TETRA’s MATH
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連鎖状の知性/上野修『スピノザの世界』(8)
上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回書いたように、P「原因→結果」、Q「原因→結果」、R「原因→結果」、……を少しずつずらしながら3段に並べ、Pの結果がQの原因、Qの結果がRの原因と縦にイコールでつなげられた図がp.119に載...
前回 書いたように、P「原因→結果」、Q「原因→結果」、R「原因→結果」、……を少しずつずらしながら3段に並べ、Pの結果がQの原因、Qの結果がRの原因と縦にイコールでつなげられた図がp.119に載っている。
これを簡略化すると、「…… P → Q → R ……」 と表せ、「観念の観念の系列が並行するから、正確には、こうだろうか」として、
…… P → Q → R ……
…… P´ → Q´ → R´ ……
と示されている。ここも、もしあるのなら3段階めまで示したあと、さらに続く「……」も加えてほしかった気がするが、もしかしたらそれはないのだろうかとだんだん不安になってきた。
しかし、「実際には連鎖はこんな直線でなくて、事物の秩序と連結と同じように枝分かれしたり合流したり、相当複雑なことになっているだろう」ということなので、あまり並行のイメージを強めるのもよくないのかもしれない。
その全体が一挙に、無限知性として出てきている、とスピノザは考える。スピノザの神はこんなふうに観念連鎖の細部に遍在し、いたるところで知覚を生じている。そこには全体を高みから俯瞰する「神の視点」みたいなものはない。あるのは、いわば無限平面をびっしりと這(ルビ:は)い回る連鎖状の知性だけなのだ(第1部定理31)。
(p.121)
そして、アフェクチオ(affectio)、コルプス(corpus)という言葉が出てくる。
前者は「変状」の意味であり、たとえば自動車に何かが当たってへこみ傷が付くようなことをスピノザはこう呼んだらしい。
後者はラテン語で、物体、身体を指す言葉であり、つまりはこれらに区別がないということ。
自動車についた傷がなぜそういう付き方になっているかを思考が理解するには、衝突物体と自動車との両本性が前提になる。われわれも同じで、われわれの身体Aがほかの物体Bから刺激されて変状aを自らのうちに生じる。
そしてこのaの認識は身体Aと物体Bの両方の認識に依存しかつこれを含む。
ということに関して、「身体A」の観念と、「物体B」の観念が結ばれて「身体Aの変状a」の観念へと矢印が向かう図が示されている。
神の無限知性の中に生成している「身体の観念」、それがわれわれが魂だとか精神だとか言っているものの正体である。
(p.122)
そんなこんなでデカルトの心身合一の問題は解決されてしまうということのよう。身体と精神のあいだの不可解な結合を想定しなくても、ちゃんと心身合一が説明できてしまうから。
ただ、そうなると、「物体B」の観念になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか。スピノザはそれも認めるだろうと上野修さんは書いている。
これが、スピノザの万有霊魂論につながるらしい。
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上野修『スピノザの世界』
2024-03-15T15:19:22+09:00
tamami
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http://math.artet.net/?eid=1422714
自分の疑問「入れ子の連鎖なのか?」/上野修『スピノザの世界』(7)
上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回、スーパービーンという言葉で説明されている状況を見てきたが、無限知性の中にある「人間身体の観念」も、「しかじかの人間のこのような個体特性を内容としていると考えられる」とのこ...
前回 、スーパービーンという言葉で説明されている状況を見てきたが、無限知性の中にある「人間身体の観念」も、「しかじかの人間のこのような個体特性を内容としていると考えられる」とのこと。
その観念がその人間の「精神」だとはどういうことかを考えるにあたり、再び「半円が回転→球」が出てくる。以前見たように 、「半円が回転」は「近接原因」であり、「半円が回転」という思考がなければこの観念は理解不能だし、逆に、「半円が回転」という思考があれば、その思考は必然的に「半円が回転→球」という理解にすすむことになる。
つまり、
「半円が回転」→「半円が回転→球」
ということ。
もし、アニメーションで説明するのであれば、「半円が回転」をまず示し、これは近接原因で単独では意味がないので、すぐに「→球」が浮かび上がるというイメージなのだろうと私は理解している。そして、最終的に画面には「半円が回転→球」とだけ示されており、これが球の真なる観念である、と。
一方、このプロセスを静止画で示すとなると、「半円が回転」から、「半円が回転→球」へ移行するような図が必要になろうかと思う。つまり、「半円が回転」→「半円が回転→球」だ、と。
これに対して、p.118の本文中に
P→Q (思考Pが観念Qを理解し・結論している)
という図式が示されている。
このあたりから私は少し困ってくる。
Pが「半円が回転」なのはいいとして、Qは「球」なのだろうか、「半円が回転→球」なのだろうか。
文章の流れからすると、Q「半円が回転→球」と考えるのが自然であるような気がする。
ところが……というか、さらにというか、このあとで 「原因→結果」の「結果」が次の「原因」とイコールになり、「原因→結果」が少しずつずれながら3段重なっている図が示されていて、それとは別にP「原因→結果」、Q「原因→結果」、R「原因→結果」、……という記号がつけられた図もあるのだ。
単に記号が重なっているだけの話で、文脈にしたがって読みかえていけばいいのかもしれないが、ただでさえ少し難しい話なので、やや混乱してしまっている。
そもそも、「半円が回転」は言葉というより文章であり、「球」は文章にはなっていない。「球ができる」とすれば文章になるけれども、「球ができる」ということが何かの原因になるのだろうか? あるいは、「半円が回転することで球ができる」ということが何かの原因になるのだろうか?
もし、P「原因」→Q「結果」のQが「半円が回転→球」なのだとすると、次は「「半円が回転→球」→……」という形になり、これが延々と繰り返され、どんどん膨らんでいくということになりそうな気がするが、そういう理解でいいのだろうか? というか、連鎖というものは結局そういうことだろうか?
なんだか、仏教の十二支縁起 のことや、「風が吹けば桶屋が儲かる」を思い出したりしている。
また、『インド人の論理学』(8)/「不可離の関係」(XなしにYがあることはない) とも少しつながりそうな話だと思った。とにもかくにも上記の私の困り事には包含関係と連鎖という2つのことがらが関わっていそうだということは感じるのだった。
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上野修『スピノザの世界』
2024-03-08T14:50:00+09:00
tamami
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tamami
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http://math.artet.net/?eid=1422713
スーパービーンしている/上野修『スピノザの世界』(6)
上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回見たように、「台風A」と「「台風A」の観念」は、同じ台風Aの異なる表現なのだった。
台風を生じさせる神の力能と、台風を知る神の力能とは、厳密に同等で並行しており、一方が他...
前回 見たように、「台風A」と「「台風A」の観念」は、同じ台風Aの異なる表現なのだった。
台風を生じさせる神の力能と、台風を知る神の力能とは、厳密に同等で並行しており、一方が他方に先立つということはない。
つまり「神あるいは自然」は、あらかじめ考えてから「よし、実行だ」というふうにはなっていないのである(定理6の系と定理7の系)。
(p.112)
並行論といっても、2本の平行線ではなく、思考と延長以外にも互いに並行する無限な属性は無限に多くある。
同じ事物xが、全属性にわたって同一の秩序と連結で、属性ごとに異なる仕方で表現される。
A属性、B属性、C属性、……の事物xの表現をAx、Bx、Cx、……として、これらについての観念を「Ax」、「Bx」、「Cx」、……とかぎかっこでくくって示し、観念「Ax」についての観念もあるわけなので、これを『「Ax」』というふうに示すと、次の図のようになる。
(p.114)
個人的には、「観念の観念の観念」や「観念の観念の観念の観念」はあるのだろうか?という素朴な疑問がわき、もしあるのなら3段階めくらいまで示してほしい気がした。ちなみに、もしあるのならばかっこの種類が足りなくなるか、かっこが重なってしまうので、「´」を使って示したくなるところ。実際、これよりもう少し先で「´」が出てくる(ひとつついているだけだけど)。
とにもかくにも、
すべての観念がその対象と一致するような、絶対かつ唯一の真理空間。その別名がスピノザの「神」なのである。
(p.114)
ということらしい。
なお、p.115では、前回の「台風」を「人間身体」に置き換えた図も載っている(「同じ台風の…」のところは、「同じ人間の…」となっている)。
そして、この先でスーパービーンという言葉が出てくるのだった。スピノザの用語としてではなく、現代風に言い換えた言葉として。ここも、昔読んだときにとても印象に残ったところだった。
「併発」というかっこ書きがついており、電光掲示板の例で説明されている。発光諸部分が一定の協同パターンを呈するとそこにメッセージがスーパービーンするように、と。
さらに、下位レベルの構成所部分のそれぞれにも同じことが言える。
こうしてスピノザは、物質延長の全面が無数の階層を持った無限に多くのいわば個体特性で覆われていると考える(補助定理7の備考)。銀河も地球も猫も台風も人間も、すべて個体である限り、そうした局所的にスーパービーンしている個体特性にほかならない。
(p.117)
少し調べてみたところ、スーパーヴィー二エンスという言葉は、哲学(特に心の哲学)でよく使われる言葉らしく、その場合は「付随性」という訳語があてられるもよう。
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上野修『スピノザの世界』
2024-02-27T15:42:28+09:00
tamami
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http://math.artet.net/?eid=1422712
同じ猫、同じ台風の異なる表現/上野修『スピノザの世界』(5)
上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
今回から、「4 人間」に入っていく。まずおさえておくのは、「デカルトの残した問題」。
1つめは「観念」について。デカルトの言う「観念」はあくまで「私の精神」の思考様態なので...
今回から、「4 人間」に入っていく。まずおさえておくのは、「デカルトの残した問題」。
1つめは「観念」について。デカルトの言う「観念」はあくまで「私の精神」の思考様態なので、主観的な思いがどうして思考の外にあるものと一致できるのかという問題。
もう1つは、いわゆる「心身合一」について。思考(何かの考えになっていること)と延長(物質的広がりになっていること)は共通点がないので、精神と身体が一つになっているという状態を考えようとしてもできないという問題。
上野修さんによると、『エチカ』第2部「精神の本性および起源について」は、2つの問題の答えになっていると思われるとのこと。「図らずも」と書いてあり、勝手に動きだしたスピノザの証明機械が、いわばついでのように問題を解消してしまうということのよう。
スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならないらしい。ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まねばならない、と。
だれの持っている観念かということはさしあたりどうでもよい、じっさい、だれが考えるかでころころ変わるような真理は真理とは言わない、ということも書いてある。なるほど、そう言われれば確かに。
スピノザの説明をわかりやすく解説した内容がp.109で図にまとめられており、要は、「猫A身体」と、「「猫A身体」の観念」は、同じ猫Aの異なる表現ということらしいのだ。
同じような図がp.111でも出てくる。こちらは台風Aを例にとった説明であり、昔読んだときにとても印象に残ったところだった。
2つの図をあわせたものを、こちらで描き起こしてみた。
ここから、有名なスピノザの「並行論」が出てくる。
台風を存在させ・作用させている無数の物理的な原因をわれわれはすべてたどることはできないが、自然の方ではすべてたどりきって現に台風を存在させている。
そして、原因があるということは説明があるということであり、われわれには無理でも、自然の方ではなぜその台風がそんなふうに存在しているかの説明が尽くされていて、現に台風の存在が結論されている。
この結論が、台風についての「真なる観念」であり、自然の中に台風の真なる観念が生み出され、猛威を振るう台風と「同じものの異なった表現」になっている。
自然の中に思考があるというのは変な感じがするが、われわれだって自然の一部である。われわれに思考があるのに自然にはないと言う方が実は変なのである。
(p.111)
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上野修『スピノザの世界』
2024-02-19T12:16:15+09:00
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様態化と無限知性/上野修『スピノザの世界』(4)
上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
「3 神あるいは自然」の締めくくりとして、スピノザが様態化を具体的にどう考えているかの説明があり、それまとめた図が載っているので、それについて考えていきたい。
神の無数にあ...
「3 神あるいは自然」の締めくくりとして、スピノザが様態化を具体的にどう考えているかの説明があり、それまとめた図が載っているので、それについて考えていきたい。
神の無数にある属性のうち、われわれ人間に知られているのは「延長」(物質的広がりであるという性質)と「思考」(何かの考えになっているという性質)の2つであるとして、話は始まる。
(なお、「デカルトの問題」については次の章で扱われている。)
延長属性ではまず「運動と制止」という根本規則が出てくること、「直接無限様態」「間接無限様態」という言葉がかっこ書きで示されていることなどの詳細はおいといて、いまおさえておきたいのは次の一節。
さて、属性はおのおのが同じ神の本質を表現するのだった。だから思考属性でも同じプロセスでなければならない。われわれ人間の知っている思考属性、つまり考えになっているという性質は、すべて物質的な世界についての思考か、その思考についての思考のいずれかである。
(p.101)
まず物理法則の理解(直接無限様態)が出てきて、そこから法則に従って変化しながら同一に留まる宇宙全体の理解(間接無限様態)が必然的に出てくると考えられる、ということのよう。
スピノザが「無限な知性」と読んでいるのは、無限様態化したこの思考属性のことであるらしい。
本に出てくる図の一部を省略して、改行位置をかえたり色をつけたりして、こちらで描き起こしてみた。
(どこかで見た構図だなぁ!と思ってみたり)
実際には、「全宇宙のありさま」の下に、
(猫・台風・戦争…)
「「全宇宙のありさまの」知」の下に、
(「猫」観念・「台風」観念・「戦争」観念…)
という言葉が書いてあり、その下に縦書きのイコールで「無限知性」が結ばれている。
猫や台風や戦争は宇宙の一部分として出てきている。同じ必然性で「猫」観念、「台風」観念、「戦争」観念が神の無限知性のどこかに一部分として出てきている。猫と台風と戦争は出てきている限り、互いに無関係でなく、みな法則に従った物理的因果関係の網目の中で存在と作用へと決定されている。そしてその決定の必然性を無限知性は「原因→結果」の「→」であまねく感じている、というわけだ。
(p.102)
なお、「これはたんなる機械論的な決定論ではすまされない考えである」ということと、「「ある」ことの全域のどこにいも「自由意志」が現れないということに注目しておきたい」ということも記されているのだった。
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上野修『スピノザの世界』
2024-02-14T10:56:00+09:00
tamami
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神は制作者ではない/上野修『スピノザの世界』(3)
上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回、「神は無限に多くの属性から成り立っている」図を示し、「なぜこんなことが言えるのか? について、次で考えていきたい」と締めくくったはいいが、ここで生じる疑問も含めていろいろ...
前回 、「神は無限に多くの属性から成り立っている」図を示し、「なぜこんなことが言えるのか? について、次で考えていきたい」と締めくくったはいいが、ここで生じる疑問も含めていろいろ解説してあっても、すんなり納得できるような内容とは言い難い。
ただ、こんなふうに捉えればいいのかな?と個人的には考えた。まず、「神」という言葉をいったん忘れてみる。前回見たようにちゃんと言葉で定義してあるのだけれど、それでもやはり「神」という言葉にはいろいろなイメージがともなってしまうので、本にあるように「X」で考える。
そして、とりあえずA属性、B属性、C属性、……を全部持っている実体Xを考えてみる。そんなものがあるのか?ではなく、そんなものがあると考えてみる。
とにかく、そういうXを考えると、「在るということのすべて」について説明する定理を導ける。そのXが、神だ、と。
本に書いてあるように、「怪人二十面相みたいなもの」と考えればいいのかもしれない。
完全に納得したわけではない状態ではあるけれど、なるほどなぁと思ったのが、例 の「→」が出てくること。
説明的理解は「半円が回転→球」のように理由ないし原因からの必然的な帰結という形で与えられ、「→」の必然性が感じられていなければ「球」を理解したことにはならないのだった。
いま、「何かが存在する」ことを理解するには、下の図のAの形が必要となる(A、Bの記号はこちらでつけたもの)。そして、神の存在証明は、Bの仕方でこの説明を与える、ということらしいのだ。「X=神というものを考えると、Xは必然的に存在する」というふうに。
うまいこと言いくるめられた気もしないでもないが、面白い発想だなぁと思う。
で、結局どういうことになるかというと、「個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一定の仕方で表現される様態、にほかならない。(定理25の系)」ということになるのだ。
つまり、「猫も台風もわれわれもいわば神の色つやみたいなものになってしまいそうだ」ということ。
当時のふつうの考えでは、世界は神がつくったということになっていた。ところがスピノザでは、「つくる」という言葉が完全に消えている。神はつくらない。事物に様態化し、変状するのだ。
(p.97)
三角形を三角形にしている「本質」を定義すると、そこから必然的に「三つの角の和が二直角に等しい」という三角形の「特性」が出てくるように、神的実体の本質の必然性から、様態が「出てくる」。
神を制作者のように考えているあいだ、人は「つくろうと思わなければつくらないこともできたのに、神はどうしてこんな世界をつくったのか? いったいそれは何のためか? どうすればわれわれはその目的にかなうことができるのか?」と問うてきた。ここから神学ははじめから解ける見込みのない思弁に迷い込む。
スピノザの答えは、単純明快である。神は制作者ではない。(中略)スピノザはこういう神の自己必然的な様態化を「自由」と呼んでいた。
(p.99)
スピノザの考え方って、きらいじゃないなって思う。
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上野修『スピノザの世界』
2024-02-08T11:13:00+09:00
tamami
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神は無限に多くの属性から成り立っている/上野修『スピノザの世界』(2)
上野修『スピノザの世界』の図が示されている部分を中心に読んでいる。次は、「3 神あるいは自然」について。いよいよ『エチカ』に入っていく。
『エチカ』は説明の体系であり、理解できなければ説明ではない。理解は「半円が回転→球」というふうに理由ないし原...
『エチカ』は説明の体系であり、理解できなければ説明ではない。理解は「半円が回転→球」というふうに理由ないし原因によって与えられ、「→」の必然性が真理の規範だった。
とすれば、途切れない「→」だけで全部ができているような説明が望ましい。そんなやり方があるだろうか? ある。お手本はユークリッドの『幾何学原論』である。
(p.76)
(ちなみに、以前、『エチカ』も購入して手元にあったのだが、どうにもこうにも読めそうになく、その後、手放したのだった。)
p.79では、丸々1ページ分使って第1部の定理証明の導出の様子が示されている。定理、系が複雑な矢印でつながれており、この本の中でいちばん図らしい図だと言える。
なので、図が出てくるところを中心に取り上げるのなら、こここそ取り上げるべきところなのかもしれないが、定理の導出の図がこうなることはわかる(こうなるだろうと思える)ので、特に扱わずに先に進むことにする。考えたいのは、この先に出てくる実体と属性の図。
まず、p.87で以下のような文字列が図として出てくる。
A属性の実体(唯一・自己原因・永遠・無限)
B属性の実体(唯一・自己原因・永遠・無限)
C属性の実体(唯一・自己原因・永遠・無限)
・
・
・
次に、p.89では、上記の文字列が絶対値記号のように左右の縦線で括られ、右側に「実体X=神」と書かれてある。
さらに、以下のような図が出てくる(本からスキャンしたもの)。
(p.90)
先に図を示しているのでなんのことやら……だけれども、つまりは次のようなことらしい。
まず、スピノザは「実体」なるものについての定理を導出する。「実体」「様態」「属性」の定義を確認しておくと、以下の通り。
「実体」とは、それ自身のうちにありかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。(定義3)
「様態」とは、実体の変状、すなわち他のものの内にありかつ他のものによって考えられるもの、と解する。(定義5)
(p.81〜82)
「属性」とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。(定義4)
(p.82)
「(あくまで)さしあたり」として、リンゴが例にとられている。リンゴは「実体」、リンゴを他の果物から区別できる手がかりとしてのリンゴ性みたいなのが「属性」、そして、同じリンゴもいろいろ色つやが変わるので、それを「様態」とする、そういうイメージ。
そして、定義と公理のセットのうちのいくつかかから、「実体」についての定理 ――「唯一性」「自己原因と永遠性」「無限性」―― が導かれる。それぞれ詳しく理由が書いてあり、まあ、ここはとりあえずある程度納得できるといえば納得できる。
ひっかかるのは、「神」の定義。
「神」とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのが永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体、と解する。(定義6)
(p.88)
個人的には、なんだか定義のなかにすでに結論が含まれているような気がして、「それってあり?」とは思うけれども、とにかく定義なので「なぜ?」とは問えない。
しかし、本に書かれてあるように、『エチカ』は一種の実験であること、よい定義かどうかは定理の導出の首尾いかんにかかっているということ、神の定義に形容詞だけではなく形容される実名詞を使っていることなどは、「ふむふむ」と思える。
で、先ほどの定理から、最初に示したような図のA実体、B実体、C実体が考えられる。さらに、A属性、B属性、C属性、……を全部持っている実体Xを考えると、これが神になるというのが2番めの図となる。さらにそれを図式化したのが3番めの図ということになろうかと思う。
なぜこんなことが言えるのか? について、次で考えていきたい。
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上野修『スピノザの世界』
2024-02-01T11:58:00+09:00
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必然性は「→(矢印)」で感じられている/上野修『スピノザの世界』(1)
というわけで、上野修『スピノザの世界』で、図が出てくるところを中心に読んでいきたい。前々回と前回は準備ということで、ここから番号をつけていくことにする。
ちなみに、図表番号のない、本文中の簡単な言葉と矢印の組み合わせなども、自分のなかでは図とカウ...
ちなみに、図表番号のない、本文中の簡単な言葉と矢印の組み合わせなども、自分のなかでは図とカウントされているものがある。
最初に図とカウントしたものは、まさに本文中にある言葉と矢印の簡単な組み合わせであり、横書きで示すと次のようになる。(ア)、(イ)、(ウ)の記号はこちらでつけたもの。
(ア) 半円が回転すると球が生じる
(イ) 半円が回転 → 球
(ウ) 原因P → 結果Q
ここは何をしているところかというと、「知性に何ができてしまっているか」を考えているところ。
観念、すなわち何かについての思考は、それ自体で見ると一種の「感じ」だとスピノザは言っている。われわれは真なる観念がある種の必然性の知覚だということを見てきたが、この必然性は思考のどこのあたりに感じられているのだろう。
(p.60〜61)
たとえば球の概念を形成するために「半円が中心の周りを回転してこの回転から球がいわば生じる」とすると、この観念は、自然の中でそんなふうにして生じる球体が一個も存在しなくても、もちろん真である、と。
それを簡略化したのが上記の(ア)であり、もっと簡略化すると(イ)となり、一般化して書くと(ウ)となる。
必然性はこの「→」のところで感じられているということらしいのだ。
以下、本に書いてあることを、私の理解と表現で図にまとめてみた。
近接原因Pは、「好き勝手な」虚構、想定ではあるが、非常に単純な観念からできているので、この虚構自体を別なふうに勘違いする余地はない。
しかし、「好き勝手に」虚構できてしまう、というのはやはり不安な感じがするし、こういう能力は、好きなだけ「無際限に」拡張していけるものではないとして話は続く。
そのことに関するスピノザの文章の中に「知覚の蝕(defectus)」という言葉と、「切断され欠損が生じた(mutilatas quasi et truncatas)」という言葉が含まれている。
「→」だけでは何のことかわからず、あくまで「半円が回転→球」という完全な姿をした「球の概念」の中で「→」の必然性が感じられるようになっている。
「半円が回転→球」から、「半円が回転」だけが残るとすると、この観念は偽となる。半円が回転する必然性は何もないのだから、そのときわれわれは「半円」の概念の中に含まれてもいない「回転」を肯定し、なんで回転しているのかわけもわからずクルクル回転する半円を夢見ている。
これが「知覚の蝕」、「切断され欠損が生じた思考」とスピノザの言っている事態ということらしい。
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上野修『スピノザの世界』
2024-01-27T11:40:50+09:00
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上野修『スピノザの世界』の読みたいところを読む準備(2)
上野修『スピノザの世界』の読みたいところを読む準備をしている。次は「2 真理」の前半〜真ん中部分について。
目標が定まったなら、当然、探求の方法が必要となり、『知性改善論』では前回のような内容のあと、最後まで「方法」の話になっているとのこと。
...
目標が定まったなら、当然、探求の方法が必要となり、『知性改善論』では前回 のような内容のあと、最後まで「方法」の話になっているとのこと。
たしかにスピノザは「方法」について語っているのだが、印象として、話がすすめばすすむほど「方法」はその役目を終えつつあるように見えてしまうのである。
(p.42)
前回も書いたように、スピノザの言う「方法」とは、たどるべき「道」のことだった。もし人がはじめから素直に真理の規範に従う幸運に恵まれていたなら方法は不要であっただろうとも言っているらしい。しかし、そういうふうにはなっていないので、方法というプロセスがどうしても必要になるのということのよう。
さて、その方法だけれども、方法を考えているとたちまち無限背進に陥るとスピノザは指摘する。「ちゃんとした方法が発見されるまで真理について確かなことは何も言えない」という仮定がどこか間違っている。真なる観念の存在が、真と言えるための規範を方法に与えるのであって、その逆ではない。
方法は、真理から自生するのである。
(p.46)
「真」という言葉は事物の性質ではなくて、もともと「語り」について言われる言葉である。語られることがそのとおり実際に起こったのなら真であり、もし起こらなかったのなら偽。
スピノザはこの「対象との一致」を、観念が真であると言えるための「外的標識」と名付ける。
しかし、観念は一致する対象が存在していなくても真になれるし、一致しているからといってただちに真だというわけでもない。
優秀なエンジニアがある装置を設計して、その装置について完璧に説明できるとき、その装置がまだ現実に存在していなくても、今後存在することがないとしても、その装置の観念はやはり「真」というべきではないか。
逆に、Aさんについてろくに知りもしない人が「人物Aは存在する」と語り、そして実際にAさんが存在しているとした場合、その心中の語り、観念は、真と言えるか。
とすれば、真であると言えるための標識は、思考の外にあるものとの関係ではなく、むしろその思考そのもののの内になければならない。スピノザはそういう内部にある何かリアルな標識を「内的標識」と名付ける。
まだまだいろいろ書いてあるのだが、だいたいこのくらいの準備をしておけば、読みたいところを読んでいけそうなので、先に進んでいきたい。
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上野修『スピノザの世界』
2024-01-21T11:50:56+09:00
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上野修『スピノザの世界』の読みたいところを読む準備(1)
というわけで、出会ってからすでに10年以上たつ、上野修『スピノザの世界』。
全然読み込めていないのに、この本のことが時折気になるのはどうしてだろう?とあらためて考えてみたとき、とてもシンプルな答えが出た。
図がけっこう出てきていて、その図に興味...
全然読み込めていないのに、この本のことが時折気になるのはどうしてだろう?とあらためて考えてみたとき、とてもシンプルな答えが出た。
図がけっこう出てきていて、その図に興味を持っているのだ。ほとんどが、言葉と矢印・線分からなる簡単な図なのだけれど、なんだか惹かれてしまう。
というわけで、図(本文中にあっても、私の中で図とカウントされているものという意味での図)が示されている部分を中心について考えていくことにした。ただ、やはりそこだけ読むとわけがわからないので、「1 企て」と「2 真理」の前半部分から、ざっと読んでおきたい。
今回は、「1 企て」について。
まず、『知性改善論』の冒頭部分が引用されており、上野さんいわく、スピノザはこの未完の論文を、どうやら『エチカ』の入門に仕立てようとしていたらしいとのこと。とはいえ、解説書のようなものを期待するなら、完全に外れだとも書いてある。
『知性改善論』の正確な題名はもっと長くて、そこに「道」という言葉が含まれている。これこれこういう道に関する論文、というふうに。
道の役割は目的地の解説や説明ではない。間違いなくそこへ連れていくことだけだ。
(p.21)
「私はいかに生くべきか」という一人称の倫理的な問いを、その強度はそのままに、非人称の世界にまで運んでいく道。それが『知性改善論』ということになる。なにしろ『エチカ』は倫理学。
で、スピノザは冒頭部分で「私はついに決心した」と書いており、何を決心したのかひとことでいえば、純粋享楽を求めることの決心。
詳細は割愛して先に進むと、「目的とは衝動のことである」という項目に入っていく。
ふつうわれわれは、目的がまずあってその達成に努力するというふうに考えるけれども、スピノザは『エチカ』で、こういう文法を逆転させる。まず衝動がある。そしてこの衝動に駆られるからこそ、われわれは自分が目的に向かっているのだと思い込む、と。
まず、スピノザの言う「衝動」は、それ自体としては目的と何の関係もない。石ころであろうと雨粒であろうと馬であろうと人間であろうと、何かある事物が一定の時間、それでありそれ以外のものでないというふうに存在するとき、そのようにおのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが「努力」(コナトゥス conatus)と呼ばれるものである(スピノザの大変重要なジャーゴンなので覚えておこう)。
(p.33〜34)
そうしてこのあと、「最高善」「真の善」が定義される。
「最高善」[最高によいこと]とは、「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本性」を享楽することである。それも、自分一人でなく、できる限り他の人々と一緒に。
「真の善」[ほんとうによいこと]とは、いま言ったことに到達するための手段となりうるものすべて、である。富も名誉も快楽も、この手段となりうる限りにおいてなら「よいこと」、善である。もちろん妨げになるならすべて悪い。
(p.37〜38)
この最高善の実現が、究極の目的となる。
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上野修『スピノザの世界』
2024-01-17T14:21:00+09:00
tamami
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上野修『スピノザの世界』との出会いをふりかえる
前回書いたように、『荘子』の「物化」について考えていたら、久し振りに上野修『スピノザの世界』が開きたくなった。
直接つなげて考えるのはいまは無理だという結論になったものの、『荘子』のこととは別に考えたい気持ちがふつふつと。
というわけで、この...
