TETRA’s MATH

<< 「ダダ漏れの世界」とオートポイエーシス | main | 脱構築と、自己解体の仕組みを内蔵する「中道」 >>

外部のない世界に閉じ込められてしまう

 「外」という文字を書いて思い出したので、最初に余談を。

 私が『現代思想』で圏論特集をするらしいと知ったのは、5月末だったと思う。青土社のサイトには案内が出ていてAmazonのページはできているけどまだ表紙は出ていないというような、そういう時期だったと記憶している。

 当時、圏論からは気持ちがはなれていたが、『現代思想』での特集となると話は変わる。青土社のサイトで寄稿者を確認したところ、なんらかの個人的“思い出”がある方が6名。これは買わねばと思った。

 加えて思ったことは、このメンバーならば、今回の特集が「外から丸ごと」批判されそうな可能性は低くてよかったな、ということだった。私のせまい(ネットウォッチングによる)認識範囲内ではあるけれど、逆にいえばそのせまい範囲のなかでも、AさんはBさんの主張を相容れない方だと記憶していたし、Cさんは昔の言動からたぶん基本的にこれこれこういうスタンスなんだろうな、というような思いがあったから。

 AさんやCさんが寄稿していなかったら外から批判していただろうという意味ではなく、AさんやCさんが「中」にいることで、「外」の人が安心するということが起こり得ると思ったのだ。

 Amazonのレビューでも、内部に納得できない部分があることの言及があり、それを補うものが同じ内部にあれば、全体としてはオッケーになるものなのだと感じた(なお、この納得できない部分は私は知らなかった方の話だと思う)。

 ここでいう「中」は寄稿している人と雑誌の関係者、「外」はそれ以外の人ということになる。

         *     *     *

 郡司ペギオ幸夫さんは、『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』にて、「圏論の展開〜脱圏論への転回」というタイトルで寄稿されている。

 あいかわらず文章が読みにくく、「この人は何を言おうとしているのだろう??」と、こちらをがんばらせる or つきはなすインターフェースの文体になっている。

 そして思うことは、「外部」というのは、郡司さんにとってやはり重要なテーマなのだな、ということ。私もそのことに興味がある。

 「外部」というのは、基本的に、未知で、未定で、未定義で、無際限だ。というか、そういうものが「外部」と呼びうるものだと思う。見渡せないし、本来わからない、つかめないもの。「部分」に対する「全体」と言ってもいいかもしれない。

 個人的には、いますぐに思いつく私にとっての「外部」は、「新型コロナウィルス禍がこれから先どうなっていくか」ということ。未知だし、未定だし、見渡せない。

 もっとも、「外部」は時間軸での未来だけをさすものではないと思う。たとえば説明を志向する理論家にとって、説明できないものは説明の外部となる。

 あらかじめ説明されている全体は、生きている者にとっては超越者の存在する閉塞的世界。という話は、『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)でも取り上げられていた決定論の話ともつながっていくように思った。

 ところで最近、自分の興味からではなく偶然に、プラトン『国家』の「洞窟の比喩」のイラストを見る機会があった。洞窟の中では身体を縛られた囚人たちが、壁に映し出される影絵を見ている。洞窟の外には太陽のある世界がある。

 そのイラストを見て私が思ったことは、洞窟の外も「太陽を含むひとまわり大きな洞窟の中」ということはないのだろうか?ということだった。

 外部のない世界の閉塞感は、確かに半端なものではない。しかし、無際限に「外部」を考えられるということは、自由なのだろうか、それとも途方に暮れてしまうものなのだろうか。

 いずれにせよ問題は、その話と圏論がどう関わるのよ?ということなのだが、その前に「脱構築」を見ておかなければならない。
哲学・思想・科学論 | permalink
  
  

サイト内検索