TETRA'S MATH

数学と数学教育

そっか、包含除だからしかたないんだ。

 算数の問題をつくる仕事をしているのに、どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのでしょう・・・

 以下の問題を解くときに、娘がふたつの5/12kgを同じものと認識できなかったことを書きましたが()、あまりが出ないという保証はないので、どうしても、「5/12kgのさとうが入ったふくろは,・・・」としなくてはならなかったのですね。(たぶん)

 「3と4分の3」を3(3/4)として表します。↓

ぁ3(3/4)kgのさとうを,5/12kgずつふくろに分けます。5/12kgのさとうが入ったふくろは,何ふくろできますか。

(新学社/くりかえし計算ドリル6年1学期[学校図書対応])

 なお、学校図書の教科書を確認したところ、分数のわり算の導入は「1あたり量」を求める問題になっており、1より小さい分数でわる問題、1より大きい分数でわる問題に取り組んだあと、包含除(いくつ分を求める問題)が2問出されています。1問めは「回数」なので答えは整数、2問めは1mの重さが4(1/2)gの針金24g分の長さを求める問題で、分数の答えが出るようになっています。ちなみにそのあとが、面積から長さを求める問題という構成。
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新事実発覚

 1つ前のエントリで話題に出したドリルのページ(新学社/くりかえし計算ドリル6年1学期[学校図書対応])は、娘がひっかかった4番だけ二重数直線がありません。で、二重数直線を「無視」していたのは私だけで、娘は二重数直線をかなり参考にしているそうで、4番も図があったら解けたかもしれないとのこと。それをいえば、2番は、解いたけれど間違えたのはなぜ?

 ちなみに、ページの下にはこんなヒントが示されています。

ヒント わかっているものの数を図にかくと,式がかけ算になるのかわり算になるのかがよくわかるよ。


 以上、いろいろ勘違いがあったというご報告でした。
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「形式不易の原理」って、そんなにわるいこと?

 きのう、娘が算数のドリルの宿題でイライラしていて、何にそんなにイラついているのかと思いきや、分数のわり算の文章問題(あえて分類すれば包含除)にひっかかっているようでした。スキャンするのを忘れていたので記憶で書きますが、

「さとうが3(3/4)kgあります。これを5/12kgずつふくろに入れていくと、さとうが5/12kg入ったふくろは何ふくろできますか。」 

という内容の問題です(たぶん新学社)。ちなみに3(3/4)は帯分数。分数のかけ算・わり算の文章題が4問示されたページで、確か二重数直線もかいてあったような気がしますが、わが家では「ご親切にありがとう」という感じで与えられた図は無視。(追記:4番に図はなく、そして図を無視しているのは私だけでした>新事実発覚

 で、こういう問題設定自体を問い直したいことがマイブームの私は、どうしたものかなぁと思ったのですが、とりあえず娘が困っているんだから・・・ということで、助け舟を出してみることにしました。娘いわく、「状況が浮かばない」と。なので、まず、1kgずつのさとうが入った壺を3つならべ、同じ大きさの壺を4等分してそのうち3つ分のところまでさとうが入った壺を加え、これらの中身を大きなカメに移し変えたあと、中からひしゃくで5/12kgずつすくってふくろに入れていく様子を絵で示しました。

 絵を描きながら、このひしゃくってどうやってつくったのかな?なんて考えたりました。最初に1kgちょっきり入る容器があって、それをなんらかの手段で12等分して、うち5目盛り分だけ入るさとうの量をはかり、そのさとうの量がきっちりおさまるように作ったのかしら。あるいは、1分間に1kgのさとうが流れ出てくる蛇口があって、それの25秒分のさとうを・・・・・・などと余計なことをひとりうだうだ考えつつも、娘に「状況」を説明。それでもよくわからないらしい娘に、私は「分数を整数におきかえて考えてごらん」と言いました。120kgのさとうを、2kgずつふくろに入れていくとき、何ふくろできるかを求める式は、どういう式になる?と。娘は「120÷2」とわけもなく答えます。