前回書いたように、『荘子』の「物化」について考えていたら、久し振りに上野修『スピノザの世界』が開きたくなった。
直接つなげて考えるのはいまは無理だという結論になったものの、『荘子』のこととは別に考えたい気持ちがふつふつと。
というわけで、この本との出会いと、少しふりかえってみることにしたい。
2012年夏、とある展示を観た帰り道で、書店にて買ったと思われる。どうやら(國分功一郎さんの)『スピノザの方法』と勘違いして買った可能性が高い。
本の重量感からして全然違うだろうに(上野修『スピノザの世界』は新書)、おそらく著者の知識もないまま、「スピノザの〇〇」というタイトルに惹かれて、なんとなく買ったのだろう。
ちなみに、購入当時の様子は「スピノザからのシンクロニシティ」という非公開記事に記録している。それよりも前に、近藤和敬『カヴァイエス研究』の第5章を読むには、なんらかの形で一度スピノザに触れておかなければ無理だと感じていたらしく、いろいろタイミングが重なったらしい。
読み始めにおいては、宮元啓一『わかる仏教史』のはしがきを思い出したもよう。仏教にたいしてアカデミックな態度を貫く宮元啓一さんが、自分はアニミストだと書いていることを。なお、Amazonのページで、「スピノザが禅僧のようにもみえてくる」というフレーズを含んだレビューがあったので、それを読んで「私はむしろ」という感じで書いている。
また、「神即自然」(Deus seu Natura)という言葉に対しては、上野修さんが「身も蓋もない、無気味な存在露呈といった感じのするもの」と書いている、その「身も蓋もない」感じは、なぜか『エチカ』を読む前からもうわかった気分になってしまう、というような感じだったらしい。
さらに、カヴァイエスに関する以下の文章のことも思い出したとのこと。前者は自己展開の話として。後者は、『エチカ』の259にのぼる定理をどうやって組み立てていったのかという話に付随して。
「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考
メタ数学と形式主義のプログラム、なぜかサントリー「山崎」
加えて、神の「様態」の話のときには、量子力学(について過去に書いた自分の記事)を思い出したもよう。
そんなふうにいろいろなことを思い出しながら読んでいくうち、スピノザに対して「よくこんなことやったよなぁ、世の中にはいろんな人がいるもんだ」なんて思っていたのが、だんだんとその人のことが嫌いじゃなくなっていくというか、言っていること・やったことに同意するという意味ではなくて、その人の言っていること・やったことを肯定したくなる気分になるというのか、なんだか知り合いみたいに思えてくるようになったというのが、第2印象だったらしい。
ちなみにわが家では、何人かの著名人を、勝手に自分との関係性で比喩して語ることがあるのだけれど、そのなかでスピノザは「友だち」ということになっている。
https://twitter.com/tamami_tata/status/1599655979217727489
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上野修『スピノザの世界』
2024-01-14T11:17:00+09:00
tamami
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『荘子』について、やり残していること/仏教、他者論、スピノザ
中島隆博『荘子の哲学』と、玄侑宗久『荘子』をおもな参考文献として、『荘子』のことを知ろうとしてきた。まだ考えたいことがいくつかあるのだけれど、ここらでいったん一区切りにすることにして、何をやり残しているかをメモしておこうと思う。大きく3つある。
=...
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1.『荘子』と仏教の関係
『荘子』と仏教の関係について、ひとまずの概観 の中で、
中島隆博『荘子の哲学』では、ある概念について突っ込んだ議論が展開されているので、後日、ゆっくり見ていくことにする。
と書いたけれども、「ある概念」とは何だったのか、自分でよくわからなくなってしまった。おそらく、第I部・第二章に「仏教と「万物斉同」」という項目があるので、このことを指しているのだと思う。
ここはいわゆる格義仏教から始まる話で、森三樹三郎『老荘と仏教』が参照されており、森三樹三郎の理解する「万物斉同」が仏教の「空」に基づいていることなどが示されている。
「斉同」についてある程度考えてきた現段階においては、それほど突っ込んで読んでいきたいところでもなくなってしまった。
また、「仏教の中の『荘子』」という項目では、「神滅不滅(しんめつふめつ)論争」が扱われている。身体と精神(魂)の関係をどう考えるかについて。ここも、いまはいいかな、という感じでいる。
禅宗とのつながりも考えたいけれど、またの機会にということで。
2.他者論
中島隆博『荘子の哲学』第II部・第四章は、「『荘子』と他者論――魚の楽しみの構造」となっており、ここもできれば考えたいところだった。
「魚の楽しみ」をめぐる恵子と荘子の論争は、これまで触れてきた『荘子』の話のなかで、私がいちばん(いまのところ唯一?)もやもやする内容だと言える。考えようとすると、わからなくて息苦しささえ感じるし、なんか論理学でビシっと整理してほしくなるのだ。
なので、少しがんばってみようとはしたのだが、やっぱり今は無理だという結論が出たしだい。
なお、「他者」については、他にも考えたいことがあるのだった(一つの区分のなかでの他者と、「物化」としての「他者化」)。
3.スピノザについて
「物化」について考えていると、スピノザの並行論について考えたくなり、久し振りに上野修『スピノザの世界』を引っ張り出してきて開いていた。が、『荘子』とつなげて考えるのはなかなか難しいという結論にいたった。
なお、中島隆博『荘子の哲学』の第I部で、スピノザが出てくるところはある。近代中国哲学の馮友蘭(ふうゆうらん)と、現代のフランス語圏におけるジャン゠フランソワ・ビルテールに関連して。
ビルテールのほうは少し興味があるけれども、私が考えたいことのど真ん中ではなさそうなので、とりあえず今回は割愛することにした。
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以上、3点、何かまたぐるぐるしたあと にもどってくるかもしれないので、そのときに考えようと思う。
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『荘子』
2024-01-04T13:40:15+09:00
tamami
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『荘子』の「物化」と、ある一つの区分されたあり方
前回、『荘子』の「物化」と時間について、自分の疑問点を書いてみたけれど、とはいえ、中島隆博『荘子の哲学』の「世界の変容」の解説は面白いと思う。
以下で引用するが、これは、福永光司の言う命題――あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆ...
前回、『荘子』の「物化」と時間について、自分の疑問点を書いてみたけれど、とはいえ、中島隆博『荘子の哲学』の「世界の変容」の解説は面白いと思う。
以下で引用するが、これは、福永光司の言う命題――あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆくところに、真に自由な人間の生活がある。絶対者とは、この一切肯定を自己の生活とする人間にほかならないのだ――は、やや変更した形で理解されなければならないとして示されたもの。
つまり、人間の自由とは、与えられた境遇をただひたすら「逞しく肯定してゆく」というよりも、今現在のあり方(ある一つの区別されたあり方)を絶対的に肯定することによって、そのあり方から自由になり、新しい存在様式(これもまたやはり区別されたある一つのあり方でしかない)と新しい世界のあり方に逢着することにある。
(中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「世界そのものの変容としての「物化」」より)
前回のような時間に関わる疑問を持っておきながら、上記の言葉はなんとなくわかるというか、飲み込めるような気がするのだ。
私は、先の福永光司の言う「肯定」のくだりを読んで、『置かれた場所で咲きなさい』という書名と、南直哉『禅僧が教える 心がラクになる生き方』のなかに「「置かれた場所」で咲けなくていい」」という項目があって苦笑したことを思い出した。>後に「日本」と称される共同体に自前の「哲学」がなかった理由
なお、『置かれた場所で咲きなさい』の中身はまったく読んでおらず、本の主旨はまったく把握しない状態でいる。書名から誤解する可能性も高いので、この本の“中身”ではなく、“書名だけ”を借りさせてもらうことの念を押して話を続けると、上記の「絶対的な肯定」は、「置かれた場所で咲く」こととは、違うのではないかと考えている。
『荘子』のほうは、やはりなんといっても、動的なのだ。躍動的といってもいいかもしれない。特に、中島さんによって変更されたほうは。
前回、郭象が「荘子は死を楽しみ生を悪むというが、その説は誤謬である」と書いていることに触れたが、そのあと次のように中島さんの解説が続く。
その際、郭象が理由として用いたのが「斉同」である。だが、それは、単純に生と死が「斉しい」と言っているのではない。「斉しくするとは、生の時には生に安んじ、死の時には死に安んずることである」と述べられるように、生と死のそれぞれのあり方(「情」)が「斉しい」と言っているのである。つまり、生は死とまったく別の仕方で成立しているが、それぞれが一つの世界を構成している点では同じであるので、生の時には生に徹し、死の時には死に徹すればよいと言っているのである。そして、生に徹していく中で「物化」が生じ、結果的に他なる世界に通じていくのである。
(中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「荘子の「斉同」より」)
徹していく中で、他なる世界に通じていく。今現在のあり方を絶対的に肯定し、新しい存在様式と新しい世界のあり方に逢着する。面白いなぁと思う。
なんだか、忘れかけていた、当初の『荘子』へのイメージを思い出す気がする。
そのイメージというのは、老荘思想って、もう言わない で書いた、「受け身こそ最強の主体性」ということ。
さらに、水泳の名人の身体感覚(やったことはないけど)。>「已むを得ず」の境地と、「しあわせ」の語源
「物化」や「斉同」について突っ込んで考えるうちに、よくわからなくなっていた『荘子』への感覚が、厚みを増してもどってくるような感じがした。
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『荘子』
2023-12-29T13:15:52+09:00
tamami
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『荘子』の「物化」について、時間との関係/自分で考えたこと(その2)
「物化」は、時間に深く関わってくると思う。
まず、時間軸がないところで完全に同じであれば、「変化」とは言わないのではなかろうか、という疑問がある。
そして、その時間には方向があるのか、事物に対称性・可逆性はあるか、という疑問も生じる。
私...
まず、時間軸がないところで完全に同じであれば、「変化」とは言わないのではなかろうか、という疑問がある。
そして、その時間には方向があるのか、事物に対称性・可逆性はあるか、という疑問も生じる。
私自身は、「荘周と蝶」の場合、蝶は荘周を知らないけれど、荘周は蝶を少しは知っているのではないかという立場をとっているが、いずれにせよリニアな時間軸で考えなくていいことだと捉えている。だからこそ回転軸の比喩 が使える、と。
一方、人生において、あるいは、生死において、それはどうか。
事物の区別はないとする立場の森三樹三郎が「生きている自分があるとともに、死んでいる自分がある」と言うときは、何か超越的な視点があればわからないでもない。
しかし、区別はあり、「これである時には、あれは知らない」の立場をとる郭象が、「覚夢(かくむ)の区分は、死生の区分と異ならない」と書いていることを、いったいどう考えればいいのか。
というのも、このあと、艾(がい)の国の麗姫が出てくるのだ。以下、郭象『荘子』斉物論篇注の一部を孫引き、( )内はルビ、〔 〕内は中島さんによる補足。
……、一生において、今は後のことを知らない。麗姫がそれである〔艾(がい)の国の麗姫が、晋の献公に連れ去られた当初は涙を流すばかりであったのに、王宮に着き、王と同衾し、うまい肉を食べると、自分が泣いていたことを後悔したという故事〕。愚者は知ったかぶりをして、自分で生は楽しく死は苦しいと知ったつもりでいるが、それはまだ物化の意味を知らないのである。
(中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「世界そのものの変容としての「物化」」より、郭象『荘子』斉物論篇注を一部孫引き)
上記の話を読むと、「麗姫が晋の献公に連れ去られた当初」=「今」=「生」、「後悔した時点」=「後」=「死」と読みとることができる。
今は後のことを知らない、それは確かにそうだと思う。しかし、生の中での変化の場合、「後」が「今」になったとき、「過去」となったかつての「今」のことはわかる。だからこそ、「後悔」が可能になる。
(なお、上記引用部分の少し前に、「死生の変化もこれと別ではなく、心を労するのはその間においてなのだ。」という一文があり、「その間」とはなんなのか、考えあぐねている。)
それにひきかえ、生死の場合は、生きているときには死んだときのことがわからないが、死んだときに生きていたときのことがわかるのかわからないのか、「わかる・わからない」ということがあり得るのかさえ、わからない。髑髏問答はやはりお話なのであり、しかも、髑髏は生の世界を知っているのであり。
生きているときには生の世界に内在し、死んだときには死の世界に内在するということであれば、「胡蝶の夢」とのつながりも出てくるが、そうなると、麗姫の例はあてはまらないのではなかろうかと、私は感じる。
森三樹三郎にしろ、郭象にしろ、「人生は夢であり、夢のなかで死を恐れているが、それはまちがっている」ということになら辻褄があう。しかし、それでは、髑髏問答が古くから生よりも死を賛美していると受け取られるのと同じ受け取り方をしてしまいそうになる。
また、郭象は、「荘子は死を楽しみ生を悪むというが、その説は誤謬である」とも述べているようなのだ(これについては、次回また確認する予定でいる)。
もうひとつ、玄侑宗久『荘子』でとりあげられている、『淮南子』の「人間万事塞翁が馬」のところも読んでみたい。
宗久さんは、「胡蝶の夢」のエピソードは、苦しい「今」に向き合う勇気を与えてくれる考え方でもある、状況が変われば「今」が持つ意味も全く変わるとして、その少しあとで、次のようなことを書いている。( )内はルビ。
親が死ぬということは、悲しくつらいことです。しかし、たとえば親が早くに亡くなって高校に進学できず、就職せざるを得なかった女の子が、その職場でよい男性と出会って結婚し、現在は幸せに過ごしているとします。この場合、親の死はどういう意味をもつでしょうか。彼女はあの時親が亡くならなければ、彼とは出会わなかったはずです。そうなると、死の意味が変わります。親の死は、こんな幸せな現在をつくってくれるきっかけでもあった ――。それは、親が死んで泣いていた自分というものが、夢として思い返される時です。「現実ってこんなに変わるのね」という思いとともに……。
有名な「塞翁(さいおう)が馬」も同じです(『淮南子(えなんじ)』人間(じんかん)訓)。……
(第4章/「万物斉同を可能にする「明」の立場」より)
以下、塞翁が馬の説明が続いている。
宗久さんの言うことはとてもよくわかる。私も、「塞翁が馬」を“辛いときだけ採用したい考え”だと思う。しかし、「塞翁が馬」のポイントは、「よい」ことも「わるい」ことも反転していくところにあるのではなかろうか。
たとえば、上記の女の子の話でいえば、「よい男性」だと思っていた夫が、しばらく暮らしてみたら実はとんでもない男だとわかり、大変なことになったという後日談が加わったとしたら……。そこでまた、親の死の意味が変わってしまう。
そんなふうに、人生の場合は、リニアな時間の中で、非対称的、不可逆的に出来事が起こっていく。そして、過去の記憶が残る。
一般的には上記のように考えてもいいと思われる、一生の中の時間軸をもった「変化」を、『荘子』の「物化」とどう考えあわせていけばいいのか、まだつかめずにいるのだった。
とはいえ、中島隆博さんの解説する「一つの区分されたあり方」の話は面白いし、なんだか少し勇気がわいてくることなので、次で確認しておきたい。
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『荘子』
2023-12-27T13:39:00+09:00
tamami
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『荘子』の「物化」について、回転軸のイメージ/自分で考えたこと(その1)
前回、枢の話を書いたが、実際の『荘子』では次のような引用文になっている。中島本の『荘子』斉物論篇の引用から一部を孫引きしたもので、( )内はルビ、〔 〕は著者による補足。
彼と是が対をなす概念でなくなるとき、それを道枢(どうすう)と言う。枢〔...
前回、枢の話を書いたが、実際の『荘子』では次のような引用文になっている。中島本の『荘子』斉物論篇の引用から一部を孫引きしたもので、( )内はルビ、〔 〕は著者による補足。
彼と是が対をなす概念でなくなるとき、それを道枢(どうすう)と言う。枢〔回転軸〕が環の中心にあれば、無窮に応じる。是もまた一無窮であり、非もまた一無窮である。だから、「明を用いるにしくはない」というのである。
(中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「恵子の「斉同」論との違い」より)
同じところが玄侑宗久『荘子』第四章でも抜き出されており、こちらは少し古い文体になっている。最後の「明を用いるにしくはない」は「明(めい)を以(もち)うるに若(し)くなし」で、「明」の立場には及ばないということらしい。
個人的にすごいなぁと思うのは、「無窮」に「一」という数詞がついていること。なお、これよりまえに「一是非」という言葉も出てくる。是と非の組み合わせに数詞がつくというのも、これまたすごい。
宗久さんの本では、引用文を解きほぐした文章のなかで「是も非もそうした無窮の変転のうちの一つにすぎない」と書かれてあるので、この場合、無窮そのものはただ1つであり、その一部であるという「一無窮」という解釈になるのだろうと思う。
一方、中島さんの解釈でいけば、「一無窮」のニュアンスが変わってくる。
で。
このあたりの話からいろいろなことをイメージしているので、このあと自分で考えたことを書いてみたい。もちろん、いまから書くことが“正しい”理解なのかどうかはわからない。『荘子』の解釈以前に、いま参照している本の理解として。とりあえず、『荘子』をほんの少しかじっただけの最初の段階の考えとして記しておこうと思う。
二項対立ということから、とりあえず2つの事物の区別について考える。
宗久さんの解説をもとに考えていたら、見る向きによって別々のものが見える、トリックアートが頭に浮かんだ。たとえば、ある方向からみたら「A」、別の方向から見たら「B」に見える立体物があり、これはAなのかBなのかと問われれば「AでもBでもある」と答えることになろうかと思う。それは一つの立体物なのだから。また、一つの立体物であればこそ面白い現象だと言える。
この場合、見る人のほうが見る角度を変えることもできるし、見る人の位置を固定させてこの立体物を回転させることもできる。そうすると、AになったりBになったりと変化していく。いまは2つだが、もっといえば360度回転させていくうちに、刻々と見え方は変わっていくことになる。しかし、立体物としては「一つ」。
一方、中島さんの解説については、前回引用した中にある「内在」という言葉をキーワードとして、回り舞台のような装置を思い浮かべた。場面Aと場面Bが背中あわせにあり、それが回転することによって、場面Aになったり場面Bになったりする状況。この場合、場面Aと場面Bは異なっている(区別がある)。だからこそ、回り舞台の意味がある。
実際には、観客からすれば、場面Aの裏側に場面Bが用意されていたことがわかるけれども、舞台上にいる人間として場面を「世界」として考えると(その世界に「内在」していると考えると)、世界Aと世界Bは別々のものであり、交わることはない。そして、世界Aにいるときに世界Bのことはわからないし、世界Bにいるとき世界Aのことはわからない。つまり、世界Aと世界Bは別のものであり、それでいて一瞬にして行き来することができる。
『荘子』の“ほんとう”の意味がどうであったのか私には判断のしようがないけれども、上記のようにイメージすると、「区別がある」という考えのほうがしっくりくるし、面白いと感じるのだ。
そもそも、「胡蝶の夢」では、実際に「区別がある」と原文に書いてあるらしいのに、森三樹三郎のように勝手に付け加えちゃっていいの??と素朴に思う。>荘周と蝶の区別はあるのかないのか/中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章(1)
そして、トリックアートの場合でも、Aが見えているときBは見えておらず、Bが見えているときAは見えないから面白いわけであり、どの段階でも「同じ立体の違う側面」だと認識できるのは、「立体物が回転している」とわかっているからだと思う。たとえば、影絵で見せられたらすぐにはわからないかもしれない。そして、立体物だと知るこことができるということは、俯瞰できる超越的な視点を持っているということではなかろうか。
一方で、郭象の読解に対する疑問もある。「まさにこれである時には、あれは知らない」は完全な対称ではないのではないか、という疑問。「胡蝶の夢」の場合、蝶は荘周の世界を知らなくても、荘周は蝶の世界を少しは知っているのではなかろうか。
なお、郭象の注を中島さんの補足を参考にして読むと、荘周は夢で蝶になっていることを目覚めている時に知らない、という解釈になる。(第中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「世界そのものの変容としての「物化」」より)
よりにもよって、「胡蝶の夢」の場合、(人間の)登場人物が「荘周」だということもあり、「「荘周が夢を見て蝶となったのか、蝶が夢を見て荘周となったのかわからない」という問いを持ったのはだれなのか」という、ちょっとひねくれたというか、メタな感想を持ってしまうのだ。
そんなこんなで、双方に対していろいろと(面白い)疑問が生じるなか、「物化」について、さらに「時間」とからめながら考えていきたいと思う。
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『荘子』
2023-12-20T15:36:29+09:00
tamami
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http://math.artet.net/?eid=1422700
『荘子』に出てくる「枢(とぼそ)」/中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章(3)
いま、何をしているかというと、『荘子』の「斉同」について、物事の差異や区分はあるのかないのか、という議論を検討している。
「ない」とするのが従来の解釈であり、「ある」とするのが古くは郭象、そしていま読んでいる中島隆博『荘子の哲学』の立場だと私は理...
「ない」とするのが従来の解釈であり、「ある」とするのが古くは郭象、そしていま読んでいる中島隆博『荘子の哲学』の立場だと私は理解している。
従来の解釈については、前々回 、森三樹三郎と福永光司をのぞいたが、中島本の他に玄侑宗久『荘子』を参照させていただいているところなので、いまは宗久本を「区分はない」の仮の代表と考えさせていただくことにする。
そのうえで、どちらにも出てくる『荘子』の「枢」(回転軸)の話が、それぞれどうやって解説されているかを見ていきたい。
まずは、玄侑宗久『荘子』の「第4章 万物はみなひとしい」の「万物斉同を可能にする「明」の立場」から。
荘子は、あらゆる二項対立や区別を超えるものの見方を「明」とも呼んでいるということの説明があったあと、「枢(とぼそ)」の話が出てくる。扉の上下の穴に差し込む回転軸のこと。
そして、「明」は、枢のように360度どのような変化にも対応できるというあり方であり、ものごとを二項対立でとらえるのではなく、無窮の変化としてとらえ、自然なことなのだからそれに身を任せましょうという立場だ、と解説している。
次に、中島隆博『荘子の哲学』を読んでみる。以下、第II部・第三章の「恵子の「斉同」論との違い」より(かっこ内はルビ)。
『荘子』斉物論篇から、「物は彼(あれ)でないものはなく、是(これ)でないものもない。」から始まる4段落が引用されており、そのなかに、「つまり彼と是とは方(なら)び生じる概念である」とある。恵子 の「方生の説」を彷彿とさせる。
そして、次のように続く。〔 〕内は中島さんによる補足。
しかしそうであるにしても、このままだと、〔恵子が言うように〕方び生じ方び死し〔生じながら死んでいる〕、方び死し方び生じ、方び可であり方び不可であり〔可でありながら不可である〕、方び不可であり方び可であり、是(ぜ)により非により、非により是による、となってしまう。したがって、聖人はこのことによらず、天に照らして見て、是(ぜ)によるのである。
最初は、「方」が繰り返される感じがぐるぐるしてしまったのだけれど、〔 〕内のようなことだと思えばわかりやすい(最後の一文は理解できていないけれど)。
このあともう少し引用が続き、中島さんは、「大変難解な文章であるが、荘子は、彼是(あれこれ)や是非(ぜひ)あるいは生死、可不可といった対をなす概念の区別を消去しているわけではない」というふうに解説を始め、その少しあとで、
……、荘子は、「これ」という近傍あるいはこの世界に根差すことをまずは重視している。その上で、「これ」が「あれ」に変容し、「あれ」がもう一つの「これ」として立ち現れる事態を見ようとしているのである。
と述べている。
そしてこのあと、「枢」の解釈が出てくる。「枢」という回転軸が円の中心に置かれるならば、「これ」というこの世界は、無限となり、その際、「あれ」と「これ」は対をなす概念ではなくなる、すなわち、「斉同」になるわけだから、「これ」でない「あれ」もまた、もう一つのこの世界として、無限となる、と。
要するに、荘子の「斉同」とは、「これ」と「あれ」が絶対的に区別された上で、「これ」が「あれ」に変容する事態(「物化」)を記述するための概念なのだ、と中島さんは言う。
恵子の「斉同」が、「これ」と「あれ」を超越する視点を取り、空間的・時間的な区別を無みしていくのだとすれば、荘子はあくまでも「これ」に内在し、「これ」を変容させて、「あれ」としていく「物化」の議論の延長である、と。
言い換えるなら、従来の解釈が、「物化」を「斉同」に基づいて理解しようとしてきたのに対し、本書の解釈は、「斉同」の方を「物化」に引き寄せ、「物化」と「斉同」を同じ事態を別の角度から見た議論として考えようとしているのである。
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『荘子』
2023-12-18T12:02:00+09:00
tamami
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http://math.artet.net/?eid=1422699
荘子と恵子の「斉同」/中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章(2)
中島隆博『荘子の哲学』「第II部 作品世界を読む 物化の核心をめぐって」の「第三章 物化と斉同 ―― 世界そのもの変容」を読んでいる。
前回、郭象による「胡蝶の夢」の読解を見たが、荘子の「斉同」については、至楽篇の注釈が参照されている。
その際、本...
前回 、郭象による「胡蝶の夢」の読解を見たが、荘子の「斉同」については、至楽篇の注釈が参照されている。
その際、本文の髑髏問答(ごく簡単にいえば、髑髏が死の世界を賛美し、元に戻りたくはないと言っているような内容)が取り上げられていて、中島さんの解説によると、この問答は、古くから、生よりも死を賛美していると受け取られていたという。
しかし、郭象はその説を誤謬であるとし、その理由として用いたのが「斉同」であるらしいのだ。
単純に生と死が「斉しい」と言っているのではなく、「斉しくするとは、生の時には生に安んじ、死の時には死に安んずることである」、つまり、生と死のそれぞれのあり方(「情」)が「斉しい」と言っているのだ、と。
このあと、恵子の「斉同」論との違いが示されている(郭象の注釈ではなく、中島さんの解説)。恵子というのは「荘子のライヴァル」で、論理的な思弁を重視した名家に分類される思想家とのこと。
なお、玄侑宗久『荘子と遊ぶ』でも恵子(恵施)は出てきていて、ケーシー先輩(あるいはシーさん)と呼ばれており、ある種のキャラをまとって描かれている。「詭弁の恵施」というタイトルの章もある。
また、玄侑宗久『荘子』(NHK「100分de名著」ブックス)のほうでは、「胡蝶の夢」の話のあと恵施の「方生(ほうせい)の説」というものが出てきている。方生というのは、「方(なら)び、生(しょう)ず」ということ。あれとこれ、生と死、是と非などの二元論の双方ばかりでなく、すべてのものの区別は同時発生しているという考え方であり、荘子もこの説に賛同し、自説に取り入れているとの解説。(第四章/「胡蝶の夢」より)
一方、中島隆博『荘子の哲学』では恵子との「斉同」論の“違い”が説明してある。
実際に『荘子』のなかで、恵子の主張に異を唱えるような内容が書かれているところがあるよう。
恵子の「斉同」論は『荘子』の末尾に置かれており、「恵子篇」として独立にあったものが付加されたのではないかと考えられてきたとのこと。『荘子』最後の篇である天下篇の論述の中でも異彩を放っているのだとか。
以下、引用されている『荘子』天下篇のなかから、いくつか抜き出してみる。
―― 厚さがないものは積み重ねられないが、その大きさは千里に及ぶ。
―― 天は知とともに低く、山は沢とともに平らかである。
―― 太陽は南中しながら傾いており、物は生じながら死んでいる。
―― 南方は窮まりなく、窮まりあり。
―― 今日越に行き、昨日到着した。
どういうことかというと、視点を変更することで、時間的な区別さらには空間的な区別をなくしていこうとする論理であるらしい。
こうした恵子の「斉同」を、荘子は「ありえないことをあるとするもの」と批判し、「さっぱり理解できない」と断じているもよう。
宗久さんの本とは齟齬が生じるが、「詭弁の恵施」から上記のニュアンスは感じるし(『荘子と遊ぶ』第九章では、なかなか複雑微妙な間柄だったようだとも書いてある)、中島さんの本でも、恵子の思想から荘子が大きな影響を受けていることは明らかだと書いてあるので、つまりはやはりライバルということなのだろうと思う。
このあと、荘子の「斉同」について、斉物論篇の核心をなすという引用がなされている。中島さんが「大変難解な文章」と書いておられるように、私も最初は目と頭がぐるぐるしたのだけれども、ここにきて宗久本、中島本の2冊を参照していたことが功を奏した。なぜなら、どちらにも回転軸の話が出てくるから。
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『荘子』
2023-12-16T14:31:00+09:00
tamami
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荘周と蝶の区別はあるのかないのか/中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章(1)
いま、玄侑宗久『荘子』と、中島隆博『荘子の哲学』だけを頼りとして、『荘子』を知ろうとしているわけだけれども、中島隆博さんの本を通して他の人の『荘子』読解を知ることもできる。
中島さんいわく、差異や区別を超えた超越的な立場から「物化」を読解する解釈...
