TETRA'S MATH

数学と数学教育
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わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび

 前回に引き続き、過去のエントリをふりかえっての補足です。

 2011年8月に、一応、岡潔『春宵十話』というエントリを書きました。

 で、昨年12月下旬、このなかの次の話をnoteのテキストに書こうとしたのですが……
この夏、「おじさん」からきいた話でいちばん印象に残ったのは、「わかる」ということについてでした。「おじさん」がどういう言葉を使ってどう説明したかはもはや覚えていませんが、わかるときには、自分ではっきりわかる、○とか×とかつけられる前に、それが正しいのか間違っているのか、自分でわかる。おじさんはそんなことを語っていましたっけ。だれかに正しいかどうかみてもらわないと、正しいのか間違っているかわからないのであれば、それはまだわかっていない。
 いざ書こうとすると、「あれ、岡潔、そんなこと言ってたっけ?どこで言ってたっけ?」と疑問に思えてきたのです。なので、確認しておこうと思い久しぶりに『春宵十話』をめくってみたのですが、該当箇所が見つけられず…。最初から最後まで読んでみても、結局見つけられず。

 たしかに、「わかる」ということについて岡潔は語っていますし、上記のことはまったくの勘違いというわけではなさそうです。でも、ニュアンスがちがう。話の深みが違う。

 というわけで、「わかる」ということについて岡潔がどんなことを語っているのか、本文から抜き出してみることにしました。岡潔『春宵十話』(光文社文庫/2006年)


「春宵十話−情操と智力の光」より
 私は数学教育にいくらかたずさわっている者として、高校までの教育の担当者に一つだけ注文したい。それは、数学の属性の第一はいつの時代になっても「確かさ」なのだから、君の出した結果は確かかと聞かれた時、確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしいということである。
(p.49)
 室内で本を読むとき、電燈の光があまり暗いと、どの本を読んでもはっきりわからないが、その光に相当するものを智力と呼ぶ。この智力の光がどうも最近の学生は暗いように思う。わかったかわからないかもはっきりしないような暗さで、ともかく光がひどくうすくなった。
(p.49〜50)
 これはただちにわかるはずの自家撞着が、人に指摘されなくてはわからないという程度の暗さである。
(p.50)


「無差別智」より
 無差別智は純粋直観といってもいいし、また平等性智といってもいいが、一言でいえば自明のことを自明とみる力である。これがあるから知能に意味があるので、これを無視した知能の強さというのは正しくいえば「物まね指数」にすぎない。だからこの力が弱いと何をいわせてもオウムのようなことしかいえないし、自分自身の自明の上に立てないから独自の見解など全く持てないことになる。そうなると限りなく心細くて、必死に他の自明にすがりつき、ただ追随し雷同するばかりである。
  陽炎や墓より外に住むばかり(蕉門)
  浮草や湯の沸く岸により茂る(虚子)
「みなが違うというのだから違うのかなあ」というふうである。これに対してこの智力があればいつでも自説が立つわけで、ガリレオが時代に先んじて真実を主張できたのもこの力があったためである。
(p.84〜85)


「三河島惨事と教育」より
 少なくとも機械をさわる人は、自分の判断によって、ここまでは確かで間違いないというところまでできるほどにしておかなければ、惨事はこれからもきっと起る。(中略)
 いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答が合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。(中略)
 答案などというものは、生徒に書かせるよりも本当は先生に書かせ、それが合っているかどうかを生徒が調べるほうがよいと思う。そうすれば自分で判断する訓練になるに違いない。答案は書けなくても意味はわかるという子供ができればそれでよいのだ。
(p.110〜111)


「義務教育私話」より
 黒板とか、鉛筆とか、紙とかいう外物に頼っていると、計算しなくては正しさがわからないとなる。これでは闇夜の中をちょうちんもなしに歩いているのと同じで、いつまでたっても闇夜から抜けられないだけでなく、闇は深くなる一方である。しかも昼というものを知らないから、それが闇夜であることに気づかない。
(p.135)


「数学を志す人に」より
 ところであなた方は、数学というものができ上がってゆくとき、そこに働く一番大切な智力はどういう種類のものであるかを知らなくてはなりません。それにはやはりポアンカレーの「科学と価値」が大いに参考になると思われます。この中でポアンカレーは数学上の発見が行なわれる瞬間をよく見る必要があると述べて、自分の体験からそれはきわめて短時間に行なわれること、疑いの念を伴わないことを特徴としてあげています。
(p.155〜156)
 また例をあげましょう。私が中学生のころ、数学の試験は答案を書き終ってからも間違ってないかどうか十分に確かめるだけの時間が与えられていました。それで十分に確かめた上に確かめて、これでよいと思って出すのですが、出して一歩教室を出たとたんに「しまった。あそこを間違えた」と気づくのです。そうして、しおしおと家路につくのです。たいていの人はそんな経験がおありでしょう。実は私などそうでない場合のほうが少ないくらいでした。教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。
(p.156〜157)
 別のいい方をすれば、絶えずきれぎれの意志が働き続けるのが大脳の過熱で、この意志が大脳前頭葉に働くのを抑止しなければ本当の智力は働かないということです。この本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力で、いわば無差別智であります。自分が知るというのでなく、智力のほうから働きかけてくるといったものです。これにくらべれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたものといえましょう。
(p.158〜159)

 ということらしいのです。智力、純粋直観、本当のものがあればおのずからわかるという"わかりかた”。

 山口昌哉先生が『数学がわかるということ』で数学者のエピソードを紹介しておられるのは、岡潔の話だったのではないかと私は推測しています。あくまでも推測です。そういう人は他にもけっこうたくさんいるかもしれず、なのでそういうエピソードを紹介している数学者は他にもいるのかもしれないのですが…>山口昌哉 『数学がわかるということ』・2/何かがわかる瞬間
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