 こういうときに私の胸のなかに、ささやかにチクリとした痛みが走ります。これがいわゆる、「形式不易の原理」ってやつ・・・?と。

 このたび、「形式不易の原理」「形式不変の原理」で検索をかけてみたら、IEとGoogle Chromeでは(同じGoogleで検索をかけても)結果がずいぶん違ってくるのが面白かったです。「ハンケルの形式不易の原理」という言葉もひっかかってきますが、とりあえず啓林館の算数用語説明のページをリンクさせていただきます↓
http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/sansu/WebHelp/05/page5_03.html

 で、遠山啓は、この「形式不易の原理」を算数に持ち込むことに、否定的でした。>初等数学教育をとりまく、私が感じる“ねじれ”を整理してみる

 そんな遠山啓の方法論は、北海道教育大学の宮下英明先生に、「形式不易の原理を実体法則にしている」と批判されています。
http://m-ac.jp/me/instruction/subjects/number/
quantity_number_abstraction/ideology_content/form/index_j.phtml


 先日、「こどものちかく」でリンクした、「「分数のかけ算・わり算」がペンキを塗る話になるわけ」というテキストのなかでも、「数は量の抽象」の立場は、「形式不易の原理」を<存在法則>として立てていると批判しています。> また、他のページでは、「数は量の抽象」の立場が使う「形式不易の原理」はインチキなので、厳に退けること、数学では「同型」は演繹によって結論するので、「形式不易の原理」を必要とはしない、とも書かれています。
http://www.m-ac.jp/me/instruction/subjects/measure/keishiki_fueki/index_j.phtml

 私は、宮下氏のいうことは半分はわかる気がするのですが、問題なのは「形式不易の原理」そのものではなく、これを「存在法則」として扱うところにあるということを強調しておく必要があるように思いました。そして、実際に遠山啓がそういうことをやっているかどうかは、また別問題だな、と。遠山先生はおそらく否定するでしょう。何しろ自分が「形式不易の原理」を算数教育に持ち込むことを批判しているのだから。むしろ宮下氏自身のなかに、「形式不易の原理」を「存在法則」のように扱っている面があるようにも思います。だから、「数学では必要とはしない」という書き方になるのではないかと思うわけであり。

 また、遠山啓も宮下氏も、「形式不易の原理」を、「もうできている数学」という、とまった時間のなかで、「教える−教わる」という構図のもとに考えているようなイメージがあります。

 そもそも、1人4こずつ6人の子どもにみかんを配ったときのみかんの総数はかけ算で求められることや、「4×6=24」という式そのもの、最初から「存在」しているわけではないのではないでしょうか。それいっちゃえば、数学そのものも。

 そんなこんなで、チクリとした痛みを感じつつ、娘に「分数を整数に置き換えて考えてごらん」と言ったあと、「そうすることを認める?」とききました。以前も、同じようなやりとりをしたことがあります。もし、認めないとしたら、別の話になるので・・・と。娘はこういうとき、あっさり認めます。で、「ああ、あれと同じことなのねぇ」と、求められている式がわかったようでした。もちろんこういうときに、ひき算の式を書いてもマルはもらえません。いまの目的は、ふくろの数を知ることではなく、「分数のわり算」を学習することなのだから。

 というふうに、いろいろな疑問やもやもやをわきにおいといて、とりえあず宿題をすませるためにこういうやりとりをしたわけなのですが、実は、娘がひっかかっていたのは、全然別のことだということが、本人がわかったおかげで私もわかりました。カルチャーショックでございました。

 「あれ(整数の問題)と同じことなのね」と認識した娘いわく、「問題文に3つ数値があると思ったの〜〜」とのこと。つまり、問題文に示されている3つの分数のうしろ2つが同じものだと思っておらず、「登場人物は3人」だと思っていたらしいのです。

 考えてみれば、「24このみかんを4こずつ子どもにくばります。4このみかんをもった子どもは何人になりますか」といったような、ある意味、不自然な出題になっているといえばなっているのかもしれません。娘はこれを、「24このみかんを4こずつ子どもにくばります。3このみかんをもった子どもは何人になりますか」といったような感覚で読み取ってしまったのでしょう。最初はちょっとびっくりしましたが、なんとなくわからないでもないです。(追記:そっか、包含除だからしかたないんだ。

 というわけで、娘のひっかかりは全然違うところにあると知った、きのうの夕刻のひとこまでした。
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容器に水を入れてはかりにのせ、その水のなかに指を入れたら重さはどうなるか?

