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何かが変化するとき、何が変化するのか

 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)には「数学・哲学から始まる世界像の転換」という副題がついている。この「転換」という言葉が、中身を知ったいまとなっては味わい深い。

 一方、『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』の郡司ペギオ幸夫さんの論稿のタイトルは、「圏論の展開〜脱圏論への転回」となっている。テンカイの音を重ねるという遊び以上に、展開を転回につなげるのは郡司さんらしいな、と思う(という私の感じ方にも、後述の同一性が関わってくる)。

 さて、私が『〈現実〉とは何か』の「私」の記述に「そうきたかーーー」と思ったのは、自然変換とからめて語ってあるからだった。たとえそれはイメージにすぎないとしても、思考を発展させるのに十分な威力を発揮するイメージだと感じる。

 転換でも展開でも転回でも、そして「変化」でもなく、「変換」。そうなると途端に「私」が重層的なものになる。

 いま、私は「私」というものを、時間による変化の上でとらえようとしているのだが、それを考えるとき、アイデンティティという言葉が思い浮かぶ。直接の意味は「同一性」だとしても、会話や文章のなかでこの言葉が出てくる場面があるとしたら、「私が私であること」「私が何者かであること」あるいは「存在意義」のようなニュアンスになることが多いのではなかろうか。私に限らず、だれかにとって。「私が何者かである」「だれかが何者かである」ためには、確かに自己同一性の保持が必要になる。

 しかし、自己がたとえ同一性を保つものであっても、まったく同じではいられない。そこには大なり小なり変化というものがある。だいたい同じでも、少しは違う。ときには大きく変化する。そんなとき、いったい何が変化しているのだろう?

 このことについて、郡司さんが『時間の正体』で、あるひとつのわかりやすいたとえを示しておられる(p.110〜111)。「小学生が中学生になる」という表現を素朴に眺めると、小学生という実体が消え、突如中学生が出現することを表しているように思えるが、「小学生だった信夫が中学生になる」と考えれば不連続性は解消され、小学生、中学生は様相となり、「信夫」という具体的な個体、実体によって同一性は保持される、というような話(私の表現でまとめている)。

 郡司さんの議論はベルクソン、ドゥルーズの時間論とのからめたものだが、私は上記の「実体と様相」の話から、インド思想の「基体と属性」に気持ちが向かった。

 『空の思想史』(立川武蔵、2003年)によると、インドの人々が世界の構造について考える場合、属性とその基体という対概念によって考察する傾向が強いのだそう。たとえば、「この本は重要だ」という命題は「この本には重要性が載っている(重要性がある)」と解釈される。本は実体で、重要性は属性ということになる(p.37より)。

 バラモン正統派と仏教(非正統派)の違いとして、基体が存在すると考えるか否か、ということがまずあり、バラモン正統派は存在すると考え、仏教は存在しないと考える。

 しかし、ここを境目にぱっきりとわかれるのではなく、もうひとつの視点からくる、もうひとつの境目がある。それは、属性とその基体とには明確な区別があると考えるか否かという視点。区別があると考える立場をインド型の実在論、ないと考える立場をインド型の唯名論と呼ぶようで、バラモン正統派のうちの三派は実在論の立場をとり、仏教は唯名論の立場をとるらしい。

 一方、バラモン正統派のなかのヴェーダーンタ学派は、基体は存在すると考えるが、属性と基体とには明確な区別がないという意味では唯名論の立場に立っている(六派あるうちの残りの二派は実在論と唯名論の中間で、時期によって異なる学派もあるもよう)。

 別の言い方をすれば、唯名論の立場に立つヴェーダーンタ学派と仏教との違いは、基体が存在すると考えるか否か、ということになる。
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