TETRA’s MATH

<< 大学の「大綱化」(1991年)が引き起こしたもの/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(3) | main | 系統学習のこととあわせて(まとめ)/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(5) >>

現在の高等教育の問題点と、初等教育における発表型・討論型の授業について私が思うこと/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(4)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ―― 中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいます。

       *     *     *

 前回、大学の大綱化について書きましたが、そのなかで「討論型、体験型授業の流行」の話にちょっと触れました。この部分をもう少し詳しく読んでいきます。

 芦田さんは、コミュニケーション能力、問題発見・解決能力、人間力養成といったことを目標とするハイパー・メリトクラシー教育は、真剣に取り組もうとすればするほど「学際的」になると書いておられます。

 ここでいう各種「○○力」は、インプット型の知識や能力ではなく、アウトプット型の実践的な能力なので、総合的な能力になり、その分「学際的」になる、と。そして、授業形態としては、演習、発表型、調査型、議論・討論型、体験型、ワークショップスタイルになる。

 いまの高等教育の一番の問題は、大学教育も専門学校教育も、積み上げ型のカリキュラムになっていないことであり、大学教育の場合は教養主義的な科目単独主義がそれを阻害し、専門学校の場合は資格主義的な暗記教育、過去問教育がそれを阻害している、と芦田さんは指摘します。

 現在の私立大学カリキュラムは、バイキングレストランみたいなカリキュラムになっているそうです。なんとなくカルチャーセンターを彷彿とさせる話です。「お好きな講座をお選びください」みたいな感じで。そうなるとたしかに生涯学習っぽくなっていきますね。

 そんなこんなで、必修科目であっても積み上がっていかなくて、概論講座のオンパレードになってしまっているという現状があり、百歩譲って「体系的」ではあっても「有機的」ではない。大学進学率が20%程度の時代の大学生なら、概論講座を受講しても、それを滋養として自分の目指すべき専門性に特化していく能力を持っていただろうけれど、ここまで大衆化した大学生では、この種の概論講座は「国語・算数・理科・社会」なみの一般教育にしか見えず、魅力的なものに見えない、と。

 さらに、最近では「リメディアル教育」も盛んになってきて、中学校・高校の復習授業を厚く用意する大学が出てきており、中学校・高校で勉強の苦手だった大学生たちは、ふたたびつまらない授業を受けることになる。リメディアルな「基礎教育」も、それを元にして積み上がる先の科目との連携など何も取れていない。基礎教育は4年次の仕上がり目標から逆算されて作られるべきなのに、4年生の専門ゼミの教授たちは、基礎教育課程にそもそも関心がない。

 結局、専門ゼミ教授たちは「基礎学力の低さ」に苦情は言いますが、基礎教育のあり方に関心はない。もちろんそれを担う気もない。昔は「概論」教授と言えば、その学科を代表する名誉教授級の先生が担っていましたが、いまでは、「『概論』くらいは誰でもやれるからあなたやってよ」みたいな乗りで新人専任教員がやる始末。概論教授ではなくて教授概論になっているわけです。終わり(出口や目標)を知り尽くしているからこそ、始まり(入門)を適切に誘導できるというのが、真正な「概論」教授の意味ですが、その基本をリメディアルな「基礎教育」は覆い隠している。

(p.223)

 で、このあと続く「教員人事が大学のカリキュラム改編を妨げている」という話を割愛して先に進むと、「キャリア教育はなんの役にも立たないのは明白」という話に入っていきます。本来のキャリア論というものは、キャリアカウンセラーと呼ばれる人たちの人生論をきくことではなくて、専門教育をやっている先生が、日々の教えるべき知識や技術の付加価値として伝えていくこと、コアカリキュラムの中でやっていくことだ、と。

 いわゆる″キャリア教育”に力を入れれば入れるほどコアカリキュラム改善が遅れるという悪循環、つまり大学改革の悪循環がいまの若者の就職難の実態です。

(p.225)

 なるほど。

 さらにこの先のp.232で、積み上げ型カリキュラムこそがリメディアル授業なんだということをみんなわかっていない、という指摘もあります。1つの科目、1つのテーマを100単位分かけてじっくり取り組むカリキュラムなのだから、学生が躓くところなどは前もってシミュレーションされて十分な時間数を配置できる。だからこそ誰でも高い階段を登っていくことができる。選択科目主義の方が遥かに放ったらかしの授業だと。

 最近、文科省は「主体的な学び」の必要を盛んに説き始めているけれど、「アホな大学関係者」はそれをハイパー・メリトクラシー能力育成推奨と勘違いして、「ゼミ」とか「発表型」「調査型」授業とか「ワークショップスタイル」の授業を盛んに導入しようとしている。文科省の言いたい、2008年以降の「主体」性とは、教育授業外学習をどう組織するかということ、つまり先生のいないときでも自ら学習しようとする予復習体制をどう形成するかということであって、そのために一番必要なのはシラバス・コマシラバスの充実なのに、