 学校から帰ってきた娘いわく、「きょうはクリエイティブな宿題が出たよ〜!」。理科の実験らしいです。おお、そんな宿題は初めてだ。なんでも理科の授業中にある問題が出て、先生が答えを教えないまま「やってみてください」と言い、子どもたちからのブーイングとなり、「じゃあ、宿題にしたらどうか」という案が出て、それはいい案だということになったようです。ちなみに、娘の担任の先生は(小学校だからいろいろな教科を教えていらっしゃいますが)理科が専門だという話を聞いた覚えがあります。

 そのお題は何かというと、「容器に水を入れてはかりにのせ、その水のなかに指を入れるとはかりが示す重さはどうなるか」というもの。そういえば少し前に、テレビ番組で似たようなことをやってましたっけ。そのときはたしか、蓋をして閉じた箱のなかでヘリコプターを飛ばせたら、箱の重さはどうなるか?というような内容だったと思います。

 ほんでもって、まずは予想をたて、あれこれ実験して、いま本人はレポートを書いているところです。そして私は、銀林浩『量の構造―構造主義的分析』(昭和50年)をひっぱりだしてきました。

 なお、この件に関するページを見つけたので、リンクさせていただきま〜す。↓
http://ph1.ed.hiroshima-u.ac.jp/kojima/
ideacard/ideacard/ph3-38/ph3-38.htm


 ちなみに、私はいまだによくわからないというか、なーんか納得できないのでした(^^)。

 なにゆえ銀林先生の本をひっぱり出してきたかというと、第1章で、まさに「はかりの問題」が出てくるから(指の問題は含まれていませんが)。いまでこそ『量の構造―構造主義的分析』に何かとお世話になっている私ですが、この本を最初に手にしたとき、第1章を読んでぶーたれましたのです。(ひょっとするとそのぶーたれの内容をどこかに書いたかも・・・10年以上前の話)

 この本のp.12に、大田区の小4から中2までの生徒を選んで行ったテストの正答率の表が示されています。岩波講座『現代教育学』9「数学と教育」p.235にあるものらしく、1960年というかなり古いデータです。そのテストとは次のような内容です。



水と水そうで100gあります。つぎのようなときは,はかりの目もりはどこをさしますか。
1) 50gの水を入れたとき。
2) 50gの石をしずめたとき。
3) 50gにの木ぎれをうかしたとき。
4) 50gの魚をおよがせたとき。
5) 50gの食塩をとかしたとき。



 この質問はもちろん実際の実験を行わせるのではなく、ただ紙上で答えさせるだけのものだったようです。なお、「(実際には,100gの水に50gもの食塩は溶けない)」というかっこ書きもありますが、5)の正答がなんだったのかは不明。ほんでもって、それぞれの問題についての正答率は、次のような結果だったらしいのです。

   

 銀林先生は、一見して、小5−中1の3)、4)、5)の問に対する正答率の極めて低いことが眼につくとしたうえで、いったいどういう方向に議論を展開しているかというと、「諸等数の計算ばかりやっていた『黒表紙』の方針の破綻を如実に示している」という方向にもっていくのです。かといって『緑表紙』のように計器の使い方や目盛の読み方に習熟すればいいという問題でもなく、では何が足りないかというと、重さの「加法性」の理解だ、と(話の途中で子どもの心性についても触れていますが)。なお、加法性については外延量と「加法性」で書いていますが、このエントリに出てくる m(A∪B)=m(A)+m(B) という式は、数教協の「量の理論」の基本だと私は認識しています。

 私がぶーたれるのも、無理はないと思いませんか?(って、だれにきいているんだか^^;)

 まず思うことは、正答率が低いことは、ときとして「成長」をあらわすことだってあるんじゃないかということ。また、上記の表のうち、同じ学年で問題による違い(たての列)を見ても、同じ問題で学年による違い(横の列)を見ても、そこからもっといろいろなことが読み取れるのではないかと思うわけであり。

