十二支縁起と多因多果
仏教の教えのなかに、十二支縁起というものがある。生存苦が生じる因果関係を示した系列で、「これがあるとき、それはある。これが生じるから、それが生じる」の「これ」と「それ」に順に以下の12の項目を入れていけばできあがる。(なお、現在の参考文献は宮崎哲弥『仏教論争』)
無明(むみょう)/根源的無知、根本煩悩
行 (ぎょう)/諸行
識 (しき)/識別作用
名色(みょうしき)/名前と形態、後には心理作用と物質
六処(ろくしょ)/目、耳など六つの認識器官、 およびその機能
触 (そく)/認識対象との接触
受 (じゅ)/苦楽等の感受
愛 (あい)/渇愛
取 (しゅ)/執著(しゅうじゃく)
有 (う)/存在
生 (しょう)/生存
老死(ろうし)
つまり、十二支縁起を矢印を使って簡単に表すと、「無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触 → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死」ということになる。
矢印の元も先も項目はひとつだから、これは1つの原因から1つの結果が生み出される一因一果の系列を表しているといえる。時間的経過があるにせよないにせよ、「原因→結果」の矢印の方向は一方向で、→が⇔になることはない。
ちなみに、時間差がある場合を因果異時、ない場合を因果具時というらしく、因果具時を説明するときには「花実同時」の喩えが出されることが多いのだとか。「蓮は花(原因)と実(結果)が同時に生じる」という意味において。同時だとしても、因と果は逆転しない。
植物の喩えといえば、仏教には因(直接的原因)と縁(間接的原因を分けて捉える立場もあるそうで、撒かれた種が「因」で、水や太陽光や肥料などが「縁」になる。こんなふうに因と縁を分ける発想が出てきたのは部派仏教、アビダルマの時代になってからのことらしい。
私が縁起の宿題に取り組むきっかけとなった『ミーニング・ノート』では、まさにこの発想の仏教の話が出てきていた。種を撒くのが原因で、花が咲くのが結果だけれど、花が咲くためには十分な光や雨が必要でこれが「縁」となる、という話。ミーニング・ノートはこの縁をさがす作業らしいのだ。
とにもかくにも、こういうふうに主因と従因を考え出すようになると、複数の原因から一つの結果が出たり、多くの原因から多くの結果が出ていると捉えることもできるようになり、つまりは多因一果や多因多果となってくる。
『仏教論争』によると、現在、少なからぬ仏教学者が多因多果を支持しているらしい。
じゃあ、一因一果の十二支縁起はどうなるんだよという話だが、同じく宮崎哲弥『仏教論争』によると、仏教学者の多くは十二支縁起をブッダの証悟の内容とすることに否定的なのだそう。どうやら経典の中に十二支縁起成道の記事をあまり見いだせないらしいのだ。
それをいうならというか、それよりも前にというか、それよりもなによりもというか、「般若心経」は十二支縁起をトータルに否定している。
しかし、般若心経が十二支縁起を否定していることを、アルボムッレ・スマナサーラは否定しているという。スマナサーラさんといえばテーラワーダ仏教、初期仏教を日本に伝道している方。つまり現代の上座部は「十二支縁起は仏教の心髄」と捉えているということのよう。
やはり初期仏教と大乗仏教以降には何かと違いがあるのだろう。
なお、最初に示した苦の生起の系列は「順観」と呼ばれるものであり、これに対して苦の滅を示した「逆観」と呼ばれるものもある。この場合は、「これがないとき、それはない。これが滅するから、それは滅する」の「これ」と「それ」に順に項目を入れていけばできあがる。