TETRA’s MATH

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脱構築と、自己解体の仕組みを内蔵する「中道」

 この文章は、

 『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』所収
 郡司ペギオ幸夫
 「圏論の展開〜脱圏論への展開」


と、

 西郷甲矢人・田口茂
 『〈現実〉とは何か ―― 数学・哲学から始まる世界像の転換』


に触発されて書いている。


 (ネタバレが気になる方は先に本をどうぞ)


         *     *     *


 『現代思想』郡司論稿の1節を読み進めていくと、書名由来のいくつかの言葉が出てくる。

 それぞれに番号がふられ、文末注に引用文献が示されているとはいえ、ある種の記号として働かされるように文章に組み込まれているのが印象的だった。郡司さんの文章としては少し意外というか、新鮮な感じもしたのだが、最近はこんな感じなのだろうか。

 1964年生まれ、すなわち『構造と力』が刊行されたときに19歳だった私は、脱構築という言葉をとりあえず懐かしく読んだ。しかし、郡司さんの使う脱構築という言葉は、それらの懐かしさと無縁ではないとはいえ、もう一般名詞あるいは動詞のような感じで読んでいいような気がしている。

 郡司論稿のこの先を読む前に、「脱構築」つながりで文末註へとぶことにする。2節の註において、土谷尚嗣・西郷甲矢人 2019 「圏論による意識の理解」が文献としてあげられており、「西郷氏は脱構築にも理解があり今後の展開が注目される」と付記されている。

 郡司さんに注目される西郷さんって……と余計なことを思ってみたり、ここは「さすが西郷さん」と言うべきなのか「さすが郡司さん」と言うべきかなのかとやはり余計なことを思ってみたり。

 郡司さんがいうところの「西郷さんの脱構築の理解」が何を指しているかは私にはわからないけれど、この註を読んだあと『〈現実〉とは何か』の第四章を読むと、新たにせまってくるものがある。

 『〈現実〉とは何か』の第四章4節に「自己目的化の危険」という項目がある。そこでは、「思考の束縛から自由になるために導入される枠組み自体が束縛になる」ということと、「束縛から自由になる」ということ自体が自己目的として捉えられてしまう危険性について述べられている。

 この先でまた仏教が出てきて「中道」の話になっていくのだが、上記のような議論をナーガールジュナの文脈で読むとわかりやすくなる人もいるように思った。というか、私がそうだった。中道そのものさえ、固定した態度としては自己解体していくような装置が、最初から中道に含まれている、という話。

 再び郡司論稿にもどると、本文を追ううち、あることに気づいた。「自然変換」の文字が見当たらないのだ。米田のレンマ(補題)が出てきているのに自然変換が出てこないということがありうるだろうか?と思いきや、ありえなかった。Natという記号で示されている。そして、「関手の、さらに上位である関手と関手の間の関係」とだけ説明されている。

 あるにはあったが、取り扱いが薄い。なにしろこちとら『圏論の道案内』で「自然変換は重要だ」の八字を心に刻まされ、先日、ようやく自然変換をイメージできるようになってきて自然変換がマイブームのきょうこのごろ。

 なのに、郡司論稿の「圏論」のなんたるかについて書かれてある場所に「自然変換」の文字がないのは物足りない。関手はもちろんバリバリに出てくるし随伴も出てくるのに、なぜ自然変換が前面に出てこないのだ?

 という疑問を抱えつつも、全体の構成を捉える努力をした結果、郡司さんがこの論稿でやっていることについて次の理解に落ち着いた。

 異質な二者を対比可能な対にすることで外部が想定されないことになる例を3つあげ、そのぞれぞれについて、二者を混同させることで脱構築される圏論の3つの例をつくること。量子心理学の圏論的アプローチと脱圏論的アプローチを示すこと。

 そういえば、『現代思想』2013年1月号の「現代思想の総展望2013」特集では、「ポスト複雑系」についての文章を書いておられたと思う。考えてみれば私が郡司さんのことを知ったのは、複雑系関連の本を読んでいたときではなかったか。

 郡司さんはいつも、外に向かいたいのだな、と思った。

 なお、きのうだったかおとといだったか、『圏論の歩き方』をパラパラとめくっていたら、p.285の脚注に気づいた。本文中の「自然変換が圏論の真髄ですよ」に対して、随伴関手こそが真髄であるという説もあるという内容の補足がなされている。
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