 もちろん、銀林先生も、各問題の正答率からわかることをもう少しつっこんで書いておられるのですが、石を沈めたときは重さは和になるが、木切れを浮かせたときはそうならぬと考えている子が少なからずいることについて、「子どもの心性(mentality)についてある奇妙な事実に気がつく」と書いているのです。その違いって奇妙なんでしょうか。むしろ、奇妙じゃないからこそ、5つのバリエーションをつけて問う側は問いをつくったんじゃないんでしょうか。もし、石と木片を別々に考えることが奇妙なら、問題作った人がすでに奇妙ですよね?

 その考え方の違いが、正答率のたての列の数値の違いに表れている、ということになろうかと思います。しかも、学年によって、正答率の高低の分布が異なっています。また、横の列を見ると、どの問題もいったん正答率がさがって、中2でまた盛り返していますね。ここって大事なポイントだという気がします。

 少なくともこの時点で、銀林先生の気持ちは、問題を解いた子どもたちの考えにではなく、「黒表紙」や「緑表紙」に向かっているようです。また、当時の理科教育がどうなっていたかも気になるところです。

 ちなみに娘は、「指を入れたら重くなる」という予想を立てました。その理由は、「これまでいろいろ実験してきて、スーパーボールを浮かしても重くなったし、食塩を溶かしても重くなったし、これで指を入れて重くならなかったら変だから、重くなってほしかったから」だそう。

 なお、これがもとであれこれ連鎖検索したときに、ウィキペディア:アルキメデスの原理の「法則の発見」のところに、「アルキメデスとその後の学者たちは、この法則が自然科学的な法則であるとは気付かず、数学的な原理であると考えた」と書いてあるのを読んで、さらに(いい意味での)疑問符がふえた私。どういうことなんだろう・・・!?

 アルキメデスといえば、銀林先生の本でも、「はかりの問題」の少しあとで「アルキメデスの公理」が出てきます。アルキメデス的全順序群という言葉も出てきます。

 というわけで、社会にしろ理科にしろ、娘から何かと勉強の機会を与えてもらっているきょうこのごろです。でも、どこを入り口にしても、結局、自分のこだわりにいきつくのがおかしくもあり(^^)。
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1月15日夕方、岐阜テレビでハンドボールコート新作成法

 以前、ご紹介したハンドボールコート新作成法〔岐阜東高校方式〕がテレビの取材を受けたとのことで、きょうの夕方、放送されるようです。午後5時から5時30分のニュースと午後6時から6時15分のニュースの中ですこし出てくるもよう。一部の地域の方しか観られませんが(私も直接、放送は観られない〜)、ひとまずご案内まで!

 ちなみに動画のほうも、さらなる改訂版が出ております↓
http://www.youtube.com/watch?v=V5hMbGmnfYU
 
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【URL変更】>ハンドボール新作成法〔岐阜東高校方式〕の修正版

 ハンドボールコート新作成法〔岐阜東高校方式〕において、動画のリンク先を示しましたが、ラインの名称にまちがいがあったようで、修正版がップされております。

http://www.youtube.com/watch?v=qQlNddoChg8


 なお、正方形の位置はあそこでよいそうです
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形を与える・・・ここで一区切り。

 『数学的文化化―算数・数学教育を文化の立場から眺望する』(アラン J. ビショップ著/湊三郎訳/教育出版)の第2章を読んでいます。「ものを数える」「位置づける」「量を測る」ときて、次は「形を与える」です。

 ビショップさんは、「形を与えることの真髄は,自然の一部分を変形すること」と書いています。また、「形を与えることは,自然界に特定な構造を課すことを必然的に伴う」とも。そして、1本の木の枝を見つけて不要な部分を取り除き、都合のよい長さに切って、杖を作るという例を示しています。「杖はいずれも違っているが,似てもいる」。
作り終えた現物は数学的には重要ではないが,しかしそれは科学的観念の発達においては重要であり得るだろう。自然科学では多くの場合,事物の実際的性質に関わるのである。数学教育を探究している我々にとって重要なことは何かというと,計画,構造,心象化された形,対象と目的との間に知覚される空間的関係,抽象された型,及び抽象化の過程そのものである。
  (p.80)

