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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)1/5 ―― 読み始めで明滅するもの

 何より、この本の成り立ちに深く感動している。

 読み始めてしばらくたったころ、「あれ、これってどこがどちらの担当だったっけ?」と疑問に思った私は、先に「あとがき」を読みにいった。そして、この本ができあがるプロセスを知って驚いた。この本は2人の著者の思考の融合の書なのだ。比喩ではなく、本当に。

 ことの始まりは刊行の9年前であったらしい。思い返せば『圏論の歩き方』の西郷さんのページの欄外に、確かに田口茂さんのお名前がある(p.207)。そのころまでに、もう5年ほどたっていたことになる。

 私はといえば、今年の春、久しぶりにこのブログの更新をする気になり、仏教の縁起について10記事ほど書いた。数学教育ブログに仏教のことを書くのもへんな話だが、ほかに場所がなかったのと、とにかくいまの考えをどこかに記録しておきたかったので、書いた。

 そのなかで『圏論の歩き方』にほんの少しだけ触れることになったが、あの時点では圏論ことはまったく頭になかった。純粋に、自分にとっての仏教の縁起の問題を考えたかっただけだった。(>要素が矢印や線分でつながれた図を意識するようになった経過

 そんなこんなで、とても久しぶりにシンクロニシティが起こっていることに興奮している。しかも面白いことに、因果性をテーマにシンクロしているのだ。

         *     *     *

 いまはもう公開していないブログの記事のなかに、「上野修『スピノザの世界』、読み始めで明滅するもの」(2012年9月)という文章がある。そこで私はこんなことを書いている。
よいタイミングで手にした本というものは、読んでいるとき、特に読み始めのときに、いろいろなことを思い出したり連想したりするものであり、読んでいる頭とは別のところでキラン、キランと光っては消えていく何か明滅するものたちをよく感じます。
 『〈現実〉とは何か』も、この明滅をかなりの勢いで感じながら初回のページをめくった。そのときにはスピードが大事だと思ったので立ち止まりたくなかったが、読み終わったときに忘れてしまって思い出せなくなるのももったいなかったので、ざっと単語だけメモをとりながら読んでいった。

 ということもあり、メモの最初のワードは「スピノザ」「明滅」となっている。そのあとページをめくり終わるまでにまったく別のことでまたスピノザを思い出し、私はあるワードを付け加えたのだった。

 メモの中にはスピノザのほかにもいくつか人名が含まれている。本に出てくる人名もあれば出てこない人名もある。郡司、辻下、カヴァイエス、遠山啓、田辺元、龍樹、ボルン、ハイゼンベルク。

 ここまではよかった。再度この人たちにアクセスするにはどうしたらいいかメドがたつから。「えっ」と思ったのが終盤で登場したニクラス・ルーマン。なぜ私はこの人名を知っているのか、どこで接触があったのか、思い出せない。直接ではないことはわかった。だれかがルーマンを参照していて、そのだれかと私は接触したことがあるのだ、きっと。

 いったん本から離れて別のことをしていたら、あることが思い当たった。試しに「ルーマン」でブログ内検索してみたら、なんのことはない、非公開の記事が4件もひっかかってきた。思い当たったそのことではなく、オートポイエーシスだった。

 ブログを書いてきてよかったとしみじみ思った。自分の思考の過程、出会いの記録。

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 『〈現実〉とは何か』に書かれてあることの8割は、新しいというより懐かしい。内容が懐かしいのではなく、そこにある「問い」が懐かしい。そして、残りの2割がとても新しい。

 もしかすると、ものすごく新しいものは、「ほんの少しだけ新しい」という顔をしているものなのかもしれない。
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