TETRA’s MATH

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一点から生まれる、一点に畳み込まれる

 先日、移りゆくことと多層性のイメージのことを書いたけれども、それとは別に、時々浮かぶイメージとして、「局所から生成される」というものがある。いわば、「一点から生まれる」ようなイメージ。少し前までは、ずっとメインのイメージだった。

 わかりやすくするためフラクタル図形を例にとると、内側へ入り込むようにスケールを変えていけば、結果的に内側から同じものが生まれてくるように見える、その感じに近い。

 生まれてくるのはフラクタル図形のように同じものではなくてもいいというか、同じものではないほうが自然だし、もっといえば、生まれるというよりは、その力、その「もと」のようなものが一点にあるという雰囲気といえばいいか。

 かつて内包量に興味をもったのも、田辺元に一時興味をもったのも、それからもしかすると内部観測に興味をもったのも、そのイメージと関連したことなのかもしれない。

 さらにそのイメージは、「見渡せない」ということともつながっている。

 振り返ってみれば、そこには「俯瞰する教育」に対する違和感も関係していた。ある程度の範囲を見渡せる位置にいる人が、あとあとのことを考えて(考えたつもりで)組み立てたプログラムや発想やそこに重きをおく姿勢で、見渡せない位置にいる人(子ども)が学ぶことの不自由さ、不自然さに対する違和感。

 また、自分の子どもの成長(特に身体的なもの)を感じるとき、「細胞分裂ってすごいなぁ」とよく思う。

 そんなふうに、「一点から生まれる」というイメージは自分にとってベースとなるものだったのだが、『トポスの知』といっても圏論ではなく箱庭療法で話題に出した老松克博『共時性の深層』において、それとは逆の表現に出会って、印象的だった。

 老松さんは、「発達系」「人格系」という分類をしており、発達系の特徴として「今ここ」に集中するということをあげている。なお、「発達系」「人格系」で人をきっぱり分けられるものではなく、人はみなそれぞれの配分で両方の特徴をもっているという、いわば特徴の分類だと思う。

 発達系は、行動が衝動的で、まとまりや一貫性が乏しいけれど、一芸に秀でた天才的な人物も多い、とのこと。極端であれば発達障害になる方向という意味での発達系と考えてよさそう。それに対して「人格系」は、極端であれば人格障害になる方向なのだけれど、ひとまず「普通の常識的な人」と考えてよいかと思う。

 老松さんは、共時性の発生の鍵を「今ここ」への集中に見ておられ、その「今ここ」のありかたには興味深いパラドックスが見られるとして次のように書いてある。

パラドックスとは、「今ここ」しかないがゆえに、過去も未来も、あちらもこちらも、こぞってその一点に流れ込んでくるということである。発達系には永遠と無辺を集めてしまう超越的な力がある、と言ってもよい。
(第四章 5節より)

共時的現象の生起するさまは、時空の痙攣発作にも譬えられる。「今ここ」 という一点に皺が寄るかのように永遠と無辺が集められて畳み込まれていく。そこでは、いっさいがっさいが一つのネットワークを成し、意味の網の目をかたちづくる。
(「おわりに」より)


 私の長年のイメージが「一点から生まれる」だとしたら、こちらは「一点に流れ込む、畳み込まれる」というイメージになる。

 共時性はユングが提唱した概念なので、この本には集合的無意識の話も出てきており、ユングがそれを根茎と譬えたことにも触れてある。竹藪の竹はそれぞれが別の個体であるかに見えるが、地中では相互につながっていて、竹藪全体が一つの個体だったりする、と。

私たち人類は、巨大なたった一つの集合的無意識から生い出て、複雑な網の目で相互につながっている存在かもしれない。
(第二章 2節より)


 根茎の網の目はいわば空間的なものだと感じるが、時間的なものについて「いっさいがっさいが一点に畳み込まれ、そこで意味の網の目をかたちづくる」という網の目の発想はこれまで自分になかったものなので、なるほどねぇと思ったのだった。
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