TETRA'S MATH

数学と数学教育
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木が先か、森が先か/そして往復運動のイメージ

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。

 上記リンク先において、「木を気にせず森を見る」という表現に対し、最初はなるほどと読むだけだったのに、読み返すうちにかすかな緊張感をともなう考え込みの時間をもつことになったという話を書きました。圏論というよりは、「木と森」という言葉のイメージからくる考え事ではありました。

 なぜ考え込んだのかというと、自分はずっと、木に定位することをよしとしてきたように思うからです。

 たとえば俯瞰する教育が嫌いだと言ってきたこと。そんな自分が「三種の矢」をわかりやすいと感じた、その事実をどうとらえるか。

 私が言う「俯瞰する教育」とは、「全体を知っている人が、その部分として行う教育」のことです。もちろん、学校教育はカリキュラムなしでいきあたりばったりで行うべきだと言いたいわけではないのですが、「ここをわかっておかないとあとで困る」という言い回しに、どうにも抵抗があるのです。

 たとえば娘が小6のときの保護者会で、あれこれいい話が聞けたなか、「中学校で困るから確実に」という話が比例・反比例に対してなされたときの違和感といったらありませんでした。

 また、遠山啓がかけ算をたし算のくりかえしと定義することに反対して、“1あたり”から”いくつ分”を求める計算と定義するべきだとした背景には、「×0」「×1」「×小数」「×分数」の困難を消すというねらいがあったと私は理解しています。これに対しても、「最初はたし算のくりかえしのイメージでいいんじゃない? 小数が出てきたときに、あらためてかけ算の意味を考えればいいんじゃない?」と思ってきました。

 このことに関連する話題として、カヴァイエスが挙げている「乗法の反復としての指数」の例というエントリも書いています。

 そう、谷村さんの文章を読みながら、どういうわけかカヴァイエスが頭にちらつくのです。

 たとえば、真理の発掘と、空からの俯瞰の間にある運動を生け捕りにするというエントリにおいては、「空から俯瞰することと地面のしたを潜ること、あるいは超越と内在とのあいだに生じる弁証論的な生成そのもののメカニズムを把握すること」について述べられた部分を引用しました。

 それをいえば、当の谷村さんの本からも、外延と内包の絶えざる往復と問いかけの部分を抜き出したことがあります。

 さらにこの往復運動のイメージは、郡司ペギオ幸夫『時間の正体』で出会った、膨張・収縮、反復のイメージともつながっていくのです。その話ではもろに「木と森」が出てきていました。
「現在」の膨張・収縮
 ウイスキーが半分入っている瓶と「わたし」の関係

 先日もリンクした倉田令二朗関連のエントリ()のなかのリンク先()で触れているように、森毅は遠山啓に対して、方法論は実体中心の外延的還元主義だが、感性としては機能中心の内包的全体主義でもあるというようなことを語っています。遠山啓を恩返しの意味をこめて批判的に検討してきた自分も、結局、同じなのではないか…ということをこのたび感じています。

 それはまるで、あのときのようです。反実在論者だと思っていた自分が、バリバリの実在論者――反実在論者に憧れていて、できればいつか寝返りたいと思っている実在論者――だと気づいたとき。
科学的実在論の中での、自分の立ち位置
 哲学は、数学を、どのように分析してきたか 

 「物理学者のための圏論入門」のp.2では、「聞くところによると」という書き出しで、圏論の創始者のひとりであるマックレーンの話が出てきます。マックレーンはもともと自然変換という概念を定義しようと考えたようで、自然変換を定めるために関手という概念が必要になり、関手を規定するために射・対象という概念を定めたのだとか。

 だとしたら、「三種の矢」がわかりやすいと感じたことも不思議ではないかもしれない…と思うことで、なんだかよくわからないショックをやわらげようとしています。
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