TETRA’s MATH2024-03-15T15:52:13+09:00JUGEM連鎖状の知性/上野修『スピノザの世界』(8)http://math.artet.net/?eid=14227152024-03-15T15:19:22+09:002024-03-15T06:19:22Z2024-03-15T06:19:22Z 上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回書いたように、P「原因→結果」、Q「原因→結果」、R「原因→結果」、……を少しずつずらしながら3段に並べ、Pの結果がQの原因、Qの結果がRの原因と縦にイコールでつなげられた図がp.119に載...tamami上野修『スピノザの世界』
前回書いたように、P「原因→結果」、Q「原因→結果」、R「原因→結果」、……を少しずつずらしながら3段に並べ、Pの結果がQの原因、Qの結果がRの原因と縦にイコールでつなげられた図がp.119に載っている。
これを簡略化すると、「…… P → Q → R ……」 と表せ、「観念の観念の系列が並行するから、正確には、こうだろうか」として、
…… P → Q → R ……
…… P´ → Q´ → R´ ……
と示されている。ここも、もしあるのなら3段階めまで示したあと、さらに続く「……」も加えてほしかった気がするが、もしかしたらそれはないのだろうかとだんだん不安になってきた。
しかし、「実際には連鎖はこんな直線でなくて、事物の秩序と連結と同じように枝分かれしたり合流したり、相当複雑なことになっているだろう」ということなので、あまり並行のイメージを強めるのもよくないのかもしれない。
その全体が一挙に、無限知性として出てきている、とスピノザは考える。スピノザの神はこんなふうに観念連鎖の細部に遍在し、いたるところで知覚を生じている。そこには全体を高みから俯瞰する「神の視点」みたいなものはない。あるのは、いわば無限平面をびっしりと這(ルビ:は)い回る連鎖状の知性だけなのだ(第1部定理31)。
(p.121)
そして、アフェクチオ(affectio)、コルプス(corpus)という言葉が出てくる。
前者は「変状」の意味であり、たとえば自動車に何かが当たってへこみ傷が付くようなことをスピノザはこう呼んだらしい。
後者はラテン語で、物体、身体を指す言葉であり、つまりはこれらに区別がないということ。
自動車についた傷がなぜそういう付き方になっているかを思考が理解するには、衝突物体と自動車との両本性が前提になる。われわれも同じで、われわれの身体Aがほかの物体Bから刺激されて変状aを自らのうちに生じる。
そしてこのaの認識は身体Aと物体Bの両方の認識に依存しかつこれを含む。
ということに関して、「身体A」の観念と、「物体B」の観念が結ばれて「身体Aの変状a」の観念へと矢印が向かう図が示されている。
神の無限知性の中に生成している「身体の観念」、それがわれわれが魂だとか精神だとか言っているものの正体である。
(p.122)
そんなこんなでデカルトの心身合一の問題は解決されてしまうということのよう。身体と精神のあいだの不可解な結合を想定しなくても、ちゃんと心身合一が説明できてしまうから。
ただ、そうなると、「物体B」の観念になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか。スピノザはそれも認めるだろうと上野修さんは書いている。
これが、スピノザの万有霊魂論につながるらしい。
]]>自分の疑問「入れ子の連鎖なのか?」/上野修『スピノザの世界』(7)http://math.artet.net/?eid=14227142024-03-08T14:50:00+09:002024-03-08T05:56:11Z2024-03-08T05:50:00Z 上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回、スーパービーンという言葉で説明されている状況を見てきたが、無限知性の中にある「人間身体の観念」も、「しかじかの人間のこのような個体特性を内容としていると考えられる」とのこ...tamami上野修『スピノザの世界』
前回、スーパービーンという言葉で説明されている状況を見てきたが、無限知性の中にある「人間身体の観念」も、「しかじかの人間のこのような個体特性を内容としていると考えられる」とのこと。
その観念がその人間の「精神」だとはどういうことかを考えるにあたり、再び「半円が回転→球」が出てくる。以前見たように、「半円が回転」は「近接原因」であり、「半円が回転」という思考がなければこの観念は理解不能だし、逆に、「半円が回転」という思考があれば、その思考は必然的に「半円が回転→球」という理解にすすむことになる。
つまり、
「半円が回転」→「半円が回転→球」
ということ。
もし、アニメーションで説明するのであれば、「半円が回転」をまず示し、これは近接原因で単独では意味がないので、すぐに「→球」が浮かび上がるというイメージなのだろうと私は理解している。そして、最終的に画面には「半円が回転→球」とだけ示されており、これが球の真なる観念である、と。
一方、このプロセスを静止画で示すとなると、「半円が回転」から、「半円が回転→球」へ移行するような図が必要になろうかと思う。つまり、「半円が回転」→「半円が回転→球」だ、と。
これに対して、p.118の本文中に
P→Q (思考Pが観念Qを理解し・結論している)
という図式が示されている。
このあたりから私は少し困ってくる。
Pが「半円が回転」なのはいいとして、Qは「球」なのだろうか、「半円が回転→球」なのだろうか。
文章の流れからすると、Q「半円が回転→球」と考えるのが自然であるような気がする。
ところが……というか、さらにというか、このあとで 「原因→結果」の「結果」が次の「原因」とイコールになり、「原因→結果」が少しずつずれながら3段重なっている図が示されていて、それとは別にP「原因→結果」、Q「原因→結果」、R「原因→結果」、……という記号がつけられた図もあるのだ。
単に記号が重なっているだけの話で、文脈にしたがって読みかえていけばいいのかもしれないが、ただでさえ少し難しい話なので、やや混乱してしまっている。
そもそも、「半円が回転」は言葉というより文章であり、「球」は文章にはなっていない。「球ができる」とすれば文章になるけれども、「球ができる」ということが何かの原因になるのだろうか? あるいは、「半円が回転することで球ができる」ということが何かの原因になるのだろうか?
もし、P「原因」→Q「結果」のQが「半円が回転→球」なのだとすると、次は「「半円が回転→球」→……」という形になり、これが延々と繰り返され、どんどん膨らんでいくということになりそうな気がするが、そういう理解でいいのだろうか?
というか、連鎖というものは結局そういうことだろうか?
