TETRA’s MATH

1月15日夕方、岐阜テレビでハンドボールコート新作成法

 以前、ご紹介したハンドボールコート新作成法〔岐阜東高校方式〕がテレビの取材を受けたとのことで、きょうの夕方、放送されるようです。午後5時から5時30分のニュースと午後6時から6時15分のニュースの中ですこし出てくるもよう。一部の地域の方しか観られませんが(私も直接、放送は観られない〜)、ひとまずご案内まで!

 ちなみに動画のほうも、さらなる改訂版が出ております↓
http://www.youtube.com/watch?v=V5hMbGmnfYU
 
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【URL変更】>ハンドボール新作成法〔岐阜東高校方式〕の修正版

 ハンドボールコート新作成法〔岐阜東高校方式〕において、動画のリンク先を示しましたが、ラインの名称にまちがいがあったようで、修正版がップされております。

http://www.youtube.com/watch?v=qQlNddoChg8


 なお、正方形の位置はあそこでよいそうです
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【紹介文の訂正】>ハンドボールコート新作成法できれいにかけるようになった正方形の場所

 ハンドボールコート新作成法〔岐阜東高校方式〕において、

全体の形は、1辺20mの正方形を2つ並べた形になっていますが、亀井先生のお話だと、この方法を使うまでは、こんなにきれいには描けなかったらしいとのこと。

と書きましたが、勘違いしていたようです(>_<)。ゴール前の下の正方形(の位置に配置される4点)のことのようです↓ (もしまた違っていたら、ご連絡くださいませ>亀井先生)



 亀井先生からのメールに「3mの正方形」とあったのに、「そうそう、最初の正方形がいちばん難しいですよねぇ!」と自分の先入観で正方形に過敏に反応してしまい、3mを見落としていました。この4点は作戦をたてるときにも説明に使われるものなのだとか。

 とかいいながら、また勘違いしている可能性もなきにしもあらず…… そのときにはまた訂正しまーす。

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ハンドボールコート新作成法〔岐阜東高校方式〕

 このブログで約数集合構造エジプトひもその後の探究のことをご紹介させていただいている亀井喜久男先生から、ハンドボールコート作成方法の動画完成のご連絡が届きました!! ハンドボールといえば、私も中学校か高校の体育でちょろっとやった覚えがありますが、競技ではなく体育の授業のなかでのことだったので、コート作成に苦労した記憶がなく、コートを作成した記憶もありません。でも、どんな競技でもあれこれルールがあることでしょうし、コートの寸法も決まっていることでしょう。

 というわけで、まずは(財)ハンドボール協会ハンドボールの主なルールのページで、コートの寸法を確認。そんなに複雑な図形ではないので、これをパソコンで描くのだったら、あるいは紙の上に定規とコンパスを使って描くのであれば、苦労はないことでしょう。だけど、運動場に実際のサイズで描くのはきっと大変だと思います。まず長方形からして、きれいに描くのは難しそうです。

 動画を見る前に、自分だったらまっさらな運動場にこのコートをどう描くか?と考えると、動画の意味がよくわかるかと思います。

 では、動画をリンク!
http://www.youtube.com/watch?v=iG9almIhqdQ

【修正版】
http://www.youtube.com/watch?v=qQlNddoChg8

【さらなる改訂版】
http://www.youtube.com/watch?v=V5hMbGmnfYU

 巻尺と画鋲人形、考えましたね〜!

 私は、亀井先生から最初にこのレポートの話をうかがったとき、3辺の比が20:21:29の直角三角形がすでに新鮮でした。整数比の直角三角形といえば3:4:5がその代表格でしょうし、その次は5:12:13がメジャーかな?と個人的には思っています。たとえば算数の問題作りの仕事で、道のりや距離の問題を出すときに、直交する道路上に2点をとり、交差点との3点が直角三角形になるように配置した図をよく使っているのですが、現実にありえない数値は使えないので、どこかの辺が無理数になってしまわないように、3辺の比が整数になるような数値を使います。でもそのときに、20:21:29を使ったことはありませんでした。っていうか、これまで知らなかったのです。

 20:21:29には、まず20が含まれていることが大きなメリットです。何しろコートは1辺が20mの正方形2つを並べた形になっているので。直角をはさむ1辺を20mにするなら、3:4:5を利用して、もう1辺を15mにするのもアリでしょうが、直角をはさむもう1辺が20mより短いと、そのあとの作業が難しくなるのです。できれば20mよりも少し長い長さがちょうどよくて、そういう意味で21mというのはジャストサイズ! 1、2歩踏み出すくらいの長さですものね。しかも、21+29=50で、最初に50の目盛りで端をとめればいいので、覚えやすいし、気持ちいい。

 そのあとのフリースローライン(ゴールを囲む外側の線)の円弧ですが、コーナーから描き始められたらラクなのに…と思いきや、中心角90度でとめなくちゃいけないので、やはりなんらかのワザは必要なようです。なお、動画ではフリースローラインがコーナーと交わっているように見えますが、これは誤差からくるもののようで、実際には(別枠で出る説明にあるように)本来はフリースローラインとコーナーは交わりません。コーナーはゴールの端から8.5mの距離にあり、円弧の半径は9mなので。