授業計画(シラバス・コマシラバス)の改善を避けて、学生に「主体的に」学ばせても何の意味もないのです。もう少し先生方自身が「主体的」に授業に取り組まないと。
(p.234)

 大学の先生が「主体的」に授業に取り組んでいない(そうしなくてもやっていける)というのはちょっと意外でした。それは不可能かと思っていたのですが……

 さて、そんなこんなで芦田さんの議論は、高等教育の内容を具体的にみていくものになっているので、ここから直接「では初等教育はどうあるべきか?」ということは読み取れないわけですが、発表型や討論・議論型、体験型の授業は、初等教育にとってはわるいことではないと私が思うその理由について、書いてみたいと思います。

 たとえば、娘が小学校2年生のときに見た学校公開中の授業で、「三角形って3つの角って書いてある」ということに気づいた児童がいた場面について。確か算数の少人数教室の授業で、先生は娘のクラスの担任の先生だったと記憶しています。正規採用されて1年目の若い教師でしたが、特にこれといって″乱れ”もない普通に成立している整った授業でした。

 その授業では、「3つの直線でかこまれた」図形を三角形といい、「4つの直線でかこまれた」図形を四角形ということに非常に重きをおいており、直線とはなにか、かこまれているとは何か、ということについても丁寧に教えていく内容になっていました。つまり、教育目標が非常にはっきりしている授業だったといえます。

 なおかつ、「角」は3年生の学習なので、カリキュラム上、いまは扱えないわけです。だから教師は、彼の疑問・発見を「ないもの」にするしかなかった。教師はきわめて「正しい授業」をしていたのだと思います。

 しかし私は思いました。こんなとき、彼の発見を面白いと教師は感じてはいけないのか?と。そして、「先生も気づかなかった、それは面白い発見だから、もし調べられたら調べてきて、次のときに発表してくれる?」と教師は言ってはいけないのか、と。

 そのような発言は、ある意味で「調査・発表」を促すものであり、「アウトプット型教育」につながるものと言ってもいいのかもしれません。しかし、アウトプットするにはインプットが必要だと思うのです。どんなものでも。しかも、この「お題」は彼自身が見出したものです。もし彼が「三角形の名称の歴史」を調べてきて、それをみんなの前で発表したとしたら、そこには確かに「インプット」があると思うのです。カリキュラムには予定されていなかったインプット。

 そして、そのきっかけとなったのは授業であり、授業をきちんときいていた彼の疑問・発見です。教師もそこにいた児童も、予定外の「インプット」ができてお得だと私は思うのです。もちろん、調べてきたことの正誤の確認は必要だと思いますが(ググればいいってわけじゃないのだし……って、それ言えば教科書にのっていることはすべて「正しい」のかという問題もありますが)、彼のこのインプットは、まさに文科省が説くところの授業外学習なのではないでしょうか。

 そんなことをしていないで、カリキュラムにのっとって、いらぬ疑問や発見はわきにおいといて、教師が粛々と授業をやっていけばいいのでしょうか。

 あるいは、小数のかけ算で、なぜ小数点をずらすことになるのか議論なんかしてないで、タイルでもなんでも使って「こうなります」と教えていけばいいのでしょうか。

 もし、小学校低学年の児童に主体や自己がないとしたら、「疑問」をもつのはいったいだれなんだろう、という疑問があります。主体なしに学ぶということは可能なのか?

 とはいえ、芦田さんがおっしゃるところの「主体性」の意味は、私もわかっているつもりです。要は、学ぶ〈対象〉ではなく〈わたし〉に向かうような、そんな教育になっているということですよね。学ぶということが自己表現になりつつある、と。それは由々しき問題だと私も思います。

 それはそうとして、小学校の教育は一応(かなり)「体系化」されています。しかし、「有機化」はなかなか難しい。

 別に議論型や発表型の授業をしなくてもいいのです。そういうことしなくてもヒマしてる子どもがいない授業はできるわけであり。だけど、してわるいってこともないんじゃないのかな、と思うわけです。問題なのは結局、授業の「型」なのではなくて、「質」なのだから。

 生活ブログで書いたように、「校門と塀で囲まれた場所のなかにいて、なんとなく勉強する仕掛けができている」学校の中にいれば″すべての子ども”が学ぶかというと、そんなことはないだろうと私は思っています。いや、学んでくれるのならそれがいちばんいいのですが、そうだったら先生方は苦労しませんよね?


(つづく)

 

〔2018年4月30日:記事の一部を削除・修正しました。〕

読書記録(努) | permalink
  
  

サイト内検索