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圏論「自然変換」のひとつの経験としての量の理論

 この文章は、『現代思想2020年7月号 特集=圏論の世界』p.147に示された図(以下、「単位系換算の図」)に触発されて書いている。なお、「量の理論」といっても、かつてこのブログに書いていたような数学教育協議会の「量の理論」の話ではない。

 「単位系換算の図」は、谷村省吾「科学の書き言葉としての圏論」の中で示されているもの。

 圏論を学ぼうとするとき、「射」はとりあえず理解できた気になれて、「関手」もなんとなく雰囲気はわかるけれど、「自然変換」でお手上げになる感覚があった。そしてどうやら、自然変換でつまずくのは私だけではないらしい(『圏論の道案内』第1章より)。

 「単位系換算の図」は、そんな私のような人が自然変換をつかみやすくするのにとても役に立つと思う。というわけで、「量を圏論で語る」ためではなく、「量を使って圏論の経験をひとつ重ねる」ために、この図について書いていこうと思う。

 なお、私の理解と表現で書いていますので、興味や疑問をもたれた方は、ぜひ、『現代思想』2020年7月号を直接確認してみてください。本文とはかなり違う書き方をしています。

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 まずは、圏の基本をおさえておく。といっても定義ではない。圏には3つの矢があることについて。

 ・ 対象から対象への矢である「射」
 ・ 圏から圏への矢である「関手」
 ・ 関手から関手への矢である「自然変換」

 これを比例関係で考える。

 たとえば、「分速aメートルでx分歩くとyメートル進む」という関係は、y=axという式で表すことができる。このxとyの関係を x → y と表すならば、aを「→」そのものと考えてもよい気がしてくる。「時間」と「道のり」のあいだに「速さ」があると考えることもできるし、「時間」をもとにして「速さ」が「道のり」を決めていると考えることもできる。

 矢印で表される関係があるのだから、そこには圏の可能性がある。(圏の定義については文末のリンク先を参照してください)

 ところで、x分とyメートルで考え始めたが、ここにはすでに「測る」というアクションが含まれている。「測る」前に量は存在するのか?という難しい議論はひとまずおいといて、まだ測られていない「生の量」を考え、それで構成される圏をつくり、ひとまず「生の量の圏」と呼ぶことにする。

 生の量は、このままだとどうすることもできないので、数値化したい。その方法は複数ある。たとえばAさんは、時間を秒で数値化し、道のりをメートルで数値化することを考えた。この場合、速さは毎秒○メートルで表すことができる。

 具体的には、時間が180秒、道のりが360メートルのとき、速さは毎秒2メートルとなる。

 一方Bさんは、時間を分で数値化し、道のりをフィートで数値化した。そうすると時間は3分、道のりは1180.8フィート、速さは毎分393.6フィートとなる。

 余談だが、「フィートで測るものさしってあるのかな?」という疑問から、このたびスティンプメーターなるものの存在を知った。ゴルフ場のグリーンコンディションを示すための器具であるらしい。ゴルフをやる人にとってはおなじみのものなのかもしれないが、私は初めて知った。器具も測り方もきわめて素朴で、逆に感動した。

 話をもとにもどすと、AさんとBさんは、それぞれの別の単位(時間も道のりも)で「生の量」を数値化した。これらの数値は比例関係にある。なので、実数の集合を対象とし、実数から実数への比例関係を射とする「数値の圏」を用意すれば、Aさんの数値化もBさんの数値化も、それぞれ「生の量の圏」から「数値の圏」への関手となる。

 というわけで「数値の圏」も登場したことだし、これから先は「生の量の圏」の“生の”を省いて「量の圏」とする。

 AさんもBさんも、「量の圏」から「数値の圏」への関手を作ったが、その方法は異なっていた。何が異なっていたかというと、使う単位が異なっていた。異なっているのは単位だけだから、ここに出てくる数値はお互いに関係しあっている。

 先ほどの例でいえば、Aさんの場合は「180――(2)―→360」、Bさんの場合は「3――(393.6)―→1180.8」と表すことができる。「180」から「1180.8」までもっていくとき、先に2をかけて360としたあとフィートの値にするために3.28をかけてもいいし、先に180を分の値にするために3にしたあとで、393.6をかけてもいい。

 そんなふうにして、Aさんの採用した単位系から、Bさんの採用した単位系へと換算することができる。これがいわゆる「自然変換」にあたるということだと私は理解した。

※ 以下は、『現代思想』2020年7月号(青土社)p.146、147からスキャンした図です。



(p.146より)



(p.147より)


 「生の量」を数値化するとき、その必要に応じていくつもの方法が考えられるけれども、そういう具体的な必要性を抜きにすれば、Aさんの方法が絶対的なものだとか、Bさんの方法じゃないとだめだとか、そんなことはない。どっちでもいいし、同じ生の量を、その構造を保持したまま数値化するという意味では同じことだ。同じことだけれど、やっていることは違う。同じだけど違うから、変換を考えることができる。

 こうやって考えると、自然変換がとてもイメージしやすくなる。

 さらには、「自然変換って、ふつうにやってることじゃね?」とさえ思えてくる。

 もちろん、自然変換のイメージをこれでかためてしまうのはよくないだろうが、「今回の自然変換経験」に「これまでの自然変換経験」や「これからの自然変換経験」を重ねることで、「自然変換」というものをよりクリアに、あるいはより深く、あるいはより幅をもって理解できるようになるのではないかと思うのだった。


※ 各種定義は、たとえば次のページを参考にしてください。

谷村省吾「物理学者のための圏論入門」
https://drive.google.com/file/d/0B-wUHJlJ-mgXRnFpcXE5Q1lVLUk/view
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