TETRA'S MATH

数学と数学教育

「野矢先生&池田くん」と内部観測

 講義が終わったあと、池田くんは野矢先生に長い質問状を渡しました。

 そうすると野矢先生は
 「池田くんに答える」という返事をしたため、
 今度は池田くんから
 「「池田くんに答える」に答える」が提出され、
 野矢先生はさらに
 「「「池田くんに答える」に答える」に答える」を書きました。

 本文の内容との関わりはともかく、上記のやりとりそのものを読んで面白いなぁと思うのは、最初の1通をのぞいて「問い」がないことです。「問い」がないのに、ひたすら「答え」が続けられていく。

 となると思い出すのは「やぎさんゆうびん」のこと。シロヤギさんもクロヤギさんも、「さっきの手紙のご用事なあに」という手紙(最初の1通をのぞく)を出し続けます。こちらには「答え」がなくて、「問い」だけがあります。ひたすら「問い」が続けられていく。(歌では2番までかもしれないけれど)

 「問い」だけを続けていくということは可能だと思うのですが、「答え」だけを続けていくというのは、不可能だと思うのです。問いのあるところに答えがあるとは限らなくても、答えがあるところには必ず問いがある。問いがなかったら、それは答えとは言わないだろう。

 実際には、池田くんが受け取った「池田くんに答える」には、池田くんへの質問が含まれていたのかもしれません。また、池田くんは「池田くんに答える」を読んでも疑問が解決しなかったか、新たな疑問がわいたかで、「「池田くんに答える」に問う」形で、「「池田くんに答える」に答える」が提示されたのかもしれません。

 でも、字面では「答える」という行為だけが繰り返されているので、まるで、やりとりそのものに「問い=答えを生じさせる何か」がないように見えます。なのに答えが続けられるとしたら、それはいわゆる内部観測でいうところの「同定」なのではないだろうか。

 もう一度、松野孝一郎『内部観測とは何か』(2000年)から、序章の冒頭部分を読んでみます。
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野矢茂樹『無限論の教室』のあとがき

 最近は、図書館に行っても、目的がないときは「数学コーナー」に立ち寄らないようになっていたのですが、先月、借りていた本を返しにいったときに、なんだか気がむいて、久しぶりに数学コーナーをのぞいてみました。で、背表紙を眺めていたら、ふと、野矢茂樹『無限論の教室』(1998年) が目にとまったしだい。「あらまあ、こんなところで野矢茂樹・・・」なんて思ってしまったのですが、とりあえず手にとり、図書館内の椅子に座ってぱらぱらとページをめくったのでした。

 もとより読み込む予定はなく、オープニングや途中の何ページかを、本当にパラパラとめくっただけで、内容はほとんど読まないまま、タジマ先生のキャラに「くくくっ」と心の中で笑いました。なるほどあとがきにあるように、著者はこの本を書くのが楽しくてしかたなかったことと思います。たぶん、書いた本人がいちばん楽しかったんじゃないかしらん!?

 で、あとがきを続けて読んでいたら、野矢茂樹と池田くんという学生の文通めいたやりとりの話が出てきて、それに妙に心を惹かれたのです。そのときは、借りるほどではないかな・・・と思って本棚にもどし、野矢茂樹と池田くんの“「答え」が入れ子になったやりとり”のことだけ頭に入れて帰ってきたのですが、このたびエントリを書くにあたり、図書館から借りてきました。

 そのやりとりとは、次のようなものです。

 本書の内容は、私が大学で一九九六年度と一九九七年度の冬学期に行った講義に基づいている。そして、一部の学生がこの講義をとても楽しんでくれていたことが、励みになっている。とくに、池田くんには感謝したい。池田くんを含む数名の学生は、講義が終わると必ず私に論戦を挑んできた。そして池田くんと私との間には何回かの文通めいたやりとりさえ行われた。彼から長い質問状が手渡され、私が「池田くんに答える」という返事をしたためると、次には「「池田くんに答える」に答える」が提出され、私はさらに「「「池田くんに答える」に答える」に答える」を書く、といった状態だった。本書の中に、彼からの質問がいくつか反映されている。
 この池田くんとのやりとりが妙に頭に残って、うちに帰ってから、ぶわ〜っといろいろなイメージがわきました。そのイメージを、ちょっと書き起こしてみたいと思います。

(つづく)
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自己批判

 私はこのブログで時々、遠山啓や数教協を批判するようなことを書いているかもしれませんが、根底にはいつも、深い感謝と応援の気持ちを抱いています。何しろ、自称「数教協の落とし子」。時代的にも家庭環境的にも、遠山啓および数教協の恩恵を一身にあびて育ってきた人間だと自覚して久しいです。だからこそ、私の中に相対化されないまま入り込んできている考えを、あらためて取り出し、問い直し、そして受けとめなおす作業をしなければいけないのだろうと思っています。

