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宇井伯寿の縁起と華厳哲学

 宮崎哲弥『仏教論争』の第一次縁起論争についての記述の中に、華厳哲学の話が出てくるところがある。論者のひとりである宇井伯寿の縁起観は「中国華厳哲学的」だという見方があるらしいのだ。

 そういう評価をしているのは、松本史朗と武内義範。松本史朗さんのお名前は、縁起が自分の宿題になったばかりのころ、お見かけする機会はあった。

 宇井伯寿の十二支縁起論はどのようなものであったかというと、ひとことでいえば全面的相依説であったらしい。といっても、単純に、同時に生起する双方向の関係と考えていたわけでもなさそう。

 おまけに宇井伯寿の書いた文章には内容に齟齬があるらしく、私も引用部分を読んでいて「ん?どっち?」となってしまったのだが、十二支縁起についてはだいたい以下のようなことらしいと理解した。

 十二の支分の連接は時間的因果関係ではなく、論理的因果関係を示している。そして、両端の無明と老死を省けば、それぞれの支は下位に対して生起の条件、上位に対しては被条件としての結果となる。

  十二支縁起↓
 「無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死」

 たとえば、名色は識の被条件であり、六処の条件である。名色が識の条件になったり、六処の被条件になったりはしない。順番は変わらない。そして、六処は触の条件でもあり、受の条件でもあるし、有は受の被条件でもあり、識の被条件でもある。これらの関係は時間的なものではなく、論理的、同時的なものなので、一挙に全体を表している。と、理解した。

 さらに宇井伯寿は、「根本仏教では吾々の身心のことを世界とも宇宙とも人生ともなすのであって、この身心が行、有、名色または名色識いずれにも含まれつくす」とか「世界は全く識の統一の下に相依性をなしているといえる。かく十二因縁の趣意は世界の相依を明らかにするにあるのであるから、予は十二因縁を相依説とも称する」とかいうことも書いているらしい。

 こういう縁起観が「中国華厳哲学的」と言われるところのようなのだ。華厳哲学に“時々無碍、重々無尽”の縁起というものがあるらしく、それを説明しているのに他ならない、と松本史朗さん。

 また、武内義範は、相即相入という華厳哲学の交互媒介を原始仏教の縁起説の相依性に及ぼそうとするのが宇井伯寿の特徴といった解説をしているらしい。

 先ほども書いたように宇井伯寿が書いていることには齟齬があり、「甲が乙に依り乙は甲を資(たす)けて、互いに相依りて存在する」といった縁起の意味を示しているところもあるようで、そうなると「⇔」の関係になっていくので、先の十二支縁起の解釈とはちょっと話が違ってくる。

 ただ、「→」の関係でも相互依存を発展させた解釈はできるのかもしれないというのがこのたびの発見だった。「AはBに縁り、BはAに縁る」という相互依存ではないけれど、「AはBに縁り、BはCに縁る」ということから、Bは原因にも結果にもなる、つまり、矢印の元でも先でもあるという見方ができないこともないな、と。

 この場合、同時も異時も考えられる。

 さらに、双方向な矢印の関係性の場合でも、同時と異時が考えられるなぁと思った。A→B と B→A が同時ならば A⇔B だけれども、A→B のあと B→A が起こり、そのあと A→B が起こるような関係性。その場合は A⇔B というよりも、A→B→A´→B´→……ということになるのかもしれない。
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