なんだか、仏教の十二支縁起のことや、「風が吹けば桶屋が儲かる」を思い出したりしている。
また、『インド人の論理学』(8)/「不可離の関係」(XなしにYがあることはない) とも少しつながりそうな話だと思った。とにもかくにも上記の私の困り事には包含関係と連鎖という2つのことがらが関わっていそうだということは感じるのだった。]]>スーパービーンしている/上野修『スピノザの世界』(6)http://math.artet.net/?eid=14227132024-02-27T15:42:28+09:002024-02-27T06:42:28Z2024-02-27T06:42:28Z 上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回見たように、「台風A」と「「台風A」の観念」は、同じ台風Aの異なる表現なのだった。
台風を生じさせる神の力能と、台風を知る神の力能とは、厳密に同等で並行しており、一方が他...tamami上野修『スピノザの世界』
前回見たように、「台風A」と「「台風A」の観念」は、同じ台風Aの異なる表現なのだった。
台風を生じさせる神の力能と、台風を知る神の力能とは、厳密に同等で並行しており、一方が他方に先立つということはない。
つまり「神あるいは自然」は、あらかじめ考えてから「よし、実行だ」というふうにはなっていないのである(定理6の系と定理7の系)。
(p.112)
並行論といっても、2本の平行線ではなく、思考と延長以外にも互いに並行する無限な属性は無限に多くある。
同じ事物xが、全属性にわたって同一の秩序と連結で、属性ごとに異なる仕方で表現される。
A属性、B属性、C属性、……の事物xの表現をAx、Bx、Cx、……として、これらについての観念を「Ax」、「Bx」、「Cx」、……とかぎかっこでくくって示し、観念「Ax」についての観念もあるわけなので、これを『「Ax」』というふうに示すと、次の図のようになる。
(p.114)
個人的には、「観念の観念の観念」や「観念の観念の観念の観念」はあるのだろうか?という素朴な疑問がわき、もしあるのなら3段階めくらいまで示してほしい気がした。ちなみに、もしあるのならばかっこの種類が足りなくなるか、かっこが重なってしまうので、「´」を使って示したくなるところ。実際、これよりもう少し先で「´」が出てくる(ひとつついているだけだけど)。
とにもかくにも、
すべての観念がその対象と一致するような、絶対かつ唯一の真理空間。その別名がスピノザの「神」なのである。
(p.114)
ということらしい。
なお、p.115では、前回の「台風」を「人間身体」に置き換えた図も載っている(「同じ台風の…」のところは、「同じ人間の…」となっている)。
そして、この先でスーパービーンという言葉が出てくるのだった。スピノザの用語としてではなく、現代風に言い換えた言葉として。ここも、昔読んだときにとても印象に残ったところだった。
「併発」というかっこ書きがついており、電光掲示板の例で説明されている。発光諸部分が一定の協同パターンを呈するとそこにメッセージがスーパービーンするように、と。
さらに、下位レベルの構成所部分のそれぞれにも同じことが言える。
こうしてスピノザは、物質延長の全面が無数の階層を持った無限に多くのいわば個体特性で覆われていると考える(補助定理7の備考)。銀河も地球も猫も台風も人間も、すべて個体である限り、そうした局所的にスーパービーンしている個体特性にほかならない。
(p.117)
少し調べてみたところ、スーパーヴィー二エンスという言葉は、哲学(特に心の哲学)でよく使われる言葉らしく、その場合は「付随性」という訳語があてられるもよう。]]>同じ猫、同じ台風の異なる表現/上野修『スピノザの世界』(5)http://math.artet.net/?eid=14227122024-02-19T12:16:15+09:002024-02-19T03:16:15Z2024-02-19T03:16:15Z 上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
今回から、「4 人間」に入っていく。まずおさえておくのは、「デカルトの残した問題」。
1つめは「観念」について。デカルトの言う「観念」はあくまで「私の精神」の思考様態なので...tamami上野修『スピノザの世界』
今回から、「4 人間」に入っていく。まずおさえておくのは、「デカルトの残した問題」。
1つめは「観念」について。デカルトの言う「観念」はあくまで「私の精神」の思考様態なので、主観的な思いがどうして思考の外にあるものと一致できるのかという問題。
もう1つは、いわゆる「心身合一」について。思考(何かの考えになっていること)と延長(物質的広がりになっていること)は共通点がないので、精神と身体が一つになっているという状態を考えようとしてもできないという問題。
上野修さんによると、『エチカ』第2部「精神の本性および起源について」は、2つの問題の答えになっていると思われるとのこと。「図らずも」と書いてあり、勝手に動きだしたスピノザの証明機械が、いわばついでのように問題を解消してしまうということのよう。
スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならないらしい。ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まねばならない、と。
だれの持っている観念かということはさしあたりどうでもよい、じっさい、だれが考えるかでころころ変わるような真理は真理とは言わない、ということも書いてある。なるほど、そう言われれば確かに。
スピノザの説明をわかりやすく解説した内容がp.109で図にまとめられており、要は、「猫A身体」と、「「猫A身体」の観念」は、同じ猫Aの異なる表現ということらしいのだ。
同じような図がp.111でも出てくる。こちらは台風Aを例にとった説明であり、昔読んだときにとても印象に残ったところだった。
2つの図をあわせたものを、こちらで描き起こしてみた。
ここから、有名なスピノザの「並行論」が出てくる。
台風を存在させ・作用させている無数の物理的な原因をわれわれはすべてたどることはできないが、自然の方ではすべてたどりきって現に台風を存在させている。
そして、原因があるということは説明があるということであり、われわれには無理でも、自然の方ではなぜその台風がそんなふうに存在しているかの説明が尽くされていて、現に台風の存在が結論されている。
この結論が、台風についての「真なる観念」であり、自然の中に台風の真なる観念が生み出され、猛威を振るう台風と「同じものの異なった表現」になっている。
自然の中に思考があるというのは変な感じがするが、われわれだって自然の一部である。われわれに思考があるのに自然にはないと言う方が実は変なのである。
(p.111)
]]>様態化と無限知性/上野修『スピノザの世界』(4)http://math.artet.net/?eid=14227112024-02-14T10:56:00+09:002024-02-14T02:04:25Z2024-02-14T01:56:00Z 上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