 さて、形を与える活動についても、文化によって大きな違いがあることでしょう。その違いは、目的からくるものもあれば、材料の違いからくるものもある。しかし、たとえば住居に関しては、イグルーであろうと泥を固めて造った小屋であろうと、木造の茅葺でも煉瓦づくりでもタイル張りでも、その造りは世界全体でかなりの類似性をもっているとビショップさんは語ります。「スプーンは普通は丸くうがった部分とまっすぐな取っ手からなり,壷は通例は丸く、槍は直線的である」

 という話をきいて私が思い出したのは、高校の家庭科の調理実習での一場面。茶碗蒸しをスプーンで食べようとした生徒に、先生が「茶碗蒸しは日本の料理だから、お箸で食べます」と注意していたこと。まあ、注意というほど強いものではなかったのですが。

 思えば昔の日本にスプーン状のものって、あったんでしょうかね? 「匙」という漢字があるということは、漢字圏は漢字圏で汁状のものをすくう食器がスプーンとは別に発生していたのだろうけれど。レンゲというものもあるわけだし。で、ウィキペディアのスプーンをのぞいてみたら、なんと、平安時代に貴族が銀の匙を使っていたらしい。そうなんだ〜。そういえば「匙を投げる」という言葉もあるか。やはりそれは、丸くうがった部分とまっすぐな取っ手からなるのでしょう。


 と、このあたりまで書いたところで・・・


 なかなか筆が進まないというか、キーボードが進まない自分を自覚。それはこの話題に興味がないからではなく、「形」の話にくると、どの方向に連想を広げたものか、途方に暮れてしまうからだと思います。道具としての形のみならず、自然をどう捉えるか、装飾や宗教、想像力、感情、信念、そういったものとの関連性について、ビショップさんももちろん語っているわけですが・・・

 で、この途方に暮れる気持ちをひとまずわきにおいといて、「形を与える」をざっと読み、先に進もうかとも思ったのですが(「形を与える」のあとは、「遊びをする」「説明をする」になっています)、ビショップさんの本を読みながら考えたいことは、文化のことのほかにカリキュラムのこともあり、こっちはこっちで大きな問題なので、無理して続けるよりも、ここでいったん蓋をして醸したほうがよさそうだという結論に達しました。そんなふうに蓋をした樽がいっぱいあることであるよ私の頭ん中。だけどきっと、樽同士は独立・分離してないで、つながっているんだろうな。

 というわけで、かなり中途半端なことになってしまいますが、  『数学的文化化―算数・数学教育を文化の立場から眺望する』(アラン J. ビショップ著/湊三郎訳/教育出版)のことをブログで書くのは、これで一区切りにしたいと思います(この本を私に紹介してくださったM先生、ほんとにありがとう!!(^^)/)。

 で、一区切りではありますが、もうひとつ付記。私はこの一節を読みながら、家庭科の調理実習のスプーンのことだけではなく、縄文式土器と弥生式土器の違いのことも思い出していたのです。

(別の話題でつづく)
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2つの菜園のどちらがほしいですか?―人にとっての量の意味

  『数学的文化化―算数・数学教育を文化の立場から眺望する』(アラン J. ビショップ著/湊三郎訳/教育出版)の第2章を読んでいます。きょうは、「量を測る」について。

 これまた多様な文化において、多様な量の測り方、量の捉え方があるわけですが、単位が異なるということ以前に、独立した単位が存在しない、さらには、特定の質がまったく数量化されていない文化もあるようです。

 たとえばハリスの調査によると、オーストラリア先住民には体積を表す言葉がなく、地域的に使われる単位もないそうです。しかし、測らないわけではない。「人々は心象で測る,すなわち目測である。身内の者のために着物を見ただけでは買えない人などここにはほとんど誰もいない。おおよそいつもそのようにして間違いない大きさのものを買う。」

