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数学と数学教育
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系統学習のこととあわせて(まとめ)/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(5)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ------中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

 を読んできました。今回で第7章は一区切りです。

 芦田さんは、「誤解を恐れずに言えば」というかっこ書きつきで、学校教育の基本モデルは〈家庭〉だと思えばいい、と書いておられます。どういうことかというと、親は子供を〈子供満足〉のために育てているのではない、ということ。〈親〉は文字通り子供の″生産者”なのだから。

 この〈子供満足〉という表記は、その前にある〈顧客満足〉を受けているのだと思います。この「顧客満足」の反対語が、まさに「教育」である、と。

 「顧客」というマーケティング概念は〈消費者〉という概念が成立して以来のものであり、そもそも〈マーケティング〉という領域そのものが《消費者の時代》の到来と分かちがたく結びついている。《消費者の時代》とは、個人消費が国家の総消費の50、60%を超える時代のこと。1回で億単位のお金が動く大企業の設備投資よりも、デパート、スーパー、コンビ二、行楽地などでの個人消費の方が消費額として上回る時代のこと。

 そして《消費者の時代》というのは、生産が消費の前提ではなく、消費が生産の前提、消費が新たな消費を生み出す時代である。生産の前提となるような〈不足=欠如〉は、高度な消費大国では存在していない。

(私はこの部分を読んで、「ほしいものが、ほしいわ。」という1980年代の西武百貨店のコピーのことを思い出しました>http://math.artet.net/?eid=1351575)。

 何重にも記号化され、シンボル化された消費が、人々の消費行動を規定している。〈消費者〉〈顧客〉とはこういった人々のことを言う。なので、〈顧客満足〉とは、〈不足=欠如〉(※本では欠乏とありましたが欠如で統一しました)や〈必要〉を超えた消費者、自立した消費者としての〈顧客〉の"満足”を意味している。

 つまり生産に従属しない主体的な消費者=顧客の″満足”を意味している。

(p.201)

 〈学校教育〉の対象は、すべて〈顧客〉ではないと思う、と芦田さんは語ります。〈学校教育〉の対象は、〈生涯教育〉でいうところのような〈主体〉を持たない。主体を形成するために教育を行うのが〈学校教育〉であって、教育目的の形成は教育する側に委ねられている、と。

 したがって、〈学校教育〉は、学生の〈不足=欠如〉(=主体以前の欠如)に定位した生産型の教育を行う場所であって、〈消費者〉としての″受講生”を想定しているわけではない。社会がどんなに高度化しようと、〈学校〉は非消費的な場所である。

 これまで自分が興味をもってきた教育の問題と、消費社会の問題がこんなふうにつながるとは思っていなかったので、目から鱗でした。特に大学や専門学校といった高等教育の問題を考えるときに、ともすれば学生が〈顧客〉になってしまう、〈顧客〉扱いされるということが起こってくるのでしょう。

 つまり、〈学校教育〉の〈教員〉とは、社会的な〈親〉である、ということ。〈親〉が子供満足のために子供を〈育てる〉のではないようにして、〈教員〉や〈学校〉にとって、子供(児童・生徒・学生)は〈顧客〉なのではない、と。

子供は他動詞として学ぶことの中で、つまり〈対象〉に没入することの中で学ぶことの目的を見出し、〈主体〉を形成していくのである。〈学ぶ主体〉の〈学び〉が先にあるのではないのだ。

(p.212)

 この本を読んでいると、教師って生半可な気持ちでできるもんじゃないなぁ……と思うのと同時に、なんてやりがいのある仕事なんだろう!とも思えてきます。この道に入りかけて結局入らなかった私が言えたことでもありませんが、これから教師になろうとしている若い方々には、是非この本を読んでいただきたいです。

 さらに、芦田さんの提案を真摯に受けとめ、それを実践するのであれば、カリキュラム研究というものがもっともっと必要になってくるよなぁと思いました。そして算数教育の歴史について、もう一度考えなおさなくてはなりません。

 なぜならば、系統的な学習の必要性は、もう50年も前に主張され、1960年代に「教えの系統性」は熱心に研究され、そして実践されてきたので。で、それではうまくいかなかったという歴史的経緯があるわけなので。なぜうまくいかなかったのか。ここで今一度、汐見稔幸さんの指摘を思い起こしてみます。以前は引用しなかった部分もあわせて。>経験主義と系統主義の双方に潜む困難

