TETRA’s MATH

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「ダダ漏れの世界」とオートポイエーシス

 この文章は、『現代思想』2020年7月号「特集:圏論の世界」のなかの「2つの論稿のつながり」に触発されて書いている(ネタバレが気になる方は先に『現代思想』をどうぞ)。

 まずは、前回と同じく田口茂+西郷甲矢人「圏論による現象学の深化――射の一元論・モナドロジー・自己」について。

 いつものごとくこの手の文章を前から順に読めない私は、もろもろを理解する前に文末の註をのぞきにいった。そうしたらそこに「ここではオートポイエーシスを想起していいよ」的な一文があることに気づいた。

 許可が出たので逆にその番号をたどり、どこでだったら想起していいのだろうかと本文をたどったところ、その近くに「ダダ漏れ」という言葉があるのを確認した。

 その時点で、本稿で何が語られようとしているのかすでに了解した気分になってしまった。まだほとんど何も読んでいないというのに。

 オートポイエーシスについてはあとで触れることにして、まずはスライス圏と「ダダ漏れ」という言葉がどう関わるかを考えていくことにする(私の理解と表現で書いていますので、興味や疑問をもたれた方は、直接『現代思想』を確認してください)。

 たとえば圏Ωに、A、B、C、D、Eという対象があったとする。これらはすべて圏Ωの対象なのだから、ある意味、同じ地平にあることになる。言い換えれば、関係しあっている。

 一方、ΩのAによるスライス圏、Bによるスライス圏、……、Eによるスライス圏は、それぞれの対象を矢印の行き先とする射たちを対象とするので、圏Ωとは別物として、なおかつ、それぞれ別々に作られることになる。

 A、B、C、D、Eを人だと考えると、圏Ωでこれらの人々は関わりをもっているが、それぞれのスライス圏で、交わりのない、いわば「自分にまつわる圏」を作ることができる。

 交わりのないというのは共通部分をもたないということであるけれど、各スライス圏の対象はもちろんのこと、その対象どうしの射もΩをもとに構成されるのだから(前回、はしょってしまったけれど)、各「自分にまつわる圏」は、「みんなの圏Ω」とがっつり関わっている。

 このことを、本稿では「ダダ漏れ」と表現しているのだと私は理解した。

 A、B、C、D、Eを主体と考えると、すべての主体はいわば「ダダ漏れ」的に、遮るものなく関係し合っており、その意味では「相容れない」どころかむしろ「分離不可能」と言うべきほどにつながり合っている、と。

 この記述の部分に対して「オートポイエーシスを想起していいよ」的文末註があるのだ。

 というところまで読んで、いったんこの稿をはなれることにする。

 私がオートポイエーシスについてはじめて少しわかった気がしたのは、皮肉にも、郡司ペギオ幸夫さんがオートポイエーシスに対する(共感しつつの)批判的検討をしている内容に触れたときだった。>郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと(2010年3月) (プレゼン映像自体は2007年のもの)

 せっかくなので、ここでの郡司さんの言葉を借りてオートポイエーシスについてざっくりまとめると、次のようになる。基本は細胞をモデルとして考える。

「外側からやってきた栄養が内部の化学反応のネットワークに組み込まれ、外側の壁をつくる部品を作り出し、それがつながって壁ができる。その壁は、外界とネットワークをうまく境界づけてくれるようなものと機能して、これが維持される」

 これに対してどういう批判的検討をしたかというと、オートポイエーシスは外部との接触面にできる亀裂 ― インターフェイス 、痛み=傷み、ダメージを想定していないので、時間と無関係であると論じている(ルイジ・ルイージの議論をもとにして)。というか、私はそう理解した。

 そしてその郡司さんも、今回の圏論特集に寄稿しておられる。タイトルは、「圏論の展開〜脱圏論への転回」。そのなかでオートポイエーシスの話も出てくる。

 郡司さんは今回の『現代思想』においては、「外部の物質を捉え、変質させて内・外の境界を形成しつつこれを維持する、オートポイエシスの形式的モデル」というふうに、よりコンパクトにまとめたうえで、オートポイエシスは、内と外という異質な二者を接続するために、外を内と対比可能なものに限定してしまっている、と指摘している。

 もちろん、オートポイエーシス以外にもいろいろな話が出てくるのだけれど、郡司さんの今回の論稿の主旨をひとことでまとめれば、「圏論ってなんでも説明できちゃうけど、“外”とのつきあいかたをこれからどうする?」みたいな感じなのではないかといまの私は受けとめている。

 受けとめたうえで、『時間の正体』のときとは少し違う取り組み方をしている。
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