 ほんでもって、前半で正方形を描いているので、この直角を利用すると、90度の角をなす8.5mと9mの線分がひけます。この状態から、50cmずらしたところをもってうにょ〜とひっぱっていくと、「2組の対辺の長さがそれぞれ等しい四角形」すなわち平行四辺形が描けます。いまは1つの角が90度なので、長方形のできあがり(これは中学数学の論証の内容ですね)。あとは円弧を描いて、結ぶだけ。

 全体の形は、1辺20mの正方形を2つ並べた形になっていますが、亀井先生のお話だと、この方法を使うまでは、こんなにきれいには描けなかったらしいとのこと。(この方法の前は直角をどうやって作っていたのだろう?) ←すみません、亀井先生のお話のなかの正方形の場所を勘違いしていました。あした訂正版アップします〜!

 これ以外にももちろん方法はあることでしょう。だけど、理論的には可能でも、実際にやってみたら、どの方法がいちばんしっくりくるか、身体が教えてくれるような気がします。たとえば直角1つを作るにしても、3:4:5でも5:12:13でも20:21:29でもいいわけですが、運動場で巻尺を使って大きな図形を描くときには、より適した方法があるのではないかと想像しています。

 それにしても、「エジプトひも」の亀井先生らしい、発展のしかたですねぇ〜!

 岐阜東高校のみなさん、素敵な動画をありがとう〜!! これからもがんばってくださいね〜!!
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亀井喜久男さんのその後の探究

 以前、このブログで約数集合構造エジプトひものことをご紹介させていただいた亀井喜久男先生が、その後もあれこれ面白いことを考えておられるようで、ずいぶん前にメールをいただいていました。

 そのメールには「2桁かける2桁の暗算術」と、数学の実用性を納得できる事例として「ハンドボールコートの描き方」のファイルが添付されていました。私は特に後者に興味をもったのですが、どちらの話題も、web上でなんらかの発表がされてから、それをリンクする形でご紹介したほうがいいな、と思ったしだい。特に後者は、詳しい図が必要だし、できれば動画があるといいな〜と感じました。

 で、それとは別に、4次元立方体に関する次の You Tube の動画を教えていただいていました。
http://www.youtube.com/
watch?v=IZ_q-bky_aM&feature=channel&list=UL


 「倉庫から見つかった20年以上前のプログラム」というのがオツです。“境界”を展開させていくことにより、あるいは組み立てていくことにより次元が変わっていくことが、1次元-2次元から順にたどられていて、とてもわかりやすく示されています。

 ちなみに亀井図式を見ながら考えたことのカラフルな図は、私はコピーしながら地道に描いていきました。論理学の幾何学的表現の図も地道に。たぶん、円の等分点を使ったのでしょう。

 ほんでもって、その後、亀井先生の論稿集を送っていただいたのです。亀井先生の探究の軌跡がたくさん掲載されたものですが、そのなかには微分・積分に関する論稿もいくつか含まれていました。微分・積分の統一的理解のためにパソコンを有効活用するというテーマのものもあれば、定積分のイメージの2つの型をテーマにしたものもあり、そのなかでマクローリン展開も扱われています。

 いまは教育現場にコンピュータが普及していることでしょうから(してますか?)、私たちの高校生時代とは、授業の雰囲気もずいぶんちがっていることでしょうね(ちがってますか?)。ちなみに娘たち小学生も、ごくたま〜に授業でパソコン・ルームを使っているようです。いまのところ「文集の表紙作り」や「社会の調べ物」で使っているようで、まだ浸透しているとは言いがたく、パソコンやインターネットに触れてみましょう、という雰囲気になってます。

 そういえば最近、(私の興味の在処とは別に)娘との会話で微分積分という言葉が出てきたのですよ。大塚食品「MATCH」のCMがきっかけで。メロスシリーズの下校篇です。

 私はこのCMのことを知らなくて、娘が、「メロスが出てきて、微分積分はわからないけど、友情がわかる、ってCM面白いよね」というようなことを言っていて、なんのCMだろう?と思って調べてみてわかったしだい。歴史ブームの娘にとっては、メロスの格好も興味をひくものだったのかもしれません。
 
 「政治がわからぬ、○○もわからぬ、女心も将来もわからぬ」の○○に、微分積分が入ることが、象徴的というか、なんだか納得できて、面白いです。高校の勉強っぽくって、ほとんどの人が知っていることがいいと思うので。メロス仕立てなところがすでに国語、政治は社会と考えれば、高校の授業風景で自然科学系を題材にもってくるとバランスがとれそうですが、あんまり細かい話になるとCMとして成り立たなさそうだし。数学だけでいえば、「三角関数」とか「ベクトル」だとCMにならない感じがして。微分積分がちょうどいいのではないかと。

 そんなこんなで、MATCHのCMでは、微分積分の授業風景が一瞬出てきます。黒板の内容から察するに、平均変化率に慣れる授業だったのだと思います。

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エジプトひも

 少し前に、亀井喜久男先生から、「エジプトひも」に進展があったとのメールをいただいたので、アラン J. ビショップ著『数学的文化化』の話のなかで触れさせていただこうと思っていたのですが、ひとまず単独でご紹介させていただくことにしました。


