TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 7年越しの「時間の正体」についての小さな訂正とブログ近況 | main | 遠山啓の幾何教育論をまとめた一冊 >>

「遠山啓著作集・数学論1」より、関数の三用法で第1用法が2段階になっていること

 久しぶりの更新です。

 思うところあって、少し前から遠山啓著作集のページをめくっています。実家から引き取ってきたもので、何冊か欠番はあるものの、数学論シリーズ6冊、教育論シリーズ4冊、数学教育論13冊とそれなりにそろった状態で保管していました。

 もうひとつ別の数教協関係のシリーズものもあり、読まないままスペースだけとっていて、どうしたものかと思っていました。もちろん、遠山啓著作集のほうはピンポイントで読んできましたし、しばらく手放す予定はないのですが、それにしても読まない部分のなんと多いこと。

 というわけで、いまさらながら、まずは遠山啓著作集をぱらぱらとめくっています。いま、数学論、教育論とすすんで、数学教育論の途中までざっとめくってみたところです。

 数学論の大きな話の部分はさすがに既視感があり、具体的な数学の話は、何かの機会に必要に応じて読みたいと感じる内容でした。また、教育論のほうは、読む前から予感はしてものの、やはりページをめくってみても読み込みたいという気力がわいてこず…。

 そんななか、ただひとつ目がとまったのが、数学論1「数学の展望台―I中学・高校数学入門」の後半にある「関数の性質」です。初出は1965年の『数学教室』。なぜ目がとまったかというと、「関数の三用法」が出てくるから。いわゆる「度の三用法」や「率の三用法」ではなく、x、y、f で構成されているのがいまさらのように新鮮だったのです。なので、この点について、ブログに書いてみることにしました。

 数教協の量の理論には「度」や「率」というものが出てきます。速さや密度のように、違う種類の量どうしのわり算でつくられる量が「度」。これに対して含有率などのように同種類の量の除法によって得られる量が「率」と呼ばれています。

 そして、度や率の三用法なるものがあり、速度と含有率のそれぞれを示すと、次のようになります。

第1用法:長さ÷時間=速度
第2用法:速度×時間=長さ
第3用法:長さ÷速度=時間

第1用法:含有量÷全体の量=含有率
第2用法:全体の量×含有率=含有量
第3用法:含有量÷含有率=全体の量

 これが関数の三用法になるとどうなるかというと、遠山啓はまず、正比例 y=ax の x、y、a を使って、度の三用法を次のように示します。

第1用法 ――― x,yが既知で,aが未知の場合
第2用法 ――― a,xが既知で,yが未知の場合
第3用法 ――― a,yが既知で,xが未知の場合

 これを一般化して y=f(x)に当てはめると、

第1用法 ――― x と y から f を求める。
第2用法 ――― f と x から y を求める。
第3用法 ――― f と y から x を求める。

となります。いわば「関数の三用法」とでもよばれるものができるわけですが、この分類は関数の指導体系をつくる上でかなり有効であろうと思われる…というようなことを遠山啓は書いています。

 さらに先を読むにつれ、私がなぜこの一節に立ち止まったのか解せました。第4用法という言葉が出てくるから。明確にそう示されているわけではなく、第1用法ではなく第4用法とよんだほうが適切かもしれない、という流れで。

 そして実際、この文章の組み立ては、「関数の三用法」「第1用法」「第2用法」「第3用法」「むずかしい第1用法」「関数の複合過程」となっているのです。「第3用法」では逆関数や代数方程式、運動方程式の話、「むずかしい第1用法」ではラグランジュの補間法、テーラー展開の話などが出てきます。

 注目したいのは「第1用法」のところで示されている次の話です。度や率の三用法では、第1用法は内包量の概念づくりに相当するもので、これをはじめにもってくるのは当然だけれども、関数では第1用法はそれほど簡単ではない、ある意味ではもっともむずかしくて、最後にもってくるようがよいともいえる…という話。

 むずかしい部分は第2用法、第3用法の後にくるので、第4用法というわけです。
第1用法のうちで関数の概念づくりに当たる部分は,f という操作・写像・変換等のコトバで表わされるものが存在することを理解させることに主力がおかれる。
(p.212)

 そしておなじみ、暗箱(black box)が出てきます。

 ブラック・ボックスというのは、f という文字のついた箱状のものに入口と出口がある簡単な装置のことで、図示されたもののほか、実際に箱として作ったリアルな教材もあります。

 私はかつて、数教協の「量の理論」が未完に終わっていることにこだわっていて、特に、小学校の「量」の学習の組み立てと、中学校へつながる比例の導入との間に大きな断絶があるところが気になっていたのですが、上記の記述には、それについて考えるためのひとつのヒントがあるかもしれないと感じました。

 そしてこのことは、銀林先生の『量の世界・構造主義的分析』のなかで、なかなか理解できずにいた二段階の内包量のことにもつながる話だと思います。

 正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量

 先の引用部分に「 f という操作・写像・変換等のコトバで表されるもの」が「存在」すること、という文言があります。「量の理論」で出てくるブラック・ボックスという装置は、まさにこの「存在」を具現化し、存在たらしめるものであったのだろうとあらためて感じているのですが、私がひっかかっているのは「内包量」との段差なのでした。

 さらに以上のことは、かつてnoteで書いた以下の話にも関わってきそうです。

 「微分的」とはどういうことか(番外編)/私の問題意識

遠山啓著作集 | permalink

この記事に対するコメント

コメントする









  

サイト内検索