TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 遠山啓『代数的構造』「第6章 構造主義」から派生して、鈴木健と坂口恭平の“建築”観の違いまで | main | ドゥルーズ『差異と反復』第四章から、「<差異的=微分的>と<問題的>」を読む。 >>

遠山啓『代数的構造』から、いまいちど遠山啓の数学観と、ピアジェの構造主義を覗く。

 遠山啓『代数的構造』[新版](日本評論社/1996年)の第6章を読んでいます。

 1つ前のエントリで書いた「アルゴリズムは時間的なもの」の話のあと、遠山啓はこんなことを語っています。
 数学はどれほど抽象的であっても,その究極の根源は実在のなかにあるといわねばならない.もちろんその実在とは数学を創り出した人間をもそのなかに含んだものとして考えているのである.
(p.230)

 私は遠山啓の「量の理論」の根本思想のうちの1つは、上記のような数学観だろうと思っていますし、私もそれに共感しています。ときどきツイッターやweb上で、「数学は(薄汚れた?)現実とは関係がない」、あるいは「(純粋)数学には、(自然界にあてはめられるような)汎用性はない」といった主旨の発言を見かけることがありますが、それはあり得ないことだと思っています。もしそうであるとしたら、数学は人間に理解できないと思うし、必要ともしないと思う。

 また、数学を他の世界と無縁な秘境に閉じ込めておきたいかのような、あるいは専門家の専売特許にしたいのかと思わせるような発言に出会うこともありますが、数学に対して謙虚であるべきなのは、「わかったつもりで終わってしまってはもったいないから」だと思っています。恥ずかしかったり、わるいことだったりするから謙虚であるべきと考えると、とたんに学ぶことが窮屈になってしまう。数学のシビアさはそんなことのためにあるのではないと思うから、「もうちょっと奥にいけば、もっとすごいものが見られるよ!」というふうにいざなってくれる専門家の言葉を、私はいつもさがしています。

 話がずれました。遠山啓はこう続けます。
ところで実在は単に空間的でもなく,単に時間的でもなく,双方を兼ねた時間・空間的なものである.だとすれば数学も当然時間・空間的なものでなければならないだろう.
 たとえば生物はそのようなものであるといわねばならない.
(p.230)

 生物は空間的な構造をもちながら、しかも時間的に変化しているが、そのようなものを取り扱うのにふさわしい理論が数学のなかで創り出されているかというと、答えは否である、と書いています。なお、ウィーナーの“動的体系”にちょっと触れています。
[関連エントリ]
遠山啓の「数学の未来像」と、山口昌哉のコメント

 遠山啓がこの文章を書いたのは、“構造主義”が盛んな議論のまとになっていた時期のようですが、遠山啓はこれに対して立ち入った議論を展開するつもりはないが...という前置きつきで、ピアジェの構造主義論を紹介しています。それは、「構造主義がややもすると陥りがちな硬直からそれを救い出し、その生産性を回復するために書かれたと思われる」ものであったからなのでしょう。

 ピアジェは構造の条件として、「1.全体性」「2.変換性」「3.自己制御」の3つの条件を提示したようです。そして「1.全体性」については、つぎのように述べているもよう。

 「構造固有の全体性の性格ははっきりしている.というのは,すべての構造主義者たちが一致して認めている唯一の対立は,構造と集合体-----すなわち全体とは独立した要素から成り立っているもの-----との対立だからである」

 そして単位元の話になっていくのです。数学的構造を例にとっていえば、群の単位元eは、群という構造のなかでそれが占める特殊な性格、すなわち、他のものaとかけて他のものaになる(ea=ae=a)という性格によって規定されている。これは構造のなかの有機的な構成部分なのであり、この点が、それ自身が他とは独立に存在している集合の要素とは違っている、と遠山啓は語ります。

 という話をきくと、0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考のことと、檜山正幸さんの郡司ペギオ-幸夫批判経由で知った、「自由生成された半群Dに単位元を付け加える」ことを思いだします。郡司さんはこのことを、“無矛盾な形式的体系を構成するためには、可能世界は先見的に見渡されねばならない。だから我々は、可能世界全体を、Dに「何もしない」という操作を付け加えておくことで定義せねばならない。”と書いているようです。

 『代数的構造』にもどると、「しかし,このように,全体と部分とを氷炭相容れない対立概念とみることは,誤りであろう」と話は続きます。ピアジェは、

 「あらゆる領域で,認識論的態度が,構造的法則をもった全体性の承認か,それとも要素から出発する原子論的合成かといった二者択一に帰せられると思い込むのは,誤っている」

と述べているようで、遠山啓はこれを、「簡単にいうと,要素なき全体か,全体なき要素か,という問題設定そのものが誤りである,というのである」とまとめて、事実は、全体が要素への分解をどの程度まで許すかという問題になるだろう…と話を続けます。

 そして化合物と元素の関係などが例にあげられたあと、このような分解・合成、あるいは非可逆性と可逆性のもっとも大きな問題は、「生命の合成」であろうと書いてあるのですが、私のいまの関心は、化学的、生物学的アプローチよりも、社会的アプローチにあるのでした。

 すなわち、「私」と「社会」の関係。もちろん私は生物ですし、さまざまな元素で構成され、元素で生かされていると思うので、化学的、生物学的であることと、社会的であることとは、それこそ分けて考えられない問題だろうと思っています。
[関連エントリ]
歴史の時代区分としての「近代」/おにぎりとお餅のイメージ

 次の「2.変換性」については、群という構造のなかでの「x → ax=y」や「x → axa^(−1)」という変換の例が示され、構造は種々の内部変換を許す有機的全体である、とまとめてあります。

 最後の「3.自己制御」に関しては、上記の変換の多くは構造の枠内で起こる(変換に対して閉じている)が、そうでないときは構造そのものを拡大して、その拡大された構造はその変換に対して閉じるようにする、ということについて述べてあります。たとえば自然数の集合は減法に対しては閉じていないが、それに0と負の整数をつけ加えることによって、減法に対しても閉じた整数という構造が得られる、と。

 それは決して静的な構造ではなく、動的な構造、もしくは体系である。「構造をこのように解釈するならば硬直した形骸ではなくなるだろう」という一文で、この章はしめくくられています。

 ついでといってはなんですが、『構造主義』(ジャン・ピアジェ著/滝沢武久・佐々木明 訳/白水社【文庫クセジュ】)の訳者まえがきから次の部分を抜き出してみます。これは1970年に書かれたものであり、もしかしたら遠山啓が自分の主張にあう文献としてピアジェを引き合いに出したというよりも、遠山啓がピアジェの影響を受けたのではないか、とも思えてきます。
ピアジェによれば、構造は予定調和的に存在するもの(前成説)ではなく、構成されるものである。そして彼は、その構成過程を、発達心理学的研究から立証したのだった。だから、彼の構造主義は、構成主義でもあるといえよう。
(p.6)
 これまでに述べたことからわかるように、本書は、とくに人文・社会科学における構造主義のある種の静態的傾向に対する、構成主義の側からの批判となっている。
(p.8)

 というような話と、1つ前のエントリで触れた「ある2つの建築観の違い」の話がつながるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。
遠山啓の「量の理論」 | permalink
  

サイト内検索