 まず、中部電力のサイトのなかに「エジプトひも」のページができています。
http://www.chuden.co.jp/kids/denkipaper/
2007/631/issue03.html


 
 それから、YouTube において、動画で「エジプトひも」の紹介をされています。 
http://www.youtube.com/watch?v=NAjM0cPJVQ4
 (本編の内容とは関係ない“注)”にウケてしまった私)   


 12という数って便利だなぁ〜としみじみ思うことであります。3で割れるし4で割れるし。そしてやっぱり、3:4:5で直角をつくれるということが大きいと思う。


 亀井先生のサイトはこちら↓
http://www.ctk.ne.jp/~kamei-ki/
 

 

 

〔2020年3月28日〕

 リンク整理につき記事の一部を削除しました。

 

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森ダイアグラムの考察から派生した、いつか考えたいことのメモ/ディメンジョン、比例の循環論法、カリキュラム

 森ダイアグラムについて、そのおおよその意味と、枝分かれするまんなかの部分の「微積分」「線型代数」のイメージについてちょっと見ていきました。このあとは「ベクトル解析」ですが、さすがにいまは“なんとなく”のイメージをつかむことも難しいので、いずれまた機会がきたら考えたいと思っています。でも、微積分という「局所化」と、線型代数という「多次元化」についてはなんとなくわかってきたので、それを統合して多次元量の微分積分を考えるんだな、ということは想像することができます。

 それで、この先、まだまだ考えたいことはあるのですが、ひとまずここで一段落させることにして、いつか考えたいことのメモだけ書いておきます。

       *     *     *

 まず、ディメンジョンについて。森毅は(1/1行列)×(1/1行列)=(1/1行列)まで語ったあと、

  どちらも,ディメンジョンになっているところが,うまくいっとるではないか.

とコメントしているのです(『線型代数―生態と意味』p.25)。この一文の意味がわからないのです。「どちらも」が何をさしているのかということと、「ディメンジョン」という言葉の意味が。

 そういえば、遠山啓が「度」と「率」を区別し、「度」のほうを先に学ばせたほうがよいと考えた理由(のひとつ?)は、率にはディメンジョンがないから、というものでした。思えばあのとき、ディメンジョンについてちゃんと考えなかったというか、「まあ、なんとなくこういうことだろう」くらいのことで終わらせてしまっていました。

 でも、前回出てきた「b円×a=c円」のaって、たぶん「倍」のことだと思うし、どっちにしろスカラーで、結局「1/1行列」で表されて、「ディメンジョンになっている」と言われると、うーん……と考えこんでしまうのでした。

       *     *     *

 それから、銀林浩『量の世界・構造主義的分析』のこと。むかしよりは内包量を二重構造で考える意味正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量がわかるようになったかな?と思って読み返してみたのですが、今回はそこについてよりも、緑表紙(第4期国定教科書>)の比例の扱い方への批判に目が向かいました。

 緑表紙では、円周率の公式と速さの公式で比例を導入しているようなのです(『量の世界・構造主義的分析』p.152〜153)。銀林先生は、この進め方は「論点先取の誤り」をおかしていると指摘しています。思うに、円周の長さが直径に比例することが先なのか、円周率が先なのかと考えてみた場合、やはりこの場合は比例関係が先かなぁ、と思うわけであり。このあたりについても、いずれゆっくり考えたいです。

       *     *     *

 そして今回もっとも気になったのは、瀬山先生の本や森先生の本を読んでいると、「ほら、数学って算数とつながっているよ」あるいは、「算数って、その先の数学にずっとつながっているよ」ということはわかるのだけれど、「つなげられたのか」「だれがつなげたのか」「つなげようとしているのか」ということは、これらの本ではわからないということです。

 森毅『線型代数―生態と意味』は大学のカリキュラムの形成の話から始まっていて、18世紀や19世紀の数学、その歴史の文脈にも触れられていて面白いのですが、現代の小学校の算数がどういう経緯でつくられてきたかを知ることはできません。何しろあれから30年以上たっているのであり。もうちょっと、カリキュラムの変遷や教科書の変遷について知っておかないと、自分の考えたいことは考えられないのかもしれないな、と思うことでありました。

 実は、先日メールをいただいた方からは、アメリカの指導要領の話も少しうかがうことができたのですが、そのちょっと前に、別の方とイギリスのナショナル・カリキュラムの話をしていたところでした。

 なお、ナショナル・カリキュラムについては、『時代は動く!どうする算数・数学教育』汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】(国土社/1999年)において、波多野誼余夫がインタビューで次のように語っています。

 しかし,指導要領を小・中学校もすべて廃止することはいまの段階ではできないと思いますね。いま,アメリカでもナショナル・カリキュラムというのをつくろうという動きが出てきているくらいで,やはり,なんらか意味で「こういう内容はカバーしたほうがいい」ということは必要なんですよね。小学校では比較的はっきりしていて,高校になったらいらなくなるという性質のものではないかな。文部省がすぐそうするとは思えないけれど,少なくとも縛りを緩やかにしていくということが,文部省が望んでいるような多様な実践を実現するための前提条件だと思います。そういうことを実現していくことがまず必要だと思います。

