場人物は小学生たちなので、その家族が出てくることもよくあり、特にきょうだいの存在は大きいです。たとえば主人公のヤサコの妹、フミエの弟などが物語にからんできますし、ハラケンのおばさんであるところのオバちゃんは、ハラケンの姉ではないけれど、ハラケンを溺愛する親戚ということの意味は大きいです。さらに、終盤近くでわかってくる猫目弟にとって、猫目兄の存在はとても大きいわけです。そしてなんといっても、もうひとりの主人公と言ってもいいイサコの兄の存在が、この物語の根幹を支えているといってもいいのではないかと思います。

 そんなこんなで、「なぜそんなことをするのだ?」という登場人物の行動の動機を支えている最も大きいものは、血縁関係だと感じました。たとえば猫目兄の行動の動機には、父と母の存在が大きく関わっているわけであり。

 一方で、血がつながっているからわかりあえる、大切にしたい、というわけではないことが、イサコの家庭事情からわかります。

 というわけで、この物語を支えているベースは血縁関係という人と人のつながりなわけですが、片や、この物語が行き着こうとしているその先にあるのも、「人と人のつながり」なんだなぁと思うことであります。

 『電脳コイル』では、毎回オープニングのときに、「・・・によると、・・・そうです」という、ヤサコの「きょうのひとこと」のようなフレーズが入るのですが、第24話のオープニングでは、次のような言葉が出てきます。

天沢勇子の言葉によると、人と人とをつなぐ心の道は、細く途切れやすいそうです。

 そして、最終回では、イサコをヤサコが救い出したときに、イサコはヤサコに次のように言うのです。

私、あなたのことが、嫌いだった。でもわかったの。なぜ嫌いだったのか。ずっとこわかった。だれかと心がつながることが、こわかった。

 この、「だれかと心がつながることが、こわかった」というイサコの言葉は、胸にしみます。そして、「でも、もうこわくない。見失っても必ず道はどこかにある」とイサコは続けるのでした。

 ほんでもって、ヤサコがイサコを救い出そうとしている間、2人は“あっち”の世界にいっているのですが、“こっち”の状況はどうなっているかというと、イサコは病室のベッドに横たわっているし、ヤサコはそのイサコにおおいかぶさっているような形になっています。

 そして、メガばあ(ヤサコの祖母であるハイパー老婆=イサコを治療した医者オジジの奥さん)たちは、2人の影とモニター画面をのぞきながら状況を見守っているのです。モニターには(サーモグラフ分析をしているような)色分布のある2人の人体図が示されており、リンクはどうなっているか、という会話が交わされます。

 ちなみに『電脳コイル』では、「古い空間」をはじめとして、異空間の話がよく出てくる(というか重要な)のですが、複数出てくる異空間の関係が、全部見終わったいまでもいまだによくわかっていない私(^^;。なお、最終的に要となるのはCドメイン(コイルドメイン)というもので、これはイサコを治療するために作られた精神空間なのだろうと理解しております。普通の子どもは入れないのですが、ヤサコは特別な状況にあり、入れる(接続できる)ようになっています。そして、ヤサコやイサコから分離した電脳体が“あっち”の空間に行っているときに、現実のからだは“こっち”の世界で「NO DATA」と示される黒い影となっているわけなのでした。

 つまり、リンクというのは、“あっち”の世界にいる電脳体と“こっち”の世界にいる生身の身体のつながりであり、電脳体が生身の身体にもどってくるときに、「リンクがもどってくる」ということなのだろうと私は理解しています。それ以外でも、“あっち”の世界に行っている人の情報がこちらで得られるという意味でのリンクという言葉も使われているようです。

 ところが、ヤサコがイサコを救う直前に、ヤサコがいる空間は、それまでの“あっち”の空間ではないらしいのです。メガばあいわく、それとよく似た精神空間だ、と。そして、ヤサコの身体が NO DATA になったときに、ヤサコのモニターを見つめながらこう言うのです。

これは分離ではない・・・リンク先は・・・内側?