「3 神あるいは自然」の締めくくりとして、スピノザが様態化を具体的にどう考えているかの説明があり、それまとめた図が載っているので、それについて考えていきたい。
神の無数にあ...tamami上野修『スピノザの世界』
「3 神あるいは自然」の締めくくりとして、スピノザが様態化を具体的にどう考えているかの説明があり、それまとめた図が載っているので、それについて考えていきたい。
神の無数にある属性のうち、われわれ人間に知られているのは「延長」(物質的広がりであるという性質)と「思考」(何かの考えになっているという性質)の2つであるとして、話は始まる。
(なお、「デカルトの問題」については次の章で扱われている。)
延長属性ではまず「運動と制止」という根本規則が出てくること、「直接無限様態」「間接無限様態」という言葉がかっこ書きで示されていることなどの詳細はおいといて、いまおさえておきたいのは次の一節。
さて、属性はおのおのが同じ神の本質を表現するのだった。だから思考属性でも同じプロセスでなければならない。われわれ人間の知っている思考属性、つまり考えになっているという性質は、すべて物質的な世界についての思考か、その思考についての思考のいずれかである。
(p.101)
まず物理法則の理解(直接無限様態)が出てきて、そこから法則に従って変化しながら同一に留まる宇宙全体の理解(間接無限様態)が必然的に出てくると考えられる、ということのよう。
スピノザが「無限な知性」と読んでいるのは、無限様態化したこの思考属性のことであるらしい。
本に出てくる図の一部を省略して、改行位置をかえたり色をつけたりして、こちらで描き起こしてみた。
(どこかで見た構図だなぁ!と思ってみたり)
実際には、「全宇宙のありさま」の下に、
(猫・台風・戦争…)
「「全宇宙のありさまの」知」の下に、
(「猫」観念・「台風」観念・「戦争」観念…)
という言葉が書いてあり、その下に縦書きのイコールで「無限知性」が結ばれている。
猫や台風や戦争は宇宙の一部分として出てきている。同じ必然性で「猫」観念、「台風」観念、「戦争」観念が神の無限知性のどこかに一部分として出てきている。猫と台風と戦争は出てきている限り、互いに無関係でなく、みな法則に従った物理的因果関係の網目の中で存在と作用へと決定されている。そしてその決定の必然性を無限知性は「原因→結果」の「→」であまねく感じている、というわけだ。
(p.102)
なお、「これはたんなる機械論的な決定論ではすまされない考えである」ということと、「「ある」ことの全域のどこにいも「自由意志」が現れないということに注目しておきたい」ということも記されているのだった。]]>神は制作者ではない/上野修『スピノザの世界』(3)http://math.artet.net/?eid=14227102024-02-08T11:13:00+09:002024-02-08T02:16:04Z2024-02-08T02:13:00Z 上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。
前回、「神は無限に多くの属性から成り立っている」図を示し、「なぜこんなことが言えるのか? について、次で考えていきたい」と締めくくったはいいが、ここで生じる疑問も含めていろいろ...tamami上野修『スピノザの世界』
前回、「神は無限に多くの属性から成り立っている」図を示し、「なぜこんなことが言えるのか? について、次で考えていきたい」と締めくくったはいいが、ここで生じる疑問も含めていろいろ解説してあっても、すんなり納得できるような内容とは言い難い。
ただ、こんなふうに捉えればいいのかな?と個人的には考えた。まず、「神」という言葉をいったん忘れてみる。前回見たようにちゃんと言葉で定義してあるのだけれど、それでもやはり「神」という言葉にはいろいろなイメージがともなってしまうので、本にあるように「X」で考える。
そして、とりあえずA属性、B属性、C属性、……を全部持っている実体Xを考えてみる。そんなものがあるのか?ではなく、そんなものがあると考えてみる。
とにかく、そういうXを考えると、「在るということのすべて」について説明する定理を導ける。そのXが、神だ、と。
本に書いてあるように、「怪人二十面相みたいなもの」と考えればいいのかもしれない。
完全に納得したわけではない状態ではあるけれど、なるほどなぁと思ったのが、例の「→」が出てくること。
説明的理解は「半円が回転→球」のように理由ないし原因からの必然的な帰結という形で与えられ、「→」の必然性が感じられていなければ「球」を理解したことにはならないのだった。
いま、「何かが存在する」ことを理解するには、下の図のAの形が必要となる(A、Bの記号はこちらでつけたもの)。そして、神の存在証明は、Bの仕方でこの説明を与える、ということらしいのだ。「X=神というものを考えると、Xは必然的に存在する」というふうに。
うまいこと言いくるめられた気もしないでもないが、面白い発想だなぁと思う。
で、結局どういうことになるかというと、「個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一定の仕方で表現される様態、にほかならない。(定理25の系)」ということになるのだ。
つまり、「猫も台風もわれわれもいわば神の色つやみたいなものになってしまいそうだ」ということ。
当時のふつうの考えでは、世界は神がつくったということになっていた。ところがスピノザでは、「つくる」という言葉が完全に消えている。神はつくらない。事物に様態化し、変状するのだ。
(p.97)
三角形を三角形にしている「本質」を定義すると、そこから必然的に「三つの角の和が二直角に等しい」という三角形の「特性」が出てくるように、神的実体の本質の必然性から、様態が「出てくる」。
神を制作者のように考えているあいだ、人は「つくろうと思わなければつくらないこともできたのに、神はどうしてこんな世界をつくったのか? いったいそれは何のためか? どうすればわれわれはその目的にかなうことができるのか?」と問うてきた。ここから神学ははじめから解ける見込みのない思弁に迷い込む。
スピノザの答えは、単純明快である。神は制作者ではない。(中略)スピノザはこういう神の自己必然的な様態化を「自由」と呼んでいた。
(p.99)
スピノザの考え方って、きらいじゃないなって思う。
]]>神は無限に多くの属性から成り立っている/上野修『スピノザの世界』(2)http://math.artet.net/?eid=14227092024-02-01T11:58:00+09:002024-02-01T02:58:26Z2024-02-01T02:58:00Z 上野修『スピノザの世界』の図が示されている部分を中心に読んでいる。次は、「3 神あるいは自然」について。いよいよ『エチカ』に入っていく。
『エチカ』は説明の体系であり、理解できなければ説明ではない。理解は「半円が回転→球」というふうに理由ないし原...tamami上野修『スピノザの世界』
『エチカ』は説明の体系であり、理解できなければ説明ではない。理解は「半円が回転→球」というふうに理由ないし原因によって与えられ、「→」の必然性が真理の規範だった。
とすれば、途切れない「→」だけで全部ができているような説明が望ましい。そんなやり方があるだろうか? ある。お手本はユークリッドの『幾何学原論』である。