中島さんいわく、差異や区別を超えた超越的な立場から「物化」を読解する解釈が後を絶たない、と。
なぜそうなるかというと、『荘子』の中心思想を「斉同」に見、その「斉同」を、超越的な立場から見るとあらゆる差異や区別は相対的であり、万物は同一であると考えてしまうからだ、ということらしい。
そして、森三樹三郎と福永光司の解釈が示されている。
『荘子』の「胡蝶の夢」では、原文に「荘周と蝶とは必ず区別があるはずである」という一文が入っている。森三樹三郎は「けれども荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。それにもかかわらず 、その区別がつかないのは 、なぜだろうか 」と、太字部分(本の中では傍点付き)を意図的に付加して翻訳した上で、「万物斉同の理」を「物化」に適用し、荘周と胡蝶の無差別を強調するような内容のことを書いているらしい。実際の文章が引用されている。
福永光司についてはさらに多くの分量が引用されており、読んでいると、いろんなものが混ざり合っていっしょくたになっていくような光景を個人的には思い浮かべる。
原文の「分有り」を、「人間の分別」にすぎず、「どうでもいい問題である」と退けていることや、「物化」は「一切存在が常識的な分別のしがらみ を突きぬけて、自由自在に変化しあう世界」であり、「万物の極まりない流転」であって、それぞれのモーメントにおける境遇を「逞しく肯定して」いけばよい、ということなどが抜き出されている。ここにもまた、「万物斉同」を『荘子』の中心思想とみる考えが強く現れているということのよう。
中島さんいわく、
しかしながら、万物斉同が、荘子の強力な思想的主張であることを認めたとしても、いや認めるからこそ、「物化」において胡蝶と荘周の区別を無みする解釈は維持できないだろう。
と。
そして、「古い注釈を参照しておこう」ということで、郭象が参照されるのだった。
西晋の郭象(かくしょう)(252頃―312頃)は、現行本として残っている『荘子』の33編を編纂した人。>荘子のことと、『荘子』の構成
郭象の読解は、「区分を無みする読解の対極にある」とのこと。区分がないからではなく、区分が定まっているから、その区別された世界において、胡蝶としてあるいは荘周として「自ら楽しみ」、「心ゆく」ことができる、と。
郭象の言葉のなかに、「まさにこれである時には、あれは知らない」(引用文の中では傍点付き)というものがあり、つまり、1つの区分された世界において他の世界を摑まえることはできないと主張している。この原則は、荘周と胡蝶、夢と目覚め、そして死と生においても貫徹され、1つの世界に2つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高みから眺めて、無差別だということではない、と中島さんは解説する。
そうではなく、ここで構想されているのは、一方で、荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に 自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する という事態である。ここでは、「物化」は、一つの世界の中での事物の変化にとどまらず、この世界そのものもまた変化することでもある。
(太字は傍点付き)
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『荘子』
2023-12-15T13:25:00+09:00
tamami
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『荘子』の「物化」について
『荘子』には「物化」という大事な概念もある。玄侑宗久『荘子』では「ぶつか」とルビがふってあり、千葉雅也『動きすぎてはいけない』では「ウー・フア」とルビがついている。
物化というのは物の変化のこと。
宗久さんの本では、「胡蝶の夢」の最後でこの言...
物化というのは物の変化のこと。
宗久さんの本では、「胡蝶の夢」の最後でこの言葉が使われていることに触れたあと、「それは物の変化のことですが、荘周にとってはあらゆる物事が変化してやまず、しかも如何なる変化の可能性もあり得ると考えていたようです」(ブックス特別章より)という説明になっている。
物化につながりそうな話はこの他にも書いてあるけれども、直接、「物化」という言葉を使って論じられているところは他にはない。
一方、中島隆博『荘子の哲学』においては、「物化」は非常に重い扱われ方をしている。
なお、この本の第I部は「書物の旅路『荘子』古今東西」、第II部は「作品世界を読む」となっているのだけれど、第II部には「物化の核心をめぐって」というサブタイトルがついているくらい。
中島さんの本でも物化について「胡蝶の夢」が取り上げられており、そして、実際に『荘子』に出てくる言葉である「荘周と蝶とは必ず区別があるはずである」という見出しの一節において、次のような議論が展開されていく。
ただし、ここで是非とも強調しておかなければならないことは、「物化」は自他の区別を無みするものではないということだ。
(第三章より)
余談だが、この本を読んでいるあいだに「無みする」という言葉にすっかり慣れてしまった。当初は「むみする?」と読みそうになっていた。ちょっと調べてみたところ、「ないことにする」よりも少し強い意味を帯びているもよう。「無視する」とか「ないがしろにする」とか、そういう意味合いを含んでいる言葉らしい。
「物化」についての突っ込んだ議論からイメージが膨らんできて、いろいろ派生して考えたくなっている。微かな懐かしさを含む何かを思い出しそうな心持ちと、そこに新しい何かが加わっている感触。
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『荘子』
2023-12-14T11:27:27+09:00
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『荘子』の「万物斉同」について
飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』では、格闘技漫画の『バキ』を意識して書かれているからだと思うのだけれど、各哲人たちの「得意技」が最初に示されている。
インドで言えば、ヤージュニャヴァルキアは「梵我一如」、釈迦は「無我」、龍樹は「空の哲学...
インドで言えば、ヤージュニャヴァルキアは「梵我一如」、釈迦は「無我」、龍樹は「空の哲学」、中国で言えば、孔子は「仁・礼」、墨子は「兼愛」、孟子は「性善説」、……というふうに。
そして、老子の得意技は何かといえば「無為自然」。
これはよく聞く言葉かと思う。
では、荘子の得意技は何かというと。
「万物斉同」となっている。
荘子づいているいまなら、「やはりそうなるか」と思えるが、『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』を読んだだけでは頭に入ってこなかった。実際、「無為自然」はこの見出しの一節があるにも関わらず、「万物斉同」は「得意技」としてしか示されていない。
『荘子』の「万物斉同(ばんぶつせいどう)」とはいったいなんなのか。そのおおまかな雰囲気をつかむために、玄侑宗久『荘子』(NHK「100分de名著」ブックス)の第4章の説明を見ておきたい。以下、引用ではなくこちらでまとめたもの。
=====
「道」というのは荘子によれば混沌たる非存在であり、「無」に等しい。無に等しいということは、「斉同」、つまり、みな斉(ひと)しいという状態。その斉同なる無から万物が生まれてくるわけなので、全てのものは元をたどれば斉しい(万物斉同)ということになる。
=====
宗久さんはこのあと、なぜ荘子はこのような見方の必要性を説いたのかということについて、おそらく、余計な対立な差別を解消したいという思いがあったのでしょう、と書いている。
そして、これより前にも出てくる「天鈞(天均)」いう言葉や「天倪(てんげい)」という言葉をひいて、天の高さから眺めればから見れば全てのものはつりあっていること、天の高さから眺めれば、区別や対立などというものはおよそちっぽけでつまらないものになるという意味を示している。
さらに、以下の3つのエピソードが取り上げられている。
1つめは、「道は屎尿にあり」の逸話。簡単にいえば、「道はどこにでも行きわたっている」という主張を示すもの。
2つめは、「蝸牛角上の争い」の逸話。蝸牛の左の角の国と右の角の国の領土争いの話であり、宇宙的な視点から見れば、いかにちっぽなことで争っているかということを示したもの。
3つめは、「胡蝶の夢」。生も死も万物斉同の例外ではなく、大きな変化の流れの一部だととらえようと提唱した話から、禅の「大夢」の話となり、「胡蝶の夢」へ。これについてはのちほどゆっくり扱うことになると思う。
おおよそこういう感じのもの(と解釈されている)らしいということを頭において、万物斉同、さらには物化というものについて、考えていきたい。
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『荘子』
2023-12-12T15:08:00+09:00
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いろいろなことがつながってしまうことについて/『荘子』とドゥルーズ
(※ 現段階では『荘子』とドゥルーズというよりも、中島隆博さんと千葉雅也さんのつながり、ということになる。)
今年の11月7日、次のようなツイート(Xのポスト)をした。
中島隆博『荘子の哲学』の締めくくりの一節にはっとした。内容はネタバレになるので書け...
(※ 現段階では『荘子』とドゥルーズというよりも、中島隆博さんと千葉雅也さんのつながり、ということになる。)
今年の11月7日、次のようなツイート(Xのポスト)をした。
中島隆博『荘子の哲学』の締めくくりの一節にはっとした。内容はネタバレになるので書けないが、ドゥルーズに関連していること、とだけ記しておきたい。千葉雅也さんが推薦文を書いてらして、なんでもつながっちゃうなぁと思っていたが、いまはまだ私の中で具体的にはつながっていない。
https://twitter.com/tamami_tata/status/1721833595030081665
千葉雅也『動きすぎてはいけない』を読もうとしていなかった人の発言だと、いまになってしみじみと自分で思う(という内容のポストもした)。
私は、『動きすぎてはいけない』のKindle版を2022年の3月25日に購入している。のぞいた覚えはあるが、読んだ覚えはなく、どのくらい読もうとしたかも覚えていない。
その2日前に千葉雅也『現代思想入門』を購入しており、これがよかったのでおそらく買ってみるだけ買ってみて、少しのぞいてみて、ああ、これはさらさらと読めるものではないと感じて、いったん読むのをやめてしまったのだろうと思う。
その『動きすぎてはいけない』に『荘子』が出てくることに、これまで気がついていなかった。中島本を少し読んだあと、なんとなく『動きすぎてはいけない』をのぞきたくなって、のぞいてみて、『荘子』が出てくることに気がついたのだ。
『荘子の哲学』の推薦文から察するに、千葉さんが中島さんの“『荘子』”と並々ならぬ関係にあることはわかったけれど、背後で関係があったのではなく、ちゃんと表に出てきていることを知らなかった。しかも、中島さんは千葉さんの博士論文の副査をやっていらっしゃる。
ちなみに、私が宗久さんの本2冊のあと『荘子の哲学』を読もうとしたのは、Amazon内で探しているうちに、なんとなくこれがよさそうだと思ったから。原本は、『『 荘子』 ―― 鶏となって時を告げよ』(2009年)であり、この書名は『動きすぎてはいけない』の第1章の章末に出てくる。
そもそも、中島本にドゥルーズが出てきた段階で、少し驚いたというか、意外に感じた。自分がかつて、ドゥルーズに少し興味をもったそもそものきっかけがなんだったのか、もう思い出せないけれど、少なくとも『荘子』に興味を持ったのとはまったく別の道筋だったはず。
そして。
『荘子』づいているいま、『動きすぎてはいけない』の序章が、とたんに読みやすい。読み始めてすぐに、「あ、これは『荘子』につながるのでは?」と感じたような記憶もうっすらとあるし、「いやいや、いま自分が『荘子』づいているから、そんなふうに読んでしまうのだ」と自分を制したような記憶もうっすらとある。
果たして。
第1章で中島隆博の『荘子』解釈が出てくる。というか、『荘子』が出てくることは序章を読む前に知ってはいた(なにしろ目次の段階でわかる)。
それこそ「『動きすぎてはいけない』に『荘子』が出てくることを知るタイミング はいまだったのだろう」と思ったしだい。
こういうとき――何かがつながったとき――に感じるのは、8割の「喜び」と2割の「複雑な気持ち」。「喜び」のほうは、少しの驚きも含んでいて、自分の考えたいことにつながりと(新たな点ではなく、点から点への線としての)広がりが感じられるというのは、やはりうれしいことだと言える。
「複雑な気持ち」というのはどういうことかというと、「ああ、結局私は同じところをぐるぐるしていて、外には出られないのかもしれないなぁ」という思いのようなもの。深めることはできても、広げることができなくて、少しさびしいというか、残念というか、つまらないというか。
2017年に「半径15mを散策するのに、一生かかりそうです」と書いたけれど(>7年越しの「時間の正体」 )、これは、「自宅」を中心にした半径15mの円の中にいるという感覚だったのだろうと思う。自分が動けば自分を中心とする円も動くわけだから、動かない自宅を中心とした円。
ということを考えながら、このたび、つい、「井の中の蛙大海を知らず……」のあとに続く言葉を検索してしまった。「空」はあったはずだけれど、「深さ」はどうだろうかと調べていたら、この言葉の前半の由来は『荘子』の「秋水篇」にあるらしいと知った(逆に言うとこれまで知らなかった)。「もう、勘弁してよー!」と苦笑いしたくなったが、後半は『荘子』にはないという話も見かけた。だとしたら、いつ、だれが、どこで加えたのだろうか。
ある意味では一貫性があるというか、すごくいい言い方をすれば、ブレていない、ということなのかもしれない。一貫性がある、ブレないことをよしとする価値観を前提とすれば。
しかし、「ああ、またつながってしまうのか……」という、なんともいえない気持ちが生じることは否めない。一度めや二度めはうれしいが(いや、5回めくらいまでは普通にうれしいかもしれない、数えてないけど)、何度も経験すると、「ああ、また……」となる。
せめて、少し遠まわりしてたどりつきたい。ぐるぐるした果てに、もとからある大きな点にもどってきたとしても、そのぐるぐるの間に小さな新しい点たちは生じているだろうし、ぐるぐるの線そのものが新たな領域を作る。
と書いてみて思ったのだが、今回は、その“遠まわり”に近い出来事だったのかもしれない。
(※ 前々回 、学びたいことや読書について「自ずから然る」との関係を書いたけれど、学ぶということは基本的にそういうこと――なりゆきで、結果的にその人の道筋でつながる――ことだと思ってきた。それと真反対のスケジュールで進んでいく学校の初等教育においては、真反対のスケジュールのなかに、いかに上記の「なりゆきと、その人の道筋」を生じさせられるかが勝負だろうということを、岡目八目で贅沢に思ってきたのだった。)
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『荘子』
2023-12-11T13:57:00+09:00
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『荘子』と仏教の関係について、ひとまずの概観
NHK「100分de名著」ブックスの『荘子』(玄侑宗久)と中島隆博『荘子の哲学』を参考図書として、荘子と『荘子』について知ろうとしているところだけれど、2冊の本では『荘子』と仏教との関わりについても、もちろん述べられている。
中島隆博『荘子の哲学』では、...
中島隆博『荘子の哲学』では、ある概念について突っ込んだ議論が展開されているので、後日、ゆっくり見ていくことにする。
また、個人的には、宗久さんの本を読んでいると、「縁起」のことについてまたほのかな疑問が生じてくるのだが、いま考えるとややこしくなりそうなので、あとまわしにしたい。
というわけで、『荘子』と仏教がどういうふうな関係だった(と解釈されている)かを、玄侑宗久『荘子』第2章のなかの「老荘思想と仏教の出会い」という一節から、ごくおおまかに見ておくことにする。
以下、7段落分、引用ではなく、こちらでまとめたもの。
=====
荘子が活躍したのは紀元前300年頃であり、それから約300年後の前漢と後漢のあいだ頃に、インドから中国に仏教が伝わったと言われている。そのころはあまり浸透しなかった。
仏教が中国に本格的に受容されるのは、魏晋南北朝時代になり、世の中のベースに老荘思想が強くなってくる頃。時代の風が政治から宗教・芸術に移り、儒教よりも老荘思想煮が関心が移るにつれて、仏教も爆発的に広まっていった。
仏典の翻訳には、儒家の文献などからも言葉が用いられたが、『老子』『荘子』『淮南子』などからの言葉が多く使われ、老荘思想が強く流れ込むことになる。たとえば『般若心経』の「空」は、当初は老荘の「無」になぞらえて解釈された。
こうした老荘的仏教は、インド人を父とする鳩摩羅什の出現によって大きく是正はされたものの、それで仏教の中国化がなくなったわけではなく、ついに6世紀に、最も中国らしい仏教である前が出現する。
中国禅宗の開祖とされる達磨はインドの人だが、その教えを受けとめた嵩山はもともと道家の本拠地だった。ことに体験的直観を重んじる前は、『荘子』とじつに相性がよかった。
また、禅の広がりとともに、仏教の中国化が進むうえで、農耕など労働の解禁という大きな変化があった。中国には托鉢という慣習がないので、食べ物は自給自足するしかなく、ことに道教の影響を受けた禅宗の場合、寺院を山奥に建立することが多かったため、自ら畑を耕すしかなく、やがて農耕が解禁されていった。インドでは許されていなかったことを無条件で許すというのでは、教えや規律が緩んでしまうので、肉や魚などのナマグサは食べないというあり方が考えられた。
こうして、インドにおいては観念論的な思想であった仏教が、中国においては生活の中の実践哲学となっていった。
=====
おおまかには、上のような流れになるらしい。
なお、このへんのことについては、南直哉『超越と実存』を読んでいたときの、老子・荘子の「無」と、仏教の「空」 や、同じく「円融」の縁起観と、「空」の実体化 でも書いている。
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『荘子』
2023-12-10T12:06:35+09:00
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『荘子』と関連させて、自分の体験から思うこと
今年の8月頃から荘子づくことになったそもそものきっかけは、荘子とはまったく関係ないことだった。もちろん、もともといわゆる“老荘思想”には興味があったので、そのベースをもとにした興味ではあった。
読む本にしろ、学びたいことにしろ、「誘(いざな)われる...
読む本にしろ、学びたいことにしろ、「誘(いざな)われる」という感覚は以前からある。「誘われる」というと誘う何かが必要になってくるので、「なりゆきで」という感じになるだろうか。あるいは、そういう流れだった、と。
これだって、ある種の「自ずから然る」ではなかろうか? と、思ったりもする。
また、いつからかはそう考えるようになったかはよく覚えていないのだけれど、「タイミング」ってあるよなぁ、ということをよく思う。
タイミングというのは、大抵、外からやってくる。
以前、生活ブログのほうで、きっかけにのっかって自分に変化を起こす という記事を書いたことがあるけれど、あのときには別々の2冊の本から「転機を利用する」「あえて人に流される」という2つの言葉を抜き出して考えたのだった。後者は「人」を「こと」に置き換えて。
これとは少し雰囲気の違うタイミングの思い出といえば、10年以上前、娘の小学校のPTAで大変だったときのこと。「ああ、タイミングが応援してくれているなぁ」と感じた瞬間がある。数秒とは言わないまでも、数分ずれてたら少し負担が増えていたかもしれない事柄が、いいタイミングで運んでいき、大変だったけれどせめてそこが救いで、「がんばっていることわかってるから、タイミングで応援してるよ」と言われているような気持ちになったのだった。
比較的コントロール志向が強い自分だけれども、結局、世の中の物事は自分だけで動いているわけではなく、他の人や他の事柄と絡み合いながら進んでいるので、自分の意志や行動ではどうにもできないことが多い。多いというか、ほとんどそうだと思う。
なので、無理やりなんとかしようというよりも、「あ、いまだな」と思ったときに、波に乗るように動くのが、結局いちばんコトが運びやすいような気がする。
もっとも、「そうではなかった流れ」は知りようがないので、比較のしようもなく、どちらがよかったとかよくなかったとかの判断はできない。つまり、「あのときこうしておけばもっといい状況になったのに……」と思っても、実際にどうなったかはわからないし、そのタイミングで動いたことがよかったかどうかもわからない。
結局、「起こったことを受け入れる」感覚で、その流れに乗るほうが“しあわせ ”のような気がする。「そういうお達しだったのだ」「そういう運命だったのだ」という、スピリチュアルなこと、絶対的な(抗えない)ことに結びつけて考える必要もなく。
上記のような体験が、『荘子』の言う「自然」や「道」に結びつくかどうかははわからないけれど、いま、『荘子』がしっくりくるということは、無関係ではないように思う。
ただ。
そのうえで生じるのは。
「流れに乗ろうとする」意志と行動は、やはり自分のものなのではないか?という、素朴な疑問なのだった。
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『荘子』
2023-12-09T13:13:00+09:00
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「已むを得ず」の境地と、「しあわせ」の語源
玄侑宗久『荘子』の「第2章 受け身こそ最強の主体性」を、もう少し読んでいきたい。
今回読むのは「「已むを得ず」の境地」という一節。ちなみに、その2つ前が「『荘子』から禅へ」、1つ前が「坐禅と坐忘」という節になっている。
『荘子』も禅も、我をなく...
今回読むのは「「已むを得ず」の境地」という一節。ちなみに、その2つ前が「『荘子』から禅へ」、1つ前が「坐禅と坐忘」という節になっている。
『荘子』も禅も、我をなくすことが重要だと説くけれども、これはすなわち、究極の受け身の姿勢であり、私を離れ、命そのもの、自然そのものと一体になる、ということ。自然と一体になると言っても、こちらから自然をどうこうするわけではなく、私をなくすことで一体化する。
『荘子』は自然をどのように見たかについては、天道篇に出てくる言葉をひいたうえで、「運(めぐ)りて積(つ)む所なし」というキーワードをもとに説明してある。変化し続けて、物は積もらない。人間で言えば、記憶しない、意志をもたない、自然が淀むことなく変化していく時に、完全に我をなくしてその変化に身を任せきる、というような感じ。
ここでは出てこないが、個人的には、達生篇の水泳の名人の物語が体感としてはしっくりくる。体感といっても実際にやったことはないのだが。激しい水流の滝壺で泳いでいる男の、渦巻いたらその水とともに沈み、湧きあがる水につれて浮かびあがり、水の法則にただただ従って私を差し挟まないという話。
前回 、「道」について書いたけれども、結局、「道」というものは、上記の「自然」に近い概念なのだろうと現段階では理解している。
あるいは、自然(自ずから然る)に沿うあり方のこと。実際に、そのようなことが書かれてある箇所がある。もし、“沿うあり方”だとすると、リニアのイメージも付随してくるし、「道(どう)」という感じもしてくる。ただ、そういうイメージをもってしまっていいのかはよくわからない。
ここでは刻意篇から次の部分が抜き出されている。
感じて而(しか)る後に応じ、迫られて而る後に動き、已(や)むを得ずして而る後に起(た)ち、知と故(こ)とを去りて、天の理に循(したが)う。
(※ かっこ内はルビ)
今ではネガティブな意味で使われる「やむをえず」という言葉だけれども、出典となった上記の言葉では完全に肯定的な意味で使われている。
他からのはたらきかけを受けて初めてそれに応じ、迫られて初めて動き、已むを得ない状況になって初めて起ち上がる。こざかしい知恵や意志(人為)を捨てて、ただ天道自然の理に従うべきだ、と。
また、人間世篇から、「宅を一にして已(や)むを得ざるに寓(ぐう)すれば、則ち幾(ちか)し」という言葉が抜き出されている。
宗久さんいわく、日本語に「しあわせ」という言葉があるが、そこには『荘子』や禅の受け身をよしとする考え方が強く生きているように感じられる、と。
「しあわせ」は奈良時代には「為合」と表記したのだそう。「為」は「する」という動詞で、その主語は「天」。天が為すことに合わせるしかないというのが、「しあわせ」という言葉の由来なのだそう。
しかし室町時代になってくると、その表記が行為の「為」から仕事の「仕」に変わっていき、「仕合」となる。そうすると、今度は主語が人になってくる。
「仕合」は「しあい」とも読み、スポーツの対戦を今は「試合」と書くけれども、もともとは、「相手がこうきたからこう仕合わせる」という意味だった。「しあい」も「しあわせ」もあくまでも受け身の対応力。
「しあわせだなあ」というのは、思わぬことが起こったけれど、なんとか仕合わせることができてよかった、ということ。自分の意志で事前に立てる計画とは無縁の世界、完全に受け身の結果なのです。
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『荘子』
2023-12-08T12:39:56+09:00
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『老子』の「道」、『荘子』の「道」
前々回、NHK「100分de名著」ブックス『荘子』(玄侑宗久)の中から印象的だったフレーズを2つあげたが、そういえばもっとダイレクトに自分に響いた一文があったことを読み返していて思い出した。
今の日本では、仕事でも家族のスケジュールでも、誰もが計画を立てす...
前々回、NHK「100分de名著」ブックス『荘子』(玄侑宗久)の中から印象的だったフレーズを2つあげたが、そういえばもっとダイレクトに自分に響いた一文があったことを読み返していて思い出した。
今の日本では、仕事でも家族のスケジュールでも、誰もが計画を立てすぎているように感じることがあります。
「第2章 受け身こそ最強の主体性」の中の、「何もないことを遊ぶ」という一節の中にある一文。
そのあと、
いろいろなことがあまりにも細かく決まっているため、氣で感じるとか、直観に導かれるといった機会がないのではないでしょうか。
と続く。
これにはハッとした。私自身、計画を立てるのが好きなほうだと思うので(時と場合によるけれども)。計画を立てること自体が楽しいということもあるし、不安解消のためだったり、実行するときにあれこれ考えなくてすむように……という思いもある。計画通りにことを運ぶ喜びというのもあるのかもしれない。
予測とはまさに人為であり、人を不自由にするもの。むしろ不測に立ち、何も予測せず無心でいることが一番強いとして、このことが最もはっきりと分かるのが武道の世界だと、上記の話の前の部分で書いてある。
例として柔道と剣道が出てくるが、第3章では、茶道と華道が例にあげられている箇所がある。「道」のつくものには反復練習がつきものだという話において。
折しも先日、たまたまAmazonのプライムビデオで見かけた『日々是好日』という、茶道に関する映画を観たばかりなのだけれど、上記の「道」のことを思わせるシーンがあった。
また、この映画がきっかけとなり、フェリーニの『道』を観ることになった。何しろ『道』だし。が、いま考えたい「道」とは「道」違いだった(私にとっては)。
というか話は逆で、『老子』や『荘子』で考える「道」のほうが、日本語で言う「道」のイメージとは異なっている。「道」というと、どうしてもリニアなものが頭に浮かんでしまう。『老子』や『荘子』の「道」には、リニアのイメージはない。
では、『老子』や『荘子』のいう「道」とはどういうものなのか?
ひとまず、NHK「100分de名著」ブックス『荘子』(玄侑宗久)から、「道」について語られている部分を抜き出してみようと思う。以下、第1章の中の「「道」とは何か」という一節から。引用ではなく、こちらで抜き出してまとめたもの。
まず、『老子』について。
まだ天も地も生まれておらず、渾然としてはいるものの何物かがあるような状態。それは静まりかえって音もなく、おぼろげで形もない。全体は独立していて一定なのに、どういうわけか周(あまね)くどこまでも行きわたって止まることがない。喩えて言えば全てを生み出す「天下の母」のようなのもの。もとより名前はないから、これに字(あざな)して「道」と呼ぶことにした。道とはどんな定義にも収まらない生命原理であり、全ての命がそこから出てくるものだと言えるだろう。
次に、『荘子』について。
大宗師篇では、「道」を「攖寧(えいねい)」と呼んでいる。万物と触れ合いながら自らは安らかでいること。また、逍遥遊篇では、「無可有(むかう)の郷(きょう)」と表現している。何もない、物が現れていない、時間も生まれていないし空間も生まれていない広漠の野。時間が生まれていないということは、音もないということ。
なんだかすごい概念だけれども、とにかくそれに「道」という言葉があてられているというのが、慣れないうちは不思議な感じがするのだった。それこそ、日常生活にはない「タオ」という響きのまま、とらえたほうがいいのかもしれない。少なくとも、ストリートやロードではないと思う。
上記の説明をもとにイメ―ジしていたら、「場」という言葉を思い出した。「場」よりは大きく茫漠としている感じもあるが、何しろ空間も生まれていないらしいので、大きさもないのだろう。さらに、「場」は何かが起こっている、あるいは起こる可能性がある場所というイメージがあるが、上記の「道」はそれとも違う。
ちなみに、南直哉『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―』に関する記事のひとつである老子・荘子の「無」と、仏教の「空」 でも、「道」のことを少し書いている。
とにもかくにも、老子は道を定義すること自体、拒否しているらしいし、あらゆる言語表現に対しても2人はともに否定的であるという。
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『荘子』
2023-12-05T15:39:00+09:00
tamami
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http://math.artet.net/?eid=1422690
荘子のことと、『荘子』の構成
というわけで、しばらく荘子のことについて書いていくことにする。
まず、NHK「100分de名著」ブックスの『荘子』(玄侑宗久)の「はじめに ―― 心はいかにして自由になれるのか」から、以下のことをおさえておきたい。引用ではなく、こちらで抜き出してまとめたもの...