 そしてもうひとつ思うことは、遠山啓が本当にやりたかったことの核の部分、遠山啓があの時代の数学者として教育者として、私たちにどんなメッセージを送ろうとしてくれていたのか、それを知りたい、ということがあります。もしかするとその核の部分は、現・数教協の先生たちも気づいていないかもしれない。それを知って、抽出して、自分の言葉で表現したい。というのが、私のライフワークの1つです。

 で。

 最近よく話題に出す、堤清二著『消費社会批判』ですが。著者に対して、「おまえがそれを書くか?」と思う人も多いだろうと思います。ということについては本人もあとがきで触れており、「体験をふまえた産業社会批判の書であると同時に、その中で経営者として行動してきた自らへの自己批判の書でもある」と書いています。
 このように書くと「今更そう言われてもなぁ」と思う読者もいるかもしれない。あるいは強い叱責の声もでるかもしれないと思う。

 でも、逆に言えば、堤清二ほどこの本を書くのに適した人がほかにいないのかもしれません。

 私は堤清二が特に好きでも嫌いでもないのですが、そんなつもりはなくてもどうしたってセゾン文化の影響は受けているだろうし、とにもかくにも最近しみじみ思うことは、1979年の段階で無印良品を作ったってのはあらためて考えるとすごいな・・・ということなので、ちょっと興味をもったのでした。あとがきにはこんなことも書いてあります。
・・・、そのことと平行して、あるいはそれにもまして私は今なお現場にあって日夜苦労しているビジネスマンとその指導者にこの書がどう受け取られるかが大変気がかりである。私はビジネス社会とその中で働いている人たちに深い共感を持っていると自分では思うが、この本の叙述の方法と姿勢がその気持をうまく伝えていないとすれば、それは私の表現方法とそれを支えるべき思想の浅さゆえである。

 なお、自己批判、自己批評の話については、鷲田清一『死なないでいる理由』にもちょっと出てきていました。>収縮する「わたし」
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マージナル/意外なところで「境い目」に出会う

 年末にAmazonで堤清二『消費社会批判』の中古を注文したら、すぐに届きました。で、ざーっとページをめくってみたところです。まだ読んではいないので面白いかどうかはわからないけれど、いろいろなジャンルの人名や概念が出てくることに、ちょっと驚いています。でも、たとえばヴィトゲンシュタインやサイバネティックスが出てきても、不思議でないといえば不思議でないのかもしれません。

 この本を読もうと思ったのは、堤清二・三浦展著『無印ニッポン』の中でマージナル産業という言葉を知ったことがきっかけでした。マージナル産業とは何かというと、『無印ニッポン』においては、「一番端っこにあって、商品の性格が変わる場所にある産業」という説明がなされています。マルクス『資本論』第一巻第一章と関わる話であるらしく、「無印良品は、どんな人に支持してもらい、広がっていってほしいと思いますか。」という三浦展の質問に対する堤清二の答えの中で出てきます。
 
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内山光弘の花紋折りと、牛腸茂雄のマーブリング作品

『花紋折り―内山光弘の世界』(民芸叢書)

 内山光弘さんは花紋折りを折るときに、最初は色紙や染めた和紙を使われていたそうですが、そのうち自分で胡粉を塗ったり、和紙を染めたりするようにもなったのだそうです(その気持ちわかる〜)。特に斑点模様のある染紙は、光弘さん独自の染色方法によるものとのこと。

 この「紙」の、色使いと風合いが、花紋折りに風格を与えていると思います。お着物などに詳しい方が見ると、また何か感じるところがあるかもしれませんね。

 で、私はどんな紙で折ってみたいだろう?と考えてみました。むかしは半透明の紙で折ってみたりしたのですが()、今回はふと、「墨流し」模様のある紙で折ってみたいと思いました。

 「墨流し」といって思い出すのは、昔、写真集をちょっとだけのぞいたことのある、牛腸茂雄さんのマーブリング作品のこと。
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柳宗理は、なぜ「花紋折り」に惹かれたのか。

 『花紋折り―内山光弘の世界』(民芸叢書)は、柳宗理さんの編集・監修になっています。柳宗理さんが内山光弘さんを激励していたことは昨日のエントリ「内山光弘という生き方」に書きましたが、柳宗理さんはいったいどこで内山光弘さんの作品に初めて出会ったのでしょうね。光弘さん本人に初めて会ったのは病室で、光弘さん88歳のときだそうです。病室のベッドの上できちんと正座して、一生懸命、花紋折りを折っておられたそう。その姿に感激するとともに驚いた、と書いておられます。