(p.76)
(ちなみに、以前、『エチカ』も購入して手元にあったのだが、どうにもこうにも読めそうになく、その後、手放したのだった。)
p.79では、丸々1ページ分使って第1部の定理証明の導出の様子が示されている。定理、系が複雑な矢印でつながれており、この本の中でいちばん図らしい図だと言える。
なので、図が出てくるところを中心に取り上げるのなら、こここそ取り上げるべきところなのかもしれないが、定理の導出の図がこうなることはわかる(こうなるだろうと思える)ので、特に扱わずに先に進むことにする。考えたいのは、この先に出てくる実体と属性の図。
まず、p.87で以下のような文字列が図として出てくる。
A属性の実体(唯一・自己原因・永遠・無限)
B属性の実体(唯一・自己原因・永遠・無限)
C属性の実体(唯一・自己原因・永遠・無限)
・
・
・
次に、p.89では、上記の文字列が絶対値記号のように左右の縦線で括られ、右側に「実体X=神」と書かれてある。
さらに、以下のような図が出てくる(本からスキャンしたもの)。
(p.90)
先に図を示しているのでなんのことやら……だけれども、つまりは次のようなことらしい。
まず、スピノザは「実体」なるものについての定理を導出する。「実体」「様態」「属性」の定義を確認しておくと、以下の通り。
「実体」とは、それ自身のうちにありかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。(定義3)
「様態」とは、実体の変状、すなわち他のものの内にありかつ他のものによって考えられるもの、と解する。(定義5)
(p.81〜82)
「属性」とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。(定義4)
(p.82)
「(あくまで)さしあたり」として、リンゴが例にとられている。リンゴは「実体」、リンゴを他の果物から区別できる手がかりとしてのリンゴ性みたいなのが「属性」、そして、同じリンゴもいろいろ色つやが変わるので、それを「様態」とする、そういうイメージ。
そして、定義と公理のセットのうちのいくつかかから、「実体」についての定理 ――「唯一性」「自己原因と永遠性」「無限性」―― が導かれる。それぞれ詳しく理由が書いてあり、まあ、ここはとりあえずある程度納得できるといえば納得できる。
ひっかかるのは、「神」の定義。
「神」とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのが永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体、と解する。(定義6)
(p.88)
個人的には、なんだか定義のなかにすでに結論が含まれているような気がして、「それってあり?」とは思うけれども、とにかく定義なので「なぜ?」とは問えない。
しかし、本に書かれてあるように、『エチカ』は一種の実験であること、よい定義かどうかは定理の導出の首尾いかんにかかっているということ、神の定義に形容詞だけではなく形容される実名詞を使っていることなどは、「ふむふむ」と思える。
で、先ほどの定理から、最初に示したような図のA実体、B実体、C実体が考えられる。さらに、A属性、B属性、C属性、……を全部持っている実体Xを考えると、これが神になるというのが2番めの図となる。さらにそれを図式化したのが3番めの図ということになろうかと思う。
なぜこんなことが言えるのか? について、次で考えていきたい。]]>必然性は「→(矢印)」で感じられている/上野修『スピノザの世界』(1)http://math.artet.net/?eid=14227082024-01-27T11:40:50+09:002024-01-27T02:40:50Z2024-01-27T02:40:50Z というわけで、上野修『スピノザの世界』で、図が出てくるところを中心に読んでいきたい。前々回と前回は準備ということで、ここから番号をつけていくことにする。
ちなみに、図表番号のない、本文中の簡単な言葉と矢印の組み合わせなども、自分のなかでは図とカウ...tamami上野修『スピノザの世界』
ちなみに、図表番号のない、本文中の簡単な言葉と矢印の組み合わせなども、自分のなかでは図とカウントされているものがある。
最初に図とカウントしたものは、まさに本文中にある言葉と矢印の簡単な組み合わせであり、横書きで示すと次のようになる。(ア)、(イ)、(ウ)の記号はこちらでつけたもの。
(ア) 半円が回転すると球が生じる
(イ) 半円が回転 → 球
(ウ) 原因P → 結果Q
ここは何をしているところかというと、「知性に何ができてしまっているか」を考えているところ。
観念、すなわち何かについての思考は、それ自体で見ると一種の「感じ」だとスピノザは言っている。われわれは真なる観念がある種の必然性の知覚だということを見てきたが、この必然性は思考のどこのあたりに感じられているのだろう。
(p.60〜61)
たとえば球の概念を形成するために「半円が中心の周りを回転してこの回転から球がいわば生じる」とすると、この観念は、自然の中でそんなふうにして生じる球体が一個も存在しなくても、もちろん真である、と。
それを簡略化したのが上記の(ア)であり、もっと簡略化すると(イ)となり、一般化して書くと(ウ)となる。
必然性はこの「→」のところで感じられているということらしいのだ。
以下、本に書いてあることを、私の理解と表現で図にまとめてみた。
近接原因Pは、「好き勝手な」虚構、想定ではあるが、非常に単純な観念からできているので、この虚構自体を別なふうに勘違いする余地はない。
しかし、「好き勝手に」虚構できてしまう、というのはやはり不安な感じがするし、こういう能力は、好きなだけ「無際限に」拡張していけるものではないとして話は続く。
そのことに関するスピノザの文章の中に「知覚の蝕(defectus)」という言葉と、「切断され欠損が生じた(mutilatas quasi et truncatas)」という言葉が含まれている。
「→」だけでは何のことかわからず、あくまで「半円が回転→球」という完全な姿をした「球の概念」の中で「→」の必然性が感じられるようになっている。
「半円が回転→球」から、「半円が回転」だけが残るとすると、この観念は偽となる。半円が回転する必然性は何もないのだから、そのときわれわれは「半円」の概念の中に含まれてもいない「回転」を肯定し、なんで回転しているのかわけもわからずクルクル回転する半円を夢見ている。
これが「知覚の蝕」、「切断され欠損が生じた思考」とスピノザの言っている事態ということらしい。
]]>上野修『スピノザの世界』の読みたいところを読む準備(2)http://math.artet.net/?eid=14227072024-01-21T11:50:56+09:002024-01-21T02:50:56Z2024-01-21T02:50:56Z 上野修『スピノザの世界』の読みたいところを読む準備をしている。次は「2 真理」の前半〜真ん中部分について。
目標が定まったなら、当然、探求の方法が必要となり、『知性改善論』では前回のような内容のあと、最後まで「方法」の話になっているとのこと。
...tamami上野修『スピノザの世界』
目標が定まったなら、当然、探求の方法が必要となり、『知性改善論』では前回のような内容のあと、最後まで「方法」の話になっているとのこと。