まず、NHK「100分de名著」ブックスの『荘子』(玄侑宗久)の「はじめに ―― 心はいかにして自由になれるのか」から、以下のことをおさえておきたい。引用ではなく、こちらで抜き出してまとめたもの。
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『荘子』は今から約2300年前、中国の戦国時代中期に成立したとされる思想書。著者の名前も荘子(荘周/そうしゅう)。儒家の曾子(そうし)と区別するため、日本では「そうじ」と濁って読むのが中国文学や中国哲学関係者の習慣となっている。
『荘子』は弟子だけでまとめたものではなく、明らかに荘子自身も書いており、師匠と弟子の合作という、歴史に名を遺す思想家の本としては珍しいスタイルになっている。
『荘子』の思想は、のちの中国仏教、即ち禅の形成に大きな影響を与えた。
=====
他にもいろいろ書いてあるのだけれど(「小説」という言葉の起源であることなど)、ひとまずいまは、上記のことくらいを頭に入れておこうと思う。
なお、玄侑宗久さんは臨済宗の僧侶であり、かつてこのブログでも関連した記事を書いた記憶があるのだが、非公開記事の中にも見つけられなかった(お名前だけをちょろっと出している記事は残っているけれど)。
一方、中島隆博『荘子の哲学』では、第?部の第一章が「『荘子』の系譜学」となっており、前回 の老子とのつながりはあるのかないのかという話から始まって、関連した他の文献が紹介されながら、『荘子』がどのように誕生したのかが示されている。中国の古いテキストがどれもそうであるように、『荘子』もまた長い編纂の歴史を有しているとのこと。
『荘子』の構成については、玄侑宗久『荘子』に一覧表があって、わかりやすい。
『荘子』については、よく、○○篇というものが出てくるけれど、大きくは「内篇」「外篇」「雑篇」の3つに分けられているもよう。全部で33篇あり、「内篇」7編についてはタイトルの意味が示されているのに対し、「外篇」「雑篇」については、各篇の冒頭の文字を題名としており、特別な意味はないとのこと。
中島隆博『荘子の哲学』によると、内篇は『荘子』にとってより「固有」のテキストであると理解されてきたそうなのだが、内・外・雑の区別自体が、編纂過程においてなされたものである以上、内篇が本来の『荘子』を伝えるものだと強く主張することは必ずしもできないと思われる、とある。
宗久さんもこのあたりの事情の説明をしたあと、「ここでは三十三篇全体を等価値の『荘子』として扱いたいと思います」と書いている。
私としては、構成にこだわるほどの段階にまったくいないので、「そうか、そうなんだな」と思うくらいにして、先に進むことにする。
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『荘子』
2023-12-03T10:11:00+09:00
tamami
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http://math.artet.net/?eid=1422689
老荘思想って、もう言わない
今年の8月くらいから、荘子づいている。玄侑宗久さんのとある対談本を読んだことがきっかけとなり、玄侑宗久『荘子と遊ぶ』を読み、荘子づくことになった。
『荘子と遊ぶ』は、最初は少し難しく感じられるけれども、少し読み進めると楽しくなってくる。ほんとに遊...
『荘子と遊ぶ』は、最初は少し難しく感じられるけれども、少し読み進めると楽しくなってくる。ほんとに遊んでる。荘周さんがとてもいい味出している。「そういえば玄侑宗久さんって小説家でもあるんだよなぁ」としみじみ思った。
読み終わったあとにも、折に触れ「周さんに会いたいなぁ」と思って切なくなったりしたものだった。9月は少しバタバタしていたからかもしれない。
そのあと、NHK100分de名著ブックスの『荘子』(玄侑宗久)に進んだ。このなかで印象的だったのは、以下の2つのフレーズ。
・ 受け身こそ最強の主体性
・ 「遊」とは端的に言うと、時間と空間に縛られない世界
さらに、中島隆博『荘子の哲学』を購入。学術的な本なのでさらさらと読めるものではないが、逆に少しずつ読んでいきたくなる本だと言える。
“老荘思想”に興味を持ち始めたのがいつごろかよく覚えていないのだけれど、2020年には老子の本を1冊と、老荘思想という言葉がタイトルに含まれている本を1冊購入している。
そういえば、放置していた縁起の宿題に再び取り組むことになった経緯 も、“老荘思想”を経由してのことだった。
飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』には老子も荘子も出てくるが、当時、荘子には興味が向かなかった。“老荘思想”という言葉から、老子がオリジナルというイメージを抱いていたのかもしれないし、描かれているキャラクター的に荘子にはそんなに惹かれなかったのかもしれない。
ただ、先にあげた老子と老荘思想の本を読んだ記憶がほとんどないことから考えると、興味があったわりには、実際の『老子』に強く響くものを感じていたわけでもないように思う。あるいは、本との出会いのタイミングと相性がずれてしまったか。とにかく、なんとなくのイメージで、なんとなく興味をもっていた。
そしてこのたび、荘子に興味を持って思ったことのひとつは、今後は「老荘思想」という言葉を安易に使わないようにしようということ。
老子と荘子を括って考えることについては、玄侑宗久『荘子』にも書いてあるし、中島隆博『荘子の哲学』にも書いてある。
玄侑さんは、荘子自身がそのような括りで考えていたということではない、ということをふまえたうえで、『荘子』が『老子』の思想を継承発展させたという側面が大きいことは確かだということと、『老子』に影響を受けはしたけれど、決定的に違うと思える面も多いにある、と書いている(第1章/「老子、孔子との割り切れない関係」より)。
一方、中島隆博『荘子の哲学』では、結論から言えば、「老子から荘子もしくは『老子』から『荘子』への継承関係が成り立たない以上、「老荘」という、後に作られ最も通行した概念では、荘子と『荘子』を捉えることは難しい」という見解になっている。(第一章/「「老荘(ルビ:ろうそう)」ではなく」より)
私自身、昔、何かのきっかけで何もわからないままに「老荘思想」という言葉だけ知って、この括りのままなんとなくのイメージを抱いていたと思うので、これから先は、老子と荘子を括って考える姿勢に言及するとき以外は、この言葉をできるだけ使わないようにしようと思ったしだい。
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『荘子』
2023-12-01T15:30:01+09:00
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多値論理の妥当性/大西琢朗『論理学』(12)
大西琢朗『論理学』、「第11章 多値論理 真理値は2つで十分か」を読んできた。今回、多値論理の妥当性について確認したあと、第11章についても、この本についても、一区切りとしたい。
妥当性の定義というのは、結局、反例の定義なのだなぁとあらためて思う。な...
妥当性の定義というのは、結局、反例の定義なのだなぁとあらためて思う。なお、これまでは前提が真、結論は偽なモデルを反例としてきたけれども、ここでは前提が真で、結論が“真ではない”付値が反例となる。
X∪{A}を論理式の集合とする。ある付値vが、
・すべてのB∈Xについて、v(B)∈{t ,b }(Bが真である)
・v(A)∈{f ,n }(Aは真ではない)
を満たすとき、vを前提Xから結論Aへの推論に対する反例という。
反例が存在しないとき、X から A への推論は FDE において妥当であると言い、X |= FDE A と書くことになる。K3 (整合的な付値による反例が存在しない)、LP (完全な付値による反例が存在しない)、CL (古典的付値による反例が存在しない)についても同様に。
LP は、うそつきやラッセルのパラドクスを扱うための論理であるらしく、このように爆発則を非妥当とする論理を矛盾許容論理 (paraconsistent logic)と呼ぶのだそう。
それにならって言うと、K3 は B |= A∨¬A が成り立たない paracomplete logic であり、直観主義論理も paracomplete ということになるもよう。
そして、4つの論理のあいだの関係も図示されており、こちらもひし形になっている。一番下が FDE で、LP と K3 に枝分かれして、CL に集約される。
この場合の矢印には、⊂に斜め線付き下線がある記号で、つまりは妥当な推論の集合としての論理のあいだの真部分集合(真の拡張)関係を表しているとのこと。
例えば、FDE で妥当な推論はすべて LP でも妥当であり、かつ、FED で妥当ではないが LP で妥当な推論が存在する、ということになる。
話はまだ続くのだけれど、ひとまず多値論理についてはこれで一区切りとしたい。大西琢朗『論理学』についても、ひとまずここで区切ることにした。「第14章 様相演算子としての否定」ものぞいてみたかったのだけれど、またの機会に。
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多値論理
2023-11-29T13:38:00+09:00
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真理値の構造、多値論理の名前/大西琢朗『論理学』(11)
大西琢朗『論理学』、「第11章 多値論理 真理値は2つで十分か」を読んでいる。
前回、4つの真理値 t 、f 、b 、n を確認したが、このあと4つの真理値がなす構造について、図付きで示されている。
「より真である」「より偽である」をもとに順序関係を考えた...
前回 、4つの真理値 t 、f 、b 、n を確認したが、このあと4つの真理値がなす構造について、図付きで示されている。
「より真である」「より偽である」をもとに順序関係を考えたものであり、4つとも出てくる場合は、一番下の f から b と n に枝分かれして t に集約され、全体的にはひし形となる。
b がないときには下から f → n → t の一直線になるし、n がないときには f → b → t の一直線になる。そして、b も n もないときには、f → t となる。
このような構造のなかで、選言∨は2つの要素の上限(最小上界)をとる操作と見なすことができるし、連言∧はその双対、すなわち、2つの要素の下限(最大下界)をとる操作ということになる。1段階増えるだけとはいえ、真や偽にグラデーションが出てきたなぁと感じる。
否定は a< b ⇔ ¬b< ¬a を満たす演算、すなわち順序を反転させる操作ということらしい。前回、否定の定義が興味深いということを書いたけれども、b と n にはそもそも順序関係がないので、反転させようがないということなのかもしれない。
さて、話は前後するが、3値論理、4値論理の名前の記号はこれより前の段階で出てきていて、3値論理はK3 、LP 、4値論理はFDE となっている。何の頭文字かということはこれよりあとに出てきていて、順に、Kleeneの3値論理,、Logic of Paradox 、First Degree Entailment のことらしい。
次回、妥当性を見ていくことになるのだけれど、たとえばFDE において妥当であるときには、妥当の記号の右下にFDE が小さく書かれてある。|= FDE というような雰囲気で。
右上にFがつくフレームの場合にも、ブログの文中では下につけたので、紛らわしかったなぁ……といまさらのように思うけど、他に表記のしようもなかったし、混在して出てくることも(少なくともしばらくは)なさそうなので、よしということにしよう。
なお、整合的な付値による反例が存在しないときがK3 、完全な付値による反例が存在しないときがLP 、古典的付値による反例が存在しないときがCL ということのよう。
FDE については、妥当性の定義とともに、次回示すことにする。
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多値論理
2023-11-27T12:55:00+09:00
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4つの真理値/大西琢朗『論理学』(10)
大西琢朗『論理学』、「第11章 多値論理 真理値は2つで十分か」を読んでいる。
前回、多値論理についてのオープニングの部分をざっと読んだが、今回から、実際の多値論理とはどういうものかを具体的に見ていくことにする。
まず、多値論理には次の4つの可能...
前回 、多値論理についてのオープニングの部分をざっと読んだが、今回から、実際の多値論理とはどういうものかを具体的に見ていくことにする。
まず、多値論理には次の4つの可能性が考えられることからおさえていく。
・ Aは真である(そして偽ではない)
・ Aは偽である(そして真ではない)
・ Aは真であり、かつ、偽である
・ Aは真でも偽でもない
これらは、それぞれ次の記号で示されている。
・ t (true only)
・ f (false only)
・ b (both true and false)
・ n (neither true nor false)
そのうえで、複合式A∧B、A∨B、¬Aの真理値表が定義されている。
2値の場合は2^2=4(通り)でよかったところ、今回は4^2=16(通り)の真理値が生じるわけであり、個人的には最初、AとBに分けて縦に16通りずらずら並べて考えたくなったのだけれど、さすがにこれは大変だし、その必要もないので、本と同じように4×4の並びで考えてみることにした。
また、ひとつずつ検討しようとすると逆に頭がこんがらがってしまうので、次のように全体的ななかで考えてみた。「これは定義なのだ」ということを忘れないようにしながら。
以下、私の考えと表現で書いていく。
まず、A∧Bの場合。
図1
どちらかが t のときには相手しだい(相手の真理値と同じ結果)で、それは相手が b でも n でも同じことだと考えた(水色)。逆に、どちらかが f のときには、それだけで f となる、と(ピンク)。
b と n の組み合わせでは、お互いが b ならば b 、お互いが n ならば n であり、b と n が組み合わさると、f になる(黄色)。「真であり、かつ、偽である」と、「真でも偽でもない」との組み合わせが f になるというのは、納得しやすい。
ただ、どちらかが n ならば、どの組み合わせでも f でいいのでは?と一瞬思ってしまう私は、まだ2値論理の世界にいるらしい。「真でも偽でもない」ということを、「偽である」と捉えてしまうイメージがあるもよう。
次に、A∨Bの場合について。
図2
こちらは、どちらかが t ならば組み合わせた場合も t となり(水色)、どちらかが f ならば相手の真理値になると考えた(ピンク)。
そして、どちらとも b ならば組み合わせても b 、どちらとも n ならば組み合わせても n で、b と n の組み合わせの場合は t となっている(黄色)。一瞬「え?」と思ってしまうけど、かたや真でも偽でもあり、かたや真でも偽でもないとなると、とりつくしまがないので逆にいっかと思えるというか、ある意味、網羅している感じもあって、妙な納得のしかたをしてしまう。
面白いのは、¬の場合。
図3
b の否定は b 、n の否定は n なのだ。こういうときに、「いま確認しているのは定義だ」と、しっかり思い出さなければいけない気持ちなる。
とはいえ、
「真であり、かつ、偽である」の否定が
「真であり、かつ、偽である」で、
「真でも偽でもない」の否定が
「真でも偽でもない」
というのは、あの龍樹でも言わないんじゃなかろうか??と思ってしまうくらい興味深いことなのだった。
普通に考えると、前者の否定は「真でないか、偽でないかの少なくともどちらかである」、後者の否定は「真であるか、偽であるかの少なくともどちらかである」となりそうなものなのだが、そういう真理値はないわけであり。
考えてみれば、b 、n の場合、真理値のなかにすでに「かつ」が入っており、またすぐに2値の世界にもどってしまいそうになるのだった。
なお、b の行・列を削除した「整合的な付値」、n の行・列を削除した「完全な付値」があることを考えると、とにかく b と n が交わることはないのだな……と思えば、少し納得できるというか、真理値そのものは覚えることができるのだった。
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多値論理
2023-11-26T14:23:00+09:00
tamami
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多値論理へ/大西琢朗『論理学』(9)
大西琢朗『論理学』、「第4章 様相論理(2) 対応理論」を読んできた。前回の内容のあと、ケーススタディとして「認識論理」なるものが取り上げられており、そのあとアクティブラー二ングのお題が続いているのだけれど、ここのところは割愛して、次は、ぐーんと後半...
前回の内容のあと、ケーススタディとして「認識論理」なるものが取り上げられており、そのあとアクティブラー二ングのお題が続いているのだけれど、ここのところは割愛して、次は、ぐーんと後半にとび「第11章 多値論理 真理値は2つで十分か」に進んでみたい。
まずは、爆発則と排中律が出てくる。
(爆発則) A∧¬A |= B
(排中律) A |= B∨¬B
爆発則という言葉をこの本で初めて知った。「矛盾A∧¬Aからは任意のBが帰結する」という推論であり、これが古典論理で妥当になるのは、A∧¬Aが真になることはありえず、それゆえ、この推論に対する反例モデルは存在しないから、ということらしい。
排中律のほうは、個人的にはそれなりに馴染みがあるといえばあるけれども、上記のように妥当の記号を使って表記してあると新鮮さを感じる(推論の形で考えられている)。なお、この章の前2つ、第9章、第10章では、直観主義論理が扱われているのだった。
とにもかくにも、「Aが真でありかつ偽であることはありえない」(整合性の仮定)、「Aが真でも偽でもないということはありえない」(完全性の仮定)が妥当になるのは、真か偽かの2値的な論理のなかのことだからだった(そのように作られている)。
しかし、ほんとうにこの2つの仮定に反するような状況は「ありえない」のか、ということで、疑念が紹介されていくとになる。
疑念の1つめは、あいまい性 。白とも黒とも言えない、あるいはどちらとも言える、グレーゾーンがあるということ。
2つめは、パラドクス 。うそつきパラドクスが示されたあと、ラッセルのバラドクスが出てくる。
そして。
宗教的言説における矛盾 として、龍樹『中論』がとりあげられている。抜き出されているのは、「すべては実在し,かつ実在しない。すべては実在するわけでも実在しないわけでもない」という一節。
石飛道子さんに言わせれば、真理値15 9? に対応するということになるだろうか。>「ブッダ論理学」の真理表を全体的に眺めてみる
大西さんいわく、宗教的な言説は神秘的なものであり、論理に従った合理的検討には適さないと言われることもあるが、『中論』を読めば、龍樹自身がある種の論理的な議論を展開していることは明らかである、と。
それこそ、石飛さんから見れば、ブッダも龍樹も論理のかたまりということになろうかと思うし、桂紹隆さんも、龍樹は論理を批判したが論理的だった、ということを書いていた。>龍樹とニヤーヤ学派の関係(2)/桂紹隆『インド人の論理学』から
そしてこのあと、関連性 という項目に入っていく。たとえ矛盾が「ありえない」ものだとしても、それでもやはり爆発則に違和感を覚える人はいるはずだ、と。
推論というのは, 前提の内容をしっかり吟味して,そこから言えることを引き出すという活動のはずである。
(p.171)
確かに。
前提とか結論のあいだに関連性がないにもかかわらず、それでも妥当な推論などあってよいものか。これは、推論として定式化された排中律にも当てはまること。
というわけで、真偽だけでなく、「真でも偽もである」あるいは「真でも偽でもない」という可能性を認める3値論理、4値論理についてみていくことになるのだった。
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多値論理
2023-11-25T09:48:00+09:00
tamami
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「時相論理」(temporal logic)とは何かよくわからないままに/大西琢朗『論理学』(8)
大西琢朗『論理学』、「第4章 様相論理(2) 対応理論」を読んでいる。次は、前々回のあとに続く部分(締めくくりの16行)を読んでみたい。
これまで見てきたような対応関係は、それ自体としても興味深いし、また、大いに使い道がある事実でもある、というよ...
前々回のあとに続く部分(締めくくりの16行)を読んでみたい。
これまで見てきたような対応関係は、それ自体としても興味深いし、また、大いに使い道がある事実でもある、というような感じで、この段落は始まる。
例えば,時制にかかわるある推論の妥当性について意見の相違が生じたとき、その論争がどうにも解決しがたいものだったとしても、問題設定を,その推論に対応する性質を時間の構造が満たすかどうかに移せば,解決の糸口が見えるかもしれない。
(p.66)
具体的にどういうことなのかはまったくわからないけれど、この「移す」という発想は、どこかで聞いたことがあるというか、懐かしささえ感じる概念だと思った。それこそ、圏論の関手とか自然変換とか、そういうものにもつながる発想だなぁと。
すぐに思いついたのは、オードリー・タンの本に出てくる圏論の話 のこと。
先を読むと、「対応理論を通じて、推論にかんする論理的な問題を、(時間などにかんする)形而上学的な問題へと変換して議論することができる」と書いてある。もちろん、その逆も言える、と。ますます上記のことを思う。
さらに、もう少し現実的に、工学的な応用も考えることができるとして、時相論理というものが少しだけ出てくる。
例えば,設計中のシステムの構造が所定の性質を満たしているかどうかを検証したいときには,そのシステムの構造をフレームとして記述した上で,そのフレームにおいて,その性質に対応する推論が妥当になるかをチェックするという方法がありうる。ここで紹介した様相・時制論理を拡張した,時相論理 (temporal logic)という論理が、システム検証の分野でじっさいに用いられている。
(p.66)
時制と時相の違い、あるいは tense と temporal の違いがよくわからないというか、時制はともかくそもそも時相とはなんぞや、という素朴な疑問がわく。
とりあえず時相論理で検索すると、確かに実用につながりそうな話がよくひっかかってくる。ちょっとのぞいてみても、さっぱり理解できないけれど。
とにかくいまは、「実用につながっているらしい」ということくらいしかわからないが、様相論理も論理であり、そのなかの時相論理であるわけだから、論理として工学的な応用がなされているというのは、きっとそうなんだろうなぁと思う。
そう思ったあとに、ふと、ライプニッツ/「胡蝶の夢」/輪廻転生 の最後に書いた、自分の問いのことを思い出すのだった。論理的であるとはどういうことなのか。
上記のように書くと、まるで工学的に応用できることが論理的であることの条件だと考えているように見えるけれども、もちろんそういうふうに思っているわけではなく、方向は逆で、論理的な事柄であるならば工学的(計算的というかコンピュータ的というか)な応用は可能だろうと、そんなふうに感じているのだった。
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様相論理
2023-11-22T14:00:08+09:00
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様相の解釈と推論の妥当性/大西琢朗『論理学』(7)
大西琢朗『論理学』、「第4章 様相論理(2) 対応理論」を読んでいる。
前回、対応理論のセクションの真ん中あたりの定義のところを先に読んだが、次は、その前にもどって「様相の解釈と推論の妥当性」「対応関係の例――推移性」を読んでいきたい。
ここで...
前回 、対応理論のセクションの真ん中あたりの定義のところを先に読んだが、次は、その前にもどって「様相の解釈と推論の妥当性」「対応関係の例――推移性」を読んでいきたい。
ここでは、例の義務論理 の疑問にも関係する話が出てくる。□A|=A という推論は、□を真理様相の必然性と解釈すれば、妥当と考えるのが自然かもしれないけれど(必ず成り立つことは、現実にも成り立っているはず)、□を義務と解釈すれば妥当とは思えない、と。
一般論として,人々は,しなければならなこと(□A)をいつでもじっさいに実行している(A)わけではないからである。つまり,□AだからといってAとはかぎらない。
(p.60)
ですよね。
あるいは、□を(時制論理 のところで出てきた)未来演算子[F]と解釈すれば、□A|=□□A は妥当になるはずだけれど(この先ずっとAならば、その先の時点から先もA)、真理様相と解釈するとどうだろうか……ということになる。
例として、物理法則の話が1行だけ出てきている。
例えば,物体が光よりも速く移動できないというのは物理法則からして必然的な真理だが,この必然性それ自体は物理的な必然,すなわち物理法則によって決定されていることだろうか。
(p.60)
考えようとするとけっこう考え込みそうになる内容というか、問い方からして難しい話なので、ひとまず先に進んでみる。
とにもかくにも、様相演算子の解釈のちがいは、妥当性の規準、線引きのちがいとして表れるわけであり、これらのちがいはフレームのもつ構造的な性質、もう少し特定して言えば到達可能性関係の性質によって特徴づけることができる……として、対応関係の話に入っていき、例として、「推移性」が取り上げられているのだった。
そして、先ほどあまり深く考えないようにした話が、またすぐに出てくる。
「必然的真理の必然性はそれ自体必然的か」
なんて哲学的な問いなんでしょう!と感じるし、“必然”とは何かの前に“真理”とは何かについてあらためて考えそうになるし、そこに物理法則が絡むと、科学にとって真理とは何かとか、そういう問いにもつながってしまいそうで、気が遠くなる。
なんとなく、『村上陽一郎の科学論』に垣間見る、歴史記述の論点 のことを思い出した。思いしたというか、内容は結構忘れているので、あのあたりのことをもう一度考えなきゃいけない気持ちになるというか。
とにかく、この推論はこれまでの枠組みのもとで非妥当であるとして、
□A |≠ □□A
が示され、証明において、以下のような反例モデルの図が示されている。丸をかっこで表している。
R +p R −p
(w)――――→(x)――――→(y)
しかし、例えば□を[F]として時間で解釈するなら、この推論は妥当になるはずだった。このあたりのことをもっと明確にするために、前回出てきた、妥当の記号の右肩にFがついた記号が定義される。
「フレームにおいて妥当」を示す記号であり、これは、元々の妥当性よりも狭い範囲での推論の正しさを捉えようとする概念。
そうして、推移的であるとはどういうことかの証明が示され、このあと、前回見ていったような対応理論の定義に入っていくのだった。
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様相論理
2023-11-19T11:36:00+09:00
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対応理論で出てくる性質と記号/大西琢朗『論理学』(6)
大西琢朗『論理学』、「第4章 様相論理(2) 対応理論」を読んでいる。
このあと対応理論に入っていくのだが、本に出てくるのとは順番を変えて、まんなかあたりから読んでいきたい。
先に、到達関係/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(6)をおさらい...
このあと対応理論に入っていくのだが、本に出てくるのとは順番を変えて、まんなかあたりから読んでいきたい。
先に、到達関係/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(6) をおさらいしておくと、
(a) 対称的
(b) 推移的
(c) ユークリッド的
(d) 反射的
という4つの性質が出てきていたのだった(そして、T、ブラウアー体系、S4、S5というものが出てきていた)。
今回はこれらの順番が少し変わっていて、さらに「継続的」(すべてのxについてxRyなるyが存在する)という性質が加わっている。
また、対応する推論(公理)リストのそれぞれに付けられた慣習的な名前として、T、4、D、B、5という記号が出てくる。
順に、反射的、推移的、継続的、対称的、ユークリッド的に対応しており、たとえば(T)でいえば、妥当の記号の右肩にFがついている記号を使って(ここでは右肩につけられないので|=F で代用)、以下のように示されている。
任意のフレームF=〈W,R〉について次が成り立つ
(T) □A |=F A ⇔ Rが反射的
(※ この記号については、次回触れる予定)
さらに、様相論理の一般の(とくに性質を仮定しない)フレームをKフレーム と呼ぶとしてあり、任意のKフレームにおいて(すなわちすべてのフレームにおいて)妥当な論理の集合を論理K と呼ぶことの説明がある。
このKはクリプキからきているらしい。なお、いま、ブログではアルファベットの斜体指定はすべて省略しているのだけれど、「論理○」の○にアルファベットが入る場合は斜体ではなく、そのまま太字になっている。
というわけで、到達可能性関係が反射的であるフレームはKTフレーム、継続的かつ対称的なフレームはKDBフレームとなり、それらのフレームにおいて妥当な推論の集合がそれぞれ論理KT 、論理KDB となるもよう。
特殊な場合として、KT4フレームおよびKT5フレームはそれぞれS4フレーム、S5フレームと呼ぶこと、それに伴って、すべてのS4フレーム、S5フレームにおいて妥当な推論の集合はそれぞれ論理S4 、論理S5 となることの説明が続き、先ほど少し示した三浦さんの本の記号がここで登場してくる。
S5は、三浦さんの本では「反射的かつ対称的かつ推移的だとする論理」となっており、ユークリッド的という性質は直接的に含まれていない。そして、これは同値関係であることも示されていた。
大西さんの本では、これらのことが問題3 として出題されている。
なお、以上のことについて、大西さんの本では矢印を使った図は出てこないけれども、動画のほうでは使われている。
#15 様相論理(6) 対応理論 2021年度前期哲学演習I
Takuro Onishi
https://youtu.be/zLgpgROh-yU?si=jNRqD0YriIQ0gK1F
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様相論理
2023-11-16T15:32:00+09:00
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「時制論理」(tense logic)/大西琢朗『論理学』(5)
大西琢朗『論理学』、「第4章 様相論理(2) 対応理論」を読んでいる。
最初に前回の補足をしておくと、三浦さんの本でも、到達関係の発見のすごさについては書いてあった。自分の記事をリンクしておきながら最後まで読んでいなかった。忘れていたのは、何がど...