 上記の本は監修者である柳宗理さんの文章から始まります。これがまず面白い。私は建築やデザインのことはよくわからないので、よくわかる人が読んだらもっと面白いかもしれないし、あまり知らない私だから面白いのかもしれません。

 さて、なぜ柳宗理は「花紋折り」に惹かれたのか?
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内山光弘という生き方

 『花紋折り―内山光弘の世界』(民芸叢書)

 「花紋折り」は、内山光弘さん(1878−1967)が考案されたものです。この方にあえて肩書きをつけるのならば「折り紙研究家」ということになるのでしょうが、その生き様を見ていると“肩書き”なんてものはどうでもいいものだと思えてきます。まさに「酔興人」だ!(息子の内山興正さんの言葉をお借りしました)
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数学のオルタナティブ

 先日、辻下徹「生命と複雑系」を久しぶりに部分読みしました()。しかし、まだ私にベースができていないのか、あるいは読む時期をすでに逸してしまったのか、読み込むところまではいけませんでした。それで、辻下徹さんはいま何を考えているのだろう?ということが知りたくなって検索していたら、立命館大学研究者学術情報データベースの中の研究者プロフィールにたどりつきました。この中の「教員からのメッセージ」に次のようなことが書いてあります。
現代数学は心脳問題への新しいアプローチを孕んではいまいか、という素朴な問題意識により、研究の軸足を微分幾何学から複雑系の数理に移しました。しかし、その中で、複雑系の基本的問題の多くが、ヒルベルト版カントール集合論に基づく現代数学がもつ盲点に入っていることに気づき、最近は、現代数学のオルタナティブー別の可能性ーを模索しています。1世紀前に無限集合を巡ってヒルベルトとブラウアーが鋭く対立し数学界を二分するほどの様相がありましたが理論的結着はつかないまま、「政治的解決」により無限集合は数学の基盤として広く受けいれられて今日に到っています。しかし、1970 年代頃から、複数の有限性概念の重要性・有効性が多方面で意識されるようになり、無限集合が数学にとって十分でも必要でもない、という見方が徐々に広がりはじめています。この動きは複雑系の諸問題と数学との絶縁を解くきっかけの一つとなるように考えています。
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永遠の、いま

 遠山啓『量とはなにか−機戮痢岫后殞未糧展」の中で、次のような話が出てきます。(p268〜269/引用ではなく要約)


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 1,2,3,……と数えすすんでいくことによって、いかに大きな数をも追い抜くことが可能であると考えるときの無限は、“可能性の無限”ともいうべきものである。あるいは“時間的無限”、もしくは“動的無限”。

 しかし、直線を点に分割すると、それらの点は時間的な順序にならんでいるわけではなく、空間的に同時に並存しているのだから、それは“空間的無限”もしくは“静的無限”ともよぶべきものであった。カントルはそのような無限を“実無限”と名づけた。
 
 “実無限”は当時の学界に大きな衝撃をまきおこし、少数の賛同者と多数の反対者をつくりだす結果となった。研究の進行につれてカントル自身もしばしば自信喪失に陥る。懐疑が深まるにつれて、彼は哲学のなかによりどころを求めたが、近代の哲学には実無限の先験者を見いだすことができず、遠くアウグスチヌスの“永遠の、いま”のなかにそれを探しあてることができた。

 全知全能の神は永劫の過去から永劫の未来までを一瞬のうちに見とおすことができるから、人間的な時間はそこで消滅し、すべてが空間的となるとすれば、それはカントルの実無限のささえとなるだろう。

 カントルがまきおこした無限をめぐる議論はいまだに終わっていないし、おそらく数学という学問の中に住みついた永遠のアポリア(難問)であろう。
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 遠山啓にこだわっているとほんとうに面白いなぁと思うのは、「時代」というものが浮かび上がってくることです。ひとつには戦後の民間教育運動という側面があり、もうひとつには数学教育の現代化という側面があると思います。

 遠山啓を理解しようとすることは、上記の2側面を理解しようとすることなのかもしれません。
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河本英夫『オートポイエーシス』に出てくるクリプキ

 『複雑系の科学と現代思想−数学』(高橋陽一郎・辻下徹・山口昌哉著/青土社/1998)所収、辻下徹「生命と複雑系」の中から、クリプキのプラス・クワスの懐疑論のところだけを抜き出してみました。最近この論文がweb上で読めることがわかったので、興味がある方は他の部分ものぞいてみてくださいませ(PDFファイルのp47の図も面白いです)。

   辻下研究室 > 生命と複雑系

 なお、河本英夫『オートポイエーシス』(青土社)にもちょっとだけクリプキが出てきます。  
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