TETRA'S MATH

数学と数学教育
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折れ線と方眼の幾何のどこに遠山啓らしさを感じるか

 前々回のエントリのなかで、折れ線と方眼による幾何は遠山啓らしいと書きました。なぜそう思うのかを、石原さとみさん出演のお酒のCM「主任って…」風にまとめると、次のようになります。

 遠山先生って…量が好きで…正方形状のものが好きで……
 デカルトが好き。

 量が好きなのは「量の理論」でこれまでさんざん見てきたことですが、幾何教育についても、「測度」を取り入れていること、「定木とコンパス」ではなく「物指しと分度器」よる作図を提案していることなどから感じられます。

 また、正方形状のものというのは、ここでは方眼のことですが、もちろんタイルからの発想です。実際、遠山啓は、
方眼の一つ一つは正方形であるから,切り抜くとタイルになることは量との関連を容易にする。したがって,それは数計算の出発点ともなり得る。水道方式とその点では共通の土台の上に立っているといってよい。方眼の幾何は水道方式の双生児のようなものである。
と書いています(p.14)。

 そしてデカルト。遠山啓とデカルトについては、かつて、今後のためのメモ3/遠山啓とデカルトというエントリを書いたことがありました。

 まず、方眼の幾何は座標につながります。そして、分析と総合。折れ線の幾何にも分析と総合の発想が取り入れられています。折れ線を分析すると辺と角の連鎖になり、辺と角の連鎖を総合すると折れ線になるので。

 ここですぐに付け加えなければならないことが2点あります。ひとつは、だからといって遠山啓はデカルト主義者である式の早トチリをするわけにいかないということ。>森毅が語る、遠山啓の思想の構図

 もうひとつは、遠山啓はユークリッド幾何の教育的価値について論じるなかでも分析と総合を出してきていること(p.55)。
ユークリッドの中にあざやかに表現されている思考法もしくは方法とはいったい何であろうか。それは何よりもまず分析と総合だと私は考える。複雑な図形,たとえば,多角形などをしだいに分解して,もっとも単純な三角形を得る。その三角形をさらに分解して点・線・角の要素に到達する。このように複雑なものを単純な要素に分解する手続きが分析(Analysis)なのである。このように最単純な要素にまで分解されたものをふたたびつなぎ合わせること,すなわち,再構成することが総合(Synthesis)である。
 なので、分析と総合という発想は、ユークリッド流を否定してのことではないことがわかります。

 話をデカルトにもどすと、遠山啓は幾何教育について、空間とそのなかにある図形とを区別して教えるべきだと語っており、その話もデカルトにつながっていきます。デカルトははじめから空間そのものから出発した、と。

 さらに、数教協ではおなじみのシェーマという用語についても、デカルトが関係してきます(p.100)。というか、話は地続きなのですが。

幾何学的直観は数学研究ばかりではなく,数学教育においても,きわめて重要な役割を演ずる。そのことは,人間の思考においてなんらかの映像もしくはシェーマが,本質的に重要な役割を担っているからである。そのことをもっとも早くから明言していたのは,おそらくデカルトであっただろう。

 シェーマというのは、直訳すれば「図式」になろうかと思いますが、数教協の方法論のなかでいえば、タイル、水槽、ブラック・ボックスなどがあてはまると私は理解しています。

 なお、遠山啓は、ペリー運動の影響と関係している“直観幾何”は批判しています。ここでいう“直観”というのは“論理抜き”という意味だとして(p.34)。

 遠山啓の幾何教育論を読むときには、「直観」という言葉の捉え方に慎重になったほうがよさそうです。
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