最初に前回 の補足をしておくと、三浦さんの本でも、到達関係の発見のすごさについては書いてあった。自分の記事をリンクしておきながら最後まで読んでいなかった。忘れていたのは、何がどう画期的だったのか自分でよくわからないままに読んでいたからかもしれないし、到達関係の性質の図を初めて見て、そちらの印象が強かったからかもしれない。(補足終わり)
さて、義務論理のあとは時制論理(tense logic)について見ていく。
時間で考える場合、「xRy ⇔ yはxよりも後の時点である」となる。
例えばこれを書いている時点では「京都府に緊急事態宣言が発令されている」は真だが,(望むべくは)何ヶ月か先の時点では偽になるだろう。
(p.58)
そういえば緊急事態宣言っていつからいつまでだったんだろう?と思って調べてみたところ、全然把握していなかったのだけれど、全国的には4回に分けて出されていたらしい。
この本の発行は2021年11月30日であり、緊急事態宣言は解除されているが、執筆当時はまだ宣言中だったのだろう。それがいつの時期かはわからないけれど、確かに真だったものが偽になった。
なお、時相論理については、あらたに[ ]、〈 〉の記号が導入されており、Future と Past の頭文字をボックスとダイヤに入れ込んだ記号が使われている。そんなふうに表すことにしよう、という感じで。
前回同様、それぞれの1行目にも改行を入れて示すと、以下のようになっている。
v(x,〔F〕A)=1
⇔ xRy なるすべてのyについてv(y,A)=1
⇔ xよりも未来の時点でつねにA
v(x,〈F〉A)=1
⇔ xRy なるあるyが存在してv(y,A)=1
⇔ xよりも未来のどこかの時点でA
v(x,[P]A)=1
⇔ yRx なるすべてのyについてv(y,A)=1
⇔ xよりも過去の時点でつねにA
v(x,〈P〉A)=1
⇔ yRx なるあるyが存在してv(y,A)=1
⇔ xよりも過去のどこかの時点でA
[P]、〈P〉の場合、到達可能性関係をふつうとは逆方向にたどる演算子ということになる。
このあと、時相論理では次が成り立つとして、
A |= [P]〈F〉A
A |= [F]〈P〉A
が示されている。そこに「事実1 」と書いてあるのを見て、なんだか「おー」と思ってしまった。普通だったら、定義 、定理 、命題 というような言葉が入る場所にある、事実。
なお、この2つの事実の証明は問題として出されている。(事実も証明しなくてはならないのだっ)
それはそうと。
やはり時間の話になると、そして、Futuer と Past が出てくると、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』を思い出すのだった。「このもの性」からの連想(その3)/「紅茶が冷めている」 で書いたように、『時間の正体』には「可能世界」という言葉が出てきており、それはマクタガートの議論に出てくるフランシス・ハーバート・ブラッドリーによるものであるらしいのだ。
しかし、ブラッドリーで検索をかけてもそれっぽい話がひっかかってこない。イギリス理想主義の哲学者とのこと。
さらに Wikipedia を読んでいると、なんとなくせつないものを感じてくる。ブラッドリーの哲学的名声は死後急速に落ち込んだとのことで、それは、イギリス理想主義が1900年代にジョージ・エドワード・ムーアとバートランド・ラッセルによって実質的に葬り去られてしまったからだ、というようなことが書いてある。
ああ、ここでラッセルが出てくるのか……と思ったのをきっかけに、そういえばいま読んでいる本にラッセルは出てくるのかな?どんなところでどんなふうに出てくるのかな?と気になって、本の索引をのぞいてみた。少しだけ出てきているが、それよりもなによりも、真下に「龍樹」をはっけーん!
多値論理の章の最初の方で出てくる。8行だけだけれど。ちなみに、その直前でラッセルのパラドクスが出てきている。こここの部分のセクションタイトルは「爆発則と排中律」。刺激的。
そんなこんなで気持ちが先走ってしまいそうになるのだけれど、ひとまずいったん落ち着いて、様相論理をもう少し見ていきたい。
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様相論理
2023-11-13T11:57:00+09:00
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「義務論理」(deontic logic)/大西琢朗『論理学』(4)
大西琢朗『論理学』、「第3章 様相論理(1)」の後半をおおまかに読んできた。このあとケーススタディとして「様相論理の「内包性」「外延性」」という項目があり、アクティブラーニングとして4つの問題が続くが、その部分を割愛して「第4章 様相論理(2) 対応理...
先走って書いてしまうと、到達関係/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(6) で書いたような内容について説明されている章だと言える。ただし、この部分に関しては、むしろ三浦さんの本のほうが教科書的かもしれないなぁと思った。(三浦さんの本をはなれてしばらくたった現段階の記憶においては)(追記:このあとで訂正あり)
大西さんの本の場合、対応理論は様相論理を大きく発展させた重要な発見であるということが章の表紙に書いてあり、ドラマティックなオープニングになっていると感じたので。(追記:三浦さんの本でもドラマティックなことが書いてあったことに、自分のブログの記事で気づいた)
なお、上記リンク先で示した「反射的」や「推移的」というような性質は、後半で出てくる。
対応理論の対応は何と何の対応かいえば、「様相演算子を含む推論の妥当性」と、「到達可能性関係の満たす性質」の間の対応関係ということになる。
さまざまな様相論理を、バラバラにではなく統一的な仕方で取り扱うときに到達可能性関係が重要な役割を果たし、統一的な枠組みの上で、それぞれの論理のちがいを特徴づけることができる、ということのよう。
その、さまざまある様相論理として、まず、義務様相(deontic logic)なるものが出てくる。真理様相より“ラディカル”な種類の様相として。(その前には「可能性の意味」というセクションがある)
この場合、到達可能性を
xRy ⇔ yはxから見て倫理的に受容可能な世界である
と解釈するのだそう。確かにラディカル。
xRy なるどこかの世界yでAが成り立っていれば、xにおいて「Aしてもよい」が成り立つはずだ、と。(“してもよい”には傍点がついている)
v(x,◇A)=1
⇔ xRy かつ v(y,A)=1 なるxが存在する
⇔ xから見て倫理的に受容可能なある世界でAが成り立つ
⇔ xにおいてはAしてもよい
(※ 本では、1行目に改行はないのだけれど、ここではスペースの都合上、改行した)
つまりこのとき,◇Aは可能性というよりも「許可」「資格」(英語ではpermissibleなど)という義務様相 として理解できる。
(p.58)
あれ?それなら義務ではなく権利に近いものでは……と思いつつ先に進むと、そうだ、□の場合はどうなるんだと気がつく。
v(x,□A)=1
⇔ xRy なるすべての世界yで v(y,A)=1 が成り立つ
⇔ xから見て倫理的に受容可能なすべての世界でAが成り立つ
⇔ xにおいてはAしなければならない
2行目から3行目にいくときに、一瞬「そうかな?」という素朴な疑問が浮かぶことは浮かぶけれど、確かにこうなると義務っぽくなる。
いずれにせよ、◇と□の違いがあらためて見えてくるし、「許可」と「義務」の違いはこんなふうに解釈できる(のかもしれない)という、ちょっとした発見にもなった。
ちなみに、「義務」に対する英語としては obligatory が例としてあげられているのに対し、「義務論理」になると、先ほども示したように deontic logic になる。このあたり、どういうニュアンスの違いがあるのか、単に品詞の問題なのか、少し検索しただけではわからなかった。
検索途中で deontic と moral の違いや、deontic と upright の違いに言及するページもひっかかってきて、「ほぅ」と思いながら読んだ。そして、先ほどの素朴な疑問は消えていないとはいえ、論理として捉えやすいのは deontic なのかな、と思ったしだい。
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様相論理
2023-11-10T12:54:00+09:00
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反例モデルがある場合の証明と図/大西琢朗『論理学』(3)
大西琢朗『論理学』、「第3章 様相論理(1)」を読んでいる。
前回、様相論理の妥当性のなんたるかをざっとのぞいたが、このあと2つの例(妥当である例と、妥当でない例)を使って証明が示されている(なお、妥当性の判定方法は古典命題論理のほうに書かれてあ...
前回 、様相論理の妥当性のなんたるかをざっとのぞいたが、このあと2つの例(妥当である例と、妥当でない例)を使って証明が示されている(なお、妥当性の判定方法は古典命題論理のほうに書かれてある)。
証明じたいは難しくないのだけれど、何をするにもwが入ってくるし、□をつけたりとったりして考えなければならない(表記しなければならない)ので、その点、やはり命題論理よりも見た目が複雑になる。
その様子を、妥当でないほうの例でのぞいてみたい。
(例) □A→□B |≠ □(A→B)
(「□A→□B |= □(A→B)を満たさないような論理式A、Bが存在する」の意)
そのようなA、Bとして命題変項p、qをとり、□p→□q |≠ □(p→q)を示す。この推論に対する反例モデルは、
v(w,□p→□q)=1,v(w,□(p→q))=0
を満たすwを含んでいなければならない。後者を満たすためには、wRx かつ、v(x,p→q)=0となるxが存在すればよい。
さらに、v(x,p→q)=0とするには、v(x,p)=1 かつ v(x,q)=0とすればよい。
「それゆえ、反例モデルは次のような構造を含むことがわかる」として、いったん図が示され(末尾の図の青の部分に該当する図)、「まだ完成ではないが,このようにして,まさに“模型”のように組み立てていくわけである」という一文が入っている。
その“模型”の感覚をもう少し味わいたいなぁと思いつつ先に進むと、「残るは,v(w,□p→□q)=1を満たすには何を付け加えればよいか,である」と続く。
そして、証明が示されている解では y という新しい世界が加えられ、「別解」ではwから到達可能な世界としてw自身がとられている。
ここまでの流れがどうなっているかを、自分の理解で描き起こしてみた。(丸と矢印からなる図は、本にも描かれてある)
とにもかくにも思うことは、命題論理にしろ様相論理にしろ、0と1からなるこの世界(可能世界ではなく、普通の意味の世界)では、頭のなかにある基本の真理値表が頼りになるなぁということ。
なお、別解の前に、以下のような注意書きも書いてある。
注意 本質的に必要なのはこれだけだが,形式上は,すべての世界におけるすべての命題変項の真理値を定める必要がある。そこでこういう場合は,上に定めたもの以外は,どの命題変項もすべての世界でも偽だとしておこう。
(p.49)
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様相論理
2023-11-07T12:52:00+09:00
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様相論理の妥当性/大西琢朗『論理学』(2)
大西琢朗『論理学』、「第3章 様相論理(1)」を読んでいる。次は、「4 妥当性」について。
最初に、妥当式で出てくる記号のことについて、本からはなれて確認しておきたい。縦棒にイコールがついたようなこの記号はなんというのだろうと思って調べてみたとこ...
最初に、妥当式で出てくる記号のことについて、本からはなれて確認しておきたい。縦棒にイコールがついたようなこの記号はなんというのだろうと思って調べてみたところ、ダブル・ターンスタイルというものらしい(そっくりさんでなければ)。一応、コピペはできるけれど(「⊨」)、機種依存文字なのだとか。使っても大丈夫なような気がすることはするけれど、とりあえずブログの記事内では「|=」で代用することにした。妥当でない記号は「|≠」で。(記号確認終わり)
妥当性という言葉は、本の古典命題論理のなかですでに出てきており、前提が真ならば結論は偽ではありえない推論のことを妥当な推論と呼ぶとされている。
つまり、反例モデルが存在しない推論のことであり、反例モデルとはなんぞやということをおさえることが、妥当性について理解する一歩となろうかと思う。
様相論理の場合、ひとつのモデルのなかでも、可能世界ごとに論理式の真偽が変わるので、反例モデルや妥当性の定義も一段複雑になる(と書いてある)。たとえば、命題論理の場合、X∪{A}を論理式の集合とすると、ある付値vが、
すべてのB∈Xについて v(B)=1、かつ v(A)=0
をみたすとき、vを前提Xから結論Aへの推論に対する反例モデルと呼ぶのに対し、様相論理の場合は、
すべてのB∈Xについて v(w,B)=1、かつ v(w,A)=0
を満たすことが条件となる。複雑になるといっても、定義の式そのものではwを加えるだけなので、そういう意味で“一段”複雑になっているということなのだろう。(……と、この段階では思ったのだが、次にみる証明で“一段”もあなどれないと思ったしだい)
なお、wをXからAへの推論に対する反例世界、〈W,R,v〉を反例モデルと呼ぶことになる。「反例世界」というふうに“世界”がつくと、なんだか反例の存在感が増すなぁと思うことであった。
妥当のほうの定義も同じように、wが加わるだけになっている。
〔命題論理〕
すべてのB∈Xについて v(B)=1ならば、v(A)=1
〔様相論理〕
すべてのB∈Xについて v(w,B)=1ならば、v(w,A)=1
命題論理と様相論理の違いよりも、反例モデルや妥当式の定義の書き方そのものが難しいと感じた。
そもそも最初のX∪{A}から「?」な状態で、ここがいちばんの、もっといえばここだけ意味がわからなかった。
なぜかというと、Xは前提、Aは結論ということは、XもAも論理式を表しているはずなのに、XはXそのもので集合になっていて、Aのほうは{ }がついているから。
これはきっと、古典命題論理のところをちゃんと読んでいないからだろうと思って前にもどると、次のような記述を発見。
注意 ひとつ表記上の約束をしておく。推論の妥当性は,論理式の集合(前提)と,ひとつの論理式(結論)のあいだの関係である。それゆえ,例えば前提の集合{B1 ,…,Bn }から結論Aへの推論が妥当なときは,本来は,
{B1 ,…,Bn } |=A
と書かなくてはいけない。しかし以下では,集合の記法のカッコ{,}は省略して
B1 ,…,Bn |=A
と書く。また,X,B|=A は X∪{B}|=Aを意味するものとする。
(p.20)
なるほど、まずは「集合と論理式」のあいだの関係だということをおさえなくてはいけないらしい。そして、集合のカッコは省略されるらしい。
ということをおさえられたのはよかったのだが、先ほどの自分のわからなさとはまた違う話のような気がしないでもなく、引き続きよくわかっていない自分をもやもや感じつつ、ひとまず先に進むことにした。
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様相論理
2023-11-04T11:29:00+09:00
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様相論理の言語とモデル/大西琢朗『論理学』(1)
だいぶ間があいてしまったけれど、大西琢朗『論理学』の「第3章 様相論理(1)――可能世界意味論」を読んでいくことにする。
「1 様相」「2 可能世界意味論」をとばして「3 様相論理の言語とモデル」から入っていくが、その前に「2 可能世界意味論」から...
「1 様相」「2 可能世界意味論」をとばして「3 様相論理の言語とモデル」から入っていくが、その前に「2 可能世界意味論」から次のことだけおきたい。
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』を読みながら、可能世界論の中で出てくる「現実世界」という言葉について、私は少し混乱していたように思う。これは“ほんとうの”現実世界というより、起点とされる“当座の現実世界”のことをこう呼ぶと考えればよいのだとわかってきた。
たとえば、「あの局面からなら逆転も可能だった」というときに、ほんとうの現時点の局面ではなく、別のあの局面を起点としているわけで、こういう起点が「現実世界」である、と。
つまり、「こうなっていて、これからこうふうになることが考えられる」という別の世界への関係を考えるときの、「こうなっている」世界を現実世界と考えればいいと理解した。
三浦さんの本でもちゃんと読めばわかったのかもしれないけれど、とにかくそういうことだと腑に落ちてよかったので、ひとこと書いてみたしだい。
では、「3 様相論理の言語とモデル」に入っていく。
まず、「必然性」と「可能性」の記号□、◇が読み方とともに示される(□はボックス、◇はダイヤ)。
そして、フレーム、付値、モデルという用語が出てくる。以下、箇条書きで(アルファベットの斜体は省略)。
・ 空でない集合WとW上の2項関係Rの対〈W、R〉が
様相論理のフレーム
(W…可能世界の集合、R…到達可能性関係)
・ フレーム〈W、R〉が与えられたときに
Wの要素と命題変項の対に対して、
1あるいは0を割り当てる関数がフレーム〈W、R〉上の付値
・ フレーム〈W,R〉とその上の付値vの対〈W,R,v〉が
様相論理のモデル
このあと、モデルを構成するフレーム、到達可能性、付値についての丁寧な説明が続き、例の対称のパターンの話(3)、(4) が出てくる。双対関係という言葉を使って説明してあり、「そうか、双対といえばいいのか、なるほど」と思ったしだい。
この“ひっくり返る”感じはド・モルガンの法則を思い出させるが、実際、双対関係の例として出てくる。
ちなみに、三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』では、諸可能世界の関係性を図示するものとして、1つの円のまわりを多くの円が囲んでいるような図が使われていたけれども、こちらは早い段階で到達関係が出てくることもあってか、1つの円から3つの円に矢印が向かうような図で、□と◇の付値の様子が示されている。
その様子は、以下の動画の12分47秒後くらいから見ることができる。
#11 様相論理 (2) フレーム・モデル 2021年度前期哲学演習I /
Takuro Onishi
https://youtu.be/NhlwxMaDF7o?si=DkXW0JIkIQSqqMUb
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様相論理
2023-11-01T11:43:00+09:00
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http://math.artet.net/?eid=1422674
大西琢朗『論理学』の様相論理を読み始める
新しい論理学の本を買った。大西琢朗『論理学』(2021年/昭和堂)。
きっかけは、様相論理について調べているときにこのテキストの解説動画をYoutubeで見つけたことだった。
#10 様相論理 (1) 様相と可能世界 2021年度前期哲学演習I/
Takuro Onishi
...
きっかけは、様相論理について調べているときにこのテキストの解説動画をYoutubeで見つけたことだった。
#10 様相論理 (1) 様相と可能世界 2021年度前期哲学演習I/
Takuro Onishi
https://youtu.be/56bmhmXJL50?si=7q_XTqk8oqFAQ3Lc
到達関係/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(6) で書いた、「圏論みたいだ」と感じたのが、この動画内の画面を見たときだったと思う。
論理学全体のなかでの様相論理なので、それほど分量は多くないことが推測されたけれども、あの動画のような中身が読めるのならのぞいてみたかったので。
まず、「はじめに」を読んで、「ああ、これは買って正解かも」と感じたしだい。大学の教養〜専門初歩レベルの教科書として書かれたものであり、“論理学シティ”のツアーガイドのようなものだと書いてある。
私も、大学改革についての本を読んでいるときに、大学の先生に対して「ガイド」という言葉を使ったことがある。>それは通常の講義の中ではできないことなのだろうか
大学の先生にはこういうことをやってほしいし、授業の最初にこう説明してほしいよな、と思うわけであり。まあ、多くの先生がそうされているとは思うけれども。
次に少し意外に思ったのは、古典命題論理の次に様相論理が配置されていること。古典述語論理よりも前にある。買う前に目次をのぞいたはずなのに、あまり意識していなかった。
量化という言葉はこの段階ですでに出てきており、古典述語論理における議論のテーマとなるよということが、あらかじめ伝えてある。
様相論理は比較的新しい論理だというイメージをもっていたけれど、様相論理の始まりをどこにするか、あるいは何と比べるかによって新しい古いは変わってくるわけであり、そのイメージは「自分にとって新しい」ということだったのかもしれないなぁ……と思ったしだい。
逆にいえば、命題論理も述語論理も、そんなに大昔ではないということになるのかもしれない。
なお、大きな組み立てとしては第I部と第II部に分かれており、第II部では直観主義論理や多値論理などが扱われている。
最終章は「様相演算子としての否定」となっており、興味津々。
このあいだまで読んでいた三浦俊彦さんの本とは違って、大学のテキストとすることを前提として書かれてあるので、用語もさらに豊富に出てくるし、文字式もいっぱい出てくる。しかし、初学者も対象とされているから、そんなに難しくはない(だろうと思う)。
さて、どういうふうに読んでいこうか少し迷ったのだが、やはりいまは様相論理を中心に読んでいきたいので、そんな感じでのぞいてみたい。
ゆっくりと。
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様相論理
2023-10-06T13:28:16+09:00
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輪廻転生についての補足
前回、輪廻転生の話に触れたとき、南直哉『仏教入門』の中にある「輪廻は要らない」理由に落胆したと書いた。それについて、補足の記事を追加しておきたい。
そもそも直哉さんの『仏教入門』の表紙には、「私の考える仏教」という文字がある。Kindle版なので帯かど...
前回、輪廻転生の話に触れたとき、南直哉『仏教入門』の中にある「輪廻は要らない」理由に落胆したと書いた。それについて、補足の記事を追加しておきたい。
そもそも直哉さんの『仏教入門』の表紙には、「私の考える仏教」という文字がある。Kindle版なので帯かどうか確認できないが(帯にしてはずいぶん幅が広いけど)、その上に「南流仏教入門書ついに成る!!」とあるので、やっぱり帯で、ご本人ではなく編集部がつけたものかもしれない。
もちろん、どんな仏教入門の本も、つきつめれば著者の考える仏教ということになろうかと思うが、大抵は文献などをもとに解釈したものが記されているわけであり、わざわざ“私の考える”とはつけないと思う。
で、実際、本文をのぞいてみると、「はじめに」において、「今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である」と示されている。つまり、そういう性質の本――個人的見解だということを強く自覚して書かれた本――だということを、最初から頭に入れて読む本なのだこれは。
では、直哉さんは、どういう理由において仏教に輪廻転生は要らないと書いているのかというと、
だいたい、終始一貫した同一性を保つ「霊魂」みたいな、アイデンティティーを保証する何ものかが「生まれ変わり死に変わりする」という言い方・考え方は、どう見ても、無常・無我・無記・縁起という仏教のキー・コンセプトに背反する。
(第六章 輪廻と業)
と、始めている。
そして、「輪廻するのは霊魂のようなものではない」という立場の説がいくつか示され、それに対して直哉さんがバッサリ斬る形で反論している。
では、理論的に維持するのが無駄な「輪廻」説がなぜ仏教に引き込まれて残存し、仏教の重要教説のような顔をして今なお流布しているのか。
ということについては、実践的な需要があるからだとして、善悪を強制する道具としての需要、差別イデオロギーにとっての需要についての議論が展開されていく。
なお、「輪廻」は不要だが「業」は違うとして、このあと業の「改」釈が示されていくのだった。
私がこの点について補足の記事を書こうと思ったのは、少し前に読んだ、魚川祐司『だから仏教は面白い! 前編』の「第四章 無我と輪廻をめぐって」を、この機会にまたのぞいたからだった。『仏教思想のゼロポイント』を手元にもっているけれど、ゼロポイントとはまた違うテイストで面白いのだ。
魚川さん(ニー仏さん)は、「ゴータマ・ブッダの仏教の私たちにとって都合のいい部分だけを取り出して、それ以外の部分はごまかす」ような議論を「はずだ論」 と呼んでおり、一番典型的な例として「ゴータマ・ブッダは輪廻を説かなかったはずだ 」(太字は傍点付き)をあげている。日本の近代仏教学ではこの見解がわりと支配的だった時期があったのだそう(第二章より)。
一方、南直哉さんは、「ゴーダマ・ブッダがそれを説いた蓋然性(ルビ:がいせんせい)は高いとしても」という文言を入れたうえで「輪廻は要らない」と書いているので、「はずだ論」にはあてはまらない。
つまり、ブッダが説いていても、要らないと言っている。
で、魚川さんは、輪廻については、前回もリンクしたように、無我だから輪廻するということを(こちらでも第四章で)解説しているのだけれど、そのうえで、ゴータマ・ブッタは輪廻を説かなかったはずだというのはテクストを解釈する限りでは誤りだけれども、そのことは、仏教と関わるのであれば輪廻を信じなければならない、ということを意味するわけではないということも語っている。
ですから、とりあえず輪廻については「スルー」して、まずは瞑想などの実践をしてみるというのは、悪いことではないと思います。また、仏教に対する別のスタンスとして、「たしかにゴータマ・ブッダは輪廻転生を説いたけれども、自分はそれを全く信じない。ただ、 仏教には他にも有益な教えがたくさんあるので、それは必要に応じて受け入れる」、そうした態度も、十分にあり得ると思いますよ。私自身も、とくに個人として輪廻を「信仰」 しているわけではないですからね。
ということは、南直哉さんの「キー・コンセプトに背反する」という最初の段落がなければ、魚川さんのような立場をとる人にとっても、直哉さんの仏教への関わり方はアリということになる。実際には「キー・コンセプトに背反する」という段落があるので、アリにはならなそうだけれど。「はずだ論」ではないとしても。
なお、直哉さんが反論している「無我輪廻説」の中に、木村泰賢の議論は含まれていない。
どういう議論が例にとられているかというと、「命の流れのような、個人を超えた大いなる意識のようなものが輪廻するのだ」「認識のエネルギーが輪廻する」というような説。川の流れにできる渦巻きを例に出す「無我輪廻説」なども。
木村泰賢は「蚕の変化」に喩えているようだけれども、南直哉さんにとっては同じことかもしれない。
魚川さんは、仏教というのはそもそも輪廻を超克する教えであり、輪廻という現象があったとしても、最終的には、それは乗り越えられるべきものであるわけだということも語っている。
そして直哉さんも、輪廻について説明したあと、輪廻からの「解脱」が、教えの最終目的とされるということをふまえたうえで、先ほどのような議論を展開しているのだった。
そのうえで、
「「輪廻」説は仏教に要らない。我々はそれから「解脱」すべきなのである。
なのだ。「そういう解脱かー」と、補足記事を書いたいまとなっては、ある種の斬新さを感じる。
ちなみに、Amazonのレビュー欄で詳しく指摘されている方もそうだけれども、問題とされるのは、輪廻が仏教に要るか要らないかということより、経典の理解のほうだと思う。
もし、直哉さんが言うように、キー・コンセプトに背反するものを実際にブッダが説いていたとして、それでもキー・コンセプトをもとに仏教に賭けることを直哉さんができているとしたら、そっちのほうがすごいんじゃなかろうか。
輪廻を「維持する害」については、確かにあるのかもしれない。しかし、「害になるから不要」ではなく、歴史と土地柄をふまえ、なぜ「害」となったかを問題にしてほしいし、それは別の本でやってほしいなぁとも思う。しかし、いずれにせよキー・コンセプトに背反すると直哉さんが解釈する以上、要らないのだろう。
最初にもどると、結局、「私の考える仏教に輪廻は要らない」ということになり、それでいいのかもしれない。
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仏教
2023-09-23T10:36:00+09:00
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ライプニッツ/「胡蝶の夢」/輪廻転生
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』の第13節から触発されて書きたくなったことを、今回は書いてみたい。
前々回、可能主義をルイス型と呼んだが、実は可能主義には2種類あるらしく、もうひとつはライプニッツ型と言われるものらしい。相対主義と絶対主義と呼んで...
前々回 、可能主義をルイス型と呼んだが、実は可能主義には2種類あるらしく、もうひとつはライプニッツ型と言われるものらしい。相対主義と絶対主義と呼んでもいいだろうとのこと。
ライプニッツは、現代の分析哲学者のようには必ずしも可能世界の本性や意義や効用について明確なことを語っていないそうなのだけれども、「神は最善の世界を実現させたもうた」という意味の言葉などから推測するに、ライプニッツにとっては、この唯一の現実世界は特別なものだ、と。
しかし、もしライプニッツの言うとおりだとして、自分が「現実世界」に住んでいるということをどうして確信できるだろうか……と話は続き、このあとちょっと面白い記述がある。
私たちは実は虚構ではないかとか、夢の中の存在ではないかとかいう思弁が、老荘思想や大乗仏教など東洋思想の底流にありますね。
(第13節)
折しも、様相論理への興味とは別の流れで久しぶりに玄侑宗久さんの本が気になっていて、対談本を1冊読んだあと、『荘子と遊ぶ――禅的思考の源流』を読んだのだ。「胡蝶の夢」の話も少し出てくる。
『改訂版 可能世界の哲学』に直接触発されて『荘子と遊ぶ』を手にしたわけではないと思うが、もともと興味を持っている老荘思想に少し焦点が当たってきたということはあるかもしれない。
ちなみに、玄侑宗久さんについては、ずいぶん前にブログの記事をいくつか書いた覚えがあるのだけれど(柳澤桂子さんとの往復書簡や南直哉さんとの対談本について)、非公開記事の中にも残っておらず、何を書いたのか、書いたのかどうかも確認できずにいる。
さらに、最近、南直哉さんの『仏教入門』も読みかけていた。読みかけていたというのは、途中で読むのをやめてしまったということであり、そのわけは「輪廻」にある。
直哉さんは、この本のなかで「輪廻は要らない」と書いている。そのこと自体は、購入前にAmazonのレビュー欄で知っていたと記憶している。あの直哉さんがそう書いているのだから、何か理由があるのだろうと思いつつこの読むことにしたのだと思うが、その理由は私にとっては落胆するものだった。いつものような膝を打つ感じ・面白さ・納得感がない。キッパリ感があるのみで。
輪廻の件について、Amazonのレビュー欄で詳しく指摘されている方に対し、多くの「役に立った!」ボタンが押されているけれども、その気持ちはわかる。
輪廻転生については、このブログでも「経験我」と輪廻のリアル、不定自然変換へ という文章を書いている。参考文献は魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』。やはり、輪廻転生については、大乗仏教の徒よりも、初期仏教の立場に近い人の話のほうが説得力があるのかもしれないなぁ……と思ってみたり。
で。
なんと。
三浦俊彦さんが、2007年に『多宇宙と輪廻転生 人間原理のパラドクス』という本を書かれているようなのだ。読んでみたいのだけれど、いま現在、Amazonで4,000円を超えており、そこまではちょっと出せないなぁという感じで見送っている段階。近所の図書館にも置いてないもよう。
2007年といえば、三浦俊彦さんが石飛道子さんを批判した翌年であり、直接関係ないのだとしても、ますます読んでみたくなる。読んでみたいというか、どんな雰囲気なのかちょっとのぞいてみたいというか。
なお、玄侑宗久『荘子と遊ぶ』では、「胡蝶の夢」の話のあと大宗師篇の死生観の話になり、輪廻について次のように語られている。
……、万事を忘れてその生を生ききったらそれをお返しするだけだ。
お返ししたあとは、また「以て其の知らざる所の化を待つのみ」なのだとすれば、それを 輪廻と呼ぶことも可能だろう。しかし大切なのは、 荘周がおそらくインドの伝統的輪廻観は知らずにこれを述べていること。そしてブッダにとっては解脱すべき桎梏であった輪廻が、荘周にはむしろどう転んでも楽しむべきものであったことである。
(「第三章 夢みぬ人の夢」より/ルビ省略)
このあたりの違い(インドと中国の物事への対し方の違い)については、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の「老子」の中にある説明がわかりやすくて面白い。「老子」の思想が出てくる前の段階の、中国人のロジック、人生観の話として出てくる。
「西洋」と「東洋」の違いは、「西洋」のなかでの違いや「東洋」のなかでの違いに比べれば、もちろんとても大きなものだと思うけれども、東洋は東洋のなかでも違いがあるわけであり、その違いのなかで、いろいろな思想が生まれたり伝わったり変わっていったり、変わっていくなかで変わらないものがあったりしたのだろうなぁ……と、あらためて思う。
で、先の三浦俊彦さんの本については、一応Amazonのページでなんとなくの雰囲気はつかむことはできて、「厳密なロジックで誤謬を暴き」というようなフレーズに「4,000円を投じるほどではないかもなぁ」という印象をもってしまうワタシ。
「論理にいろいろあるとしたら、それらに共通していること、つまり論理であるということはどういうことなのか」
「論理的であることにはどのような価値があるのか」
「論理的であるとはいったいどういうことかということを、論理的に考えることはできるのか」
という、いくつかの問いが生じてくることを感じつつも、それらの問いをつきつめるより、私も荘子と遊んでおきたいなぁと思う、今日このごろなのだった。
と言いながら、別の論理学の本が、すでに1冊届いている。
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その他
2023-09-13T09:12:00+09:00
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「一覧」の図で概観する/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(10)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』についてブログの記事を書くにあたり、どこまで続けるのか、ずっと地道に順番に読んでいくのか決めていなかったのだけれど、その後考えて、ここらでいったん区切ることにした。
今回で第3章の残りの部分をざっと概観したあと、...
