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数学と数学教育
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『圏論の歩き方』第12章/算数から現代数学へ

 『圏論の歩き方』第12章を読んでいます。

 私はかつて、アクリル毛糸で編むたわしに関する量の圏を作ろうとしたとき、こんなことを書きました。↓

 で、恒等射が難しいのですが、とりあえず1つの量を分母と分子とする分数を考えると「1」という数とみなせ、これが実質的に何を意味するのかは自分でもさっぱりわからないけれど、とりあえずかけ算においては他に影響を与えないので、恒等射の条件は満たしそうです。


 『圏論の歩き方』第12章の「molの話」でも、やっぱり恒等射は「1という数」になっています。そして著者は、大学で同期で数学を学んだというある友人の次の言葉を紹介しています。

「自分は小学校時代から,数1とは何か,ということがずっと引っかかっていた.1Lや1kgはわかるが,何の単位ももたない1が不思議だったのだ.恥ずかしながら,大学で数学を勉強して何年か経って,はじめて1とは何かはっきり腑に落ちた.それは,『なにもしない』というはたらき,つまり恒等射なのだ」

(p.200 ※ リットルの単位の表記を「L」にかえています。)

 「もちろんこれは誇張でしょう」というコメントのあと、次のように続きます。

しかし、数(より一般には量)を「矢印=射」として,あるいはまた「はたらき」としてとらえるという考え方は、たしかに教育の中で見過ごされがちだと思います.

(同上) 

 そして、著者が講義でとりあげたという、2つの話題が示されていきます。1つは分数について。もう1つは、(−1)^2はπ回転を2回繰り返して何もしないはたらき(=1)になる、といったような内容の話題です。

 分数のほうを見ていくと、5/3(分数の3分の5)は「5の1/3倍」なのか、「1/3の5倍」なのかと、小さな弟妹に聞かれたらどう答えるか、「どっちも」であることをどんなふうに説明することができるかについて、学生たちに問いかけながら説明していく様子が会話調で綴られていきます。

 そのなかに出てくる羊羹の図を描き起こしてみました。↓



 左の図は、羊羹を並列にたばねた図の網かけ部分を5/3として、これは「5倍して1/3倍したもの」であると同時に「1/3倍して5倍したもの」でもあることを示したものです。

 ここまでは算数の話だけど、大学で学ぶ線形代数においては、もはや2つの「正比例関係」の掛ける順序を無制限に入れ替えることはできないとして、非可換性という言葉が出されています。そうすると逆に、矢印の合成がいつ等しくなるのか、という問題が本質的になってきて、上記の右側のようなタイプの図(可換図式)が大切な役割を果たすようになる、と。

 このあたりで学生たちは、未知の用語が出てきてぼんやりしはじめるので、先生は慌てて数の話にもどり、(ー1)^2=1の話に入っていくのでした。(こちらの話は割愛します)

 著者が言いたかったことは、算数から現代数学への道を、「もの」としてだけではなく「はたらき」として見る、という見方の深まりとして捉えてはどうだろうか、ということです。

 そういう話になると遠山啓を思い出しますが、話のニュアンス(というか段階)がちょっと違うかもしれません。なお、『圏論の歩き方』第12章の参考文献では、銀林浩先生の書籍が含まれている関係で、遠山啓および数学教育協議会の名も確かに出てくるのですが、著者が銀林先生の本を読んだのは執筆後とのことで、念頭にあったのは別の本のようです(英語の書名が示されています)。銀林先生の書籍のほか、小島順先生の『数学セミナー』所収の文章も示されています。

 「もの」と「働き」と言えば、まさに遠山啓『無限と連続』の第2章がこのタイトルになっています。おもに群(そのもの)の話になっていると私は思うのですが、このブログのエントリとしては、別の本を参照して書いた次のことがらが近いので、リンクしておきます。↓

 近代の「関数」から、現代の「群」へ
 http://math.artet.net/?eid=1421656

 ついでに書いておくと、先ほどの羊羹で出てくる「分数」は倍としての分数、つまり割合としての分数ですね。このあたりについてもいくらでも話が広げられそうですが、いまは深追いしないことにして、ひとまずこれだけリンクしておきます。↓

 手島勝朗さん、杉山吉茂さんを手がかりに、「1あたり量」の問題点について再考する。
 http://math.artet.net/?eid=1422167


 一方、『圏論の歩き方』ではこんなふうに書かれてあります。
 たとえば,先ほどの講義で展開した話は,ちょうどモノイドを「演算の定義された集合」として見るだけではなく,「ただ一つの対象をもつ圏」として見ることに対応しています.つまり,群やモノイドの元を,(互いにいつでも合成可能な)「矢印=射」として見る,ということです。
(p.203)

 そうして、ケイリーの表現定理と、米田埋め込みが(語句だけ/欄外注あり)出てきて、くらくらくら〜なのでございます。
 
(つづく)

※ 読み落としや勘違いがあったときには、そのつど訂正させていただきます。
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