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数学と数学教育
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〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないということ/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(1)

 というわけで、芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

 第7章 学校教育の意味とは何か
     ------中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいきたいと思います。



 芦田さんの(この本を書かれた時点での)肩書きは、ある大学の副学長であり、専門学校の顧問も務められているようです。また、以前は専門学校の校長先生もなさっていたとか。したがって、芦田さんの教育についての議論は、おもに高等教育についての内容となっています。しかし、芦田さんの議論は初等教育にも大きな影響を与えるものだと感じました。

 第1節は「学生は<顧客>か」という話から始まり、《消費者の時代》とからめた議論になっていて、消費社会にも大変に興味のある私は「わが意を得たり!」と揚々と読み始めたのですが、第2節に進んでしばらくしたころ、青ざめることになるのです。
 その分、〈学校教育〉にはその〈教員〉資格が公共的に条件づけられている。どんな僻地の学校にも大学を卒業して教員公共資格を持った〈教員〉が「先生」と言われながら存在している。この意味は、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前には認めないということだ。
(p.206)

(同じ主旨の文章を、ブログでも読めます↓
 http://www.ashida.info/blog/2011/06/post_411.html

 言うまでもなく私が青ざめたのは最後の一行。何しろこれまで自分は「主体的な学び」を理想としてきたし、主体的でない学びは学びたりえないと思ってきたから。それと同時に、「主体」って何よ?という問いかけもずっと自分のなかにありました。

 いきなり上記の部分を引用すると誤解を与えるかもしれませんが、芦田さんは〈生涯学習〉と〈学校教育〉の違いをふまえたうえで、その対比のもとに上記の話を出されています。(また、〈学校教育〉の意義は、子供を教育することを親の影響や地域の影響、あるいは古い世代の影響から隔離することにある、ということについても述べておられます。)

 つまり、〈生涯教育〉〈社会人教育〉は〈学校教育〉の反対概念である。〈生涯学習〉や〈社会人教育〉は、最終的に目的の定位者は受講者の方にあり、各講座は、すでに存在している受講者の目的に従属している。

 いろいろな講座を“必要”に応じてチョイスして、それらを何に役立てるかは、受講者側の自立した動機が決めており、そんなふうにして〈生涯教育〉や〈社会人教育〉には受講の〈主体〉が成立している。それは消費的な教育、〈顧客満足〉が問われる教育なのである、と。

 また、そもそも〈生涯教育〉や〈社会人教育〉が成立する社会はそれ自体が高度社会、高度な消費社会でしかないということも書いておられます。

 そういえば、もう10年以上も前のことになりますが、こんな話をきいたことがあります。ある大学の先生が、学生の親の年代の人が講座に参加していることをふまえて、「なぜそんなに勉強したがるのか(勉強したがる人が多いのか)」ということを言っていた、と。それをきいた私は、「なぜその年代の人が勉強をしてはいけないのか?」と疑問に思うのと同時に、なんとなく全面否定する気持ちにもなりませんでした。

 当時は、「勉強している自分に対する自意識」というイメージがそうさせたような気がしますが、もしかするとあのイメージは「消費者としての主体感覚」につながる話なのかもしれません。講座にお金を払っているとかいないとか、そういうことはおいといて。

 で、そんな性質がある生涯学習の内部で、〈学校教育〉を大々的に位置づけたのは80年代後半の中曽根臨教審であり、芦田さんはその思想的支柱ともいえる教育モデルについて言及するのです(p.202)。そのモデルは「復員軍人教育プログラム」だったと。

 中曽根臨教審という名称はあまりにも懐かしくて、そこから考えることをしていなかったのですが、1984年といえばまさに自分が教育系学部の学生だった時期です。しかし、臨教審の内容について考えた記憶がありません。

 芦田さんは、個性・意欲重視の教育は学力格差を拡大させるばかりではなく、意欲自体を衰退させると指摘します。「関心・意欲・態度」が評価に加わったのは、中曽根臨教審答申を受けた1992年の新学習指導要領以来のことなんですね。2002年のことを考えることはあっても、1992年のことはあまり考えていませんでした。

 ちなみに、教材の仕事をするうえで、いわゆる「観点別評価」に接触したことが少しだけあります。自分が作った問題ではなく、校正のときに(校正レベルで)チェックするだけの話だったので、まあ所詮カタチだけだろうという印象を持っていました。あと、若干面倒だなぁ、と。しかし、学校の先生方は実際に評価していくのだから、ないがしろにできない問題ですよね。

 なお、私が消費社会に興味を持っていたのは、消費者が主体的ではない社会が消費社会だと思っていたからです。買うのではなく買わされる、使うのではなく使わされる、選ぶのではなく選ばされる、そういう時代。だから、消費者が主体的であることは私にとっては理想で、それゆえシンプルライフに興味をもち、そのことについて生活ブログのほうでずっと書いてきました。

 ということも含め、いろいろ考えなおさなくちゃいけなくなりそうで、さらに、理想とする学校教育観については根本的なところから覆されそうになる予感もして、青ざめてしまったのですが、そもそもどうでもいい話ならば覆されることもないわけで、芦田さんの理路に納得する部分があればこそ、青ざめることになったのでしょう。

 そしていったん本を閉じた話については芦田宏直さんに出会った経緯と、第一&第二印象で書きました。本を閉じて他の方のレビューを読み、トークセッションの動画をネットで観て、第9章を通して読み、これはちゃんと考えたほうがいいな、と思ったしだい。

 芦田さんのおっしゃる学校教育は、私が忌み嫌ってきた系統学習につながるものなんでしょうか、どうなんでしょうか。先を読みながら、考えていきたいと思います。

(つづく)
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