たしかにスピノザは「方法」について語っているのだが、印象として、話がすすめばすすむほど「方法」はその役目を終えつつあるように見えてしまうのである。
(p.42)
前回も書いたように、スピノザの言う「方法」とは、たどるべき「道」のことだった。もし人がはじめから素直に真理の規範に従う幸運に恵まれていたなら方法は不要であっただろうとも言っているらしい。しかし、そういうふうにはなっていないので、方法というプロセスがどうしても必要になるのということのよう。
さて、その方法だけれども、方法を考えているとたちまち無限背進に陥るとスピノザは指摘する。「ちゃんとした方法が発見されるまで真理について確かなことは何も言えない」という仮定がどこか間違っている。真なる観念の存在が、真と言えるための規範を方法に与えるのであって、その逆ではない。
方法は、真理から自生するのである。
(p.46)
「真」という言葉は事物の性質ではなくて、もともと「語り」について言われる言葉である。語られることがそのとおり実際に起こったのなら真であり、もし起こらなかったのなら偽。
スピノザはこの「対象との一致」を、観念が真であると言えるための「外的標識」と名付ける。
しかし、観念は一致する対象が存在していなくても真になれるし、一致しているからといってただちに真だというわけでもない。
優秀なエンジニアがある装置を設計して、その装置について完璧に説明できるとき、その装置がまだ現実に存在していなくても、今後存在することがないとしても、その装置の観念はやはり「真」というべきではないか。
逆に、Aさんについてろくに知りもしない人が「人物Aは存在する」と語り、そして実際にAさんが存在しているとした場合、その心中の語り、観念は、真と言えるか。
とすれば、真であると言えるための標識は、思考の外にあるものとの関係ではなく、むしろその思考そのもののの内になければならない。スピノザはそういう内部にある何かリアルな標識を「内的標識」と名付ける。
まだまだいろいろ書いてあるのだが、だいたいこのくらいの準備をしておけば、読みたいところを読んでいけそうなので、先に進んでいきたい。]]>上野修『スピノザの世界』の読みたいところを読む準備(1)http://math.artet.net/?eid=14227062024-01-17T14:21:00+09:002024-01-18T01:20:39Z2024-01-17T05:21:00Z というわけで、出会ってからすでに10年以上たつ、上野修『スピノザの世界』。
全然読み込めていないのに、この本のことが時折気になるのはどうしてだろう?とあらためて考えてみたとき、とてもシンプルな答えが出た。
図がけっこう出てきていて、その図に興味...tamami上野修『スピノザの世界』
全然読み込めていないのに、この本のことが時折気になるのはどうしてだろう?とあらためて考えてみたとき、とてもシンプルな答えが出た。
図がけっこう出てきていて、その図に興味を持っているのだ。ほとんどが、言葉と矢印・線分からなる簡単な図なのだけれど、なんだか惹かれてしまう。
というわけで、図(本文中にあっても、私の中で図とカウントされているものという意味での図)が示されている部分を中心について考えていくことにした。ただ、やはりそこだけ読むとわけがわからないので、「1 企て」と「2 真理」の前半部分から、ざっと読んでおきたい。
今回は、「1 企て」について。
まず、『知性改善論』の冒頭部分が引用されており、上野さんいわく、スピノザはこの未完の論文を、どうやら『エチカ』の入門に仕立てようとしていたらしいとのこと。とはいえ、解説書のようなものを期待するなら、完全に外れだとも書いてある。
『知性改善論』の正確な題名はもっと長くて、そこに「道」という言葉が含まれている。これこれこういう道に関する論文、というふうに。
道の役割は目的地の解説や説明ではない。間違いなくそこへ連れていくことだけだ。
(p.21)
「私はいかに生くべきか」という一人称の倫理的な問いを、その強度はそのままに、非人称の世界にまで運んでいく道。それが『知性改善論』ということになる。なにしろ『エチカ』は倫理学。
で、スピノザは冒頭部分で「私はついに決心した」と書いており、何を決心したのかひとことでいえば、純粋享楽を求めることの決心。
詳細は割愛して先に進むと、「目的とは衝動のことである」という項目に入っていく。
ふつうわれわれは、目的がまずあってその達成に努力するというふうに考えるけれども、スピノザは『エチカ』で、こういう文法を逆転させる。まず衝動がある。そしてこの衝動に駆られるからこそ、われわれは自分が目的に向かっているのだと思い込む、と。
まず、スピノザの言う「衝動」は、それ自体としては目的と何の関係もない。石ころであろうと雨粒であろうと馬であろうと人間であろうと、何かある事物が一定の時間、それでありそれ以外のものでないというふうに存在するとき、そのようにおのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが「努力」(コナトゥス conatus)と呼ばれるものである(スピノザの大変重要なジャーゴンなので覚えておこう)。
(p.33〜34)
そうしてこのあと、「最高善」「真の善」が定義される。
「最高善」[最高によいこと]とは、「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本性」を享楽することである。それも、自分一人でなく、できる限り他の人々と一緒に。
「真の善」[ほんとうによいこと]とは、いま言ったことに到達するための手段となりうるものすべて、である。富も名誉も快楽も、この手段となりうる限りにおいてなら「よいこと」、善である。もちろん妨げになるならすべて悪い。
(p.37〜38)
この最高善の実現が、究極の目的となる。]]>上野修『スピノザの世界』との出会いをふりかえるhttp://math.artet.net/?eid=14227052024-01-14T11:17:00+09:002024-01-14T05:00:49Z2024-01-14T02:17:00Z 前回書いたように、『荘子』の「物化」について考えていたら、久し振りに上野修『スピノザの世界』が開きたくなった。
直接つなげて考えるのはいまは無理だという結論になったものの、『荘子』のこととは別に考えたい気持ちがふつふつと。
というわけで、この...tamami上野修『スピノザの世界』前回書いたように、『荘子』の「物化」について考えていたら、久し振りに上野修『スピノザの世界』が開きたくなった。
直接つなげて考えるのはいまは無理だという結論になったものの、『荘子』のこととは別に考えたい気持ちがふつふつと。
というわけで、この本との出会いと、少しふりかえってみることにしたい。
2012年夏、とある展示を観た帰り道で、書店にて買ったと思われる。どうやら(國分功一郎さんの)『スピノザの方法』と勘違いして買った可能性が高い。
本の重量感からして全然違うだろうに(上野修『スピノザの世界』は新書)、おそらく著者の知識もないまま、「スピノザの〇〇」というタイトルに惹かれて、なんとなく買ったのだろう。
