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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)3/5 ―― たとえば第二章から第四章へ

 『〈現実〉とは何か』のページを最初にめくったとき、「これはわがことだ」と思った。「わがこと」というのは「私のこと」という意味だが、もちろん自分について書いてあるということではなく、自分の関心・興味、私の問いがここにある、ということ。

 一方、ゲンキンなもので、この本の成り立ちに深く感動しておきながら、「ここの記述はちょっと冗長じゃないかなぁ、ひとりで書いていたらもっと整理されてたかな?」なんてことを思ったりもした。「ひとりで」というのは、それぞれの著者が「私ひとりで」ということ。

 さらに、「われわれ」という複数形の一人称で語られているところについては、ほっとする場面もあれば、かすかにひっかかるときもあった。「われわれ」というのはつまり「私たち」ということ。

 その「私」(という語)についても、この本では丁寧に論じてある。そうなるといよいよ私にとって「わがこと」になっていく。そういうわけで、特に「わがこと」感が強かったのが「第四章 置き換え可能性から自由へ ―― 現実論のポテンシャル」。

 言われてみればなるほど確かに「私」という語はそうだ。だれが使うかによって意味が確定するし、だれが使ってもいい。小さい子どもは自分のことを名前で呼ぶことが多いが、それがいつからか「私」やそれに対応する言葉に変わっていく。大学生になった娘にそのことを聞いてみたら、面白い事実がわかった。

 娘が自分のことを「私」と呼び始めたのは、いま住んでるこの部屋に住み始めた頃だという。娘が小3のときにマンション内引っ越しをしているから、小3以降ということになるが、それは遅すぎるだろう思って「学校では私って呼んでたでしょ?」と聞いてみると、確かに私と呼んでいたらしく、実は小学校入学後にそういう指導があったらしいのだ。知らなかった。つまり、自分のことを「私」と称させる指導があったのだそう。

 そういうわけで学校では「私」、うちでは自分の名前で自分のことを呼んでいたらしいのだが、それを意識的にうちでも「私」に変えた頃の風景として覚えているのがこの部屋の玄関なので、上記のような答えになったらしい。「どうして変えたの?」ときいたら、「頭がよさそうに見えると思ったから、かっこいいと思ったから」とのこと。なぜかっこいいと思ったのかさらに聞いたら、「大人になったような感じがするから」との返事。

 具体的な一例を身近で確認できてよかったと思うと同時に、娘の変化に気づかなかった自分の観察力のなさも実感した。

 「私」の話は「倫理」の話を経て、「「実体論からの脱却」の話へとつながっていくのだが、仏教の「無我」「縁起」「空」との関連をふまえて、個人的にはさらに考えていきたい課題となった。というか、この本の中で「私」についての話が、いちばん「そうきたかーーー」と思うところだった。

 私はこれまで網の目を考えるとき、とても平面的に考えていた。なんのために圏論に興味もったんだよ、といまになって思う。

 章タイトルにもあるように、上記の議論は「自由」の話につながっていく。その途中で「確かさ」「同じもの」「変換」「幾何学の冒険」「問いがなければ答えがない」ということについての考察がなされていく。

 締めくくりは、『「現実論」としての思考 ―― 哲学と科学の深淵に還る』。

 感動的だった。
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