TETRA’s MATH

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矢印がないからシンクロニシティ

 若いころは、いまよりも比較的よくシンクロが起こっていたような気がする。シンクロといってもユングのシンクロニシティについては知らないので、ひとまず「因果関係がない状況で、関連した出来事がほぼ同時期に起こる」ことをこう呼ぶことにする。(※)

 具体的にどんな出来事だったかは覚えていないし、「よく起こっていた」といってもおそらくそんなにしょっちゅうでもなかっただろうし、いずれにせよ偶然ですまされるようなささやかなことだったろうと思う。ただ、20代くらいの時期に、シンクロが起こってももうあまり驚かないな、という感覚になったことをうっすらと記憶している。

 その記憶が捏造である可能性はゼロではないけれども、とにもかくにも最近は……というか、もう長いことシンクロが起こっていなかった。というか、感じていなかった。

 なので、『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)―― 読み始めで明滅するもの)で書いたように、この夏の始まりでは久しぶりのシンクロに興奮したのだった。

 同時期といっても2か月もの幅があるし、考えようによっては、同時期に起こる複数の出来事のなかに、つながる要素を見出したというただそれだけのことかもしれない。少なくとも今回の場合。

 いずれにせよ、共時的に起こった関連する出来事は、因果関係をもとにした出来事系列ではお互いをつなぐ矢印がないので、そこに意味を見出す表現をしたいのならば、別の軸をセッティングして並列に配置する等のくふうが必要になってくる。別の軸というのは、年月日や時刻などに相当するもの。

 ところで、シンクロについて考えていると、郡司ペギオ‐幸夫『時間の正体』に出てくるデジャブ解釈ことを思い出す。デジャブ体験が成人を過ぎると極端に減ることについて、とある仮説のようなものを郡司さんが示しておられる。発達過程における時間構造の変化の話が「分配束」を使って説明されているのだけれど、「そういうことってあるかもしれないねぇ」と思った私だった。

 自分のデジャブ体験については、もう記憶がふるすぎてシンクロ以上に思い出せない。きっと何度かは経験しているのだろうけれど。何しろいまは「ただたんに忘れていた」という意味のデジャブばかりだから、もう本物のデジャブ体験は無理のような気がする。

 シンクロも、年齢を重ねると起こりにくくなっていくのだろうか?

 そんなこんなで、始まりと終わりがある網の目も面白いけれど、矢印がないからこそのシンクロニシティも面白いなぁと思うのだった。


(※ 結局、興味が膨らんできて、いま、ユングの共時性についての本を1冊読んでいるところ)
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