今回で第3章の残りの部分をざっと概観したあと、次回は第13節から連想したことをまた書いて、それで一区切りとしたい。
まず、第3章全体の節立てを確認しておくと、次のようになっている。
==========
第3章 可能世界とは何なのか
第12節 クリプキ型とルイス型
第13節 可能主義 ―― 有りうるものは有る
第14節 様相主義 ―― 悪循環の患い
第15節 自然主義 ―― 神の心か、時空点か
第16節 現実主義の限界
第17節 虚構主義 ―― 実用という真理
==========
第12節は前回 書いたところで、第13節は次回触れる予定のところとなる。
第14節以降は、本文を順に読んでいると頭がごちゃごちゃしてくるのだけれど、第17節で示されている“「可能世界とは何か」をめぐる「主義」たち一覧”の図を眺めながら読んでいくと、少しわかりやすくなる。
(第17節)
本としては、説明したあと図でまとめたということなのだろうが、読者感覚でいえば、第3章はこの図の内容を少しずつ追っているわけだなぁ……とあとでわかる感じがした。
つまり、この章でいうところの「可能世界とは何か」は、「可能世界は何であるとこれまで考えられてきたか、考えられているか」ということなんだな、と。
当初は、文章でもざっと内容を追うか、あるいは図の中にどの節でどの話が展開されているかを書き込んだものを示そうかと考えていたのだけれど、実際にこの図を見ながら対応している節を自分で確認していたら、満足してしまった。
おそらく、より突っ込んで考えたい“主義”が見つからなかったのだと思う。
ただし、第13節だけ次で特別扱いしようとしているので、つまりはライプニッツ型に興味を持ったのかもしれない。ライプニッツ型に興味を持ったというより、ライプニッツ型についての説明のなかに出てくる三浦俊彦さんの言葉に興味を持ったと言える。他の本とのタイミングも重なって。
なお、この本は7章立てで、節としては第32節まである。つまり、まだまだ読み始めたばかりの段階なのだけれども、可能世界論の雰囲気はほんの少しわかったので、今回はこの本についてはとりあえずこれでよしとしたい。
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様相論理
2023-09-10T15:46:00+09:00
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クリプキ型とルイス型/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(9)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』の第10章を読みながら連想したことを3記事ほど書いてみた。龍樹のことについても書こうかと一瞬思ったのだけれど、様相論理にもどれなくなりそうなので、今回は見送ることにする。
というわけで、『改訂版 可能世界の哲学』に...
というわけで、『改訂版 可能世界の哲学』にもどり、次はまず、「第11節 名指される個体」をざっと読んでいく。
貫世界同定の問題に遭ってとるべき主な道は2つあるとして、徹底した de dicto 主義(世界の質的有様について可能咳や反実仮想を述べることができるのみだという考え方)と、各世界に存在する各個体を分身関係(対応者関係)とでもいう緩やかな関係で束ねる考え方が示されている。
前者は、各々の個体はただ1つの世界の中に閉じ込められているという考えをとるものであり、「本質主義」と書かれてある。
後者については、分身関係は同一性関係でなく類似関係なので、推移的ではないということが言い添えられている。
そうしてこのあと、指示句の話に入っていく。「夏目漱石」という固有名と「『明暗』の著者」という確定記述は同一人物を指すが、それはあくまで現実世界でたまたま同じ個体を指しているにすぎないのであって、2つの指示句の意味が同一であるわけではないということについて。
「夏目漱石が『明暗』を書かないこともありえた」という命題が真であるのに対し、「『明暗』の著者が『明暗』を書かないこともありえた」という命題は一見奇妙であり、通常の解釈では真ではない。
確定記述「『明暗』の著者」が、現実がたまたまどのような成り行きを辿ったかによって、現に『明暗』を書いた人物を柔軟に指し示すのに対し、固有名「夏目漱石」の方は、現実がいかなる有様であったとしても、あの 人物と同じ人を頑固に指し示し続けるかのようなのだ、と。
(なお、この本の本文には、折に触れ太字になっているところがあるのだけれど、これまで太字にせずに書いてきた。しかし、上記の「あの」は、さすがに太字にしたほうがいいと思ってそうしてみた。)
記述句は可能世界ごとに何であれ記述性質を満たす対象を指し示すのに対し、固有名はすべての可能世界を通じて同一のあの 対象を指し示す。
少し端折ってまとめると、指示句には理念的に、〈属性を介して指示する機能〉と〈直接に対象そのものを指示する機能〉との2種類がある、ということになる。
(これに関しては、、バートランド・ラッセルの唱えた「記述理論」に少し触れてあり、キース・ドネランの名も出てくる。後者は初めて聞く名前だった。)
で。
さらに端折って先に進むと、可能世界内の何が現実世界内のこれと同一であるかは探求の問題ではなく、規約の問題であることに気がつけば、何も悩む必要がないということが書いてある。思考のめざすところに応じて、自由に決めてよい、と。必要があれば適宜「このもの性」を認めながら。
そんなこんなで、最初に書いた2つの立場、「本質主義」「分身説」と並んで、「このもの主義」が成り立つ余地を得ることになり、可能世界論者のあいだで最も広く支持されているのが「このもの主義」だとすら言えるのだそう。
しかし、貫世界同定を認める「このもの主義」は、固有名の分析に立脚している限りにおいて、可能性の理論としてはかなり貧弱なまま閉じてしまいがちであり、このあたりのことは、可能世界とはそもそも何か、という一番根本の姿勢と関わってくる。
という流れで、可能世界とは何かということについてのいくつかの競合する理論を概観することになり、「第3章 可能世界とは何なのか」の「第12節 クリプキ型とルイス型」に入っていくのだった。
ソール・クリプキは、「様相論理学の可能世界意味論の創始者とも言える」と紹介してある。直接指示の理論家とのことで、可能世界は約定されるものであるということだけが重要と考えているらしい。
つまり、可能世界は私たちの取り決めを離れてどこかにあるものではなく、数学者が円周率とかルート2とか集合といった抽象的な対象を発明し操作するように、論理学者や哲学者は可能世界という抽象物を取り扱う、と。
円周率は私たちの近くや遠くに存在しているわけでもなく、因果関係を及ぼしてくるわけでもないが、存在はしている。
(第12節)
確かに。
なお、この立場は、具体的存在としては現実世界だけを認める現実中心の立場なので、「現実主義」と称されているもよう。
一方、デイヴィット・ルイスは、他の可能世界は、現実世界の中に存在する抽象物ではなく、現実世界の外に存在する具体物だと考えているらしい。現実世界に中心を置かず、現実世界は可能世界の1つだという線を律儀に守るため、「可能主義」などと呼ばれるとのこと。
便宜的に、現実主義のもとでの可能世界をクリプキ型世界、可能主義のもとでの可能世界をルイス型世界と呼ぶことにすると、クリプキ型世界にある個体は抽象的なものなので、同一性関係で結びつけることは自由であるように思われる。まさに規約でどうにでもなるわけであり。
一方、ルイス型の可能世界にある個体は、それぞれが具体物として実在しているとしたら、別々の世界にある個体どうしを同一関係で結びつけることは難しいと思われる。ただ取り決めればいいという問題ではないように感じられるので。
なお、ルイス型世界観を抱く哲学者は、主唱者のルイス以外には実際ほとんどいないようだということが、かっこ書きで添えられている。
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様相論理
2023-08-26T10:03:00+09:00
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「このもの性」からの連想(その3)/「紅茶が冷めている」
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』の第10節を読みながら連想したことを書いている。
最初に前回の補足をすると、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』にも、クリプキのプラス・クワスの議論は出てくる。
また、前回はこの本から「小学生だった信夫が中学生になる」...
第10節を読みながら連想したことを書いている。
最初に前回 の補足をすると、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』にも、クリプキのプラス・クワスの議論は出てくる。
また、前回はこの本から「小学生だった信夫が中学生になる」の話を抜き出したのだった。
そして今回考えたいのは、第5章の「紅茶の図」のこと。
(p.130)
思えば、様相論理を知ろうとする前、龍樹について考えているときにも、この紅茶の図をぼんやり思い出していたような気がする。
『時間の正体』の第5章では、最初にマクタガートの時間についての議論が概観される。マクタガートは、まず、時間に関してA系列、B系列という2つの描像をとりあげているらしく、郡司さんはB系列を第一の描像として説明したあと、第二の描像としてA系列を説明している。マクタガートもこの順序で取り上げているのかどうかわからないが、個人的には途中で頭がごちゃごちゃしてしまうので、A、Bの順で考えていくことにする。
A系列というのは、ある出来事に対して現在か、過去か、未来を規定するものであり、B系列は、以前・以後によって規定される系列のこと。A系列のほうは、ある出来事がいま現在であれば、それは未来であったし、いずれ過去になるわけであり、様相が恒久不変であるということはない。B系列は出来事を要素とする順序系列なので、出来事それ自体はこの系列の中で不変となる。
マクタガートは、時間の本質は変化であり、「A系列なしで、B系列は時間を構成できない」と主張しているらしい。
このあと、郡司さんによるマクタガートの議論の説明が続くのだが、そのなかに可能世界という言葉があることにこのたび初めて気づき、びっくりしてしまった。
可能世界という言葉を知らなかったので、一般名詞のような雰囲気でさらっと読んでしまっていたのかもしれないし、そもそも読んでいなかったのかもしれない。
可能世界に基づく議論はマクタガートではなく、ブラドリーという人物によるものらしい。この人名はまったく覚えていないので、やはり読み流していたか、読んでいなかったのだろう。
検索してみるとブラッドリーという表記が多く、おそらく、フランシス・ハーバート・ブラッドリーのことだろうと現段階では判断している。
第二にマクタガートは、ブラドリーによって述べられた可能世界に基づく議論をとりあげ、A系列の担う全一性を炙り出す。ブラドリーによれば、時間の系列には複数の可能な系列があり、その各々に現在・過去・未来がある。時間とは、可能世界として並列的に実在するのであり、そのうちのどれかが現実にあるのではない、というわけだ。
(p.127〜128)
なお、念のためここで書き添えておくと、三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』によれば、それぞれの可能世界は時空的に断絶しているとのこと(可能世界の独立性)。ただし、可能世界は時間論にも使われているそうなので、上記のような議論もあるのだろうと思う。何がどういうふうに使われているのかは、まだまったく知らないけれど。
マクタガートやブラドリーと可能世界のつながりについては、ちょろっと検索しただけではわからなかったので、郡司さんの説明をもとにざっとのぞいてみることにする。
ブラドリーの議論の場合、「時間の非実在性は世界の複数性、多次元性にあるのであって、現在・過去・未来、すなわちA系列自体に誤謬はない」ということになるもよう。
マクタガートは逆に、多数の時間系列からなる可能世界は論理的に可能であるものの、その複数性によって、マクタガート自身が指摘するA系列の誤謬が解消されることはないと言っているらしい。
しかし同時に、可能世界が論理的に可能ではあっても、可能な現在の集合的全体である現在は、我々が知る現在とは違う、と主張しているとのことで、郡司さんはこの点が重要だと考えている。
まだまだ話は続くのだが、少し端折って「紅茶の図」について見ていくことにする。もう一度↓
全体的な流れは「紅茶を買う→紅茶を入れる→紅茶が熱い→紅茶が冷めている」となっている。
このなかで、「「紅茶が熱い」は現在だった」というふうに過去形の言明ができるのは、たとえば「紅茶が冷めている」を現在とする時点となる。つまり、「紅茶が冷めている」を現在とする時点が、「紅茶が熱い」の未来であることで、「「紅茶は熱い」は現在“だった”」と言明される。
果たして、「紅茶が冷めている」は、現在であり、未来である。
(p.130)
同様に「「紅茶が熱い」は現在と“なるだろう”」といった未来形を使える時点は、ここでは「紅茶を入れる」を現在とする時点であるが、それは「紅茶が熱い」に対して過去である。つまり「紅茶を入れる」は現在であり、過去であるということになる。
マクタガートにおけるA系列の誤謬、その本質は何か。私の意見を述べよう。矛盾の原因は、出来事系列、すなわちB系列において指定される現在とA系列における現在とが、まったく別な概念であるにも拘らず、混同が不可避となる点に求められる。
(p.131)
まだまだ話は続くのだが、いまは「このもの性」からの連想を考えているので、このあたりで切り上げることにする。
過去・現在・未来の話でいえば、時間を抽象的に俯瞰した自分の記憶として、小学校4年生のときの掃除の時間のことが思い出される。音楽室の担当で、当時は音楽室にオルガンがたくさん並んでいて、オルガンとオルガンの間の床を拭きながら、「いまのこの時間も、過去になるのだよなぁ」と思った瞬間が、私の記憶に刻みこまれている。
なぜ、そのときにそう思ったかはわからない。日常の中の平凡な一場面だったからこそ、逆に時間を俯瞰したのかもしれない。あのとき、私は自分の未来を具体的に想像してはいなかっただろうし、実際、知りようはなかったわけだけれども、いまこの現在が未来にはやがて過去になるということを、感慨深く意識したのだろうと思う。そういうことを意識した初めての経験として、記憶に残っているのかもしれない。
実際、未来のどの時点でも、あの「現在」は「過去」であり、こうして私は思い出している。あのときの「未来」が「現在」となっている私にとって、あの「現在」は鮮烈な「過去」の一場面になっている。
話を本にもどすと、『時間の正体』を手にしたばかりのころ、
わたしには現在しか許されない。
という一文に感動したものだった。なんてポジティブな否定形だろう、と。なお、その前には「わたしはこの現在に立ち尽くす」という一文があり、ここから始まる一段落が、“わたし”にかぎかっこをつけたうえで、本の裏表紙に抜き出されている。
当時描いたあの図は残っているかなぁ……と思って探してみたら、残っていた(いまは非公開にしている『時間の正体』についてのひとつの記事のなかで使ったもの)。
今回、なぜ「このもの性」から「紅茶の図」を連想したのか、自分でもよくわかっていないのだけれど、基体や、場と変化とのつながりから想起したのだろうと思われる。
上記の図の「わたし」は、基体ではないか。あるいは、上記の「わたし」を基体と捉える考え方があるのではないか。さらには、時間について考えるときに、ついつい、上記の「わたし」を基体にしてしまうのではないか。そんなことをぼんやり考えている。
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その他
2023-08-20T13:16:00+09:00
tamami
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「このもの性」からの連想(その2)/場と変化
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』の第10節を読みながら思い出したことを書いている。
前回、インド思想の「基体(ダルミン)」のことに関連して、属性をすべて取り除いたときに何も残らないとするのが仏教の立場だということに触れた。
そのことに関連して...
第10節を読みながら思い出したことを書いている。
前回 、インド思想の「基体(ダルミン)」のことに関連して、属性をすべて取り除いたときに何も残らないとするのが仏教の立場だということに触れた。
そのことに関連してさらに思い出すのが、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』p.89にある、「流動し続ける場」という言葉のこと。>「経験我」と輪廻のリアル、不定自然変換へ
「無常の経験我は否定されない」という項目の中の言葉で、以下のような文章の流れで出てくる。
……、それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場のことである。
つまり、「基体」はなくても「場」はあるのだ。あるというか、できてしまっているというか、なんらかの形で表現しようとするとそういう言葉を使うことになるというか。
そうなると、西郷甲矢人・田口茂『〈現実〉とは何か』の「第一章 実体から不定元へ――「量子場」概念の根本的再考」を思い出す。思い出すもなにも、そもそも上記リンク先の文章はこの本に触発されて書いたのだった。
章のサブタイルからもわかるように量子場の話なのだけれども、何しろメインのタイトルは「実体から不定元へ」であり、この先で仏教の話も出てくるので、つなげて考えても的外れではないように思う。
さらに、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』のことも思い出していた。
何かが変化するとき、何が変化するのか で書いたようなこと。「小学生が中学生になる」だと、小学生が消えて中学生が出現するように思えるけれども、「小学生だった信夫が中学生になる」であれば、信夫の変化としてこの事態を捉えることができる。この信夫も「裸の個体」や「基体」に近い話ではなかろうか。
先に書いておくと、三浦俊彦さんの本では、この先クリプキが出てくる。「当然のことながら」を添えていいくらいのことかもしれない。なので、郡司ペギオ幸夫さんのことは時折頭にちらついていたように思う。なぜなら、私は郡司さんを通してクリプキのことを知ったから。
より正確にいうと、青土社から1998年に発行されている『数学』(複雑系の科学と現代思想シリーズ)の辻下徹「生命と複雑系」を通して、郡司さんがとりあげるクリプキのことを知った。
発行されてからそれほど年数がたたずにこの本を手にしたと思うので、クリプキを知ってからずいぶん時間がたっているのだけれど、どうにも食指が動かず、これまでクリプキの本を手にすることはなかった。様相論理をのぞいているいまも、気になりつつまだ手にする気持ちになっていない。
なお、クリプキの邦訳は現在2冊出ているもよう。『名指しと必然性──様相の形而上学と心身問題』と、『ウィトゲンシュタインのパラドックス──規則・私的言語・他人の心』。
辻下さんの論考経由でクリプキを知ったため、私のなかではクリプキは「プラス・クワスの懐疑論の人」ということになっている。この議論はウィトゲンシュタインのパラドックスのほうの本に出てくるらしい。
様相論理とウィトゲンシュタインがどうつながるのかまったくわかっていないので、様相論理の文脈でクリプキが出てくると「これってプラス・クワスのクリプキ? それとも別のクリプキ?」と、不安になることもあった。
本が違うとしても、つまり取り扱っている主題やアプローチが違うとしても、それこそクリプキという「一個体」のなかで、つながりがあるのではなかろうか。順接にせよ逆接にせよ、断絶があるにせよ。
いずれにせよ、プラス・クワスはクリプキつながりで思い出しただけなので、「このもの性」との関係は感じていない。
というわけで、次回、『時間の正体』のほうについて、もう少し書いてみたい。
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2023-08-17T15:25:00+09:00
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「このもの性」からの連想(その1)/インド思想の「基体(ダルミン)」
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる途中だが、「第10節 諸世界を貫く個体」を読みながら思い出したことを、今回は書いてみたい。
前回、ほんの少しずつ性質が入れ替わり、そうこうするうちすっかり入れ替わってしまうと...
第10節 諸世界を貫く個体」を読みながら思い出したことを、今回は書いてみたい。
前回、ほんの少しずつ性質が入れ替わり、そうこうするうちすっかり入れ替わってしまうという一卵性双生児の思考実験の話が出てきた。
目の形だけを交換してそれ以外の性質は同じ、歩幅だけを交換してそれ以外の性質は同じ……というふう少しずつ交換し、ついに世界wnでは@での2人がそっくり入れ替わってしまうという話。
wnが@と異なっているのは、太郎君の心身をまとっているのが裸の個体・次郎であり、次郎君の心身をまとっているのが裸の個体・太郎であるというだけ。
という話のあとで、「このもの性」という用語が出てくるのだった。
様相論理特有の言葉ではなく、中世哲学に端を発する(広く使われる)用語だと私は理解しているのだが、「あらゆる性質から独立している裸の個体」という言葉に触れ、立川武蔵『空の思想史』に出てくるインド思想の「基体」のことを思い出していた。
インドの人々が世界の構造について考える場合、属性とその基体という対概念によって考察する傾向が強いらしいのだ。この基体というのが先の「裸の個体」に近いのではないかと感じたのだ。
インド思想の場合、「この本は重要だ」という命題は「この本には重要性が載っている(重要性がある)」と解釈される。本は実体であり、重要性は属性となる。
「この紙は白い」の場合も、「この紙は白いものの集合(クラス)の一つのメンバーである」というより、「この紙には白色という属性がある」と読む方が好まれるという。
ある基体(y)にあるもの(x)が存すると考えられる場合、xをダルマ(dharma 法)とよび、その基体yをダルミン(dharmin 有法)と呼ぶとのこと。
ダルマ、あるいは法という言葉は、仏教やインド思想の話の中で本当によく出てくる言葉だけれども、とにかくいろいろな意味があるらしいということを何かにつけ感じる。
なお、『空の思想史』p.38では、
一方、哲学的な議論においてダルミン(有法)と対になった場合には、ダルマがそこで存在する基体を意味する。
と書いてあり、「ん? ダルマは属性では?」と思ったのだが、単純なミスなのか、ダルマのさらなる意味の広がりを示しているのかわからなかった。
それはそうと、なぜ、ダルミンに「有法」という漢字表記があてられているのだろう? 直訳するとそういうことになるのだろうか。「法が(そこに)有るもの」とか、そんな感じの意味なのかなぁと想像してみたり。
ダルマ/ダルミンというふうに「ダル」が重なっているので、何かしら同じ漢字を使って対にできる表現なのかもしれない。なお、検索してみると、dharmin に対しては「基体」という言葉があてられることが多い印象がある。
先ほどの「白い紙」の場合、この紙には無色透明ではあるが基体として一つの場があり、その場には白色という属性があり、さらに大きさ、形、匂い、重さといった属性も存すると考えることになる。
これらの属性を取り除くことができると仮定して、すべての属性を取り除くことができたとしたら、最後に何か残るのか、残らないのか。
残る“何か”があれば、それは、太郎・次郎の「裸の個体」と同じものではなかろうか?
イメージとしては、[太郎@][次郎@]とラベルのついた、透明でからっぽで柔らかい(中に何が入るかで形が変わる)入れ物のような感じ。
[太郎@][次郎@]には、最初、太郎や次郎のいろいろな性質が入っている。そして、少しずつ性質を入れ替えていくと、入れ物はそのまま変わらず、[太郎@]」に次郎の性質がすべて入り、[次郎@]に太郎の性質がすべて入っている状態になる。前回の思考実験が表している状況はそういうことだと思う。
なお、インドの思想においては、属性をすべて取り除いたときに何も残らないとするのが仏教の立場であり、無色透明ではあるけれど基体と呼ぶべき何ものかが存在するというのがバラモン正統派の考え方であるもよう。
ただし、バラモン正統派の中でも、ヴェーダ―ンダ派は属性とその基体とには明確な区別がないと考える唯名論の立場にたっているらしい。>ひまになって余計なことを考えた人たちは東にもいた
さらに、飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』に出てくるヤージュニャヴァルキアの説明も思い出していた。>ウパニシャッド哲学とクオリアの意外な関係
飲茶さんは、ヤージュニャヴァルキアの(「アートマン(私)は捉えることができない」)を説明するにあたり、インド思想の枠を超えた話題を交えながら考察を深めているのだけれど、その導入として「私が存在する」ために絶対必要な条件とは何かを考えている。
「職業」「肩書き」などの「社会的地位」は違うし、「性格」や「個性」も違う。私が存在したままそれらが消滅しうるのは可能だから。では、「肉体」はどうか、「脳」はどうか? というふうに問いが重ねられ、「意識現象」の話へと入っていくのだった。
この「私が存在する条件」も、いわゆる「属性」、太郎や次郎の「性質」に近いものではないかと感じた。私を私たらしめているもの、太郎を太郎たらしめているもの、次郎を次郎たらしめているもの。
可能世界論はこういうことを直接的に議論するものではないだろうが、思い出したのと、考えていてちょっと面白かったので、書いてみたしだい。
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その他
2023-08-13T15:28:00+09:00
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諸世界を貫く個体/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(8)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる。
前回、節タイトルが魅力的なのでがんばって読んでみることにしたと書いたが、結局、「現れては消える個体」を感じるところまではいけなかった。むしろ、「世界にあったりなかったり...
前回 、節タイトルが魅力的なのでがんばって読んでみることにしたと書いたが、結局、「現れては消える個体」を感じるところまではいけなかった。むしろ、「世界にあったりなかったりする個体」といったほうがしっくりくる話だと私は感じた。
そんななか、次は、「第10節 諸世界を貫く個体」に入っていく。
前節の de dicto 様相、de re 様相の議論は、複数の世界に同じ個体が登場してくるということを前提としており、これは私たちの直観にも合致しているとして話は始まる。
「僕は会社を辞めることだってできた」という可能性の陳述や、「もしケネディが暗殺されなかったら……」という、実在の人についての反実仮想を考える場合、そういうことになる。
しかし、「僕がもし君だったら……」というような忠告や羨望の表現に出てくる反実仮想はどうだろうか? 僕は君でありうるか? この場合は、「もし僕自身がこの性格と気力を保ったまま君のいる立場に似た境遇にいたとしたら」という言明の省略形と考えたほうがよさそうだということになる。
では、「もし私がこの椅子だったら」の場合は?
複数の可能世界の中の存在物を同一のものとして定めることを、「貫世界同定」というのだそう。貫世界という言葉はどこかで聞いたような記憶もうっすらあるのだけれど、どこで聞いたのか、実際、聞いたことがあるのかどうか、思い出せずにいる。別の言葉と勘違いしているのかもしれない。
貫世界同定には、多くの難問がまとわりついているという。前回出てきた de dicto 様相の場合は各々の世界で対象を考えればいいけれど、de re 様相命題の場合はそうはいかない。まさにそのあたりが、前回の私の混乱にも関係しているように思う。
de re 様相の場合は、現実世界にあるaそのものが別の可能世界に登場しなければ、命題全体が意味を失うことになる。こうしたことから、多くの哲学者が、de re 様相の有意味性を疑ってきたのだとか。
先ほどの「私は椅子でありうるか」という極端な想定に対しては、個体は起源が異なれば同一物ではありえない、という制限が考えられる。人間と椅子では、そもそも何から生じてきたかという出発点が異なり、私が私であるためには、同じ親から生まれたのでなければならない。
しかし、起源の姿が何から何まで同じでなければならないことはないだろうし、たとえば、同じ卵子と同じ精子から生育し始めた受精卵の一部が遺伝子検査のために切り取られていたとしても、私は私のままだったことだろう。起源の微差が、個体の同一性を損なうことはない。
そうすると、貫世界同定に反論するには、微差内での起源の同一性を保ったままでの貫世界同定が依然おかしな含みを持つことを示さねばならないとして、次のような思考実験が示される。
一卵性双生児の太郎君と次郎君がいて、現実世界@で太郎君と次郎君はよく似ているが、身長、目の形、歩幅、読書の趣味、喋り始めた年齢など、微妙に諸性質が異なっている。
可能世界w1では2人の背丈が逆になり、その他の性質はまったく@の場合と同じである。世界w2では目の形を交換し、それ以外はw1と同じ、w3では歩幅が入れ替わっており、それ以外はw2と同じ、……というふうに各性質を少しずつ交換していく。
それに伴って受精卵が2つに分割を始めたさいの境目についても、世界w509ではw510よりもわずかに細胞2個分だけずれており……というふうに、起源の境界領域もわずかずつ交換していく。
どの変化も微差なので、ある世界から次の世界へスイッチするさいに太郎君が太郎君でなくなり、次郎君が次郎君でなくなるという断層はどこにもない。同一性関係は推移的関係なので、鎖の輪がいくつ挟まっても末端どうしで関係が途切れることはない。
こうしてついに世界wnでは、太郎君は太郎君であるまま、外見も記憶も性質も起源も出発点@の次郎君そっくりの人間になっており、次郎君は次郎君であるまま、外見も記憶も性質も起源も出発点@の太郎君そっくりの人間になっている。
wnが@と異なっているのは、太郎君の心身をまとっているのが裸の個体・次郎であり、次郎君の心身をまとっているのが裸の個体・太郎であるという点だけ。
双生児以外のペアについても、当事者の起源そのものを少しずつ交換してゆく方式を工夫すれば、これと同じ設定を考案することができるかもしれない。
2隻の船のネジや板が入れ替わっていくうちに、互いに全体が丸ごと相手の材料でできあがっていたということもありえるし、東京タワーとマリリン・モンローとが入れ替わったそっくり世界すらたぶん不可能ではなくなるだろう。
しかし何の性質も持たない裸の個体・太郎そのもの、次郎そのものとはいった何なのか? @とwnは別個の世界なのか? ということについて、ライプニッツの「不可識別者同一の原理」(区別するべき質的特徴の差異がない限り同一の物だということ)をかっこ書きでひきつつ、「このもの性」の話に入っていく。
あらゆる性質から独立している裸の個体。
なお、「このもの性」という言葉には、質的ではないが広義の性質なのだという意味が含ませてあるらしい。
ちなみに、「このもの性」という言葉で検索してみると、ヘクセイタスという語が出てくる。こちらは該当する日本語があるのだなぁと思うことであった。
以上、今回は、本の内容を部分的に抜き出しただけの形になったが、抜き出しつつ複数のことを思い出していたので、次回はそれについて書いてみたい。
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様相論理
2023-08-10T12:13:00+09:00
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現れては消える個体/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(7)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる。
第8節はもう少し話が続くのだが、ひとまず割愛して「第9節 現われては消える個体」を読んでいくことにする。
(なお、三浦さんは「現われる」「表われる」の表記をとっていらっ...
