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「縁起」の問題が宿題になった経緯

 仏教に興味をもつようになったのがいつごろだったのか、記録と記憶をたどってみたところ、2011年くらいに自分のなかで仏教ウェーブが起こっていたらしい。それから時をへだてて2016年、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』を読み、縁起に強く意識が向かうようになった。

 そのときの感覚を説明するために、別の体験談を書こうと思う。

 ずっと昔、とある民宿に泊まったときのこと。朝ご飯に自家製のお豆腐が出た。そのお豆腐は確かにおいしかった。が、私がそのお豆腐を口に入れた瞬間に思ったことは、「あ、いつも食べているお豆腐、臭い」ということだった。「このお豆腐、おいしい」ではなく。

 おそらく、いま食べているこのお豆腐の味が本来のお豆腐の味だと感じて、そのことで逆に、これまで食べてきたお豆腐の臭みに感覚の焦点がうつったのだろうと思う。

 『仏教思想のゼロポイント』を読んだときの縁起についての衝撃も、これに近いものだった。つまり、『仏教思想のゼロポイント』に示されている縁起の話とこれまでの自分の縁起のイメージをつきあわせたというより、「あ、これまでの私の縁起の理解、違う」と感じたのだ。

 何がどう違ったかというと、私はそれまで縁起というものを「何かよいもの」のように捉えていたことに気づいた。もちろん、日常生活でいうところの「縁起がよい」「縁起物」というレベルの縁起で考えていたわけではないが、だとしても日常生活で使う「ご縁」という言葉で言い換えても問題なさそうなイメージを、仏教の「縁起」に含ませていた。

 問題は、なぜそういうことになったのかが思い出せないことだった。記憶をたどってもわからないし、手元にある仏教関係の本をめくってもはっきりしない。「何かよいもの」というニュアンスを感じとれるような記述があるにはあったけれど、その影響だとは考えにくかった。

 もしかすると、縁起という言葉に何か深淵なものを感じていて、いつのまにか「深淵なもの=何かよいもの」になってしまったのかもしれない。

 当時、自分の勘違いのもとがわからなくて気持ちわるくて、縁起についてけっこう検索した。そのときに初めてティク・ナット・ハンのことを知った。いや、それよりも前にお名前は見かけたことがあったのかもしれないが、とにかく意識したのはそのときが初めてだった。

 ティク・ナット・ハンに関わるキーワードとしては、マインドフルネスのほかインタービーイングが有名かと思う。相互依存、相互共存というふうに訳されることが多い言葉であり、縁起を彷彿とさせる。

 このたび『仏教思想のゼロポイント』を読み返していたら「エンゲージド・ブディズム」という言葉が心にひっかかったので巻末注をのぞいてみたところ、そこにティク・ナット・ハンの名があった。前回、読んだときにここをチェックしたかどうか覚えていないのだが、少なくとも意識はしていなかったと思う。

 ティク・ナット・ハンのことを意識したといっても、それ以上、調べることはしなかったし、とにかく自分の縁起観にティク・ナット・ハンのインタービーイングは直接影響していない。

 いったい私はどこから縁起についての「何かよいもの」のニュアンスをもってきたのだろう。

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