系統主義とは、子どもの内面(主体)と社会や自然(客体)との間には,自然発生的には埋められない溝や矛盾があり,主体はときには禁欲してまで,その客体固有の論理をそれに固有のしかたで取り入れる(内面化する)必要がある。しかもその客体固有の論理は系統的,論理的に構造化されているので,その構造に沿って教えるのが合理的であるとする考えである。

(『時代は動く!どうする算数・数学教育』国土社/p.70)
 

つまり,外から持ち込む学習材に関するかぎり,「順次性」や「系統性」が保障されれば客体の論理と主体の論理の間に矛盾や溝はさして存在しないで同型性を保ちながら学習は進む,ということを系統主義は前提としたのである。

(同p.71)

 芦田さんの本を読んでいると、「哲学をやってきた人は違うなぁ」なんてことを思うのですが、やはり(ちゃんとした)教育学者も侮れません。

 そしてカリキュラムを考えるうえで、1970年代に(1968年指導要領で)現代化に失敗したという経験もなかったことにはできないわけです。遠山啓は現代化の失敗(その原因は「集合」などをとりいれたためではなく、古い教材の切りすてを行わなかった点にあると分析している)をふまえ、1978年にこんなことを語っています(丸付き数字をかっこ付きかえました)。↓

いま,われわれがとくに力を入れてやらねばならないことはつぎの二つのことである。

(1)-----数学と,その隣接諸科学の全領域を見わたして,教育内容となりえるものを拾いあげて選択の対象にする。
(2)-----上記(1)によって拾いあげられた多種多様の内容からごく少数のものを選びだして,体系化する。

(遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5『量とはなにかー機p.281)

 もっともな提案だと思うのですが、いま現在「数学と、その隣接諸科学の全領域」を見わたせる人は、どこにいるのでしょうか。そして、そのなかから何を根拠に、どうやってごく少数のものを選びだせばいいのでしょうか。もし、これ以外の方法があるとしたら、それはどんな方法なのでしょうか。だれがそれをやってくれるのでしょうか。いまの体系は、歴史的な流れをくんで、ちょっとずつ変えているものだと思うから(少なくとも小、中学校については)。いまの体系に大きな問題がないのであれば、あとは「有機化」の問題ですよね。

 前回示したように、芦田さんは、大学の基礎教育は4年次の仕上がり目標から逆算されて作られるべき、ということを書いておられます。ぶつ切りの授業構成ではなくて、だれでも階段をあがっていけるよう、積み上げ型教育をしていくためにはこのような目標と逆算が必要なのだろうと思います。大学の場合、各学部に分かれて入学し、各専攻に分かれて卒業していくのだから、それも可能でしょうし、必要なことでしょう。

 しかし、高校卒業時、あるいは中学卒業時に、進路に関わらずすべての生徒に共通した「目標」とはなんなのか。いま実際に設定されている「目標」は「目標」たりえているのか。それを考えていくと、なかなか難しいものがあるなぁ、という気持ちになってきます。

 さらには、高校や大学を選ぶとき、あるいは学部や専攻を選ぶ段階において、学ぶものの〈主体〉なしということはありえないのではないか、と私は思っています。それとも、進路さえも教師に示してもらうべきなのでしょうか。この大学のこの学部に行きなさい、と。

 なにしろ高校卒業時に〈主体〉を形成できなかった私は、志望校を選ぶのにすごく時間がかかってしまったうえ、大学卒業時にも〈主体〉が形成されておらず、ついに教員の道を選ぶということをしませんでした。(>

 だからいまごろ考えたくてしかたなくて、50歳手前にもなって「主体」ってなんだろう?などとをうだうだ考える毎日を送っているのかもしれません。まったくそんな時間があったら働けよと自分でも思いますが、もうどうにもこうにもダメみたいです。

 以上、芦田宏直『努力する人間になってはいけない』の第7章を読んできました。親子ブログで書いているキャリア教育の諸問題は、第8章に関するエントリはまだ1つですが、生活ブログで第9章についてけっこう書いています。図書館の都合で今回3週間借りられて助かったのですが、あした返却しなくちゃいけないのでいま焦っています〜(今回、経済的都合で購入までいきませんでした…でも、期間がかぎられていると集中していいかも…)。公開したとたんに間違いに気づくこともあるので、できれば本が手元にあるうちに公開しておきたい。

 というわけで、第7章についてはこれで一区切りです。

 あとはトークセッションの感想を書かなくちゃ(^^)
芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第9章 | permalink
  

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