 また、パプアニューギニアのある村では、ほぼ長方形の形をした菜園の広さについて紛争が生じたときに用いられる測度は、縦と横の長さを加算したものなのだそうです。
彼にとって縦横の長さを掛け合わせるのは白人のやり方であり,この方法は学校で学んだことはあるが家では彼はいつも加えることにしている。先にもみたように,このような考えを風変わりな考えとみなし,かすかながら楽しんで捨て去ることは簡単であるけれども,もしも土地がおおよそ似たような形であるなら,縦の長さと横の長さとを加えた値は広さの大小比較という目的に対して完全に容認できる測度を与える。
  (p.74)

 このことは、「測定の単位を開発するのに先だって質を何かの形で比較し,また順序づけることを可能とする言語に対する明確な文化的要求があるのが一般的であることを意味する」とビショップさん。そういう話になると、遠山啓のことを思い出します。>「数のまえに量がある」by遠山啓

 そして比較限定詞の話へと進み、ゲイとコールによる西アフリカのクペレ族の研究では、より少ないという概念よりもより多いという概念が好まれる傾向があったことや、ジョーンズによるパプアニューギニアの子どもたちに関する研究では、より多いという言葉の正しい使い方をより少ないよりも早期に獲得する話などが紹介されています。

 さて、「少ない」と「多い」について、連想を広げてみます。

 まずこのエントリを書くあいだに気づいたことは、「大小」「多少」とは言っても、「小大」「少多」とは言わないなぁ、ということ。

 それから、燃費のこと>数値が大きいほどTNP(低・燃・費)、逆内包量のこと。日本やアメリカでは燃費として単位燃料量あたりの走行距離を用い、欧州各国では「liter/100km」のように一定距離を走行するのに必要な燃料量を用いているという話。単位燃料量あたりの走行距離の場合は、「数値が高い=燃費が低い(=いいこと)」となりますね。

 私は車を運転しないのでよくわからないのですが、給油する場合のオーダーは、「満タンで」以外はリットルで指定するのでしょうか? 料金の場合もあるのかな? そういえばセルフがあるじゃないかと気づき検索してみたところ、おお、どちらもできるのですね。
http://www.cosmo-oil.co.jp/ss/self/index.html

 いずれにしろ、距離では指定しないのですよね。給油機の側ではわからないだろうから。となると、自動車の燃料量と走行距離を関数で考えたい場合、燃料量のほうを独立変数とみなすほうが自然で、だとすると内包量は単位燃料量あたりの距離ほうがよさそうといえばよさそうですね。

 ということをさらにつっこんで考えていくと、温室効果ガス排出量取り引きの原単位方式のことを思い出します>2つの外延量の関係を考えることと、「加法性」。つまり、「生産量“あたりの”排出量」を抑えるということは、能力の問題であり、技術開発の指針となりえますが、目的は排出量を減らすことなのだから、能力をあげても生産量がさらにふえて排出量も結果的にふえては、意味がないということについて。

 そういえばダイハツの第3のエコカーのCMは例のシリーズがまだ続いていて、次の段階に移っているようですが()、家から遠いスーパーへの往復の距離は一定しているのだから、その距離を往復するのに燃料は何リットルいるか、そしていくらかかるか、という料金のほうが関心事になってくるのでしょう。そうなると単位距離あたりの燃料量のほうがストレートに比較できますね。

 しかし、比較に関連して私がいちばん印象的だったのは、この節の最後にある次のエピソードでした。

 ビショップさんが、パプアニューギニア人に菜園の広さについてたずねたときに、2つの長方形を描いて(本に図示されている)「これらが菜園だとするとどちらを自分のものにしたいか」ときいたときの答え。図示されている長方形は、ほぼ同じ形(縦と横の比率が同じ)つまりは相似な長方形で、大きさだけ明らかに異なっているように見えます。どちらを自分の菜園にしたいかときかれた彼は「多くの事柄次第である」と答え、「土壌、日当り、水はけがよいか・・・」と言ったのだそうです。すごく納得。
私のいわゆる数学教育は,二つの菜園の数値的大小関係のみに注目させてきたことは明らかである。彼には,広さは菜園に関する多くの観点の中で重要性が最も小さいものであった。
  (p.79)

(つづく)
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空間のなかに、自分自身や他の物体をどう位置どるか

