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数学と数学教育
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学校教育は校門と塀によってこそ、「ジェネラル」で「リベラル」/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(2)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ―― 中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいます。


 前回、第2節を読んでいるときに青ざめた話を書きました。それは、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないことについてでした。ここでいう〈主体〉とは、いわば〈生涯学習〉でいうところの〈主体〉。学ぶ「意欲」や学びの「個性」が前面化して、何か〈を〉学ぶという対象への集中より、それ以前に存在する抽象的な〈私〉の〈学び〉が存在するような、そんな〈主体〉。

 そんな〈主体〉を学校以前に認めると、
世界は、客観ではなくて、〈私〉の自己表現の手段と見なされる。
(p.206)

 芦田さんは、〈学校教育〉以前の〈学びの主体〉とは、結局のところ、親や地域の(あるいは時代や社会の)影響を色濃く受けた〈主体〉にすぎないと指摘します。そして、〈学校教育〉に「上から」の「権力」が存在するとすれば、それは親や地域の影響という地上性を払拭するためのものだ、と。

 この指摘はショックであると同時に納得でした。もっと言えば感動ですらありました。そして、自分がこれまで忌み嫌ってきたものについて、考えなおさせられる機会となりました。

 私はこれまで「俯瞰する教育」が嫌いでした。それはつねに権威とセットになっているものでした。つまり権威がイヤだったのです。ニセ科学という言葉が苦手なことも、権威が苦手なことに関わっていると思います。権威そのものがイヤなのではなく、「だれかに借りた権威をふるわれること」がイヤだった。さらに、数学や科学が「権威」扱いされることもイヤでした。

 「権威」という言葉と「権力」という言葉は違う言葉ですが、どちらも「相手を服従させる、相手に強制する」という意味を含んでいると私は思います。しかし、学校教育にある「権力」は、「親や地域の影響という地上性を払拭するためのもの」と言われると、うむむと唸らざるを得ません。親や地域の影響は強く根深いものであるでしょう。そうそう簡単に引き剥がせるものではない。それを払拭するためには、なんらかの力(ちから)が必要だというのは、確かにそうだと思えます。

 実は、同じようなことを私も考えてはいたのです。生活ブログのほうで書いています。ちきりんさんのブログの記事に違和感を感じて書いたものです。>中学生や高校生が「市場」から学ぶということについての抵抗感(2018年4月30日追記:ブログ整理につきこの記事は削除しました)

 しかし、それを〈学校教育〉における「上から」の「権力」に結びつけて考えることはこれまでしていなかった。

 個性・意欲重視の教育は学力格差を広げるということについては、実際にデータから示されているとして、池田寛さんと苅谷剛彦さんたちの「関西調査」の話も出てきます。また、意欲を育てるのは学力であって、学力のないものは意欲もないこと、意欲や姿勢を尊重する「新学力観」型授業は、むしろ、その意欲こそを減退させるということも、この調査から結論づけられているそうです(「学力」というものが存在するかどうかについては、保留にしておきます)。
 結局のところ、中曽根臨教審以後の個性主義教育+意欲主義教育は、〈学校教育〉に《家族》と《地域》を持ち込んだだけのことである。それは〈キャリア教育〉の名の下に、《社会》が〈学校教育〉に入り込みつつあるのと同じ事態だ。
(p.208)

 〈学校教育〉が「家族や地域の影響を払拭する」ことは、社会的な階層流動性の原理であり、つまり〈学校教育〉は家族や地域から相対的に自立していなければならない。この自立性こそ「ジェネラル」エデュケーションや「リベラル」アーツのパワーを形成している、と芦田さんは語ります。ここまでくるともうショックは癒えて、勇気と希望がわいてきます。

 そのようにして学校が家族・地域・時代・社会から相対的に自立していることは、具体的な学校の構造として現れているというわけです。つまり、学校は塀で囲まれていて、立派な正門がある。塀でしっかりと囲まれているからこそ、この中に入ることで子どもたちは家族や地域や時代や社会の影響を受けない環境を具体的に得られる。そうであるならば、学校で行われる教育も「家族・地域・時代・社会」の影響を払拭するものでなければならないでしょう。

 芦田さんは言います。〈学校教育〉が対象とする児童・生徒・学生は、まだ社会人のようには〈目的〉を自立的に持てないが、この「持てない」というのは、何らかの限界や無能力を意味しているわけではない、と。何にでもなれるし、何を目的にすることもできるということが若者(児童・生徒・学生)の、つまり次世代を形成する人材の特質だと。
〈学校教育〉の対象である若者(児童・生徒・学生)は、〈学校教育〉を通じて目標を見出すのであって、そこに〈学びの主体〉は存在しない。〈学びの主体〉を形成するところが〈学校〉であって、〈学校教育〉は〈学校学習〉ではない。
(p.211)

 もう、ぐうの音も出ません。

(つづく)
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