 物語を観ているときには、ひとつひとつのことにあまりこだわっていられないので(^^;、全体の流れから感じることをまとめて受けとめるわけですが、DVDなので何度か観直すことができ、あの台詞はなんだったのか、どういうことだったのか、とあらためて考えているところです。

 で、上記の「私、あなたことがずっと嫌いだった」というイサコの言葉にもどると、その前には次のような会話がヤサコと交わされます。

イサコ「あなたの夢につながっていたのね」
ヤサコ「うん。いつも不思議に思ってた。私の心の世界は、ずっとあなたの心の世界につながってた」

 この会話は鳥居がたくさん並んだ階段の上で行われるのですが、この鳥居の階段はヤサコの記憶とも夢ともつかぬところにある場所で、「ここはいったいどこなのだ?」ということが、物語の最初から謎として出てきていました。なお、ヤサコは、リアルな“こっち”の世界で、この場所をさがしたりもします。

 つまり、イサコの治療のための精神空間から、ヤサコ&イサコの心の世界の通路に移り、そこから“こっち”にもどってきたのだろうと私はとらえています。“あっち”の世界への通路が開くときには、昔ながらの鍵穴のような形が浮き上がるのが印象的なのですが、ヤサコ&イサコの心の世界を接続させたのが、「痛み」の呼応ということになのだろうと。

 って、書きながら自分でも、野暮なことやってんなーーと思うことであります・・・m(__;)m

 しかし、イサコとヤサコは仲良しになっておしまい、というラストシーンにはなっていません。2人は中学生になり、はなれたところで暮らすようになります。そして電話をかけてきたイサコに、ヤサコが「私たちって友だちになれたのかな?」ときくのですが、イサコは、自分には友だちというものがよくわからない、でも、おまえは同じ道を迷って同じ道を目指した仲間だ、と答えます。そしてこう言うのでした。

 私みたいな人間は、いつまでも他人といっしょにいては、自分の道が見えなくなってしまう。

 「そうかもね・・・」とヤサコが答え、

またあおう。同じ道を迷ったときに。

とイサコ。

 例の一件で、つっけんどんなイサコの性格ががらっとかわってしまうというのはやっぱりリアリティがないわけであり、このラストは納得させられます。ちなみに、このシーンのあと、さらに感動的な1シーンがあるのですが、さすがにこれは言葉にできないわ・・・(うるっ)

 とにもかくにも、このエントリで何が言いたかったかというと、『電脳コイル』では「道」という言葉が2通りの意味で使われているなぁ、ということです。1つは、通路としての道。ちなみに、物語には2つの「交差点」が出てくるのですが、このことの意味も深そう。まず、通路としてのこの「道」の意味がとても大きい。そして最後に出てくる、自分の道。

 また、ハラケンという登場人物は、電脳ナビの誤動作による交通事故で死んでしまったカンナという女の子の死に責任を感じ、カンナに会うために“あっち”の空間に行こうとするのですが、最後の最後では、「ぼくの心の中のカンナが、心の道を通じて会いにきたのかも・・・」と言います。

 そう考えると、エンディングテーマの池田綾子『空の欠片』の意味も深まってくることであります。歌詞を引用しようか迷いましたが、引用のかわりにAmazonの該当ページをリンクさせてもらいます。最初のフレーズが試聴できるもよう(ちなみに、オープニングテーマの『プリズム』も物語にぴったりで素敵です。いちばんはじめの不思議な音が、空間の不安定さとマッチして、『電脳コイル』始まった〜!という感じがします^^)。

 なんか最近こういうことどこかで考えたぞ・・・?と思いきや、生活ブログ:TATA−STYLEのほうで書いた2つの「網」のイメージにつながるかもしれません。>「網」のイメージもうひとつの「網」のイメージ

 道は、細く途切れ途切れだけれど、つながっている。ときどき見失うこともあるけれど、ゆっくり丁寧にさぐれば、見えてくる。つながっていると信じることで、つながっている。

 って、書けば書くほど野暮という気がしてきたので、『電脳コイル』の感想はこれでおしまいにします〜。ネタばれ気にせず最後まで読んでくださった方も、結局なんのことかさっぱりわからなかったと思うので(^^;、興味をもたれた方はぜひ観てみてくださいませ〜!