 『数学的文化化―算数・数学教育を文化の立場から眺望する』(アラン J. ビショップ著/湊三郎訳/教育出版)の「第2章 環境世界に関わる活動と数学文化」のなかの「第4節 位置づける」を読んでいます。

 ビショップさんの探究は人類学に傾倒したものなので、この一節でも、文化的背景によって空間の観念化は異なってくるということについて、いくつもの例が示されています。

 たとえば、地理的な違いからくるものとしては、山地にあるパプアニューギニア高地の諸言語の中には、傾斜の勾配の多様な程度を表現する語彙があるけれど、水平の観念を簡易に表す方法がないことなど。

 また、北米のナバホ族に関わるピンクステンの研究からは、西欧的考え方との違いが示されています。つまり、西欧的考えでは、空間観念が階層的であり、部分と全体の区分立てが中心的役割を演じるけれども、ナバホは過程、事象、流動の立場で世界を語る傾向があることなど。

 これに関連してデモクリトス的な空間の物的味方と、ヘラクレイトス的な見方の対比が示されているのですが、そうなるとインドのことを思い出します。>「流れる」という言葉

 また、ルイスの研究から、オーストラリア先住民には道に迷うという観念がない話や、ポリネシアの航海士が用いる星を利用した位置づけの方法、海に関して彼らが熟知するうねり、波のパターン、それらの交差という地形図的知識の話などが紹介されています。

 あるいは、中国文化の土占いの学の話など。

 で、英語のin、on、behind、underの話が出ていたときに、私はふと、「靴下」のことを思い出しました。「どうして靴中じゃないの?」という質問をテレビ番組の中できいたことがあったので。いわゆる下着としての「下」、内側ということなのでしょうね。靴下をはく私からみて靴より靴下が私のほうに近いという意味での内側ということなのかな。
http://home.alc.co.jp/db/owa/jpn_npa?stage=2&sn=11

 ちなみに、クペレ族の場合、「家の中に」を翻訳すると、「家の下部」という言葉になるそうです。
 
 そういえばこの夏、歴史にたいする興味急上昇の娘に、「どうして女の人にだけ“御前”がつくの?」ときかれて、私も「なんでだろう?」と首をかしげたのですが、かつて私も「てめぇって何?」という疑問をいだいたことがありましたっけ>。家内や奥様にも「内」「奥」という位置づけの言葉が入っていますね。“上”司や部“下”にも。

 ビショップさんは、空間という数学的観念は明白に幾何学的観念であるものに止まらず、数や計数に対する我々の心象と強く結びついている向き、順序、有限性等々に及んでいるということも書いています。
 
 ほかにもいろいろな話が出てくるのですが、結局、ビショップさんは何が言いたいのだろうと考えてみたとき、キーワードは、「空間の概念化の差異と文脈と普遍性」ということになりそうだと私は感じました。

 つまり、空間的環境世界を符号化し言語・記号化する方法を、すべての社会が発達させてきた、そのこと自体の普遍性。しかし、地理的環境が異なればその内容は違ったものになるし、多様な文化的背景のもと、多様な空間の観念化の方法がうまれてきたこと。
我々はこのような研究から,知識の構成を刺激する実存の深い人間的価値や人生の意味に気づく。高度科学技術志向的社会に暮らす我々のような者たちは,精神,身体,感情と環境世界との共存在を満たす人間の基盤的要求をあまりにも容易に忘れがちである。我々は,他文化がもつ異なる眺望から多くを学ばねばならない。
 それにしても,知識の全水準において我々が見てきた差異にもかかわらず,位置づける活動の普遍性を疑うことはできない。
  (p.71)

 なお、ビショップさんが分類している項目のうち、もうひとつ幾何学的領域に入るものとして「形を与える」というものがあるのですが(その間に「量を測る」がある)、「位置づける活動」と「形を与える活動」を対比させて考えるとき、やはり前者には「自分自身と他の物体との位置関係」という面があると感じました。

(つづく)
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CCSSの補足

 Grade3から“Number and Operations—Fractions”もありました。

>http://www.corestandards.org/
assets/CCSSI_Math%20Standards.pdf


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