(p.143)
 
 また、上記引用部分の少し前で、井上正允先生が

 文部省非検定教科書というのをつくったらいいいと思うんですよね。文部省の指導要領によらないけれど,「数学ってこんな世界もあるよ。こういう学び方もできるよ」というのを民間が示していかなければいけない。

とおっしゃっていて、それをうけて波多野氏は、

 いまだと,文部省が「これもなかなかいいですよ」などと言うかもしれません。たしかに,いま一時的には教員のほうが「保守的」で文部省のほうが「革新的」で,という逆転現象が起こっていると思います。けれど,それは,過去の文部省の政策のツケなんですから。そこはよくよく反省してもらって,このつぎまた文部省主導でなにかやろうなどと思わないことがすごく重要です。

とも語っています(p.142)。最後の一文は、「文科省主導、検定教科書主導で、なにかやってもらおうと思わないことが重要」と言い換えることができるのかもしれません。

 実は、「管理する」という発想(あるいは教育についてのナショナリズム的発想)は、もしかすると「管理する(とされる)側」にあるのではなく、「管理される(とされる)側」にあるのかもしれないなぁ……というようなことも考えることがあります。このあたりについても、機会があったら、いずれゆっくり考えたいです。

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正比例から始まる「森ダイアグラム」の意味

 「森ダイアグラム」とは、1960年代または1970年年代頃、森毅が提示した下のような図式で、小学校から大学までの数学教育の理念的カリキュラムを考えるための1つの視座として出されたものです。↓



 言葉でいえば、正比例が微積分と線型代数にわかれて、それがまた多変数微積分として1つにまとまっていく様子を矢印で示したものといえます。まんなかのふたつは本来どちらが上でどちらが下でもいいのでしょう。
 

 今回、森ダイアグラムについて考えようと思い立ったあと、まず手元にある文献をのぞいてみようと私が手にしたのは、瀬山士郎『算数の目・数学のすがた』(日本評論社/1993)でした。瀬山士郎先生も数教協の関係者です。

 実は、ものすごく昔、私はこの本に対して批判的なことを書いたことがありました。瀬山先生は、算数と数学はひとつのものだというところから話を始め、「帰りの目」で小・中学校の数学をふりかえってみると、新しい数学の風景がみえてくるよ、という構えでこの本を書かれています(なので、想定読者は高校生以上なのでしょうね)。いま思えば批判のしかたがちょっとずれていたというか、「それをこの本に対して言われても困る」という面はあったかもしれませんが、上記のような構えのわかりやすさゆえ、「俯瞰する算数・数学教育」が嫌いな私にとっては、俎上に載せやすい本だったのです。

 あれから何度も何度も本を処分する機会があったのに、こうして手元に残っているということは、やはり残しておくべき1冊だと感じていたのでしょう。

 この本と、銀林浩『量の世界・構造主義的分析』(むぎ書房/1975)があれば、ある程度のところまでいけそうな気がしたのですが、ここはひとつ森先生自身の本も1冊手にしようじゃないかということで、『線型代数―生態と意味』を購入することになったしだい。

 銀林先生の本にすでに森ダイアグラムは出てきていますから、1980年発行の『線型代数』にはじめてダイアグラムが登場したということではないのだろうと思いますが、だとしても森先生が書いているのだから、ここに出てくるダイアグラムをとりあえず原型と考えてよいのでしょう。

 なお、遠山啓著作集『量とはなにか〈2〉』の増島高敬先生のあとがきでは、右上に向かう矢印が局所化、右下に向かう矢印が多次元化を表すという説明がありますが、とりあえず森毅『線型代数』のオープニングでその説明は見当たりません。

 森ダイアグラムの意味をおおまかにまとめると、次のようになります。



 正比例は小学校の高学年で出てきます。遠山啓の言葉をかりれば、すごろくのアガリのようなもの。そして中学校で負の数や文字式を学んだあと、再び正比例を学びます。再びというかちゃんとというか。正比例は小学校のアガリであり、中学校のスタートなのでしょう。そして一次関数へと進み、y=ax^2の形の関数まで学習します。そして高校で一般的な二次関数をはじめ、さまざまな関数について学び、微積分について学ぶことになるかと思います。

 文字式は、小学校でほんの少し出てくる場合があるかもしれませんが、本格的に学び始めるのは中学校で、一次方程式、二次方程式を学習します。そのあいだで連立方程式もやるので、ここで線型代数の一歩を踏み出しているといってもいいでしょうか。そして、高校以降で行列やベクトルを学ぶのでしょう。

 多変数微積分(ベクトル解析)は完全に大学の話になるかと思います。すべての子どもが正比例を学ぶのにひきかえ、こちらはほんの一部の人が関わるものですね。

 森毅は『線型代数―生態と意味』(1980年)のなかで、大学の教養課程では最近ではだいたい微積分と線型代数というのが相場になっているけれど、微積分にくらべて線型代数のほうは高校での蓄積が少ないので、学生のトッツキは悪い、というようなことを書いています。

 さて、正比例についてはこのブログでたくさん書いてきたので、まず微積分について。私は上記説明のなかにある dy=(df/dx)dx という式表現の意味が最初よくわからなかったのですが、次のページにあるグラフを見て、ああ、そういうことなのかと納得しました。



