TETRA’s MATH

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西洋哲学と東洋哲学の違い

 宮崎哲弥『仏教論争 ――「縁起」から本質を問う』をAmazonで見かけたとき、「え、こんな本があったの!?」と驚いた。自分の興味にどんぴしゃりな本なのに、これまでその存在を知らなかった。発行年を確認したところ2018年とのこと。なるほどそれならば知らなくても仕方ない。

 というわけで購入したのだが、いざ読み始めてみると、とにかく読みにくい。メインの登場人物は、かつて自分が縁起について調べたときに見かけた名前ばかりなのに、その議論がどうにもこうにも頭に入ってこない。飲茶さんの本を読んだあとだったので、そのわかりやすさとの対比もあったのか。

 それがだんだんと読みやすくなったのは、何度かチャレンジしたこともあるけれど、それこそ飲茶さんの東洋哲学の本に助けられた面があるからだと思う。『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』に、西洋哲学と東洋哲学の違いが書いてあるのだ。

 西洋哲学は「階段」であり、東洋哲学は「ピラミッド」だという話。西洋哲学は、究極の真理を求めて、先人の論を乗り越えて高みへと一歩ずつ登っていくもの。一方、東洋哲学は、ある日突然「真理に到達した」といい放つ人間が現れ、その人の言葉や考え方を後世の人たちが学問としてまとめあげたもの、という話。

 それぞれがイラストで示してあり、階段のほうはわかりやすいとしてピラミッドはどうなっているかというと、上半分が頂点部分(真理)、下半分が底辺部分(解釈)となっている図が示されていて、別のページに釈迦、孔子、老子、親鸞、道元を頂点部分とする仏教、儒教、道教、浄土真宗、曹洞宗のピラミッドの図が並べられている。

 なるほど確かにそうかもしれない。過去に読んだ仏教関係の本も、そのような視点で考えると納得がいく。そのような前提があると、宮崎哲弥『仏教論争』にも食いついていこうという気持ちになれる。

 なにしろ『仏教論争』をそのまま読もうとすると、この人たち ―― 大正時代や昭和初期の仏教論争の論者たち ―― は、いったい何をごちゃごちゃやってるんだ!と途中で投げ出したくなるのだ。しかも、それに対する複数の人の理解に対して著者が意見する組み立てになっており、なにがなんだかさっぱりわからない。議論というものはそういうものだとしても。

 さらに、「もうブッダに直接聞けないんだから本当のことはわからないじゃん!」と言いたくもなってくる。

 しかしピラミッドのたとえを思い出すと、「まあ、こういうことになるよね、こういうことだよね」と思えてきて、進む気力がわいてくるのだ。もちろん、ピラミッドのイラストで示されているのは大正や昭和よりももっともっともっと昔の話だろうけれども、だとしても構図は同じなのではなかろうか。

 というわけで、読みにくかった『仏教論争』になんとか食いついていけるようになり、ブログの記事としてまとめているうちに、だいぶ読めるようになってきた。

 ただ、読めるようになってきたいま思うことは、やはりこの本はもう少し書きようがあったのではないかということ。第二次縁起論争のほうはまだいいとしても、第一次縁起論争については特に。

 たとえば、いよいよ第一次縁起論争を概観するというときに、六処や五蘊についての説明や関連事項をあんなに長々書く必要はないのではなかろうか。どこかで説明が必要だったとしても、もう少し書くタイミングと内容が他にあったのではないか。というようなことを、ところどころで思ってみたり。

 しかし、読みにくいからがんばって読み込もうとした面はあるし、上記のような感想をもつまでには読めるようになってきたということかもしれない。

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