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数学と数学教育
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芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(6)/質疑応答(その2)

 芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書いています。

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店)

 http://www.ashida.info/blog/2013/11/post_427.html

 上記のページからもいけますが、YouTubeはこちらです。↓
 https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws



 質疑応答おふたりめは、キャリアコンサルタントの方ですが、この方とのやりとりについては芦田宏直さんに出会った経緯と、第一&第二印象でも書きましたので、そちらを読んでくださいませ。

 なお、1時間20分後くらいから本間さんがフォローしておられます。本間さんは、学生の状況にもよるので一概には言えないこと(個別に対応することの必要性)と、キャリアコンサルタントがいたからこそ希望の会社に入れた学生もいるのだから、全部を否定しないほうがいい、とおっしゃっています。このおふたり(芦田さんと本間さん)、ほんとにいいペアですねぇ。考えも語りも対照的なので、ちゃんとセッションになってる。

 そして3人め。「芦田さんの理想としているコアをもった新人とはどういう人なのか、芦田さんはそのような新人にどんなチャンスを与えたいのか」という質問です。つまらないものが面白いと思えるような力を身につけさせたいのか、つまらないことを継続することによって、世の中を生きていけるようにさせたいのか、と。(私が省略&補足しているので、正確な表現ではありません)

 この質問に対する芦田さんの返答は、長い時間の体系的な教育を受けてきた人は、世間の風評や世評で物事を判断しない力がついている、というもの。社会的なニーズというのは、みんなが反対しないものについていくということとわりと似ている。たくさん売れるものは何かについての感覚をもっている等。短い時間は刺激と反応の体系がはっきりしているが、長くなれば長くなるほどわからなくなっていく。わからなくなっていくということをポジティブに言うと、自立的に判断できる力がある、ということ。

 私も、それが教育の根本的な役割だと思っています。だからこそ、学校という「聖なる領域」「純粋な空間」がなくなることは、とても怖いと思うわけなのです(>)。

 芦田さんは、長い時間の教育というのは、すぐにアウトプットしないということなのだけれど、キャリア教育というのは、わりと短い時間で役立つようなカリキュラムにしかならない現状になっている、と指摘します。小学校から大学卒業まで長い時間をかけるということは、それの使用・利用・アウトプットを禁欲した状態を体験させるということ。これは、偏見やもろもろの述語で主語を形成をしない、そういう力を着々と身につけさせるということだ、と。そして社会に出るときには新しい世代として出て行く。

 若い人のいちばんのパワーは、先人たちがつくったもろもろの述語や、偏見や先入見やひとつの傾向に対して、相対的にクエスチョンマークをつける力をもっているということだと芦田さんは語ります。しかし、いまのコミュニケーション教育やキャリア教育というものは、いかに反応優位な人間をつくるかという方向に走っているので、新しいものを作るパワーがない。似かよったものを自分の個性と思ったり特徴と思ったり、アピールしたりしている。いまの社会接続におけるコミュニケーション能力論は、長い時間のコミュニケーションをまったく想定していない、と。

 なお、芦田さんは、自立的にものを判断できるということは、自分で思考するということとは違う、という補足もされています。フォークナーだったらここでこう言うだろう、ハイデガーならどう考えるか、ということがすぐに想像できる、それが自分が言うところの自立的に判断するということだ、と。

 この回答に対して質問者の方は、「長い時間をかけた学習は学校ではなくてもできるのではないか」と重ねて質問されます。芦田さんは、長い時間をかけた学習をどこでもできるという観点で考えると、それをするには修行僧のような主体を形成するしかない、あらゆる誘惑に打ち勝って集中する力がいる、と答えます。

 で、このあと堀江貴文さんの話が出てきます。「ホリエモンでさえ、監獄にぶちこまれたら1000冊本を読めた」と。学校は監獄、懲役十何年。これはメタファーでもなんでもない。(ちなみに『ゼロ』の話題も出てきますが、あれは売れないわけにはいかない本だったようですよ〜>https://cakes.mu/series/1505

 3人めの方との質疑応答の内容は、おおよそこんな感じです。

 さて。

 『努力する人間になってはいけない』の第9章の感想を生活ブログのほうに書いていたのですが、そのなかで私は自分のためのメモをしたところがありました。

 まずはそのメモをそのまま抜き出してみます。

  ここで自分のためにメモ。この話のあとで(p.294)、
  フッサールに対して悪口を言う人は、
  あいつは哲学者としての素養がない、
  デカルトもカントもまともに勉強していないと言うが、
  ちゃんと正統派の哲学を勉強しなかったからこそ、
  「現象学」を確立することができたと言えるかもしれない、
  というようなことを芦田さんは書いているが、
  矛盾している(機能主義的な発想が入り込んでいる)
  気がするのは、私の読み込みがたりないせい?