第8節はもう少し話が続くのだが、ひとまず割愛して「第9節 現われては消える個体」を読んでいくことにする。
(なお、三浦さんは「現われる」「表われる」の表記をとっていらっしゃるが、私は「現れる」「表れる」のほうがしっくりくるので、引用部分以外はこの書き方で書いていく。その他の表記も同様に。)
ここは第8節の後半とは別の意味でとばすことも考えたのだけれど、節タイトルが魅力的なのでがんばってみることにした。このあいだまで一生懸命考えていたことを思い浮かべるフレーズがまたまた出てきた。
なぜとばそうかと思ったかというと、ぼんやりおおまかに考えようとするとなんとなくわかりそうなのに、文章を読みながらちゃんと読もうとすると、「……?」となってしまうから。
様相と、世界の中に存在する個体の量化との組み合わさった命題の謎に挑む一節となっている。
Faという表記は、個体aに性質Fがあてはまるという命題(aはFである)を表したものだったけれども、□Faと書いた場合、以下のように2通りの意味を読み取ることができる。「Faという命題が必然的に真である」という意味と、「aは必然的にFという性質を持つ」という意味。前者の読みは□(Fa)、後者の読みは(□F)aというような感じになる。
文に対して様相がかかっている第一の解釈はde・dicto(デ・ディクト)様相、ものに対して様相的性質がかかっている第二の解釈はde・re(デ・レ)様相と呼ばれるそう。
de dicto、de reは、それぞれ「語られたことに関する」「物事に関する」という意味のラテン語で、中世論理学に始まる用語らしいのだが、どこかの段階で英語に訳されることはなかったのだなぁ、ましてや日本語があてられることもなかったのだろうなぁ、と思ったりした。
「命題が必然的に真」であるというのは、すべての可能世界でその命題が真であるということだけれども、性質が必然的であるというのは、可能世界論の枠組でも正式には定義できないのではないかとして話は続く。
前者をD、後者をRとして、この関係を量化子を使って表すと、以下のようになる。
D □∀xFx
R ∀x□Fx
Dのほうはいいとして、Rはどういうことかというと、つまり次のように考えればいいらしい。Fxの段階では「Fである」という性質を表しているだけで、いまだ命題を表さない不完全な表記であり、それに対して□がかかっているので、それがすべての個体について成り立つ、と。
すなわち、各々の個体a、b、c、……について、(□F)a、(□F)b、(□F)c、……はすべて真である、すべての個体について各々、de re様相を帰属させている、と。
で。
結局、DとRの意味するところは同じなのか違うのか?
同じであるためには、次の2つがともに必然的に真であることが示されねばならない。
? □∀xFx → ∀x□Fx
? ∀x□Fx → □∀xFx
まずは、1940年代にルース・バーカンが議論して有名になったという?(バーカン式)から考えることになる。「すべてのものが必然的にFであるならば、必然的にすべてのものはFである」。
期せずして「まるで禅問答みたいで」と書いてらっしゃる三浦さん。
「すべてのものがいかなる世界においてもFであるならば、いかなる世界においてもすべてのものはFである」と言い換えてみるとだいぶ考えやすくなったとあるが、当初、考えやすくなったと感じられなかった私。
直観的に、答えはノーだと。現実に存在する個体のすべてがどの世界でもFだからといって、別の可能世界内の全個体がFだという保証はないからというのがその理由。
?が論理的真理としての地位を自ら主張するなら、?で現実世界となる世界は任意の世界です。そこで、たとえばすべてのものが赤い世界を現実世界と考えましょう。そして、それらのものはどの世界でもやはり赤い、つまり必然的に赤いとしましょう。しかしだからといって、どの世界でもその中のすべてのものが赤いとは限りません。赤くないものが存在する世界だってあるでしょう(現に私たちの住む@がそうです)。
(第2章 第9節)
つまり次のように考えればいいのだろうか? 前提として、すべての“もの”という個体に注目し、それらの存在を確固たるものとして捉える。aは世界w1でも世界w2でも世界w3でもどこにあろうとも赤い(Fである)。b や c やその他のものも、それぞれなんらかの性質を、どんな世界でも変わらず持っている。たとえば、b は青い、c は黄色いとする。
a、b、c、……の“すべて”の“もの”は、どの世界にいようともある性質を固定してもっている。aでいえば、どこにいようとも、赤い。だからといって、aが含まれている世界w1にbもあるとしたら、bは青い(=赤くない)のだから、世界w1にあるものが「すべて」赤いということは言えなくなってしまう。cしかり、他の個体しかり、他の世界しかり。
そう考えていいのなら、とりあえず意味はわかるというか、「それはそうでしょう」と思えてくるのだけれど、そうなると逆に、「いま何の議論をしてるんだっけ?」という疑問符が飛び交ってしまう。可能世界って、そもそもなんだったっけ?ということにもなる。
ちなみに、いま読んでいる部分には「諸世界の個体メンバーは一致しない」という見出しがついている。やっぱり、「それはそうでしょう」というところに気持ちは落ち着いてしまう。
では、逆バーカン式とも言われる?はどうか。これは「いかなる世界においてもその中のすべてのものがFであるならば、現実のすべてのものはいかなる世界においてもFである」ということを意味している、と。
先ほどの「現実世界」の話がまだ続いているのだろうか。先を読むと、次のようなことが書いてある。
こちらは一見正しそうに見えるが、よく考えると、答えはノーだ、と。全可能世界のどこにおいても、Fという性質を持たない個体は一つも存在しないとした場合、現実世界の個体に限ってみたときどれもあらゆる世界でFを持つかというと、そんなことはないから。
結局、可能世界ごとに登場する個体のメンバーが正確に同じであるという特殊な考えをとらない限り、??はともに論理的真理ではない。ただし??を論理的真とする特殊な考え――モノはみな必然的に存在する――は「必然主義」と呼ばれ、賛成意見が何通りも提出されているという(第26節で一例が出てくるらしい)。
このあともまだまだ話は続き、「到達関係を制限する」ことによって、新たな論理体系の展望が開けることがあることの説明がある。
さらに、バーカン式・逆バーカン式を論理法則として含んだり含まなかったりする論理体系が、いくつかの日常現象の解釈や数理モデルの構築に役立つことが判明しているという。
数理モデルはともかく、日常現象の解釈にどう役に立っているのか、見てみたいと思った。
とにもかくにも、
多重様相の場合と同じく、どこから手をつければよいのかちんぷんかんぷんだった抽象的問題が、「個体メンバーの増減について諸世界可能の間にいかなる到達関係を仮定すればよいか」という具体的問題に変形されたおかげです。これも、可能世界論が伝統的形而上学にもたらした大きな貢献だと言わねばなりません。
(第2章 第9節)
ということらしい。
上記の「ちんぷんかんぷん」に十分な時間悩まされていれば、可能世界論がいかに画期的だったかを感じられるのかもしれないが、まったく別の意味で「ちんぷんかんぷん」な状態でいるのだった。
ただ、やはり、「到達関係」には興味がある。
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様相論理
2023-08-08T12:40:00+09:00
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到達関係/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(6)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる。
というわけで、「到達関係」なるものが出てきた。「世界w1からw2に到達関係がある」というのは、世界w2で真であることは何でもw1において可能である、という関係があるということ...
というわけで、「到達関係」なるものが出てきた。「世界w1からw2に到達関係がある」というのは、世界w2で真であることは何でもw1において可能である、という関係があるということ。
そうして、様相の定義の修正版が述べられることになる。以下、wRvは世界wから世界vに到達関係があることを示している。
wにおいて□P ≡ wRvであるようなすべてのvにおいて
Pが真である
wにおいて◇P ≡ wRvであるようなあるvにおいて
Pが真である
こうすることで、前回 の命題たちがどういうことになるか……についてはあとでみていくことにして、まずは到達関係の諸性質を表した図を眺めてみたい。
(※ 本文とは順番を変えて読んでいます。)
(第2章 第8節)
なんにも知らない状態でこの図をぱっとみたら、「あれ、圏論?」と一瞬感じるだろうと思ったりした。性質そのものは関係の基本的な性質だとしても、〇と矢印を使って説明されていることと、頭の中が圏論ナイズドされていることで、そう感じたのだと思う。
落ち着いて考えれば、推移的な到達関係が合成に見えて、反射的な到達関係が恒等射に見えるという、それだけのことなのだけれど。
(ちなみに実は、この本とは別に様相論理についてのとある動画をのぞいたことがあり、そのときに最初に「圏論みたいだ」と感じたのだったと思う。)
図の中の〇付き記号を()付き記号にかえて関係を文字式で示すと、次のようになる。
(a) w1 R w2 → w2 R w1
(対称的)
(b) w1 R w2 かつ w2 R w3 → w1 R w3
(推移的)
(c) w1 R w2 かつ w1 R w3 → w2 R w3
(ユークリッド的)
(d) w1 R w1
(反射的)
それぞれ、次のような例が示してある。(a)「ケンカをする」(太郎が次郎とケンカをしているなら、必ず次郎も太郎とケンカをしている)、(b)「年上である」、(c)「兄弟姉妹である」、(d)「より重くはない」(どんなものも、自分自身より重くはない)。
そうなると、前回のI、II、IIIは次のように考えることができる。
I P→□◇P
「wでPが真でありさえすれば必ず、
wから到達できるすべての世界から、
Pが真である世界に到達できる」
※ 上記の(a)に対応する。
II ◇◇P→◇P
「wから到達できるある世界から到達できる
ある世界でPならば必ず、
wから到達できるある世界でP」
※ 上記の(b)に対応する。
IIIの◇P→□◇Pは、前回見たようにIとIIをあわせたものなので、対称的かつ推移的である関係の(c)に対応する。
さらに、前回示した01のP→◇Pは(d)に対応する。
(と、本をもとに書いてみたが、まだ頭がごちゃごちゃしていて、すっかりわかったとは言えない状態。)
そうすると、T、ブラウアー体系、S4、S5の論理体系の本性は次のように解明される。
世界の到達関係が
反射的であると想定する論理……T
反射的かつ対称的だと想定する論理……ブラウアー体系
反射的かつ推移的だとする論理……S4
反射的かつ対称的かつ推移的だとする論理……S5
なお、反射的かつ対称的かつ推移的な関係のことを同値関係とも言う、ということも書いてある。
かくして、複雑怪奇な、その意味すらわからなかった多重様相の命題を認めるかどうかという絶望的な問題が、世界の間の到達関係をどのようなものと見なすか 、という直観的な問題へと還元されたのです。曖昧模糊(ルビ:あいまいもこ)たる形而上学を、論理空間の幾何学へと翻訳してしまったこと。これは可能世界論によってもたらされた画期的な進歩だと言わねばなりません。
(第2章 第8節)
ちなみに上記引用文を含んでいる項目には、「可能世界が形而上学のコリをほぐす」というタイトルがつけられているのだった。
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様相論理
2023-07-30T10:59:22+09:00
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飽和する世界/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(5)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる。
第1章の第4節まで読んできて、このあと「意味と外延」についての第5節に入っていくのだが、ここはひとまずとばして、必要が生じたときにもどってきたいと思う。とても数学っぽい話...
第1章の第4節まで読んできて、このあと「意味と外延」についての第5節に入っていくのだが、ここはひとまずとばして、必要が生じたときにもどってきたいと思う。とても数学っぽい話になっている。命題を集合として定義したり、「関係」を個体のペアの集合と定義したり。
(注)によると、ふつうは「関数」として定義するけれども、わかりづらいという読者も多いと思われるので「集合」の方を定義に採用したことについて、詳しく説明してある。
同様に、第6節の「虚構と価値判断」もひとまずとばして、第2章の「可能世界のネットワーク」について読んでいきたい。
まずは、可能世界の持つ重要な4つの性質を確認するところから始まる。本文をもとにまとめると、次のようになる。
整合性……矛盾を含まない。いわゆる、矛盾律。
完全性……包括的である。いわゆる、排中律。
飽和性……可能であることは
必ずどれかの可能世界で起こっている。
この性質から、
可能世界の数が無数個であることが出てくる。
独立性……別々の可能世界どうしは時空的に断絶している。
最後の独立性については、世界は「類似関係」のネットワークで結びつけることができるとして話は続き、「物理的には互いに独立している諸可能世界の、類似性という非物理的関係の仕組みを探るのが様相論理学の主たる仕事とさえ言える」と書かれている。
その洗練された類似関係が、「到達関係」と呼ばれるものになる。
ここまでが第2章のオープニングの第7節(節は通し番号)で、このあと「到達できる世界、できない世界」の第8節に入っていく。
まず、伝統的に問題なく真だと思われてきた命題として、次の2つが示される。
01 Pであるならば、Pは可能である。
P→◇P
02 PならばQ、が必然ならば、
必然的にPならば必然的にQである。
□(P→Q)→(□P→□Q)
一方、真がどうかはっきりしない様相命題もたくさんあり、中でも、可能世界論が登場するずっと前から、次の3つの様相命題が真であるか偽であるか、そしてそもそも何を意味しているかということが哲学者や論理学者の間で話題になっていたという。以下、ローマ数字をIの並びで代用。
I Pであるならば、必然的に、Pは可能である。
P→□◇P
II Pが可能であることが可能ならば、Pは可能である。
◇◇P→◇P
III Pが可能であるならば、必然的に、Pは可能である。
◇P→□◇P
個人的には、龍樹に負けず劣らず「ん???」となる文章だなぁと感じるし、なんというのか、龍樹とは反対方向の「???」でもあるなぁと感じる。何が反対なのかは自分でもよくわからないけれど。
先ほどの01、02に標準論理の諸公理と推論規則を認めた論理体系を「T」と呼ぶそうで、体系TにIとIIを公理として付け加えれば、IIIが真なる命題として証明できる。また逆に、IIIを公理として体系Tに付け加えれば、IとIIが真なる命題として証明できる。体系TにIとIIの一方だけを付け加えた場合は、他方を証明することはできない。
と、いうことになるらしい。最初の項目がどういうことになるのか、本文をもとにして私の理解と表現で段階的に見ていくと、次のようになる。
(ア) IのPを◇Pに置換……◇P→□◇◇P
(イ) 01のPを◇Pに置換……◇P→◇◇P
(ウ) IIと(イ)を合わせる……◇◇P≡◇P
(エ) (ア)と(ウ)から、III……◇P→□◇P
なお、体系TにIだけを加えた体系は「ブラウアー体系」、IIだけを加えた体系は(S4」、IIIを加えた体系は「S5」と呼ばれ、認識論や時間論などのさまざまな目的に利用されてきたという。
しかし論理学者たちは、I、II、IIIが何を意味しているのか、そして各種の応用はともかく純粋論理の土俵でI、IIのどちらかもしくは両方(III)を認めるべきなのか拒否すべきなのか、そしてなぜそうすべきなのか、といったことがまったくわからないままでいたらしい。
で、可能世界の緻密な枠組みを用いるとこれらの問題に一挙に片がつくことが、1950年代後半にヤーツコ・ヒンティッカやスティグ・カンガー、ソール・クリプキらによって実証されたという。
可能世界どうしの間に、「到達関係」という関係を設定することになる。
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様相論理
2023-07-27T10:39:45+09:00
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法則と因果/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(4)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる。
前回からの流れを汲んで、次は法則と因果の話へと入っていく。法則にはさまざまなものがあるけれども、それは特定の人や物についてではなく、一般的な命題でなければならない。つま...
前回 からの流れを汲んで、次は法則と因果の話へと入っていく。法則にはさまざまなものがあるけれども、それは特定の人や物についてではなく、一般的な命題でなければならない。つまり、「すべての何々は〜である」という全称命題だということになる。確かに。
全称命題ならば必ず法則かというと、どうもそうではないように思われるとして、「いかなるサソリも、大理石のベンチの上に20分間以上とどまることはない」という例が示されている。
かりに正しいとしても、法則であるとは思われないのは、おそらく、たまたま真であるだけで、何ら物理学的な原因・結果の繋がりの仕組みによって真となっているわけではない、という直観が私たちにあるからだろう、と。
なお、この場合も、因果の繋がりがめぐりめぐって当の一連の規則性が生まれているとは言える。しかし、直接の因果法則によって起こっているとは思えない。
「万有引力は距離の二乗に反比例する」とか「人間はみな死ぬ」とか「塩は水に溶ける」とかいったような全称命題であれば、物理学法則や生物学法則、化学法則だと解することができる。
しかし「原因・結果の繋がり」などというものが本当にあるのか?
この現実世界@と物理的にそっくりな世界Wを想定し、その双子世界Wは現実世界とまったく同じ歴史を持っているけれども、ただ一つ、因果法則というものがないとう点で現実世界と異なっているということはあるか?
いやそもそも、この現実世界こそが無法則であるのかもしれない。現実世界と寸分違わないがただ一つ、因果の繋がりというものがあってそれ故にこのような形をとってきた可能世界というものがあるだろうか……と、話は続く。
わりと最近、メイヤスーを読んだこともあり、ヒュームのことが頭をよぎるが、実際、この少し先で出てくる。リンゴが落下するのは、重力のような因果法則によるのではなく、単に、リンゴが枝から離れるという出来事とリンゴが落下するという出来事が常に連続しているという考え方。
なお、一般に、ある特質Aが別の特質Bにおける変化なしには変わることができないとすれば、特質Bが特質Aを決定する、あるいは、特質Aは特質Bの上に付随すると言い、上記のヒュームのように考えるならば、因果関係とは、物理学特徴の上に付随する性質だということになる。
重力子という粒子が発見されたとしても、因果の実在が証明されたことにはならない。重力子の交換が物体の間で絶えず起こっている、という規則性が見いだされるのみ。
(※ 本から前後して話を抜き出しています)
ただ、因果とは現実の規則性のことだと単純に割り切ってしまうと、法則とは、頻繁に実現する種類の出来事にのみ関係する概念だということになりかねない。しかし「もしフロンガスを使い続ければ、オゾンホールはさらに広がるだろう」と言う場合のように、因果関係を述べる命題のほとんどは、反実仮想の命題ではないか。
したがって、「原因Cが結果Eを引き起こす」という命題は、哲学者ごとに微妙に見解は異なりますが、おおむね、次のような命題と同じであると分析されます。すなわち、「Cが起こったとしたら、Eが起こっただろう」、あるいは「Cが起こらなかったとしたら、Eは起こらなかっただろう」。
(第1章 第4節)
期せずして、少し前まで一生懸命考えていたものに似ているフレーズが出てきた。
さらに、こう続く。
こうして現実世界における因果というあやふやな実体(?)は、反実仮想、つまり現実世界と諸可能世界との関係へと還元されるわけです。因果という不可解な動力は必要なく、ただ、類似関係によって並んだ諸世界の体系があればいいのです。そうすると因果関係は、規則性のような一世界内の 現象だけにではなく、複数の世界の間の 物理的類似性の上に付随する性質である、ということになります。可能世界の類似性の体系がもし一通りだけだとするならば、因果の有無だけが異なる双子世界というようなものは、ありえないことになるでしょう。
(第1章 第4節)
そして、このことから、「可能世界どうしは因果関係を持たない」ということが要請されてくる。定義が循環してしまうから(因果を可能世界で説明し可能世界を因果で説明せねばならない)。よってここから、可能世界とはおのおの因果的に独立した、孤立系でなければならないということが出てくる。
概念の果たす機能から概念の性格が必然的に導き出されてくるところが、分析哲学の面白いところです。
(第1章 第4節)
ちなみに、途中で「「因果」を哲学から追放するには」という見出しがあって、そうか、追放したいのか……などと思ったりした。
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様相論理
2023-07-23T12:04:46+09:00
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反実仮想/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(3)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる。
次は反実仮想についてみていく。「もしもあのときこうだったら、こうだったはずだ(こうだったかもしれない)」というような文で表される命題について。
その条件のもとでは
...
次は反実仮想についてみていく。「もしもあのときこうだったら、こうだったはずだ(こうだったかもしれない)」というような文で表される命題について。
その条件のもとでは
こうだったはずだ
It would have been…
こうだったかもしれない
It might have been…
というような仮定法の命題は、必然命題や可能命題の特殊な場合に他ならないという。
PだとしたらQだったはずだ
→ Pという条件が満たされていれば、
必然的にQが成り立っただろう
PだとしたらQだったかもしれない
→ Pという条件が満たされていれば、
Qが成り立つことは可能だっただろう
「PだとしたらQだったはずだ(だったかもしれない)」は、量化の範囲をすべての世界の集合ではなく、Pが成り立つような世界の集合に限った場合の必然性と可能性であることが容易に推察されるだろう、と。
ただし、単に「Pが成り立つような世界」としたのでは、範囲が広すぎて、Pに矛盾しないことであれば何でも可能になってしまう。
たとえば、「もしも加藤君が休まなかったら、C組が優勝していたはずなのに」という文章を考えると、加藤君が休まなかったにもかかわらず、A組が急に強くなったかC組に内紛が起きたかしてC組が優勝しない可能世界はあるだろうから。
つまり、上記の文章は、「加藤君や休まなかったということとそれに伴う最小限の変更のみを現実世界に施すと、その結果として得られるどんな世界でも、C組が優勝した。」ということが、言いたいことの趣旨であるはず。
なので、反実仮想は次のように定義される。
Pならば、Qであるはずだ(P □→Q)
≡ Pが成り立っている諸可能世界のうち、
現実世界に最も類似した諸世界をとれば、
そのすべての世界において、Qが成り立っている。
Pならば、Qかもしれない(P ◇→Q)
≡ Pが成り立っている諸可能世界のうち、
現実世界に最も類似した諸世界をとれば、
その中には、Qが成り立つ世界が少なくとも一つある。
そうしてこのあと、p□→QやP◇→Qを中心に据えた同心円状の図が示されている。最初よくわからなかったのだけれど、本文といっしょに考えていたら、ああ、そういうことかと納得した。
現実世界を中心に置いて、その周りに無数の可能世界をちりばめた図を描く。現実世界によく似ている世界ほど近くに置き、似ていない世界ほど遠くに置く。Pが成り立つ世界だけをそうやって並べていき、一番内側の同心円にくる諸世界だけが世界の全部だとすると、Qが必然的に真であれば、P□→Qであり、Qが可能であれば、P◇→Qとなる。
図では、P□→Qを中心とした同心円状の図において、中心のすぐ外側を囲む8個の世界がすべて「P,Q」となっている。そのひとまわり外側には「P,〜Q」という世界がある(いくつか存在する)としても。
一方、P◇→Qを中心とした同心円状の図では、中心のすぐ外側を囲む8個の世界のうち、3個だけが「P,Q」で、あとは「P,〜Q」となっている。
つまり、wouldとmightの間には次の関係が成り立つことがわかる(図より先に、この説明がある)。
P□→Q ≡ 〜(P◇→〜Q)
P◇→Q ≡ 〜(P□→〜Q)
このあと、世界どうしの類似性についての記述が続き、最もふつうに重視される種類の類似性は、世界の間の色や形の類似性でもなければ幸福度や不幸度の類似性でもなく、法則の類似性というものだ、という話になっていく。
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様相論理
2023-07-18T12:58:37+09:00
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様相と量化/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(2)
三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んでいる。
前回、Pが必然であることの記号□Pと、可能であることの記号◇Pを使って、お互いの関係を示すことで対称のパターンを感じることができた。
同じように対称のパターンを感じるこ...
前回 、Pが必然であることの記号□Pと、可能であることの記号◇Pを使って、お互いの関係を示すことで対称のパターンを感じることができた。
同じように対称のパターンを感じることができるものとして、いわゆる量化子がある。「すべての」を表す「∀」と、「少なくとも一つある」を表す「∃」の記号。
主語をx、述語をFで表すことにして、述語Fを「赤い」とすれば、次のようになる。
「すべてのものが赤いということは、赤くないものはないということである」
→ ∀xFx ≡ 〜∃x〜Fx ……[1]
「赤いものがあるということは、赤くないということがすべてのものに言えるわけではないということである」
→ ∃xFx ≡ 〜∀x〜Fx ……[2]
なるほど、前回の(1)(2)と同様に、お互いの記号を「〜」ではさめば「≡」で結ばれる。そうなると、前回の(3)(4)と同様に、
〜∀xFx ≡ ∃x〜Fx ……[3]
〜∃xFx ≡ ∀x〜Fx ……[4]
となって、記号「〜」と∀、∃を入れ替えた形になっている。
ということは、「様相と量化は実は同じことではないのか?」という考えが生じうることになる。「∀」や「∃」といったお馴染みの記号で様相が表現できるのであれば、確かに便利かもしれない(←私の表現)。
では、様相文はいったい何を量化している文なのか?
必然性、可能性とはおよそあらゆる種類の物事のあり方について言われる一般的な様相ですから、量化の対象は一般的に世の中、つまり「世界」だと考えたらどうでしょう。
(第1章 第2節)
必然的真理をあらゆる可能な世界における真理、可能的真理を少なくとも一つの可能な世界における真理と捉えたら、どうなるか、ということのよう。
この洞察は、17世紀後半、ライプニッツによって初めて明確に述べられたという。
ある世界aで命題Pが成り立つ(Pが真である)ことを、ちょうどPを述語のように用いてPaと表すと、必然的な命題とはあらゆる世界が持っている性質、可能な命題とはある世界が持っている性質と考えられるので、
□Pは ∀wPw
◇Pは ∃wPw
と書ける(wは世界を表す変項)。
一方、この現実世界という世界が存在していることが私たちにはわかっているので、現実世界を@と名指すことにすると、@はwを埋める定数(定項)の一つの候補となり、
∀wPw → P@
P@ → ∃wPw
〜P@ → 〜∀wPw
〜∃wPw → 〜P@
と表すことができる。
つまり、「何々は可能である」という漠然とした文を、「何々が真であるような可能世界がある」というふうに解釈して、現実世界における可能性を、可能世界における現実性へと読み替えるということらしい。なるほどー。
可能世界は一個二個と数えられる単位として純粋に量的な集合を作るので、とらえがたい質的な様相文を扱いやすい量的な量化文に翻訳できたことになる。
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様相論理
2023-07-16T13:06:00+09:00
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様相論理をのぞいてみる/三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学』(1)
まだ宿題は残っているのだけれど、インド論理学や仏教について考えることを少しお休みして、次は、三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』をのぞいてみることにした。1997年版を加筆・修正して、第7章が書きおろされた2017年版。
石飛本...