 つまり、曲線上の1点を原点とする座標軸をあらたに考えて、dx軸、dy軸を設定すると、接線はこの座標平面の原点を通るので、dyをY、dxをX、df/dxをAと考えれば、この接線の式はY=AXと表せて、正比例関数があらわれてきます。森毅の式表現に対するこの理解が正しいかどうかはわかりませんが、式の意味はともかく、曲線であらわされるような関数でも、局所的にみればそこに正比例関数があるよ、という意味での局所化なのだろうと思います。あるいは、刻々と変化する正比例関数をつなげていく・積み重ねていくことで、曲線であらわされるような関数をつくることができるよ、と。ただし、ここに出てくる変量はxとyだけで、入力xは1つにしぼったままです。

 次は線型代数です。

 森毅はまず、「バターケーキとカップケーキを作るのに必要な材料の重さ」という題材を使って、とてもわかりやすいイメージを示してくれています。わかりやすいのはいいんですが、バターケーキとカップケーキをお題にして、それぞれの頭の文字を添え字にするもんだから、その後、バカベクトルやバカ空間が出てくるんです、これ、森先生のシャレでしょうか⁉ そこはまあよしとしても、製品のバターケーキの添え字の「バ」と、材料のバターの添え字の「バ」が(xとyで区別したとしても)ちょと紛らわしいので、私は別の例で考えていくことにしました(←でも、結局、添え字を使わなかったので、意味はなかった)。クッキーとマドレーヌ。


 クッキーは、1枚あたり小麦粉6g、砂糖2g、バター4gを使うとし、マドレーヌは1個作るのに、小麦粉13g、砂糖11g、バター12gを使うことにします。そうすると、クッキーを20枚とマドレーヌを5個つくるのに必要な材料の重さは、

  〔小麦粉〕  6g×20枚+13g×5個=185g 
  〔砂糖〕   2g×20枚+11g×5個=95g
  〔バター〕  4g×20枚+12g×5個=140g

ということになります。この計算は、次のように行列の計算として示すことができます。



 こんなふうにして、作りたいクッキーの枚数とマドレーヌの個数が決まれば、必要な小麦粉、砂糖、バターの重さを求めることができるわけですが、そんなことができるのも、クッキー1枚を作るのに必要な材料の重さと、マドレーヌ1個を作るのに必要な材料の重さがわかっていればこそ。

 すなわち、クッキーの枚数とマドレーヌの個数を入力x1、x2とし、必要な材料である小麦粉、砂糖、バターの合計の重さを出力y1、y2、y3とすれば、xたちとyたちの関係は、次のように表せることがわかります。↓



 左側の式において、それぞれのかっこをひとまとめとしてながめると、これも Y=AX の形に見えてきます。ただし、YやAやXを構成する数値は1つずつではないので、微積分が正比例関数の「局所化」であるのにたいし、こちらは「多次元化」ということになるのでしょう。

 この場合、YとXは多次元の変数をひとまとめにしたもの、つまりベクトルであり、Aは「多次元の比例定数表をひとまとめにしたもの」としての行列だと言うことができそうです。

 次は線型性について。森毅は線“型”という漢字を使っていて、趣味によっては線“形”とも書くとコメントしていますが、私はブロブでどっちとも使っているみたいです(たぶん、そのときに読んでいるものにあわせているんだと思う)。というわけで個人的にこだわりはないので、いまは森先生にあわせて「線型」を使いたいと思います。

 すでに記事は削除していますが、以前、線型性について書いたときに、私は次のような2つの式を示しました。

  [1] f(x1+x2)=f(x1)+f(x2
  [2] f(ax)=af(x)

 森毅『線型代数―生態と意味』では、[2]のほうの式のaが、rで示されており、右からかけられています。

  [1] f(x1+x2)=f(x1)+f(x2
  [2] f(xr)=f(x)r

 r倍を右からかけるとx2とかx3になってヘンだから、通常は2xというふうに左からかけるが、非可換係数まで考えるときは、右と左を区別した方がよいし、行列算と合うのは、右からかける方なので、なるべく右からかけてxrを使うことにする、とのこと。(p.20より)

 そして読み進んでいくと、r倍のrというのは<数>であり、数というのは、いちおう、4則のできる対象と考えておいてよい、と話は続きます。このような対象Kを数体といい、有理数体Qか、実数体Rか、複素数体Cと考えておいてよい、非可換な4元数体とか有限体とかを考える場合もあるが、さしあたりは、普通の数として、QRCである、と。

 ほんでもって、「K自身も(1次元の)線型空間である.これをスカラーというのだが,スカラーとは1次元ベクトルなのだ.」と説明したうえで、

 ここで,

    x×2=x+x,  x×3=x+x+x, ……

などだから,r倍というのは,和から発展したものだとも考えられる.そこで,より根源的なのは

    f(x1+x2)=f(x1)+f(x2

の方だろう.これは《重ね合わせの原理》と言われることもある.

