TETRA’s MATH

<< TINTにおける射の生まれ方・消え方のルール | main | 何かが変化するとき、何が変化するのか >>

ウパニシャッドとクオリアの意外な関係

 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)の第四章の巻末注で、「ウパニシャッド哲学」の話が少しだけ出てくる。
「私」を普遍的実体と捉える見方を真面目に展開したのがウパニシャッド哲学(アートマン=ブラフマンという考え)であると言ってよいと思われるが、この実体論を解体しようとしたのが仏教である。
 「真面目に」の文字がなにげに印象的だけれど、この一文からけっこう考え込むことになっている。いくつか考えたいことがあるのだが、ひとまず楽しい(というのもヘンだけど)話から書いてみたい。

 『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(飲茶)は、歴史の流れを汲みながら、哲学者たちをざっくりわかりやすく紹介してくれて面白い。インド哲学、中国哲学、日本哲学という章立てで、インドからはヤージュニャヴァルキヤ、釈迦、龍樹が取り上げられている。

 つまり、東洋編はウパニシャッド最大の哲学者と呼ばれるヤージュニャヴァルキヤから始まるのだ。

 最初に出てくる人物ということもあってか、かなり気合を入れて描写してある印象があり、なんだったら釈迦、龍樹よりも心に残る。いや、もちろん釈迦や龍樹だって気合を入れて描写してあるので、知らなかった分、読む自分にとっての印象が大きかったのだろうと思う。

 ヤージュニャバルキヤの“得意技”は「梵我一如」。簡単にいえば、世界を成り立たせている原理(梵=ブラフマン)と個人を成り立たせている原理(我=アートマン)が実は同一のもの(一如)という理論。ちなみに梵我一如はヤージュニャヴァルキヤのオリジナルの理論ではない。

 では、そのヤージュニャヴァルキヤのアートマンの捉え方とはどのようなものであったのか。

 ということへの理解を深めるために、「私」が存在するのに絶対必要な条件を考えていく作業が始まる(このあたりからたぶん、飲茶さんの考察なのだと思う)。

 まずは明らかに違うものから排除していく。「職業」「肩書き」といった社会的地位は違う。「性質」や「個性」も違う。これらは消滅しうる。「肉体」はどうだろうか? 「腕」や「足」を切り離したとしても「私」が存在している状況は容易に想像できる。では、「脳」は? というわけで脳の話になっていく。

 このあと、けっこうなページ数(Kindle版の印象だけど)を割いて脳の話が展開されていくのだけれど、名称こそ出てこないものの、「クオリア」についての議論が含まれていると私は感じた。「赤」という独特の質感の話や、デイヴィッド・チャーマーズの名が出てきたりするので。なお、この記事のタイトルの「意外な関係」というのは、「こんなところでクオリアが出てくるのかー」という意味での私にとっての意外。

 水槽の脳の話なども出てくる。ちなみに水槽の脳の話は西洋編のフッサールのところでも出てくる。

 で、結局、「私」が存在するための条件は何かといえば、「痛み」を感じたり「色」を見たりするような意識現象があること、というところに話は落ち着いていくのだ(※)。

 これがどうヤージュニャヴァルキヤとつながるかというと、彼は「アートマン(私)とは認識するものである」としており、「ああ、どうやって認識するものを認識できるであろうか?」というようなことを言っているから。

 なお、途中でサルトルの『存在と無』も引き合いに出されている。

 とにもかくにもヤージュニャヴァルキヤは、「私」について「に非ず、に非ず」としか言えない、と述べているらしい。「私」というものは、捉えることができないし、破壊することができないし、執着することができない。束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。

 もちろん、以上のことは飲茶さんの解釈によるものだし、ひとりだけ取り上げてあるので、これをヤージュニャヴァルキヤやウパニシャッドの全体あるいは真髄と言うことはできないが、ウパニシャッド哲学のひとつの現れとして面白い話だと思ったので、書いてみたしだい。なお、今回は取り上げなかったけれども、釈迦や龍樹のところでもヤージュニャヴァルキヤの話は出てくる。

 ところで、以前、西洋哲学と東洋哲学の違いについて、西洋哲学は階段であり、東洋哲学はピラミッドだということを書いた。これも『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(飲茶)を参考にしての話だったが、この本では別の違いについても書いてある。

 西洋の場合は、最初の哲学として「世界の根源とは何か」「絶対的に正しいことは何か」という「人間の外側」にある「何か」について考えたといえるのに対し、東洋の場合は、哲学者たちはみな、「自己」という「人間の内側」にある「何か」について考えた、ということ。すなわち、関心の方向性がちょうど逆だった、と。

 いずれにせよ、上記のようなウパニシャッド哲学の流れを汲んで、仏教が生まれたということは言えるのだろう。


※ もし、意識現象があることが「私」なのだとしたら、「圏論による意識の理解」(土谷尚嗣・西郷甲矢人、2019)は「私」の探求になるのかもしれず、「私」をとらえるのは不定自然変換ではなく米田の補題であったかー!?なんてことを思ったりした。
哲学・思想・科学論 | permalink
  
  

サイト内検索