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数学と数学教育
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芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(1)

 芦田宏直さんに出会った経緯と、第一&第二印象で話題に出した、芦田宏直さんと本間正人さんのトークセッションの感想を書くところまでようやくたどりつきました。まずは芦田さんのブログの該当ページをリンクします。↓

 芦田宏直×本間正人 トークセッション
 『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』
 (芳林堂高田馬場店) 

 http://www.ashida.info/blog/2013/11/post_427.html

 上記のページからもいけますが、YouTubeはこちらです。↓
 https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws



 本間正人さんという方を私はこのたび初めて知りました。京都造形芸術大学の先生で、コーチングの第一人者とのこと。コーチングについては生活ブログでちらっと名称を出したことがありますが、どんなものか私はまったく知りません。知らないままに(つまり本間正人さんのお立場を理解しないままに)、とりあえずこの動画から感じとれることだけを拠り所にして感想を書いていきます。

 まず、開始4分10秒後くらいで、本間正人さんが、芦田宏直評をひとことで言えば「哲学者である」とおっしゃっているのがとても印象的でした。多くの大学の授業において、哲学というのは思想史になっていて、文献研究で終わっているけれども、芦田さんはいまどきめずらしい「哲学者」なのではないか、つまり「哲学する」という動詞をやり続けている人なんだろうと思う、と。

 本間さんは(一例として出されたのかもしれませんが)まさしく「ヨーロッパの……」という言い方をされています。くしくも「哲学が哲学ではなく哲学史になっている」ことは、永井俊哉さんが「英米系哲学の魅力」で指摘していたことでした。↓
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/anglophilosophy.html


 そのあとで、「ある人から見れば愛情、ある人から見ればとんでもないお節介」と語っておられるように、この方(芦田さん)はホントーに「愛あふれるおじさん」です。それこそ、いまどき珍しいほどの愛情。私は『努力する人間になってはいけない』の一部を読んでしみじみそう思いました。私なんかよりよっぽど若者への愛情が深い、と。

 その愛の深さ・強さゆえ、時として頭ごなしの頑固親父に見えることがあるかもしれませんが、頑固親父の話はちゃんと聞いてみるとスジが通っていたりするので、ちゃんと聞かなくてはなりません。

 で、いよいよキャリア教育について。

 大学全入時代の現在、ひとくちに大学といってもいろいろなタイプ・レベル(偏差値)があり、大学に残って大学の先生になるような人たちを養成するところもあれば、そうではない大学もあり、大学に行く準備ができていない人が入るような大学もある。
 
 そのような状況にあって、大学教育と社会の連結はどうあるべきか、職業教育はどうあるべきか。キャリア教育の問題というのはつまり、「学校教育と社会の接続性」の問題だ、というわけです。

 私は基本的に、キャリア教育に大反対している芦田さんの意見に賛同するのですが、本間さんの「キャリア教育を全否定されるのは辛い」という言葉も胸にしみます。学校はこうあってほしいという希望が心のほとんどをしめる一方で、「そうは言っても…」という気持ちがどこかにあるのも確か(割合としては99:1くらい)。

 娘が小学校のうちは「なんだか不安だなぁ」くらいですんでいたキャリア教育も、これから先、中学、高校、そしてその先に進むなかで、「なんだか不安」ではすまされない問題になっていきそうだということを、まさに『努力する人間になってはいけない』で知らされたわけです。だからなおのこと、考えなくちゃいけない。キャリア教育の何が問題で、可能性があるとしたらどこにあるのかについて。

 芦田さんは開始16分後くらいで、「何のために勉強しているのかということを生徒に問わせてはいけない聖なる領域が学校」と語っておられます。私もそう思います。「何の役に立つの?」と児童・生徒が問うてきたら、教師はその問いに答えようとするのではなく、自分の授業を総点検しなくちゃいけない、そういう機会なのだろうと思います。(って、いつものことながら″言うは易し”を承知で書いています)

 なので、「何に役立つかという問いを一切禁じて、長〜いインプットの状態を、継続的に若い人たちに提供していくのが、新しい世代の形成の場所としての学校教育の意味だ」という芦田さんの意見には大いに賛同します。が、その途中ではさまっている「体系的に」というところが、具体的に考えていくとこれがなかなか難しいと思うということについて、前回書きました

 ちなみに、こんなときにこんな話題を出すのもあれですが、上記のような意味合いにおいて、「かけ算の順序問題」を「算数のガラパゴス性」という言葉を使って批判しようとするとき、下手をすれば的外れな視点になってしまうと私は思っています(伝票の書き方もわからない非常識な大人になる、といったような話)。

 とにもかくにも、芦田さんがおっしゃる、学校教育という「聖なる領域」「純粋な空間」―― 社会から隔絶された空間 ―― が世の中からなくなってしまったら、それは本当に怖いことだと思います。完全になくならないとしても、公的空間(公教育)としてそれがなくなって、多額のお金を払わないとそのような空間に入れなくなるとしたら、それもまた怖い。なんとなくそうなりつつあるような気がして、不安なのだと思います。勉強する場所がなくなってしまうという不安。

(以上は、開始〜20分後の感想)

(つづく)
〔2018年4月30日:記事の一部を削除・修正しました。〕
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