(p.21)

と書いてあります。「なーんだ、やっぱり結局、かけ算って累加じゃん」というツッコミはともかく、上記の説明はとても納得がいきます。本来、[1]だけでいいんじゃないの?って気がしちゃう。だったら、それをもとに比例の定義をしちゃえばいいんじゃないの?って思う。

 だけど、[1]をいざ言葉にしようとすると大変。「ともなってかわる2つの量x、yについて、xのうちの2つの値の和であるxに対応するyの値が、もとの2つのxに対応するyの値の和になっているとき、yはxに比例するという」ってわけわかりません。しかも、1箇所だけ確かめてもだめなんですよね、たまたまかもしれないから。どこでもそうなっていないと。
 
 それいえば、2倍、3倍、……も、どこまで確認したらほんとにそうなっているのか、わからないといえばわからないですよね。そう考えると、y=axという関係で表されることを確認したほうが話がはやいし、気持ちいい。だけど、これは重ね合わせの原理そのものではなく、それを確かめるためのワンクッション入った定義ということになってしまうのでしょうか。

 なお、このあたりのことに関しては、銀林浩『量の世界―構造主義的分析』のp.138〜140に書いてあります。関数が加法保存性をみたすとき、その関数を正比例関数とよぶのだけれど、ある関数がこの条件をみたすかどうかを直接確かめることはあまり容易ではない。そこで、同じ状態を2つ重ね合わせて、入力が2倍になったら出力も2倍になるかどうかという倍化の原理が成り立つかどうかを調べれば、加法保存性が成り立つ公算は大きくなるが、まだ不十分……というふうにして。

 で、いま読んでいるのは森毅『線型代数―生態と意味』のうちの、「0.なぜ線型代数か」と「1.多次元量の乗法」のところなのですが、「1.多次元の乗法」は「乗法の総括」という項目でまとめられています。行列の乗法が考えられると、いままでの乗法をすべて行列算の形で考えることができ、それは1次元の場合には、小学校からやってきた量の乗法に対応している、と。

 細かく読んでいくととても行数を使いそうなので、ざっくりまとめることにしますが、その前に書いておかなければならないことは、森毅は行列をかけ算ではなくわり算のような形で示していること。たとえば、たてに数値が3つ、横に2つ並んだ行列は、3行2列の行列なので、3×2行列と呼びたくなるけれど、森毅はこれを3/2という形で表しています。つまり、m行n列行列をm/n行列というふうに(m×nと書く流儀もあるが、この方がよいだろうということで)。どうしてだろう?と思いつつも、まあ、そういう書き方もあるだろうと思って特に気にしていなかったのですが、途中で、「ああ、なるほど、こういうことかな?」と自分で納得しました(これについてはのちほど)。

 では、「乗法の総括」を適度に省略してざっくりと。l(エル)が1とまぎらわしいので、記号も変えてあります。

 たとえば1kgあたりb円の針金akgの値段をc円とすると、b円/kg × akg = c円 という式ができます。これを多次元量で表すとしたら、Ba=cという形になり、

  (m/n行列)×(n次元ベクトル)=(m次元ベクトル)

と表せます。(これをみて、「/」を使った行列の書き方ってそういうことなんだ、と納得したしだい。つまり、上記の式からmとnだけ抜き出したら、文字式そのままになるなぁ、と。→「 m/n × n = m」 ちなみに森毅はそんなことは書いていません。)

 で、(n次元ベクトル)を(n/1行列)と考えれば、上記の式は、

  (m/n行列)×(n/1行列)=(m/1行列)

と考えることもできます。

 次に、kgの単位をはずして、b円 × a = c円 として考えるとどうなるかというと、ベクトルのスカラー倍 ba=c に対応することになり、

  (m次元ベクトル)×(スカラー)=(m次元ベクトル)

と表せます。先と同様に形をかえると、

  (m/1行列)×(1次元ベクトル)=(m/1行列)

となり、さらに、

  (m/1行列)×(1/1行列)=(m/1行列)

と表せるというわけです。

 最後に、円の単位も忘れてハダカの数の乗法、b×a=cを考えると、

 (スカラー)×(スカラー)=(スカラー)…(1)
→(1次元ベクトル)×(スカラー)=(1次元ベクトル)…(2)
→(1/1行列)×(1次元ベクトル)=(1次元ベクトル) 
→(1/1行列)×(1/1行列)=(1/1行列)

になるというわけです。なんでこんなふうに変形していくかが最初よくわからなかったのですが、考えてみれば、上記の(1)の「スカラー」をそのまま全部「1次元ベクトル」にしてしまうと、(2)は「(1次元ベクトル)×(1次元ベクトル)=(1次元ベクトル)」となってしまい、こういうベクトルの式は成り立たないですよね。以下同様に、それぞれ、ベクトルなり行列なりの“成り立つ式”に変形しながら、最後に行列だけの式にもっていっているのだろうと私は理解しています。

 そしてこのあと、乗法にはこのほかに長方形の面積やモーメントなどのように複比例に関係するタイプの乗法もあるが、それについては別の問題としたうえで、

それについては,別の問題だが,さしあたり,正比例とのかかわりでは,行列算の枠組みで乗法が統一的に眺められることになる.
 逆に言えば,1次元量の乗法では,ハダカの数では区別されなかったものが,はっきりした次元の差として出てくるのが,行列の乗法ともいえる.つまり,ここでやったことは,小学校の量の乗法を,ベクトルや行列でやり直しただけのことだ.そして,そのことを通じて,顕在化されてきたのが,正比例における《線型性》でもある.そして,これこそ,今後の主題となる.

