TETRA’s MATH

<< 私の縁起の縁起 | main | 『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)1/5 ―― 読み始めで明滅するもの >>

要素の数と矢印の向きと縁起と

 宮崎哲弥『仏教論争』を手がかりに自分の縁起の問題に取り組んできた。自分が仏教の縁起に含ませていた「何かいいもの」のニュアンスがどこから来たかについては、だいたいこのあたりかなという察しがついたので、気がすんだ。

 ブッダが証悟した縁起がどういうものであったか私には判断できないけれど、少なくともそこに「何かいいもの」のニュアンスはなかったと考えるほうがしっくりくるという、当初の理解は変わることはなかった。

 また、要素の数の問題 ―― 一因一果なのか多因多果なのか ―― については、十二支縁起のそれはそれとしても、多因多果と考えるほうがやはりしっくりくる。

 矢印の向きについては進展があった。私は縁起に「何かいいもの」のニュアンスを含ませるとき、矢印は双方向と考えるのが自然だと考えていた。すごく俗な言い方をすれば「お互いさま」というニュアンスで。つまり、「私はあなたに縁っていて、あなたは私に縁っている」という発想において。

 しかし、「私はあなたに縁っていて、あなたは私に縁っていないけれど、だれかは私に縁っている」という発想でも「お互いさま」的な意味に拡張できるな、とこのたび思った。宇井伯寿の縁起観に触れたおかげだと言える。

 もちろん、宇井伯寿はそんなことが言いたかったのではなく、たとえ矢印が一方向でも、「A→B→C→D→E」のとき、AはB、C、D、Eすべての原因であり、BはC、D、Eの原因であり……というふうに一度に起こっていることだから、そこから来る全体性のことを言っているのだと私は理解している。

 いずれにせよ宇井伯寿の縁起観に「何かいいもの」のニュアンスはなく、それを言うなら縁起にポジティブなものを見出そうとしたのは木村泰賢のほうだった。

 ティク・ナット・ハンのインタービーイングはどうだろうか。一枚の紙ができるのに木が必要で、木が育つには雨が必要で、雨が降るには雲が必要で、……と考えたとしても、即「相互共存」にはならない。

 一枚の紙に雲や太陽を眺めたとしても、それを眺めている私は雲や太陽を「縁って起こして」いるだろうか。インタービーイングに循環の発想は組み込まれているだろうか。それとも一方向のビーイングなのだろうか。

 ブッダの説いた縁起はそのようなものではなかっただろうと私は思うけれども、だとしても相互依存の縁起にはイメージの広がりがあり、確かに魅力がある。

 であればいっそ、そのような関係性の話はむしろ仏教の縁起をはなれて考えたい。

 という話になると、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』の第八章を思い出す。大乗仏教について魚川さんが長年抱いていた疑問についての記述。なぜ「大乗」の徒は、あくまで「仏教」の枠内において、自己の立場を確立しようとしたのか。

 『法華経』でいえば、仏滅についてアクロバティックな解釈を施すくらいなら、『久遠実成』の神なり教祖なりを別に立てる異宗教をはじめたほうがよさそうなのに、なぜそうしなかったのか、と。

 その疑問に一定の回答が得られたとして、魚川さんは“「物語の世界」への対応の仕方の違い”という言葉を使って説明しておられる。

 一方、飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』では、東洋哲学は「ウソ」であるということについて書かれた一節があり、面白い。

 東洋哲学は体験的に理解することが基盤であり、それゆえに伝達不可能という致命的な問題を抱えている。伝達不可能なものをなんとか伝達すべく東洋哲学者たちは手段を選ばない。したがって、「ウソも方便」ということになる。

 そうして伝わった少数の弟子たちが、新しい方便を開発する。そうするとどういうことになるかというと、同じ師匠を祖とするのに、まったく異なることを述べる宗派が乱立する。

 それでいっこうにかまわない。宗派の違いは方便の違い。方便自体はまったく重要ではなく、重要なのは方便を通して得られる「体験」の方。屋根に登って景色を見ることが重要なのであって、屋根にいたるためのハシゴはなんだっていい。

 という解説に、なるほどねぇと思った。

 とはいえ……というか、いずれにせよというか、自分にとって要素と矢印の関係性はワクワクするものであり、それは仏教とは別に考えたいという結論が出た。「仏教は生命讃美の教えにあらず」。

 生きることは苦である。

 というところから始まる仏教に、興味をもっているのだった。

仏教の縁起について | permalink
  
  

サイト内検索