ちなみに、購入当時の様子は「スピノザからのシンクロニシティ」という非公開記事に記録している。それよりも前に、近藤和敬『カヴァイエス研究』の第5章を読むには、なんらかの形で一度スピノザに触れておかなければ無理だと感じていたらしく、いろいろタイミングが重なったらしい。
読み始めにおいては、宮元啓一『わかる仏教史』のはしがきを思い出したもよう。仏教にたいしてアカデミックな態度を貫く宮元啓一さんが、自分はアニミストだと書いていることを。なお、Amazonのページで、「スピノザが禅僧のようにもみえてくる」というフレーズを含んだレビューがあったので、それを読んで「私はむしろ」という感じで書いている。
また、「神即自然」(Deus seu Natura)という言葉に対しては、上野修さんが「身も蓋もない、無気味な存在露呈といった感じのするもの」と書いている、その「身も蓋もない」感じは、なぜか『エチカ』を読む前からもうわかった気分になってしまう、というような感じだったらしい。
さらに、カヴァイエスに関する以下の文章のことも思い出したとのこと。前者は自己展開の話として。後者は、『エチカ』の259にのぼる定理をどうやって組み立てていったのかという話に付随して。
「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考
メタ数学と形式主義のプログラム、なぜかサントリー「山崎」
加えて、神の「様態」の話のときには、量子力学(について過去に書いた自分の記事)を思い出したもよう。
そんなふうにいろいろなことを思い出しながら読んでいくうち、スピノザに対して「よくこんなことやったよなぁ、世の中にはいろんな人がいるもんだ」なんて思っていたのが、だんだんとその人のことが嫌いじゃなくなっていくというか、言っていること・やったことに同意するという意味ではなくて、その人の言っていること・やったことを肯定したくなる気分になるというのか、なんだか知り合いみたいに思えてくるようになったというのが、第2印象だったらしい。
ちなみにわが家では、何人かの著名人を、勝手に自分との関係性で比喩して語ることがあるのだけれど、そのなかでスピノザは「友だち」ということになっている。
https://twitter.com/tamami_tata/status/1599655979217727489]]>『荘子』について、やり残していること/仏教、他者論、スピノザhttp://math.artet.net/?eid=14227042024-01-04T13:40:15+09:002024-01-04T04:40:15Z2024-01-04T04:40:15Z 中島隆博『荘子の哲学』と、玄侑宗久『荘子』をおもな参考文献として、『荘子』のことを知ろうとしてきた。まだ考えたいことがいくつかあるのだけれど、ここらでいったん一区切りにすることにして、何をやり残しているかをメモしておこうと思う。大きく3つある。
=...tamami『荘子』
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1.『荘子』と仏教の関係
『荘子』と仏教の関係について、ひとまずの概観の中で、
中島隆博『荘子の哲学』では、ある概念について突っ込んだ議論が展開されているので、後日、ゆっくり見ていくことにする。
と書いたけれども、「ある概念」とは何だったのか、自分でよくわからなくなってしまった。おそらく、第I部・第二章に「仏教と「万物斉同」」という項目があるので、このことを指しているのだと思う。
ここはいわゆる格義仏教から始まる話で、森三樹三郎『老荘と仏教』が参照されており、森三樹三郎の理解する「万物斉同」が仏教の「空」に基づいていることなどが示されている。
「斉同」についてある程度考えてきた現段階においては、それほど突っ込んで読んでいきたいところでもなくなってしまった。
また、「仏教の中の『荘子』」という項目では、「神滅不滅(しんめつふめつ)論争」が扱われている。身体と精神(魂)の関係をどう考えるかについて。ここも、いまはいいかな、という感じでいる。
禅宗とのつながりも考えたいけれど、またの機会にということで。
2.他者論
中島隆博『荘子の哲学』第II部・第四章は、「『荘子』と他者論――魚の楽しみの構造」となっており、ここもできれば考えたいところだった。
「魚の楽しみ」をめぐる恵子と荘子の論争は、これまで触れてきた『荘子』の話のなかで、私がいちばん(いまのところ唯一?)もやもやする内容だと言える。考えようとすると、わからなくて息苦しささえ感じるし、なんか論理学でビシっと整理してほしくなるのだ。
なので、少しがんばってみようとはしたのだが、やっぱり今は無理だという結論が出たしだい。
なお、「他者」については、他にも考えたいことがあるのだった(一つの区分のなかでの他者と、「物化」としての「他者化」)。
3.スピノザについて
「物化」について考えていると、スピノザの並行論について考えたくなり、久し振りに上野修『スピノザの世界』を引っ張り出してきて開いていた。が、『荘子』とつなげて考えるのはなかなか難しいという結論にいたった。
なお、中島隆博『荘子の哲学』の第I部で、スピノザが出てくるところはある。近代中国哲学の馮友蘭(ふうゆうらん)と、現代のフランス語圏におけるジャン゠フランソワ・ビルテールに関連して。
ビルテールのほうは少し興味があるけれども、私が考えたいことのど真ん中ではなさそうなので、とりあえず今回は割愛することにした。
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以上、3点、何かまたぐるぐるしたあとにもどってくるかもしれないので、そのときに考えようと思う。
]]>『荘子』の「物化」と、ある一つの区分されたあり方http://math.artet.net/?eid=14227032023-12-29T13:15:52+09:002023-12-29T04:15:52Z2023-12-29T04:15:52Z 前回、『荘子』の「物化」と時間について、自分の疑問点を書いてみたけれど、とはいえ、中島隆博『荘子の哲学』の「世界の変容」の解説は面白いと思う。
以下で引用するが、これは、福永光司の言う命題――あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆ...tamami『荘子』前回、『荘子』の「物化」と時間について、自分の疑問点を書いてみたけれど、とはいえ、中島隆博『荘子の哲学』の「世界の変容」の解説は面白いと思う。
以下で引用するが、これは、福永光司の言う命題――あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆくところに、真に自由な人間の生活がある。絶対者とは、この一切肯定を自己の生活とする人間にほかならないのだ――は、やや変更した形で理解されなければならないとして示されたもの。
つまり、人間の自由とは、与えられた境遇をただひたすら「逞しく肯定してゆく」というよりも、今現在のあり方(ある一つの区別されたあり方)を絶対的に肯定することによって、そのあり方から自由になり、新しい存在様式(これもまたやはり区別されたある一つのあり方でしかない)と新しい世界のあり方に逢着することにある。
(中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「世界そのものの変容としての「物化」」より)