(p.25〜26)

と書いてあります。

 以上のことは、拡張された「帰一法」で書いた内容につながる話ですね。

 

(つづく)  

 

〔2018年4月12日〕  

 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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倉田令二朗が、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」という、その意味

 遠山啓著作集<数学論シリーズ4>『現代数学への道』巻末、倉田令二朗の解説を読んでいます。

 倉田令二朗は解説の最後で、「圏論」について言及しています。「今世紀なかばに発生した圏論は数学のあらゆる部門に浸透し,現代数学の様相を一変しつつある。これを無視して現代数学を語ることはできない。」という語り始めで、圏、対象、射、合成、合成の結合則、恒等射についてひととおり説明していきます。また、例としてSet(集合の圏)、Ab(アーベル群の圏)、Top(位相空間の圏)をあげ、「つまり,構造ごとに対象(構造の荷ない手)と,その間の構造を保存する写像をコミにして考えたものである。」と説明したあと、関手に触れています。

 で、このあとの話が私にはなかなか飲み込めないのですが、いわんとしていることは、ウィキペディアの「圏論」の概要の中盤で書いてあること(↓)とほぼ同じなのだろうと推測しています。

圏の定義においては対象は根源的なものとみなされ、それぞれの対象が具体的にどんな集合として実現されるのかは指定されていない。そこで、これらの特別な空間についての概念を、その「要素」を参照せずに定めることはできるだろうか、という問いが生まれる。

 一方、倉田令二朗は「直積」を例にあげて、集合論的に表現するとどうなるか、圏論的に表現するとどうなるかという違いを示したうえで、

すなわち,圏論は対象(構造の荷ない手)の内側にいっさい立ち入らない。何からできているかも,どうつながっているかも問わない。Aはほかの対象への射:AX,ほかの対象からの射:XAのあつまりによって特徴づけられるだけである。その意味で圏論はさらに陰伏的で,さらに機能的である。対象は,いわばブラック・ボックスである。したがって,圏論は反原子論的である。

 
と書いています。そして、随伴(adjoint)について説明したのち、「問題提起」と見出しのつけられた11行の文章で解説をしめくくっているのです。ここの部分をすべて抜き出してみます。

多くの部門での圏論の成功は疑いないところである。現在でもすべてがカテゴリゼされたわけではないが,現代数学は集合論的なものと圏論的なものの混在としてあることは事実である。こうした情況をふまえて,現代数学教育を見直すことが一つの課題である。ちょうど遠山さんが前期現代数学をふまえて数学教育を見直したように。
ところで,これまで見てきたとおり,遠山さんの現代数学観はすぐれて実体論的,<分解―合成>的,かつexplicitであって,そのかぎりにおいて数学教育現代化によく適合したものの,一口にいって,きわめて反圏論的であることはいなめない。圏論的思考はたんなる専門家好みの一つのスタイルにすぎないものか,それとも,一つの新しい普遍的な理念なのか。だとすれば,それはわれわれの日常的活動の何を顕在化したものなのか?

 こうなるとまた森毅の声がびんびん聞こえてきます。explicitというのは、はっきりした、明示的な、という意味があるようですが、確かに森毅がいうように、遠山啓の論調は「単純明解であるだけに,少し厄介なことになる.」のかもしれません。なお、銀林浩『量の世界−構造主義的分析』(むぎ書房/1975)によると、遠山啓の思想は反圏論的ではないようです。

 圏論は「射」が主役であるらしいということは、以前勉強したときになんとなく感じましたが、集合の圏で考えると、対象は集合で、射は写像なのだから、写像が主人公ということになるのですね。そして、写像ではなく対象が「ブラック・ボックス」になるというのが面白いです。対象の内側にいっさい立ち入らないということは、集合の内側にいっさい立ち入らないということですよね。

 また、森毅が語る、遠山啓の思想の構図で書いたように、遠山啓の思想は実体中心の外延的還元主義であるように見えて、(森毅に言わせると)感性としては機能中心の内包的全体主義でもあり、二分法で考えると3つの要素が見事に反転するのが面白いです。遠山啓は、集合が「閉じている」こと、静的であるところに、(当時の)現代数学の限界……が言いすぎであれば「時代の刻印をおされていること」を見てとり、構造と素子は固定的なものではないというところに、数学の(ひとつの)自由を見ていたように思います。というところまでは察しがつくのですが、その先に行くのはなかなか難しいです。

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無矛盾ならばなんでもよいのか

 遠山啓著作集<数学論シリーズ4>『現代数学への道』を、倉田令二朗の解説をガイドにしながら部分的に読んでいます。きょうは、遠山啓の本文「公理と構造」について解説してあるところをみていきます。まずは遠山啓の本文を読みます。

 ヒルベルトの公理は、ユークリッドの場合のように、だれも疑うことのできない自明な命題という意味ではなく、いちど分解された要素を組み立てる一つの設計図といえるものでした。したがって、内部矛盾をふくんでいないという最低限の条件を満足させていさえすればよい、ということになります。そういう意味では自由奔放に公理を設定することができます。ヒルベルトは公理をそのように見直すことによって、数学者の構想力を思いきって解放した、と遠山啓は説明しています。

 しかし、この「自由」を濫用すると、一人ひとりの数学者が勝手に別々の公理系を考え出して、一人一人がぜんぜん別の数学を研究する、という可能性もないわけではないということになります。実際にヒルベルトの公理主義が現れたころに、そのような危険について警告する人もいたそうです。

 けれども、その後の数学の発展は大勢からみると、そのような危険に落ち込まないですんだ、それはなぜなのか?