石飛本が「ブッダすごい!龍樹すごい!大好き!」感、満載なら、こちらは「分析哲学すごい!大好き!」感をまとった導入となっている。ソーカルの名前を出して、フランス系ポストモダン哲学を、あるいは「論理的でない」哲学をほんのりディスったうえで(←私の印象)。
1997年という時期を考えるとそういうことになるのかもしれない。なお、直後ではないので「教訓も忘れられ」という書き方がされている。
しかし、そのあたりに今回はかまっていられない。そういえば結局触れるところまでいかなかったのだけれど、石飛本にはゲーデルの不完全性定理の話が出てくるところがある。こういう概念を(その人から見れば)不用意に使われることを見逃さない読者にとってはひっかかるところかもしれないが、私の場合こちらもそれどころではなかったので、結局、言及するまでにはいたらなかった。
(ただ、ゲーデルが持ち出されていることが適切かどうかはおいといて、考えたい大切な問題が扱われている感じはした。)
三浦さんのこの本を選んだのは様相論理を少し知っておこうと思ったからであり、Amazonで検索して見つけたのだったと思う。論理学全体の本はあれこれあっても、様相論理だけにしぼってタイトルにこの言葉を含んでいる本は、意外に少ないと感じた。
様相とは何かといえば、必然や可能、偶然などの概念を指す言葉であるらしい。というか、そういうものを表すものとして様相という言葉が使われていると現時点では理解している。
三浦さんのこの本の本文中には出てこないが、英語でいえば modal logic となり、この modal はいわゆるモードと語源を同じにする言葉なのではないかと推測して少し調べたのだが、それっぽくはあるけど、はっきりとはわからなかった。
なお、神に関する思弁のことも書いてある。
歴史的な部分を割愛して先に進むと、必然であること、可能であることの記号が出てくる。Pが必然であることを□P、可能であることを◇Pとすると、必然性と可能性の関係は次のように表せる。≡は、左辺と右辺の真偽が一致するという記号、〜は否定の記号。
「ある事柄が成り立つことが必然的であるとは、その事柄が成り立たないことが可能でない(=不可能である)ことである。」
□P ≡ 〜◇〜P ……(1)
「ある事柄が成り立つことが可能であるとは、その事柄が成り立たないことが必然的ではないことである。」
◇P ≡ 〜□〜P ……(2)
(1)と(2)は、ちょうど□と◇を入れかえた形になっているし、それぞれの左右をみれば、お互いの記号を「〜」ではさんだ形になっている。言葉で表現するときとは見え方が少し変わるのが、面白い。
さらに、(1)と(2)の否定は、
「ある事柄が成り立つことが必然的でないとは、その事柄が成り立たないことが可能であることである」
〜□P ≡ ◇〜P ……(3)
「ある事柄が成り立つことが不可能であるとは、その事柄が成り立たないことが必然的であることである」は、
〜◇P ≡ □〜P ……(4)
と示せる。やはりそれぞれを左右で見れば、「〜」と記号□、◇が入れかわっている(二重否定律が成り立つとしたら、そういうことになるよな、と思える)。とにもかくにも対称のパターンがあることが感じられる。
なお、偶然についての記号▽も出てきており、「Pは偶然である(▽P)」は以下のように定義されている。
▽P ≡ ◇Pでしかも◇〜P
別の言い方で言えば、
▽P ≡ ◇Pでしかも〜□P
なるほど確かに、偶然とはそういうことかもしれない。ただし、▽の記号はことあと出てこないもよう。さしあたり重要なのは、先ほど示した(1)〜(4)であるらしい。なお、□と◇を使った別の表現も、あと4通り示されている。左辺が右辺のための十分条件であること(右辺が左辺のための必要条件であること)を表す記号「→」を使った以下の4つ。
□P → P
P → ◇P
〜P → 〜□P
〜□P → 〜P
(※ この文章の中で、「……」のあとかっこつきの数字を使ったのは、こちらでつけた記号。本の中では箇条書きのようにして、丸付き数字がつけられている。)
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様相論理
2023-07-15T13:03:57+09:00
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『文芸教育』97号(2012年)を購入した理由/西郷甲矢人→石飛道子の矢印を追う
このたび、新読書社から出ている『文芸教育』97号(2012年)を購入した。
西郷甲矢人さんが石飛道子『ブッダの優しい論理学』を紹介しているのを知ったから。知ったからというか、自分で調べていきついた。
『文芸教育』は文芸教育研究協議会の本であり、この...
西郷甲矢人さんが石飛道子『ブッダの優しい論理学』を紹介しているのを知ったから。知ったからというか、自分で調べていきついた。
『文芸教育』は文芸教育研究協議会の本であり、この会の会長を西郷甲矢人さんのお父様が務めていらした。2012年当時はご存命だったので、97号は「編集責任 西郷竹彦」となっている。2017年に他界されている。
教師にならなかったとはいえ、割と教育に近い人生を送ってきたはずなのに、はずかしながら私は西郷竹彦さんのことを存じ上げていなかった。
西郷甲矢人さん経由で西郷竹彦さんのことを知った時期に、教育全般に詳しい立場にある人に「最近、こういう本を読んでいてね、この西郷甲矢人さんって方のお父様は有名な方らしくてね……」という内容のことを話したら、「西郷文芸の?」と少し驚いたように答えていたので、なるほどやはり有名な方なのだとあらためて思ったしだい。
なお、私が西郷甲矢人さんの文章に初めて接触したのは、『圏論の歩き方』においてだったと記憶している。そこに仏教の因果関係の話が出てくるのを読んだとき、「こんなところで仏教の話を出して大丈夫かな……」と思ったものだった。しかしその後、『圏論の道案内』にて、西郷さんの仏教に対する関わり方は半端なものじゃないと知った。
また、『〈現実〉とは何か』の感想を書いた頃 は、西郷さんの仏教話の出典が石飛道子さんの本に偏っていることが気になっていたが、その後、逆にそちらのほうがいいと思うようになった。仏教の専門家として言論活動をしているわけではない西郷さんにとって、仏教本の複数の出典は、むしろ読者の混乱のもとになると思ったので。
とはいえ、ちょっとしつこいくらい石飛さんの名前が出てくるなぁとも感じていた。
西郷甲矢人さんが関係している本を何冊か読むと、「石飛道子を読まなくちゃならんのだろうか?」という気になってきますよね? >諸氏
私の場合は特に、西郷甲矢人さんに出会うまえに仏教に興味をもっていたので、石飛道子さんのことは気になっていた。
しかも、『圏論の歩き方』や『圏論の道案内』の場合は、石飛さんの名前が出されている理由もわかるけれども、『圏論の地平線』にいたっては、第14章の「圏論生活者」という言葉は石飛さんの「仏教生活者」からもってきたという、(重要といえば重要だが)ただそれだけの情報として石飛さんの名前が出されていると私は感じた(何か読み落としている可能性もあるけれど)。表現をいただいているので、発想元として書いておかなければならないことはわかるけれども。
なお、石飛さんが語る「仏教生活者」がなんなのか、私はまだ把握していない。「とにかく僕は推してるんだ!!」というメッセージが、そのメッセ―ジだけが、西郷さんが関わる本を読むたびに伝わってくる。
という状況のなか、他のきっかけ(Twitterでのやりとり)も重なって、今回、桂紹隆さんの本でインド論理学を少しのぞいたのち、石飛道子さんの「ブッダ論理学」に取り組むことになったのだった。
ちなみに、石飛道子さんの本を読もうとしたのは今回が初めてではない。2020年6月に、『「空」の発見 ブッダと龍樹の仏教対話術を支える論理』(2017年)を購入している。が、読めなかった。タイミングがあわなかったからかもしれないし、もしかすると私は、基本的に石飛さんの文章と相性がよくないのかもしれない。
次は、2023年1月に、『構築された仏教思想 龍樹 あるように見えても「空」という』(2010年)を購入した。こちらはわりと読めた(全部読んだかどうかは覚えておらず)。「龍樹って面白いなぁ」という感想をもった覚えがある。
そしてこのたびようやく、「ブッダ論理学」に言及している石飛さんの本を読むことになったのだった。“ようやく”といまなら言えるわけだけれども、こうなってみてあらためて『圏論の歩き方』p.208の脚注をのぞいてみると、「え、こんなことが書いてあったっけ!?」と、ちゃんと読んでいなかった自分を思い知るような記述があることに気づく。
[14]この定式化を「ブッダの公式」とよび,その論理の解明に尽力されているのが哲学者石飛道子氏です.数え切れないほどの議論におつきあいくださった石飛氏に感謝します
時期から考えても、西郷甲矢人さんが石飛道子“推し”になったことと「ブッダ論理学」は関係していると思われる。また、「数え切れないほどの議論」を経たうえで、ことあるごとに石飛道子さんの名を本に出しているのだから、きっと実のある議論だったはず。
そんなこんなで、西郷さんが推しているので、私は石飛道子さんの本を読もうとしたわけだが、それはとりもなおさず、私が西郷さんのことを信用していればこそだと言える。
西郷甲矢人さんが書くことはなんでもかんでも信じるという意味ではなく、「西郷さんが見えているもの、見ようとしているものが、私が見たいものに近いのではないか?」という意味で、道しるべ、トンネルのような存在に勝手にしている。
ところがその西郷甲矢人さんが推している石飛道子さんの言葉が、どうにも私には沁み込んでこない。もちろん、いただけるものはあるのだが、首を傾げることも少なくない。
逆にいえば、自分が信頼している西郷甲矢人さんがものすごく推している方の本でも、依怙贔屓せずに読めるらしいということを、このたび確認する機会となった。「期待していたぶん、厳しめになったのでは?」という見方もあるかもしれないが、それはない気がしている。
とにもかくにも、石飛道子さんの本にある程度触れたいま、西郷さんは石飛さんの議論のどこに感動したのかということを知ることが、自分にとってのヒントになるかもしれないと思い立ち、『文芸教育』97号を購入したのだった。
で、無事に到着し、該当の文章を読んだ。
感想をひとことで言うと、「ああ、もう、『〈現実〉とは何か』を読んでしまっているしなぁ……」となる。違うタイミングで読んでいたら違う感想を持っていたことだろうと思う。
というわけで、次につながるヒントはつかめなかったのだけれど(何が書いてあるかを確認できたことはよかった)、思っていたこととは別の何かを少し拾ったようにも感じている。
それは、「縁起」理解についての、ごくうっすらとした違和感のようなもの。西郷さんの文章に対してではなく、あらためて部分的に読んだ『ブッダの優しい論理学』に対して。縁起の宿題に取り組む 前の感覚を思い出すような感じ。
もしかするとこれは「相性」の問題ではなく、実は仏教について、私は石飛さんと(ひょっとすると西郷さんとも)何かが違っているのかもしれない。
サンスクリット語もパーリ語もまったくわからず、経典を読んだこともなく、仏教本も現代のものをちょろちょろっと読んだだけの自分なので、私のほうが仏教を理解できていないというのは明白だと言える。
しかし問題は、正しいとか正しくないとか、理解が深いとか浅いとか、そういうことではなく、まさに、仏教に何を問うのか、という、そこだと思う。
あともうひとつ。
『圏論の歩き方』の西郷さんの参考文献の欄に、「念頭に置いていた本は,……」として、 Lawvere and Schanuel(1997)が出されていることにあらためて気づき、心の中で「あっ」と声が出てしまった。2009年に第2版が出たことも書いてある。
まさに、取り組みたかった論文と講演原稿/インド論理学と圏論 で「必読だと思うが手が出ない」と書いた、あの文献。
やはり必読だということを再確認した。が、引き続き手が出ない。
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その他
2023-07-13T10:31:58+09:00
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龍樹とニヤーヤ学派の関係(2)/桂紹隆『インド人の論理学』から
前回、石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』をもとに龍樹とニヤーヤ学派の関係を見ていったが、次は桂紹隆『インド人の論理学 問答法から帰納法へ』の「第四章 帰謬法――ナーガールジュナの反論理学」を読んでいきたい。なお、この本ではナーガールジュナの表記がとられ...
前回、石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』をもとに龍樹とニヤーヤ学派の関係を見ていったが、次は桂紹隆『インド人の論理学 問答法から帰納法へ』の「第四章 帰謬法――ナーガールジュナの反論理学」を読んでいきたい。なお、この本ではナーガールジュナの表記がとられているが、前回と統一させるために、龍樹と書くことにする。
まず面白い(興味深い)のは、龍樹解釈について、“谷間ごとに違った「ことば」を話すと言われるチベット高地のように”、研究する人が違えば、その数だけの解釈があると言っても過言ではないその状況が、具体的に示されていること。
(以下、それぞれの研究者にとっての龍樹)
=====
ロシアの偉大な仏教学者シチェルバツコイ(1866〜1942)
→ 新カント派的絶対主義者
ポーランドの早世したインド学者シャイエル(1899〜1941)
→ 神秘的懐疑主義者
インドの仏教学者ムルティ
→ 不二一元論派ヴェーダーンタ的絶対主義者
桂紹隆さんの師であるワーダー
→ イギリス経験論的反形而上学者
スリ・ランカ出身の仏教学者カルパハナ
→ 論理実証主義者
晩年のマティラルなど、最近の一部の研究者
→ デリダ流のディコンストラクショニスト(脱構築主義者)
=====
確かに、なんか、すごい。
また、不慮の事故で亡くなったカナダ出身の仏教学者ロビンソンや、現在の最も指導的な中観仏教研究家であるルエッグのように、インド哲学と西洋哲学を安易に比較したり、同一視したりすることに批判的な人々もいるという。
さらに、龍樹を一種の虚無主義者とする理解は、昔だけではなく現代の研究者の間にも見られるという。
つまり、龍樹研究は混迷をきわめているということになろうかと思う。石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』でもそのことに触れてあった(p.256〜258)。
そういう龍樹研究の状況があるということは興味深いが、桂さんいわく「このように長くて複雑な研究史があるナーガールジュナに関して、インド論理学をテーマとする本書が、屋上屋を重ねるような議論をする気持ちは毛頭ない」とのことだし、私自身もいまはそこを考えたいわけではないので、先に進むことにする。
知りたいのは、桂紹隆『インド人の論理学』のなかで龍樹とニヤーヤ学派の関係がどういうふうに論じられているのかということ。まずはp.166の中で、「それにしても、なぜナーガールジュナがニヤーヤ学派の勃興にある種の危機意識をもって、徹底した批判を展開したのか、……」と書いてある。
石飛本の場合だと、龍樹が先でニヤーヤ学派があとのように読めるけれども、「勃興にある種の危機意識をもった」のが、ニヤーヤ学派の前段階を指しているのか、ガウタマの反撃を指しているのか、よくわからなかった。
『中論』の主要論敵は「説一切有部」だと中村元『龍樹』に書いてあるし、桂紹隆さんも『中論』に限定せずに、龍樹の批判の主な対象は「説一切有部」と考えている(p.171)。また、説一切有部のアビダルマは、ヴァイシェーシカ学派の影響を強く受けたことが想像されるということも書いてある(p.173)。
ナーガールジュナの仏教外の論敵は、だれよりもヴァイシェーシカ学派であったはずである。したがって、彼とほぼ同時代に、ニヤーヤ学派がヴァイシェーシカ学派の自然哲学を補塡する論理学派として登場してきたとき、大きな危機意識を抱いたのではないだろうか。
(p.177)
となると、前回の石飛本のチャラカとのつながりはどうなるんだろう?という疑問がわいて再びわいてくる。いずれにせよ、論争には時間の幅があったのだろうと現時点では理解している。
同一テーマに関するパラレルな議論が、論争当事者のそれぞれの論書に記録されているということは、インド思想史上でも稀なケースである。
(p.178)
このあと60ページ近くにわたる内容をがっさり省略して結論部分に進み、なぜ「反論理学」という言葉がサブタイルにあるかという点について確認しておきたい。
龍樹がニヤーヤ学派の論理学を徹底的に批判した理由の解釈については先ほど書いたけれども、その龍樹はといえば『ヴァイダリヤ論』の冒頭で、「論理の知識にうぬぼれて論争したがる者がいるが、その慢心をたつためにヴァイダリヤを説こう」と言っているらしい。(p.177)
龍樹の批判の論法は、議論の仕方のなかでも「論詰」と呼ばれるものであり、本質的には帰謬法的な議論の仕方だった。一方、ニヤーヤ学派は、龍樹の帰謬法による論詰の一部を「誤った論難」と呼んで、正しい論証とは見なしていないのだとか。
結論として、ナーガールジュナは反論理学的であったが、その論法そのものは非常に論理的であったと言えよう。
(p.236)
(↑前回書いた、なるほどなオチ)
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インド論理学と仏教
2023-07-12T13:54:00+09:00
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龍樹とニヤーヤ学派の関係(1)/石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』から
次は、石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』にもどり、龍樹とニヤーヤ学派の関係についてのぞいてみたい。なお、石飛さんは、もともとニヤーヤ学派の研究を専門とされている方のよう。
今回の私の読書の大きな動機のひとつとして、ニヤーヤ学派の主張に慣れるという...
今回の私の読書の大きな動機のひとつとして、ニヤーヤ学派の主張に慣れるということがあった。なので、まずは桂紹隆『インド人の論理学 問答法から帰納法へ』でニヤーヤ学派に少し触れたのだった。以下、タイトル中の『インド人の論理学』の文字を省略してリンク。
(3)/ニヤーヤ学派の知識手段
(5)/ニヤーヤ学派の知識の対象と解脱論
(6)/インドの論証形式――五支論証
(7)/「迷いのある理由」(決定性をもたない理由)
(10)/「九句因」と「十六句因」
(11)/ニヤーヤ学派のウッディヨータカラの主張「内属関係」
石飛さんの本にも、もちろんニヤーヤ学派の話は出てきており、たとえば『ブッダ論理学五つの難問』ではこんなことが書かれてある。以下は、p.13〜15の要約。
=====
龍樹のいた頃は部派仏教の時代であり、仏教の教義の多くの註釈文献が生み出された。しかし、緻密に研究されればされるほど、ブッダの教えそのものからかえって遠く離れていく結果になってしまったと龍樹は考えた。さらには、バラモン教系統の医学書などの中には、仏教的な思想や概念を常識として取り込んで、それを自分たちの説であるかのように説くものも出ていた。このような状況のなか、龍樹は「正しい仏法」を広めようと一念発起する。
龍樹は、批判対象となる部派や他学派の教説にほんのちょっとだけ手を入れ、もじったりしながら、それを使って自分の教説(=論法)を作り上げた。それが、『方便心論』である。論理学について語る論理を記述した、メタ論理学の本。
自分たちの教説を引用された人々は、すぐ自説が好き放題にねじ曲げられて自分たちの教説とはまったくちがう説明に用いられていることに気づいた。自説をねじ曲げられたと感じたのは、カニシカ王の侍医を務めたと言われているチャラカという人物、あるいはその系統の医学派の者たち。
彼らの中にひとり、天才龍樹に匹敵するほど知恵の優れた人物がいた。アクシャパーダ、別名ガウタマ。彼は龍樹の説いた論理学をすべて解明した上で、その優れた論法を吸収しながら自説を完全に立て直し、『方便心論』に対して反撃に転じた。
この反撃が『ニヤーヤ・スートラ』という論理学書であり、インド伝統を自負する論理学派ニヤーヤ学派の始まりである。
=====
また、p.74〜75ではこんなことも書いてある。そもそも石飛道子さんがブッダの教えを説く阿含経典の中に論理学が存在すると本気で考えたのは、『ニヤーヤ・スートラ』とその註釈『ニヤーヤ・バーシャ』を読んでいて、非常に文の形式が整っていて表現形式が定まっているということに気づいたことが発端らしい。論証を扱わないふつうの文章にも、表現の形式に特別の配慮がなされている、と。
そのことはずっと気になっていて、その後『方便心論』を研究するようになり、その表現様式や形式化は『方便心論』の強い影響によることが明らかになってきたとのこと。さらに、その『方便心論』は非常に注意深く阿含経典の表現を真似していることもしだいに明白になっていった、と。こうして、かなりの確信をもって「ブッダが論理学をもっている」と予想したのだという。
なるほど、そういう流れだったのかと、いままで疑問に思っていたことのヒントが少し得られた。というのも、これまで龍樹にあてはまると思っていたあることが、実はニヤーヤ学派にあてはまるらしいという話を耳にしたから。
その時点では「そうか、ニヤーヤ学派か」と思っただけだったのだけれど、その後少し調べてみて、龍樹とニヤーヤ学派は対立していたらしいことを知り、「あれ?」となってしまっていた。ニヤーヤ学派の話は記録をとっていなくて記憶の中にあるだけなので、聞き間違いの可能性も考えられる。しかし、上記のような流れがあるのなら、ない話ではないと思えてくる。
ただ、桂紹隆さんは『インド人の論理学』の中で、「第四章 帰謬法――ナーガールジュナの反論理学」という章を設けている。つまり、ナーガールジュナについて「反論理学」という言葉があえて副題に取り入れられている。なので、そちらの話も聞かねばならない。なお、この章の終盤まで読むと、なるほどなオチがある。
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インド論理学と仏教
2023-07-11T12:11:24+09:00
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「ブッダ論理学」の真理表を全体的に眺めてみる
石飛道子『ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道』の前半と、後半の一部を読んできた。残りの部分(たっぷり2章分)は龍樹の解読・理解となっているので、ひとまずここで、「ブッダと龍樹の論理学」を全体的におさらいしておくこととしたい。
結局、真理表をもとに考...
結局、真理表をもとに考える「ブッダと龍樹の論理学」とはなんなのか?
まずは、それぞれの真理表が何に対応していたかを俯瞰する。
真理表1(TTTT)……「第一義諦」のみ。「一切智者」。
真理表2(TTTF) ……「世俗諦」のみ。排他的ではない「または」。
真理表3(TTFT) ……「世俗諦」のみ。縁起。
真理表4(TTFF)……〈これ〉と真理値が同じにつき、該当なし。
真理表5(TFTT) ……「世俗諦」のみ。縁起。
真理表6(TFTF)……〈かれ〉と真理値が同じにつき、該当なし。
真理表7(TFFT) ……「世俗諦」のみ。縁起。
真理表8(TFFF)……「世俗諦」と、間接的に「第一義諦」。
「そして」(時間の入った「かつ」)。
真理表9(FTTT) ……「世俗諦」のみ。苦・楽・不苦不楽?
(楽・苦・不楽不苦と書くべきか?)
真理表10(FTTF) ……「世俗諦」と、間接的に「第一義諦」。
排他的な「または」。
真理表11(FTFT)……〈かれ〉の真理値の否定につき、該当なし。
真理表12(FTFF)……真理表5の否定につき、該当なし。
真理表13(FFTT)……〈これ〉の真理値の否定につき、該当なし。
真理表14(FFTF)……真理表3の否定につき、該当なし。
真理表15(FFFT) ……「第一義諦」のみ。中道。
真理表16(FFFF) ……「第一義諦」のみ。四句分別。
真理表2、8、10は、西洋論理学や日常生活にも出てくる普通の接続詞なので(時間概念を入れるにせよ入れないにせよ)、「ブッダと龍樹の論理学」に特徴的なものだとは言えない。また、真理表9については、私は疑問を持っている。
その他、排除されている真理表も多く、結局、自分にとって意味のありそうな真理表は、縁起に関わる3、5、7と、仏教らしさを感じる1、15、16ということになる。
もっとも、真理表1、15、16については、「はたして真理表を使うことに意味があるのだろうか? それで理解が深まるのだろうか?」という疑問が生じてくる。
ということは、私にとって真理表が意味をなしたのは、縁起についての見方が少し変わった3、5、7の3つという結論になる。
縁起は仏教にとって最重要事項と言ってもいいと思うし、自分にとっても重要なので、これだけでも十分といえば十分だったかもしれない。
さらに、真理表3、5、7だけを取り上げて論じられても「?」となるところなので、全体を示したうえで、縁起は真理表の一覧のなかではここに位置するよ、こういうふうに解釈できるよ、としてもらったのもよかったかもしれない。
同じ意味で、真理表1、15、16が全体のなかでどこに位置するかを示してもらったのも、わるくなかったと思う。
とはいえ。
全体として、真理表をもとに考えるこの「ブッダと龍樹の論理学」に対して、「恣意的だ」という印象を私はもった。考え方や表現がぶれているところが多く、何かとストレスフルな読書になっている。
つまり、「ブッダと龍樹の論理学」を貫く1本の太い芯のようなものを私は感じられず、真理表を使うことで「一切」を感じることもできていない。
さらに、私がどんな疑問をもったとしても、「それはあなたが西洋論理学に侵されているからだ」と言われそうな萎縮感、“暖簾に腕押し感”をだんだんと感じるようになったことも否めない。
と。
ネガティブな感想をたくさん書いたけれど、もちろん、そういうことがしたくて石飛さんの本を読んでいるわけではない。また、今回はいろいろ過去形で書いたが、まだこの本に関する思考が終わったわけでもない。
いくつかの宿題が残っており、さて、どこから手をつけようかと考えている。
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仏教と論理学
2023-07-08T08:56:45+09:00
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「世俗諦」と「第一義諦」/石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』から
石飛道子『ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道』を読んでいる。
今回は、いままでずっと触れずにきた「世俗諦」と「第一義諦」の違いについて、おおまかなことだけ見ておくことにしたい。
「世俗諦」と「第一義諦」という2つの真理、つまり「二諦(にたい)」...
今回は、いままでずっと触れずにきた「世俗諦」と「第一義諦」の違いについて、おおまかなことだけ見ておくことにしたい。
「世俗諦」と「第一義諦」という2つの真理、つまり「二諦(にたい)」は、普通に仏教用語だと私は理解している。「世俗諦」がその名の通り世俗の真理、「第一義諦」は最高の真理だ、と。
石飛さんはp.64において、「この二つの用語は、ブッダ論理学独自の論理用語でもあり、思想の用語でもある」と書いている。仏教用語なので思想の用語なのはいいとして、論理用語でもあるということはどういうことだろうか。
おそらく、この2つの用語をもとにブッダ論理学は構築されている、あるいは解釈されるということなのだろう。
必要な基本情報は、次のとおり3つであるという。
二つの真理にもとづいて、諸々のブッダの法の説示がある。世俗の真理(世俗諦)と第一義の真理(第一義諦)とである。(『中論』二四・八)
これら二つの真理の区別を知らない者は、ブッダの教説の深淵な真実義を知らないのである。(『中論』二四・九)
言語の慣用によらずには、第一義は説き示されない。第一義に到達しなくては、涅槃は獲得されない。(『中論』二四・一〇)
(p.64)
このうち3つめに注目すると、石飛さんは次のように述べている。
「世俗諦」は言語習慣にかかわるが、「第一義諦」は涅槃にかかわるということである。「第一義諦」を知るためには、「世俗諦」の言語活動を通さなくてはならない。しかし、涅槃にかかわる「第一義諦」そのものは、言語にかかわらないことが暗示される。以上が、龍樹の解釈である。
(p.65)
先の引用部分だけを考えたとき、3つめの文章でそこまで言ってるかな?という素朴な疑問がわく。後半はいいとしても、「言語の慣用によらずには、第一義は説き示されない」をどう捉えるか。素直に読むと、言語習慣がかかわるのは第一義諦であるように思うのだが(違和感はあるけど)。
第一義諦の前段階として世俗諦があるので、第一義諦にいたるための世俗諦は言語習慣にかかわり、そして、第一義諦そのものは、言語にかかわらないと理解すればいいのだろうか?
なお、上記は龍樹の解釈(の解釈)であり、石飛さんいわく、『中論』はあきらかに「ブッダの法」の註釈として書かれているので、この2つの真理についてブッダも何か語っているはずだ、と。このあたりの話は十二支縁起につながっていき、別の事柄とあわせてゆっくり考えなければいけない事態になっているので、今回は割愛することにする。
そもそも、この本の第一章のサブタイトルは「世俗諦の論理学 縁起・四聖諦」、第二章のサブタイトルは「第一義諦の論理学 中道・四句分別」となっているのだった。つまり、世俗諦と第一義諦に分けてブッダ論理学が語られている。
そして、p.77の《表4》において、16通りの真理表の中で「世俗諦」の論理学と「第一義諦」の論理学がそれぞれどこに現れているかが一覧表としてまとめられている。当初はスキャンして載せる予定だったのだけれど、著作権的にだんだん気になってきたので(この本に載っている図を全部載せる勢いになっているので)今回は控えることにした。
「世俗諦」の論理学は、真理表2、3、5、7、8、9、10を用いており、前半に集中している。「第一義諦」の論理学は、真理表1、15、16を用いており、8と10は間接的に用いられるとしてかっこ書きで示されている。
つまり、「第一義諦」ならではの特徴的な真理表は、1、15、16ということになる。このうち16は最初に取り上げた「四句分別 」、15は「中道 」に対応する。真理表1は本の後半(p.248〜251)で出てきていて、「一切智者」に関わる話になっている。
なお、「真理表の後半は仏教世界」とのことだが、11〜14は結局出てこない。さらに、4と6も出てこない。4と6が出てこないのは、〈これ〉と〈かれ〉の一方の真理値のならびと同じであり、2つのことがらの組み合わせとして語ることにはならないから、ということのよう。(p.78、132)
真理表11と13については、それぞれ真理表6と4の真偽をいれかえたものであり、つまり〈これ〉や〈かれ〉の真理条件を否定したものなので、実際の世界では活用されないとのこと。(p.132)
真理表12と14は、それぞれ真理表5と3の真偽をいれかえたものであり、3はブッダの論理学のなかでもっとも大事な「縁起」の関係を表したものだし、5はそれをみちびくための重要な関係を示しているので、これを否定する関係は、ブッダの世界ではありえない、と。(p.132〜133)
そうなると、真偽を入れかえているのに登場している真理表1と16、2と15、7と10、8と9はどういうことになるんだろう……?というふうに、再び素朴な疑問が生じるのだった。
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仏教と論理学
2023-07-06T10:46:31+09:00
tamami
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