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数学と数学教育
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『圏論の歩き方』第2章から/要素を隠して、矢印で語る。

 では、さっそく、『圏論の歩き方』を読んでいきたいと思います。といっても、どこまで読めるんでしょうか、いまは見当もつきませんー。

 まずは第2章で定義の復習(ちなみに定義は第1章にも載っています)。"今の段階では「ふーん」でいいです” と書いてあるのですが、私は「ふーん」ではなく、「えっ」と思いました。

(category)とは,次のような4つ組C={OA,id}のことをいう.

({ }のなかの3番めの〇は、小文字のオーではなく、もう少し小さい丸です)

 かつてそれなりに勉強したので意味はわかりますが、もし勉強していなかった自分がこれを見たらどう思ったでしょうか。4つ組?……ってなにーーー!?という感じだったんじゃないかと思います。いや、勉強していた自分でもそう思います。フォーリーブスみたいなものかしら?と。(なつかしー)

 このあとは、4つ組のそれぞれがなんであるのか(対象、射、射の合成、恒等射)の説明と、結合律、単位律についての説明になっています。この約1ページ分の"定義”を理解するのに、かつてどれほど時間を費やしたことか。

圏の定義に出てくる「射」と「矢」 
圏の定義に出てくる「域」、「恒等射」
圏の定義に出てくる「合成」 
圏の定義に出てくる「恒等射(同一矢)」
圏の定義についての現段階での疑問点 
恒等射(同一矢)とはなんであるかをもう一度考える 

 以上の理解が正しいのかどうかいまだによくわかっていません。とりあえず私の圏論勉強のプロセスとしてリンクさせていただくものでございます。

 そのあと集合と関数の圏Setsに進み、ここであることを再確認しましたワタクシ。圏Setsにおいて大切なのは、集合の要素x∈Xが(少なくとも直接的には)現れていない、ということ。

 先日も書いたように、この本が到着する前に、谷村省吾『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何〜双対性の視点から〜』(2006年/サイエンス社)を再び開いていたのですが、「第5章 圏論」の mono についての説明を読んでいるときに、ハっとしたことだったので。気づいてしまえば「いまごろー!?」な話ではありますが。以下、p.122より。
 圏論は集合よりも写像を優先させると言ったが,集合論における基本的な概念,例えば「写像が単射である」といったことを,集合の元に言及することなく表現することができるだろうか?
(ちなみに谷村さんは「モノ(monic)」と表記されていますが、私は「物」としての「モノ」という表記もよく使っていて紛らわしいので、今後は mono と書きます)

 以前、monoを勉強したときには、定義と具体例から考えようとして頭がこんがらがってしまいました。そうではなくて、単射を「要素、元」という言葉を使わずに表現するにはどうしたらいいのか?と考えていけば、以前よりも mono がつかめるのではないか…ということに、ようやく気づいたしだいです。もっとも、monoを定義した人(←だれ?)のもともとの発想はどうであったのか、私にはわかりませんが。

 単射とは、異なる要素に対して、その行き先が重ならないような関数ですよね。ということは、行き先が同じなのに、そのもとが異なっていた、ということはないわけですよね。

 つまり、関数 f が単射じゃなかったら、「違う道筋でそこにたどりついた」ということも起こり得るんだけど、単射だったらそんなことはない。たとえば、学校に行くときに、郵便局の前を通る道と図書館の前を通る道の2つがあると、「学校に着いた」という事実だけを見たとき、そのどちらの道を通ってきたのかはわからない。

 でも、学校に着く道が1本しかなくて、その道はかならず郵便局から続いているのだとしたら、学校に着いたという事実だけで、その人は郵便局の前を通ったことがわかる。

 ということは、ある人が学校に着いたのだとしたら、必ず郵便局の前を通ったということになる。郵便局の前を通りさえすれば、どこから郵便局までたどりついたかは関係ない。言い方を換えると、その人が郵便局の手前にある駅を出て学校に着いたとき、その人は必ず図書館の前を通ったのだとすれば、学校に着く道は郵便局から続いていることが確定する、と。

 なんだか比喩が限界になってきてしまいましたが、とにかく『圏論の歩き方』では、monoの定義のところに「左キャンセル可能」という言葉がかっこがきで添えられていて、なるほどこの言葉はわかりやすいと思いました。

 実際には、f、g、hの3つの関数でmonoは定義できるんだけれど(fg=fh ならば g=h)、g、hがそれぞれ合成関数であってもかまわないわけですよね?(本にはそんなことは書かれてありませんが)

 つまり、「駅から学校に着いたのだったら(fg=fhならば)、その人は駅から郵便局まで進んだ(g=h)」ということと、「郵便局の前を通らずして学校に行く道はない(f は単射)」ということは同じことを表している、と。なぜなら、学校に行くには必ず郵便局に前を通らないといけないとしたら、駅を出て学校に着いた人は、必ず駅から郵便局まで進んだわけなので。

 こんな理解でいいのでしょうか?

 なお、epi(「全射」に対応する概念)についても同じ発想で考えていたら、これまた「いまごろー!?」な感想が出てきました。「圏論って、もしかしたらかなり抽象的なもの?」と。だって、要素や元を使わずに語るには…というふうに頭の中で矢印をいじっていると、「なにがどう関わっているのか」の「なにが」ではなく「どう」に気持ちが向かっていくので。

 そうして思い出したのが、このエントリです。↓

倉田令二朗が、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」という、その意味
http://math.artet.net/?eid=1421664

 倉田令二朗さんの気持ちが以前よりわかるのと同時に、でもやっぱり、「現代数学観」はともかく、遠山啓が考えていたことは反圏論的ではないのではないか…と、あらためて感じています。この文章ももう一度読みなおさなくちゃな。

(つづく)
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