 についてみていくまえに、少しもどって、遠山啓が示している建築の例を考えます。

 たとえば、建築家がある建物を設計するときに、自分の構想力を大胆に駆使して思い切って新しい建物を設計しようする点については完全な自由が与えられています。一方で、力学の法則にしたがって設計をしなければならないという制限もうけています。極端なことをいえば、いくら自由であっても、中空にうかんでいて、柱のない建物を設計するわけにはいきません。この建築家のとっての力学の法則にあたるのが数学者にとっては論理の法則だ、というわけです。

 とはいえ、力学の法則にしたがったうえで自由に建物を作ったとしても、よい建築とわるい建築の区別はあり、美しい建築とみにくい建築を見分けることもできます。それらを区別するものは力学の法則ではありません。なぜならば、どちらも力学の法則にしたがっているのだから。それらの区別は建築物の使用目的や美学的なものさしによって定まってくるはずのものだろう、と遠山啓は語ります。
 
 そして、数学者の設定する公理系についても同じことがいえるだろう、と続けます。建築の例では「使用目的や美学的なものさし」という言葉を使っていますが、数学に関しては、それに加えて、「数学者はわれわれをとりまいている自然や社会に内在している法則に似せて公理系を設定した」とも書いています。だから、上記のような「一人一人の数学」になる危険に落ち込まないですんだ、数学者は与えられた自由を濫用しなかった、と。そして、ノイマンのエッセー『数学者』からけっこうな行数の文章を引用しています。

 ノイマンは、「数学者やその他の多くの人間は,数学が経験的な科学ではないこと,また少なくとも経験的な科学の技巧からはいくつかの決定的な点で異なったやり方で研究されていることに同意するであろう。それでもやはり数学の発展は自然科学と密接につながっている。現代数学の最良のインスピレーションのあるもの(私は最良のものと信じている)は自然科学に起源をもっている。」というようなことを語っているのです。

 遠山啓は、ノイマンがいうところの数学の二重性を、次のようにまとめています。

(1) 論理的に矛盾がないかぎり、いかなる公理系を設定してもよいという自由。
(2) 公理系はわれわれの住んでいる世界のなかにあるなんらかの法則に起源をもっている。

 そして、こう語ります。

人間がいくら自由奔放に空想をたくましくしても,しょせんは自然の一部分なのだから,自然の大法則から大きく逸脱することはできない,といってタカをくくる人もいるだろう。この二重性に統一を与えようとして,いろいろのうまいコトバを発明することはできるだろう。しかし,そういうことはたいして意味のあることではない。
ここで必要なのは,数学が容易には融合しにくい二重性に貫かれているということであり,むしろ,この二重性の均衡の上に立っているということである。しかも,その均衡は静的なものというよりは動的な均衡である。一方が優越すれば,他方がそれを追い越そうとつとめる。そういう形の動的な均衡であるといえる。

(p.36)

 私は、ノイマンが上記のようなことを語っているとはこれまで知らなくて、なんだかほっとするものを感じました。また、遠山啓の話をきいていると、「数学って動くものなんだ」と感じて、これまたほっとするものを感じます。

 と同時に、遠山啓の「経験主義批判」を思い出すのでした。「経験」とは何か。「構成」とは何か。数学するのはだれなのか。

 さて、倉田令二朗の解説に目を移すと、この一節の最後に書いてあることが印象的だったので、引用しておきます。

ノイマン自身は,最良の数学的インスピレーションは自然科学的起源をもっていることを強調しているが,遠山さんも公理系は客観的法則性を表現したものにもっとも価値をおいているようである。そして,ブルバキの「数学の建築術」を紹介しつつ数学的概念の物質的起源にさえふれている。
ここで断わっておくが,遠山さんは一度も公式主義的唯物論者であったことはない。彼が私自身に語ったことがあるが,戦前型公式マルクス主義者の一部に,応用数学=唯物論,純粋数学=観念論という図式をなんとなく持ち出す傾向があることを強く批判していたことがある。

(p.270)

 あともう1つ今回印象に残ったのは、遠山啓の本文の中で引用されている、ヒルベルトがフレーゲにあてた手紙のことです。ヒルベルトの公理がどのようなものであったかということを示すための引用で、さらっと書いてあるだけなので、遠山啓が引用したそのこと自体はあまり気にならないのですが、この手紙は何年に送られたものなのか、ヒルベルトはどのような思いで“フレーゲに”この手紙を書いたのか、フレーゲはどのような思いでヒルベルトからの手紙を受けとったのか、ということが気になりました。
 

 

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