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ドメインといえば、圏論にも出てきてたじゃないか

 『電脳コイル』感想・2/郵政局とドメイン(ネタばれ含む)のなかで、

 ドメインときくと、いわゆるインターネット上のドメインのことを思い起こしますが、それ以外にもいろんな場面で使われている言葉なのですね。ひとまず、「領域」と考えればいいのかな。

と書きましたが、なんかcodというアルファベットの並びが頭に浮かび、そういえば・・・と思って久しぶりに圏論のテキストをのぞいたら、あらま、始域がまさにdomainでしたね。>圏の定義に出てくる「域」、「恒等射」

 サイト内検索をしたら、こんなエントリも発見。>数や集合や関数は、どんなふうに「存在」するのか

しかし、ダメットは、様々な数学理論の中で数論と解析学と集合論だけは特別だと主張し、なぜ特別あるいは基礎的であるかといえば、これらの理論がドメイン(各理論がその中で展開される場)形成の役割---数論は可付番ドメイン、解析学は非可算ドメイン、集合論はさらに高階の無限に関して同様の役割---を果たしているからだとしています。
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『電脳コイル』感想・2/郵政局とドメイン(ネタばれ含む)

 鈴木健『なめらかな社会とその敵』がきっかけとなり、『電脳コイル』を全話通して観て、感動したので、その感想を書いています。

『電脳コイル』
http://www.tokuma.co.jp/coil/



 『電脳コイル』には、サッチーとキュウちゃんというものが出てきます。“もの”のところにどんな言葉を入れればいいのか迷って結局“もの”にしたのですが、古い人間なので(^^;高性能ロボット、あるいは機械と入れたくなります。実際にはプログラムというかソフトというか、そういうものであり、それが視覚化された形がアニメを観る私たちには見える、ということなのでしょう。ウィキペディア「電脳コイル」の説明を参考にしながらサッチーとキュウちゃんの説明を試みます。

 サッチーというのは、「違法電脳体駆除ソフト」で、正式名称は「サーチマトン」というそう。この物語の舞台である大黒市の、市役所の空間管理室が導入したものであり、見た目は赤い巨大な“おきあがりこぼし”という感じです。ウィキペディアの説明に、「顔は日本の郵政省のマスコットキャラクター(〠)に似ている」と書いてあり、なるほどそういうことかと納得しました(後述)。

 キュウちゃんというのは、やはり大黒市が管理するセキュリティプログラムで、見た目は白い球体をしています。正面からみると横線が2本、中央から下にのびる縦線が1本あり、なるほどこれは〒のマークだと、このたび気づきました。

 キュウちゃんは浮遊しながら市内を巡回し、サッチーの探査範囲をひろげます。また、自らもビームを発射して小規模なバグを初期化したり、データを修復したりします。サッチーは腹部にキュウちゃんを4機収納できます。

 しかし、あまり高度な識別機能を持っていないので、ほんの少しバグを持っている電脳ペットや、子どもたちが(駄菓子屋ならぬ)メガシ屋で買うような「お茶目な電脳ツール」も駆除対象と認識して攻撃してきます。なので子どもたちは、サッチーやキュウちゃんから逃げてまわることになります。

--- ちなみに、現実社会の日本では、防衛省がキュウちゃんを開発しているようです(笑)→http://www.youtube.com/watch?v=5bQlLi3sa4o(防衛省というのが、いかにも・・・!です^^)-----

 しかし、キュウちゃんとサッチーは神社・学校・民家には入ってこれません。なぜかというと、キュウちゃんとサッチーは郵政局の管轄であり、神社は文化局管轄、学校は文部局管轄、そして民家はホームドメインなので、入っていけないということらしいのです。「縦割り行政」からこのような状況が生じているもよう。

 郵政局と空間管理室の関係がよくわからないままなのですが、空間管理室は市役所内の機関のようです。郵政局は国なのかな?  空間管理室は郵政局の管轄ということなのだろうか。ちなみに、主人公ヤサコの父親は、電脳メガネ関連企業「メガマス」の社員なのですが、空間管理室に室長として出向しています。また、17歳の高校生であるオバチャン(登場人物の1人である小学生ハラケンのおばさんなのでこう呼ばれている)が、客員顧問をしてたりします。

 そんなこんなで、街中でサッチーに見つかったりおいかけられたりしたときは、子どもたちは神社に逃げこむことになります(大黒市には神社がけっこうある)。つまり、神社や学校や民家は、郵政局の「管理外ドメイン」ということになります。

 ドメインときくと、いわゆるインターネット上のドメインのことを思い起こしますが、それ以外にもいろんな場面で使われている言葉なのですね。ひとまず、「領域」と考えればいいのかな。

