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「経験我」と輪廻のリアル、不定自然変換へ

 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)の第四章を読んでいるとき、『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司)p.93に示されている次の図式を思い出した。(「^n」は右肩につくn)

A−A’−A’’−A’’’−A^n…a^nB−B’−B’’−B’’’−B^n…b^nC−C'−C''−C'''−C^n…c^nD……d^nE…

 これは木村泰賢による図式で、「無我」であるところの衆生が輪廻する仕組みを表している。A、B、C、D、Eは木村泰賢の用語でいえば「五蘊所成の模型的生命」、魚川さんの言葉でいえば、「認知のまとまり」もしくは「経験我」に当たるものということになる。「A^n」はAが死を迎えた時点であり、「…」の部分が転生を示している。

 この図式が含まれている項目には「無我だからこそ輪廻する」というタイトルがついている。「無我」というのは仏教の基本教理と言われているが、何かと誤解されてしまったり、混乱のもとになったりするものかもしれない。仏教でいうところの「無我」の我は、「常一主宰」の「実体我」なのだ。

 ブッダは、場合によっては自己を積極的に肯定していたりもする。「自己を頼れ」というふうに。その、否定されていない経験我、「自己を頼れ」という場合の「自己」とは、いったいどのようなものであるのか。
 結論から言ってしまえば、それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場のことである。本章の冒頭に使用した言葉でパラフレーズするならば、それを「個体性」だと言ってもよい。
(『仏教思想のゼロポイント』p.89)

 だいぶ端折るので唐突に聞こえるかもしれないが、はやい話、現象の継起のプロセスが輪廻なのだ(ウ・ジョーティカの理解をふまえての表現)。輪廻は、死ぬ時に起こる神秘現象ではないのだ。仏教の立場からすれば、いま、この瞬間の私にも、現象の継起のプロセスとして輪廻は生起し続けているということになる。転生というのは、そのことのわかりやすい表れに過ぎないと、魚川さんは書いておられる(『仏教思想のゼロポイント』p.97)。

 『〈現実〉とは何か』第四章にもどると、「私」という言葉で言い表されているものは、「個体的実体」としてあるわけでもなく、「普遍的実体」としてあるわけでもなく、そのように「実体」的なものとして取り押さえようとすると、見えなくなってしまう、ということについて書いてある。

 それだけだったら、「だよねー」で終わっていたかもしれない。私が「そうきたかーーー」と思ったのは、「私」を自然変換で捉えようとする記述があったから。「自然変換としての私」という考え方も、実体論からの脱却を意味している、と。

 自然変換は、数学の用語としては、すでにできあがった項と項の間に成り立つ関係をいうものだけれども、『〈現実〉とは何か』では「自然変換」という語をもっと一般化しようとしている。決まった項の間の決まった関係ではなく、絶えずそのつどの現場で生まれ出つつあるような変換として。あえていえば、「不定自然変換」とでも言うべきものなのである、と。
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