  それから、私はクワインのことも思い出したのだけれど、
  さて、このことと「教育」を考えあわせると、
  どういうことになるのでしょうね。
  「正統派の勉強をしたこと」も
  「正統派の勉強をしなかったこと」も
  〈環境〉ではないのだとしたら……  

 第7章の感想(2)で示したように、〈学校教育〉に「上から」の「権力」が存在するとすれば、それは親や地域の影響という地上性を払拭するためのものだ、ということを芦田さんは書いておられて、なるほどなぁとしみじみ思ったのですが、果たして「時代や社会」の影響も受けずにすむのかと突っ込んで考えてみると、なかなか難しいものがあるなとあらためて思います。特に、時代。

 芦田さんの言う「社会」は、現状のキャリア教育の視点での「社会接続」の「社会」だと思うので、こちらはひとまずおいておきます。しかし、「時代」はなかなか難しいのではないか、と。

 末端的な話でいえば、学習指導要領などで「教育の内容」は変わっていきます。学習指導要領ではなくても、体系的な教育、カリキュラムのある教育をしようとする場合、そのカリキュラムは時代とは無縁ではいられないのはないか、という疑問があるわけなのです。そもそも、学問は時代から自立しているのか?

 もちろん、最終的には、引きはがすことが目的なのではなく、引き受けなおさせることが目的なのだと思うので、完全に時代からはなれる必要はないし、それは不可能だと思うのですが、親や地域という地上性はいったんもろに引きはがすことができるのにひきかえ、学校教育がやっていることは、「時代」から引きはがすことなのではなく、家庭生活、社会的生活とは別の形で時代を受け入れさせることなのではないか、と思うわけなのです。「体系的」な教育であればなおのこと。

 かつて、理科教育における構成主義に関する野家啓一さんの以下の論文をリンクしたことがありました。
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006664604

 ほんでもって、「理科教育の構成主義についての野家啓一さんの文章(2007年)を読んで、いまさらのように気づいたこと」で引用した次の部分について、再び考え込んでいます。(記事自体は削除済)
 

 むしろ小中学生に必要なことは,常識的な世界観や科学像をきちんと学習し,身につけることの方であろう.(中略)パラダイム転換は数百年に一度の稀な出来事であり,科学の歴史のほとんどは「通常科学」の時期だからである.通常科学は既存のパラダイムを受け入れるところから始まる.そしてパラダイムは権威ある「教科書」によって,あるいは実験や観察の実地訓練によって学ばれるのである.

 
 「常識的な世界観や科学像をきちんと学習し,身につけること」というのは、芦田さんのおっしゃる「長い時間をかけて行われる継続的で体系的な学校教育」に対応するものだと思います。これは、いまの時代の“常識的な”世界観や科学像なわけですよね。

 で、肝心なのは、芦田さんもおっしゃっているように、「世評に左右されず自立的に判断する力をつけること」だと私も思うのですが、そのためにもっとも大切なことは何かというと「道筋を追える」ということなんじゃないかと考えています。道筋を追う対象は既存のパラダイムであってかまわない。しかし…というかだからというか、「既存のパラダイム」を問答無用で受け入れさせる(問答無用で受け入れることのできる人間を育てる)こと、学校教育の意味ではないと思うのです。それでは〈新人〉は育成できないと。

 それをいったら〈新人論〉という発想がすでに「時代」と無縁ではいられないのかもしれません。芦田さんの議論には時間論が深く関わっていると思うので、そこのところを含めいつかまたゆっくり考えたいです。 

 しかしあれですね、既存のパラダイムを骨の髄までしみこませていたからパラダイム転換できた人もいれば、それを知らなかったがゆえに新しい発想を出せた人もいるのかもしれませんね。温故知新か、知らない強さか。

(以上は、1時間15分後〜1時間31分後の感想です。)

(つづく)

 

 

〔2018年4月30日:記事の一部を削除・修正しました〕

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