前回のような時間に関わる疑問を持っておきながら、上記の言葉はなんとなくわかるというか、飲み込めるような気がするのだ。
私は、先の福永光司の言う「肯定」のくだりを読んで、『置かれた場所で咲きなさい』という書名と、南直哉『禅僧が教える 心がラクになる生き方』のなかに「「置かれた場所」で咲けなくていい」」という項目があって苦笑したことを思い出した。>後に「日本」と称される共同体に自前の「哲学」がなかった理由
なお、『置かれた場所で咲きなさい』の中身はまったく読んでおらず、本の主旨はまったく把握しない状態でいる。書名から誤解する可能性も高いので、この本の“中身”ではなく、“書名だけ”を借りさせてもらうことの念を押して話を続けると、上記の「絶対的な肯定」は、「置かれた場所で咲く」こととは、違うのではないかと考えている。
『荘子』のほうは、やはりなんといっても、動的なのだ。躍動的といってもいいかもしれない。特に、中島さんによって変更されたほうは。
前回、郭象が「荘子は死を楽しみ生を悪むというが、その説は誤謬である」と書いていることに触れたが、そのあと次のように中島さんの解説が続く。
その際、郭象が理由として用いたのが「斉同」である。だが、それは、単純に生と死が「斉しい」と言っているのではない。「斉しくするとは、生の時には生に安んじ、死の時には死に安んずることである」と述べられるように、生と死のそれぞれのあり方(「情」)が「斉しい」と言っているのである。つまり、生は死とまったく別の仕方で成立しているが、それぞれが一つの世界を構成している点では同じであるので、生の時には生に徹し、死の時には死に徹すればよいと言っているのである。そして、生に徹していく中で「物化」が生じ、結果的に他なる世界に通じていくのである。
(中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「荘子の「斉同」より」)
徹していく中で、他なる世界に通じていく。今現在のあり方を絶対的に肯定し、新しい存在様式と新しい世界のあり方に逢着する。面白いなぁと思う。
なんだか、忘れかけていた、当初の『荘子』へのイメージを思い出す気がする。
そのイメージというのは、老荘思想って、もう言わないで書いた、「受け身こそ最強の主体性」ということ。
さらに、水泳の名人の身体感覚(やったことはないけど)。>「已むを得ず」の境地と、「しあわせ」の語源
「物化」や「斉同」について突っ込んで考えるうちに、よくわからなくなっていた『荘子』への感覚が、厚みを増してもどってくるような感じがした。]]>『荘子』の「物化」について、時間との関係/自分で考えたこと(その2)http://math.artet.net/?eid=14227022023-12-27T13:39:00+09:002023-12-29T04:16:30Z2023-12-27T04:39:00Z 「物化」は、時間に深く関わってくると思う。
まず、時間軸がないところで完全に同じであれば、「変化」とは言わないのではなかろうか、という疑問がある。
そして、その時間には方向があるのか、事物に対称性・可逆性はあるか、という疑問も生じる。
私...tamami『荘子』
まず、時間軸がないところで完全に同じであれば、「変化」とは言わないのではなかろうか、という疑問がある。
そして、その時間には方向があるのか、事物に対称性・可逆性はあるか、という疑問も生じる。
私自身は、「荘周と蝶」の場合、蝶は荘周を知らないけれど、荘周は蝶を少しは知っているのではないかという立場をとっているが、いずれにせよリニアな時間軸で考えなくていいことだと捉えている。だからこそ回転軸の比喩が使える、と。
一方、人生において、あるいは、生死において、それはどうか。
事物の区別はないとする立場の森三樹三郎が「生きている自分があるとともに、死んでいる自分がある」と言うときは、何か超越的な視点があればわからないでもない。
しかし、区別はあり、「これである時には、あれは知らない」の立場をとる郭象が、「覚夢(かくむ)の区分は、死生の区分と異ならない」と書いていることを、いったいどう考えればいいのか。
というのも、このあと、艾(がい)の国の麗姫が出てくるのだ。以下、郭象『荘子』斉物論篇注の一部を孫引き、( )内はルビ、〔 〕内は中島さんによる補足。
……、一生において、今は後のことを知らない。麗姫がそれである〔艾(がい)の国の麗姫が、晋の献公に連れ去られた当初は涙を流すばかりであったのに、王宮に着き、王と同衾し、うまい肉を食べると、自分が泣いていたことを後悔したという故事〕。愚者は知ったかぶりをして、自分で生は楽しく死は苦しいと知ったつもりでいるが、それはまだ物化の意味を知らないのである。
(中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「世界そのものの変容としての「物化」」より、郭象『荘子』斉物論篇注を一部孫引き)
上記の話を読むと、「麗姫が晋の献公に連れ去られた当初」=「今」=「生」、「後悔した時点」=「後」=「死」と読みとることができる。
今は後のことを知らない、それは確かにそうだと思う。しかし、生の中での変化の場合、「後」が「今」になったとき、「過去」となったかつての「今」のことはわかる。だからこそ、「後悔」が可能になる。
(なお、上記引用部分の少し前に、「死生の変化もこれと別ではなく、心を労するのはその間においてなのだ。」という一文があり、「その間」とはなんなのか、考えあぐねている。)
それにひきかえ、生死の場合は、生きているときには死んだときのことがわからないが、死んだときに生きていたときのことがわかるのかわからないのか、「わかる・わからない」ということがあり得るのかさえ、わからない。髑髏問答はやはりお話なのであり、しかも、髑髏は生の世界を知っているのであり。
生きているときには生の世界に内在し、死んだときには死の世界に内在するということであれば、「胡蝶の夢」とのつながりも出てくるが、そうなると、麗姫の例はあてはまらないのではなかろうかと、私は感じる。
森三樹三郎にしろ、郭象にしろ、「人生は夢であり、夢のなかで死を恐れているが、それはまちがっている」ということになら辻褄があう。しかし、それでは、髑髏問答が古くから生よりも死を賛美していると受け取られるのと同じ受け取り方をしてしまいそうになる。
また、郭象は、「荘子は死を楽しみ生を悪むというが、その説は誤謬である」とも述べているようなのだ(これについては、次回また確認する予定でいる)。
もうひとつ、玄侑宗久『荘子』でとりあげられている、『淮南子』の「人間万事塞翁が馬」のところも読んでみたい。
宗久さんは、「胡蝶の夢」のエピソードは、苦しい「今」に向き合う勇気を与えてくれる考え方でもある、状況が変われば「今」が持つ意味も全く変わるとして、その少しあとで、次のようなことを書いている。( )内はルビ。
親が死ぬということは、悲しくつらいことです。しかし、たとえば親が早くに亡くなって高校に進学できず、就職せざるを得なかった女の子が、その職場でよい男性と出会って結婚し、現在は幸せに過ごしているとします。この場合、親の死はどういう意味をもつでしょうか。彼女はあの時親が亡くならなければ、彼とは出会わなかったはずです。そうなると、死の意味が変わります。親の死は、こんな幸せな現在をつくってくれるきっかけでもあった ――。それは、親が死んで泣いていた自分というものが、夢として思い返される時です。「現実ってこんなに変わるのね」という思いとともに……。
