TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< つなぐものの存在感/比例定数とアクリルたわし圏 | main | ハッセ図の思い出アルバム >>

自己と外界の境い目で起こること

 これまで出会ったなかでいちばんわかりやすい圏論の説明に触発されて思い出したことを書いています。関連エントリを最後にまとめてリンクしてあります。

***

 自分が「境い目」にこだわり始めたのがいつだったのか、なぜそういうことになったのか、スタート地点はもはや思い出せませんが、オートポイエーシスの本の次の記述は大きなきっかけになったように思います。

河本英夫『オートポイエーシス――第三世代システム』p.11より

 オートポイエーシスが議論の焦点の一つとしているものに、「境界」がある。自己の境界はどこにあるのかと問うさいの境界である。口の中に雑居する六十億個の細菌は、自己の内なのか外なのか。腸の中に住む百億個の雑菌は自己の内なのか外なのか。酸素を吸着する肺細胞の一歩手前は、内なのか外なのか。いったいどのようにして自己の境界を考えたらよいのか。


 そうして境い目への興味はやがて、「1」はなにゆえ「1」になれるのかというところにつながっていきました。1、2、3、…というふうにものを数えていけるのは「1」が「1」になれればこその話であり、「1」を「1」たらしめる境界があればこそのこと。

 前書きに触発されたものの、オートポイエーシスについてはさっぱり意味がわからないままでした。それがはじめてほんの少しわかったような気がしたのは、郡司ペギオ幸夫さんの話をネット経由で聞いたときです。皮肉にも、オートポイエーシスに対する共感しつつの批判的検討のなかでの言葉だったと私はとらえています。

 オートポイエーシスは、外部との接触面にできる亀裂を想定していないから時間と無関係であるという話。亀裂とは、インターフェイス、痛み=傷み、ダメージのこと。

 一方で「主体性」へのこだわりもありました。教育の面では「主体的に学ぶ」ことについて考えたかったし、生活の面では「主体的に暮らす」ということを考えたかったのでした。

 生活の面においては、「主体的ではない」ということと消費社会が結びついていき、意外なところで「境い目」に出会いました。堤清二経由で知ったマージナル産業という言葉です。「一番端っこにあって、商品の性格が変わる場所にある産業」ということのようです。堤清二は、一番端っこの、商品の性格が変わるマージナルな場所で、消費者が自分を回復しやすい、個性の過程に入りやすいものを考えて提供するのは、流通業者として立派な役割ではないか……と考えていたようです。

 というふうに主体性にこだわっていくうち、逆に、主体性というものの不確かさに意識が向かうようになりました。そこには近代というキーワードがあったし、構造主義もからんでいました。

 少し雰囲気は違いますが、森田療法も自己と外界を考えるうえでヒントになります。森田療法は神経症の治療法のひとつであり、簡単に言えば、不安を排除しようとせずそのままにして、やるべきことをやっていくうちに不安が消えていくといったような、そういう治療法だと私は理解しています。その根底に「自分自身の中身に自分はダイレクトに手を出せない」という発想があるように感じて、それがとても面白いのです。また、「外相整えば内相おのずから熟す」という考え方もします。

 谷村さんの「物理学者のための圏論入門」p.5では、「圏論では、関係性があって初めて個性が定まるという考え方をする」という話が出てきます。言い換えれば、まず個性があって、それが関係性を定めるというわけではない、ということだと思うのです。そんな圏論の性質が、上記のような「境い目」への意識をバリバリに思い起こさせてくれるのでした。

[関連エントリ]

オート(自己)ポイエーシス(制作)と「境界」
0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考
「1」は数えられる対象を表す記号ではない
「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考
郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと
マージナル/意外なところで「境い目」に出会う
〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないということ/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(1)
「外相整えば内相おのずから熟す」―――形から入る
おまけ:「経験主義の二つのドグマ」、ホーリズムの基本テーゼ、「ふち」

圏論 | permalink

この記事に対するコメント

コメントする









  

サイト内検索