TETRA’s MATH

<< 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)1/5 ―― 読み始めで明滅するもの | main | 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)3/5 ―― たとえば第二章から第四章へ >>

『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)2/5 ―― いっそ第五章から第二章へ

 予想していたより読みやすい本だった。もう少し現象学の知識がないと読みにくいかと思っていたが、そんなことはまったくなかった。

 一方、圏論については、圏論のなんたるかについてわかりやすく丁寧に、かつ煩雑にならないように説明してあるのだが、それでもやっぱりたぶん圏論に接したことがある人でないとわからないのではないかと思った。このことについては別の文章でまた触れたい。

 その他の物理、数学の話題については、内容にそれほど踏み込んでないぶんわかりやすい。つまり、何のためにその話が出されているかがよくわかるようになっている。

 仏教はどうだろうか。人によっては「なぜここで仏教?」というストレスがかかるかもしれない。「なぜここで?」もなにも、この書ではかなり大きな手がかりとされている。というか、ぶっちゃけ、この本は仏教の本といっても許されるんじゃないか、くらいに私は思っている。龍樹がいかに天才だったかを画期的な方法で解説した本だ、と。

 思い返せば『圏論の歩き方』で西郷甲矢人さんが仏教の縁起の話をちらりと出しているのを読んだとき、「こんなところで縁起の話とか出して大丈夫かな」とほんの少し思ったものだった。こういうことがひっかかってしまう人がいるような気がしたから。

 その後、『圏論の道案内』の第10章で、西郷さんの子ども時代(から)のヒーローが「ナーガールジュナ(龍樹)氏」と「ゴータマ・ブッダ氏」であることを知った。つまりは筋金入りだと知った。なお、お寺の跡継ぎに生まれたとか、そういうことではない。

 しかし、それで私が安心してもあまり意味はない。「どうしてここで仏教?」と思う人はそんな情報をもっていたとしても、結局やっぱり(場合によってはなおさら)不愉快に思うような気がするから。

 ちなみに私にとっては、西郷さんがヒーローとして、まずナーガールジュナの名をあげ、そのあと「もちろん」つきでブッダの名を出しておられるディテイルが、それなりの情報になっている。(ちなみに算術家モッガラーナの名も出てくる。)

 ついでに忘れないうちに書いておくと、西郷さんが仏教の話を出すときの出典が石飛道子さんの著書に偏っていることはけっこう気になっている。なお、石飛道子『「空」の発見』はこの本よりも前に購入済みなのだが、まだ読めていない。

         *     *     *

 思うに、この『〈現実〉とは何か』を読むとき、第一章をながめたあと、いっそ第五章の「〈自由〉から現実を捉えなおす――決定論から非可換確率論へ」を読んでしまうというのも手かもしれない。というか、自分はそう読んだ。ひととおりながめたあとなので言えることかもしれないけれど。

 第五章を読んでいると、第二章は読まないといけないことがわかってくる。第二章は『「数学」とは何をすることなのか ―― 非規準的選択』というタイトルになっており、この非規準的選択をおさえないとこの本は楽しめない。

 非規準的選択とは「何かを選ばなければならないが、一義的に決まるわけではない選択」のことであり、「iと−i」の話で導入がなされている。

 また、子どもが数の概念を習得するときの話も出されていてわかりやすい。ここを読んで私は、昔、母から聞いた話を思い出した。中学校の数学教師だった母は算数教育とも関わりがあり、その話題はもしかすると障害児教育についてのものだったかもしれない。

 子どもに指を使って数を教えようとするとき、親指から順に1、2、3、4、5と小指まで数えてみせると、小指を「5」と思ってしまうという話。詳細は覚えていないが、だいたいそんな内容だった。この子どもに数を教えようとする人が、いつでも左手の指を親指から小指まで右手でさして「1、2、3、4、5」と数えてみせると、その子にとっては「(左手の)親指、人差し指、中指、薬指、小指」=「1、2、3、4、5」となってしまうだろう。

 数がわかるためには、「どこから数えてもいいのだ」ということがわからなければならないが、そのためにはひとまずどこからか数えなければならない。つまり、基数の概念は、序数的なものを通じてしか成立しない。特定の「選択」によってしか「数える」ことは成立しない。しかし、「数える」ということは、その「特定の選択」に依存しないということをすでに含意している。

 数学を数学らしくしている「普遍性」は、「非規準的選択」を通してしか成立しないが、「普遍性」を成り立たせるために、選択した出来事は消えなくてはならない。つまり、選択した出来事はみずから「自分を見えなくする」必要がある。(なお、本の記述とは前後して抜粋している)

         *     *     *

 読み始めのメモで「スピノザ」の下に書いたのは、「おしえ」「きえる」というワードだった。この2語がどこからきたのかおおよその察しはついていたが、自分のブログでは確認できなかったのでネットで検索してさがしたところ、見つかった。おそらく、國分功一郎『スピノザの方法』をのぞいたときに見かけた、みずからの消滅をめざして活動する教師の在り方のことを思い出したのだと思う。

 また、『「問い」の問答』というワードもメモしている。南直哉さんと玄侑宗久さんの対談をまとめた本の書名からくるワードで、これについてもブログで少し書いたと思っていたのだが、見つからなかった。削除したのか、別のところに書いたのか、そもそも書いていないのか。「問いを閉じない」話が書いてあった記憶があるのだが、確認はできていない。
読書記録『〈現実〉とは何か』 | permalink
  
  

サイト内検索