有名な「塞翁(さいおう)が馬」も同じです(『淮南子(えなんじ)』人間(じんかん)訓)。……
(第4章/「万物斉同を可能にする「明」の立場」より)
以下、塞翁が馬の説明が続いている。
宗久さんの言うことはとてもよくわかる。私も、「塞翁が馬」を“辛いときだけ採用したい考え”だと思う。しかし、「塞翁が馬」のポイントは、「よい」ことも「わるい」ことも反転していくところにあるのではなかろうか。
たとえば、上記の女の子の話でいえば、「よい男性」だと思っていた夫が、しばらく暮らしてみたら実はとんでもない男だとわかり、大変なことになったという後日談が加わったとしたら……。そこでまた、親の死の意味が変わってしまう。
そんなふうに、人生の場合は、リニアな時間の中で、非対称的、不可逆的に出来事が起こっていく。そして、過去の記憶が残る。
一般的には上記のように考えてもいいと思われる、一生の中の時間軸をもった「変化」を、『荘子』の「物化」とどう考えあわせていけばいいのか、まだつかめずにいるのだった。
とはいえ、中島隆博さんの解説する「一つの区分されたあり方」の話は面白いし、なんだか少し勇気がわいてくることなので、次で確認しておきたい。]]>『荘子』の「物化」について、回転軸のイメージ/自分で考えたこと(その1)http://math.artet.net/?eid=14227012023-12-20T15:36:29+09:002023-12-20T06:36:29Z2023-12-20T06:36:29Z 前回、枢の話を書いたが、実際の『荘子』では次のような引用文になっている。中島本の『荘子』斉物論篇の引用から一部を孫引きしたもので、( )内はルビ、〔 〕は著者による補足。
彼と是が対をなす概念でなくなるとき、それを道枢(どうすう)と言う。枢〔...tamami『荘子』前回、枢の話を書いたが、実際の『荘子』では次のような引用文になっている。中島本の『荘子』斉物論篇の引用から一部を孫引きしたもので、( )内はルビ、〔 〕は著者による補足。
彼と是が対をなす概念でなくなるとき、それを道枢(どうすう)と言う。枢〔回転軸〕が環の中心にあれば、無窮に応じる。是もまた一無窮であり、非もまた一無窮である。だから、「明を用いるにしくはない」というのである。
(中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「恵子の「斉同」論との違い」より)
同じところが玄侑宗久『荘子』第四章でも抜き出されており、こちらは少し古い文体になっている。最後の「明を用いるにしくはない」は「明(めい)を以(もち)うるに若(し)くなし」で、「明」の立場には及ばないということらしい。
個人的にすごいなぁと思うのは、「無窮」に「一」という数詞がついていること。なお、これよりまえに「一是非」という言葉も出てくる。是と非の組み合わせに数詞がつくというのも、これまたすごい。
宗久さんの本では、引用文を解きほぐした文章のなかで「是も非もそうした無窮の変転のうちの一つにすぎない」と書かれてあるので、この場合、無窮そのものはただ1つであり、その一部であるという「一無窮」という解釈になるのだろうと思う。
一方、中島さんの解釈でいけば、「一無窮」のニュアンスが変わってくる。
で。
このあたりの話からいろいろなことをイメージしているので、このあと自分で考えたことを書いてみたい。もちろん、いまから書くことが“正しい”理解なのかどうかはわからない。『荘子』の解釈以前に、いま参照している本の理解として。とりあえず、『荘子』をほんの少しかじっただけの最初の段階の考えとして記しておこうと思う。
二項対立ということから、とりあえず2つの事物の区別について考える。
宗久さんの解説をもとに考えていたら、見る向きによって別々のものが見える、トリックアートが頭に浮かんだ。たとえば、ある方向からみたら「A」、別の方向から見たら「B」に見える立体物があり、これはAなのかBなのかと問われれば「AでもBでもある」と答えることになろうかと思う。それは一つの立体物なのだから。また、一つの立体物であればこそ面白い現象だと言える。
この場合、見る人のほうが見る角度を変えることもできるし、見る人の位置を固定させてこの立体物を回転させることもできる。そうすると、AになったりBになったりと変化していく。いまは2つだが、もっといえば360度回転させていくうちに、刻々と見え方は変わっていくことになる。しかし、立体物としては「一つ」。
一方、中島さんの解説については、前回引用した中にある「内在」という言葉をキーワードとして、回り舞台のような装置を思い浮かべた。場面Aと場面Bが背中あわせにあり、それが回転することによって、場面Aになったり場面Bになったりする状況。この場合、場面Aと場面Bは異なっている(区別がある)。だからこそ、回り舞台の意味がある。
実際には、観客からすれば、場面Aの裏側に場面Bが用意されていたことがわかるけれども、舞台上にいる人間として場面を「世界」として考えると(その世界に「内在」していると考えると)、世界Aと世界Bは別々のものであり、交わることはない。そして、世界Aにいるときに世界Bのことはわからないし、世界Bにいるとき世界Aのことはわからない。つまり、世界Aと世界Bは別のものであり、それでいて一瞬にして行き来することができる。
『荘子』の“ほんとう”の意味がどうであったのか私には判断のしようがないけれども、上記のようにイメージすると、「区別がある」という考えのほうがしっくりくるし、面白いと感じるのだ。
そもそも、「胡蝶の夢」では、実際に「区別がある」と原文に書いてあるらしいのに、森三樹三郎のように勝手に付け加えちゃっていいの??と素朴に思う。>荘周と蝶の区別はあるのかないのか/中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章(1)
そして、トリックアートの場合でも、Aが見えているときBは見えておらず、Bが見えているときAは見えないから面白いわけであり、どの段階でも「同じ立体の違う側面」だと認識できるのは、「立体物が回転している」とわかっているからだと思う。たとえば、影絵で見せられたらすぐにはわからないかもしれない。そして、立体物だと知るこことができるということは、俯瞰できる超越的な視点を持っているということではなかろうか。
一方で、郭象の読解に対する疑問もある。「まさにこれである時には、あれは知らない」は完全な対称ではないのではないか、という疑問。「胡蝶の夢」の場合、蝶は荘周の世界を知らなくても、荘周は蝶の世界を少しは知っているのではなかろうか。
なお、郭象の注を中島さんの補足を参考にして読むと、荘周は夢で蝶になっていることを目覚めている時に知らない、という解釈になる。(第中島隆博『荘子の哲学』第II部・第三章/「世界そのものの変容としての「物化」」より)
よりにもよって、「胡蝶の夢」の場合、(人間の)登場人物が「荘周」だということもあり、「「荘周が夢を見て蝶となったのか、蝶が夢を見て荘周となったのかわからない」という問いを持ったのはだれなのか」という、ちょっとひねくれたというか、メタな感想を持ってしまうのだ。
そんなこんなで、双方に対していろいろと(面白い)疑問が生じるなか、「物化」について、さらに「時間」とからめながら考えていきたいと思う。]]>