 私はこのたび、『電脳コイル』を全話通してもう一度観ることになって、サッチーやキュウちゃんと郵政局の関係を意識するようになったのですが、次の方もおっしゃっているように、総務局ではなく郵政局というのがいいなぁと思います。
https://twitter.com/aegis09/status/140268796173762560

 また、次のような面白い感想も発見↓
http://bp.cocolog-nifty.com/bp/2007/05/coil_ai_ee02.html

 現実社会での日本の郵政省は、郵便事業だけではなく電気通信や放送行政も取り扱う省庁だったわけですが、やはり郵政省は「情報をはじめとする何かを運ぶ」ことに関するお仕事をする機関だと思うわけであり、それが進化するとサッチーやキュウちゃんのような仕事につながるということは、いろいろとイメージが膨らむ話だし、それなりにリアルだという気がします。情報を運ぶことに関するお仕事は、まずインフラを整えることから始まり、それが空間管理につながっていくという発想。

 なお、『電脳コイル』のなかで古い電話が出てくるシーンはありますが、郵便物が出てくるシーンはなかったと思います(私の記憶では)。2026年って、郵便局はどうなっているのでしょうねぇ。ポストはあるのかしらん? そういえば、ペット会社のメモリアルって、どんな形で届いたんだろう・・・ メールかな。宅配便かな。

 ほんでもって、『電脳コイル』観終わったで、鈴木健さんの記事を2本リンクしましたが、あの記事の間にもう1本別の記事があるので、リンクしておきます。(『電脳コイル』の2次創作としてのフィクション・インタビューが示されています)。↓

「物理空間の統治者は電脳空間の統治者であるべきか 〜Nagaya1730プロジェクト管理人に聞く!〜」
http://japan.cnet.com/blog/suzukiken/2008/05/04/entry_27001169/

 ふむふむ。勝手ドメインか。
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『電脳コイル』感想・1/本物って何? 実在って何?(ネタばれ含む)

 鈴木健『なめらかな社会とその敵』がきっかけとなり、アニメ『電脳コイル』を全話通して観ました。感動しました。

 で、どこからどう、感想を書いていこうかなぁ・・・と考えこみながら、他の方の感想を読むべく検索していたら、こちらのページを発見↓

平凡日記(kottoriさん)
>「電脳コイル 感想(ネタばれ)」
http://blog.livedoor.jp/kottori/archives/51578949.html 

 この作品のもっとも大きなテーマであると思われることにズシッと迫っておられます。すばらしい。期せずして、宮崎駿のiPad批判も取り上げておられます(なぜ期せずしてかということについては、つながる快感にて)。

 『電脳コイル』というお話は、「電脳メガネ」をかけた子どもたちを中心に展開していくのですが、「電脳メガネ」というのは、いわば「身につけるコンピュータ」であり、電話やインターネットができるだけではなく、メガネをかけていることで見えるものが、“現実”の世界と重ね合わせの状態になります。しかし、メガネをかけていない人には、メガネをかけないと見えないものは見えないし、存在があやふやです。

 たとえば、電脳ペット。主人公ヤサコ(本名は優子/ユウコ)にはデンスケという犬のペットがいますが、これはメガネの世界の電脳ペットなので、抱き上げることはできても触れることができません(温かさや毛並みの感触などがない)。そして、ふだんあまりメガネを使わないヤサコのおかあさんには、その存在がはっきりと認知されません。イメージとしては、パソコンの中で飼っている架空のペット、古くは「たまごっち」のようなものが、すごーく進化したものと考えればいいと思います。

 なので、デンスケが死んだとき、ヤサコや妹のキョウコにとってはそれは本当の「死」なのですが、母は「デンスケちゃん、亡くなったそうね・・・」としか言うことができません。ペット会社から「メモリアル」というものが届いたことが、母にとってはデンスケの死を認知するよりどころとなります。しかし、母は「そんなの架空のペットでしょ」と切り捨てることもしません。自分が飼っていた(電脳ペットではない“本物の”)ペットが死んだときのことの話をヤサコにきかせます。

 途中ではほとんど存在感を感じさせない母ですが、最終話近く(第24話)になって、大騒動がおきたときに、娘を抱きしめながら自分の身体を感じさせ、このように触れられるものが信じられるものなのだ、それが生きているということなのだ、メガネの世界はそれがないでしょ、生きている世界、あったかい世界にもどってきなさい、メガネはもうおしまい、とやさしく諭します。

