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圏論「恒等射」to me、衝撃の再会

 この文章は、『現代思想2020年7月号 特集:圏論の世界』p.202〜214、田口茂+西郷甲矢人「圏論による現象学の深化」に触発されて書いている(後半はネタバレ度が高いので、ネタバレが気になる方は先に『現代思想』をどうぞ)。

 ちなみにこれから書くことの前半は、西郷甲矢人・能美十三『圏論の道案内』にも書いてあることであり、そのときにも「おお」と思ったのかもしれないが、いずれにせよ忘れていたことなので、『現代思想』から触発されたという体で書くことにする。

 圏論を学び始めたばかりのころ、「対象」「射」「合成」はなんとなくわかったが、「恒等射」でもやもやしたのを覚えている。おそらく、そのとき参考にしていたテキストの定義の文章や図にこだわりすぎていたのと、経験が足りなかったからだと思う。「恒等射」が何を意味しているのかもよくわからなかったし、なぜ定義されているのかもよくわからなかった。

 それでも当時の私なりになんとか腑に落とそうとして、あれこれイメージをつけていた。そして、「何もしない射」という雰囲気のイメージで定着して、現在にいたっていたように思う。

 「圏論による現象学の深化」では、序論のあと「1 射の一元論 ―― 圏論と媒介論的現実観」」という表題で話が展開されており、序論の段階から砂地に水がしみ込むような心持ちで読み始めた。

 圏論の主人公は「対象」ではなく「射」であるということは、学び始めのころからおさえていたことではあったが、主人公という言い方が可能なのは、主人公ではない登場人物がいればこそだ。つまり、「対象」があればこそ。

 その対象さえも「射」にしてしまえば、登場人物は射だけになる。それが、恒等射、という話なのだ。

 砂地に水がどばっと入った。「最初からそう言ってくれ」と言いたい気持ちもあったが、最初からそう言われたら「は?」だったと思う。

 恒等射を意味する identity という語が、これまでとは違う響きで響いてくる。

 対象と恒等射は一対一対応しており、これらを同一視することができる(といえばできる)。つまり、対象を射の特殊なケースと考えることができる(といえばできる)。(『圏論の道案内』を参考にしつつの私の表現)

 そうなると、「●→●→●→●→●」だったものの●の存在感が消え、「・→・→・→・→・」に近くなっていく。「・」を拡大すると、恒等射のイメージであれば、自分から自分へもどるくるんとまるまった矢印なのかもしれないが、いっそのこと「→」で示すと、

「→ ――→ → ――→ → ――→ → ――→ → ――→ → ――→ →」

となる。矢印だらけだ、否、矢印だけの世界だ。

(なお、この図示も言葉による表現も私の解釈によるものですので、興味や疑問をもたれた方は、ぜひ、『現代思想』2020年7月号を直接確認してください。)

 このあと「スライス圏」というものが出てくるのだが、スライス圏では、ある条件を満たす射を対象とみなすので、こちらはもとの「→」が別のところで「●」にさせられてしまう感じになる。

 せっかく矢印だらけにしたのになんでもとの矢印まで●にもどすんだよと思いたくなるが、スライス圏も圏なので、そこでまた別の「→」を考えることになり、結局、やっぱり、圏は矢印ありきなのだ。

 そのスライス圏の「射」はなんであるかはひとまずおいておいて「対象」について確認しておくと、圏Ωの対象Aを矢印の行き先とする圏Ωの射が、「ΩのAによるスライス圏Ω/A」の対象となる。要は、「圏Ωのどれかの対象→A」の形になっている「→」たちが、Ω/Aの対象になる。

 はたと気づけば、Aの恒等射だってAへ向かう射なのだから、Ω/Aの対象になれる。

 ちなみに、恒等射はA→Aという形で表される射だけれども、同じ形、つまりAからAへの射はほかにもいろいろありうる。「何もしない」射だけが恒等射なのだ。

 そうするとどういうことになるかというと、いま、対象Aの恒等射を対象Aと同一視しているのだから、圏Ωの「対象A=対象Aの恒等射」は、圏Ωの対象であると同時に、スライス圏Ω/Aの対象にもなれてしまうのだ。

 なんというあざとさでしょう(ほめ言葉)。

 砂地がもはや池。池がもはや私。

 こういう議論は画期的なのか、わりとあることなのか、私には判断がつかない。

 というわけで、恒等射と衝撃の再会を果たしたしだい。

 再会なんて言葉を使うということは、あいかわらず私は「恒等射」のような概念も擬人化して存在者として扱ってしまっていることに気づくが、その点はいまはよしとする。

 思い返せば出会いのころから油断するなということだったのだ。何を考えているかわからないという意味では、結局、「1」と同じじゃないか。>0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考

 ちなみに上記リンク先の文章は2009年6月、新型インフルエンザ流行のさなかに書いたもの。文章の雰囲気からして、少し落ち着いたころかもしれない。
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