TETRA'S MATH

数学と数学教育
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先に書いておく、遠山啓と田辺元の少しのつながり

 遠山啓関連の本のなかで、田辺元の名前を一度だけ見かけたことがあります。著作集の数学教育論シリーズ5『量とはなにか―機p.37。外延量・内包量という言葉は遠山啓の新造語ではないことを説明するにあたり、田辺元『数理哲学研究』を例にあげているのです。

 遠山啓が1960年頃に数学教育ではじめてこの言葉を使ったとき、やたらに新しい術語をつくるのは不届きだという意味の非難を受けたそうなのですが、その非難は見当ちがいであり、こういうことをいう人こそ自分の不勉強を恥じるべきであると遠山啓は述べています。「それと同時に従来の数学研究で量の研究がいかに等閑に付されていたかの証拠でもある」と。

 しかし、遠山啓は哲学者をひきあいに出したあと、哲学者の説明は厳密でないうらみがあるとして、数学者ワイルの定義を示すのでした。

 とりあえず、遠山啓が田辺元の著作に触れているのを見たのは、私はこの箇所だけなのですが、もしかするとその他の文章でもちょろっと出てきているということはあるかもしれません。

 いずれにせよ、遠山啓が田辺元に(頻繁に名を出すほど)傾倒していたということはなさそうな気がするし、強い影響を受けたということはないような気がしているのですが(←私の勝手な想像)、だとしても私の田辺元に対する興味は、遠山啓に対する興味とつながっているんだろうなぁと予想しています。

 はやい話、「内包量」あるいは「内包」ということについて考えたいのです。

 もう一度、いま私が考えたい2つのことを書き出してみます。

● 積分的であることを拒否し、微分的であることに徹する

● 「時間軸」というものは、決して大域的に鳥瞰することは適わないものである

 この2つのことに対する私のイメージは自分のなかでけっこう強まっているのですが、それをもう少し深く豊かにしたい、他の方と共有できるように表現したいというのが、いまの自分の願いなのでした。

 遠山啓の話をもう少ししておくと、「量圏」のその先と、森ダイヤグラムで書いたように、遠山啓と森毅の微分に対する視点は違っていたようなのです。その視点の違いとは、微分することを商のかたちでおさえるのか、積のかたちでおさえるのかということ。

 具体的にどのような考えに基づいて遠山啓と森毅がそれぞれの主張をしたのかまでは確認できていませんが、もしかすると、上記の「微分的であることに徹する」ということと、「微分することを商のかたちでおさえる」ということは、無関係ではないのかもしれません。

 なお、いま私が考えたいことは、外延量・内包量を初等数学教育に持ち込むことの意味ではなく、それを教育に持ち込んだ遠山啓の功罪について考えることではないことを付記しておきます。

(つづく)
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