 私はこのシーンを6年前のテレビ放送時に観ていて、そうか、そういうテーマに着地するのか、なるほどねぇ・・・と思った記憶があるのですが、実はこのあとがあったのです。このあとを観ないと意味がなかった。

 ヤサコは一度、「これからは、手で触れられるものだけを信じて生きていこう」と自分に言い聞かせようとしますが、そうしながらも、いまここにある“悲しい気持ち”や“胸の痛み”はなんなのだ、と問い直します。触れられないのでまやかしなのか、信じられるものではないのか、と。「本物って何?」と。そして、今本当にここにあるもの、まちがいなくここにあるのは「胸の痛み」であり、今信じられるのはこの痛みだけだ、という答えを出し、「痛み」を感じられる方向に本当の何かがあると信じて、「痛み」を道しるべに行動を起こしていくのです。



 「痛み」といえば、郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったことを思い出します。外部との接触面にできる亀裂が、「痛み=傷み」、あるいはダメージであり、それがインターフェースであるということ。

 また、松岡正剛さんの千夜千冊>岡潔『春宵十話』に関して「ない」と「ある」と数学、痛覚。というエントリを書いたことも思い出します。あそこでも「データ」という言葉が使われていましたね。『電脳コイル』で、“あっち”にいっているときの“こっち”の身体は半透明の黒い状態となり、「NO DATA」と示されるのが印象的でした。

 などなど、連想はつきません。ついでにいえば、富田靖子主演のテレビドラマ『ネットワーク・ベイビー』も思い出してみたり(1990年だって! 23年前だ〜)。子どもを失った女性が、ビジュアルチャット(?)のなかで、子どもを育てる物語です。(感想お借りします↓)
http://run-castle.cocolog-nifty.com/runcastle/2005/06/post_48e4.html
(私の記憶では、コンピュータのなかの子どもは架空でも、最後のほうで、女性の身体にリアルな変化が起こることがわかる場面があったかと思います)

 連想といえば。メタメタさんが最近(2013年5月)、また面白いこと考えておられるようですね(^^)。過去の経験から、メタメタさんの興味に私がたどりつくのに少なくとも2〜3年はかかるようなので、そのくらい時間がたったら、私もそこに向かうことになるのかもしれません〜
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『電脳コイル』観終わった

 レンタルDVDで第1話から少しずつ観ていた『電脳コイル』の最終話を、先ほど観終わりました(9巻、全26話)。最後のほうは一気に観たので、まるで映画を観終わったときのような心持ちでございます。いやぁ、思ってたより濃かったわ・・・ 途中いったんなかだるみしますが(と個人的には思いましたが)、第20話くらいからはぐわーっともっていかれる感じでした。これを1話ずつ1週間あけて観なきゃいけない状況って、逆にしんどいかも〜〜

 予定では、次のエントリは、キュウちゃんとサッチーと郵政局に関するものになるはずだったのですが、最終回まで観てしまうと(そして観た直後だと)、そういう気分にはなれないものですねぇ。ちなみに後半では、「電脳」とかそういう問題をおいといて、社会的にちょっとコワイものを感じる展開になってきて、最終的には「なるほどねぇ」というところに話は落ち着いていきます。

 鈴木健さんが『電脳コイル』に言及している記事を発見↓ (なお、私は、パラレルワールドというような観方ではこのアニメを観ませんでした。)
http://japan.cnet.com/blog/suzukiken/2008/04/15/entry_27000539/
http://japan.cnet.com/blog/suzukiken/2008/05/19/entry_27001587/

 小6娘の感想→ 「深すぎた、私には・・・」

 きょう書けるのはこれくらいだなや。

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娘が教えてくれた、「三角関数が倒せない歌」

 娘がひょんなことで、You Tube の次の動画に行き着いたらしく、私に教えてくれました。
http://www.youtube.com/watch?v=Uu3l27Wlbb8

 他にもいろいろ替え歌があるんですねぇ〜〜

 そういえば大学生のとき、キャンプファイアーでプチ出し物をしたときに、私たちのグループは「三角関数のグラフの身体表現」をしましたっけ。sinとcosは波を表現し、原点との交わり方に気をつけるだけで、tan担当の人は、びよんびよん、身体を反らせながらはねるのですd(^^)

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