TETRA'S MATH

数学と数学教育
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数学者としての遠山啓/亀井哲治郎さんの文章から

 結城浩『数学ガール/ガロア理論』の「あとがき」で、結城さんに「ぜひガロア理論を」と推したのは、亀井哲治郎さんだということを知りました()。亀書房の亀井哲治郎さん、もと『数学セミナー』の編集長です。

 亀井哲治郎さんというと、小冊子『いま,遠山啓とは』に掲載されていた「『数学セミナー』と遠山啓」を思い出します(『数学教室』2010年12月号から転載されたもの)。この文章のなかで、数学者としての遠山啓の顔と、『数学セミナー』の編集会議に出席する遠山啓の顔を見られるのですが、きょうは「数学者としての遠山啓の顔」に注目したいと思います。

 その前に、このたび意外な発見があったので、ちょいと自分の話をば。亀書房のサイトを見つけたとき、数学教育の本のページを開いたら、そこに(数教協関係者ではないはずの)ある先生の本を発見して、びっくりしました。あわててわが家にある同じ本を確認すると、確かに「企画・制作 亀書房[代表:亀井哲治郎]」とあります。そうだったんだ〜!

 その先生というのは、大学時代の数学の思い出・03で少し話題に出した、代数の先生です。まさかこのタイミングで先生との思い出話を書くことになろうとは! 「深い思い出」だなんて、なんだか意味深なこと書いてますね〜私(^m^)。いやいや何か特別なことがあったわけではなく、レポートでほめられてうれしかったというそれだけの思い出なのですが、卒業して27年たってもそのレポートを保管しているのだから、よっぽどうれしかったのでしょうねぇ。「行列論供廚世修Δ任后「いつもながらに、自分の力で考えて書いた力作です」だって(*^^*)。ほめられてうれしかったのと同時に、実はその意味がいまだによくわかっていない私…フツウトチガウノカナ?(^^; それにしても、亀井哲治郎さんとはどういうつながりだったんだろう!?

 さて、思い出話はこのくらいにして、いよいよ「『数学セミナー』と遠山啓」を読んでいきたいと思います。まずは1979年に遠山啓が逝去して、『数学セミナー』誌の追悼特集の企画があったときのこと。亀井さんは遠山啓の数学的業績についての記事をぜひ入れたいと考えていて、編集顧問のひとりである清水達雄さんのアドバイスで木下素夫さんに相談したところ、「それは岩澤(健吉)さんにお願いしなさい」と言われたのだとか。

 なお、亀井哲治郎さんは、遠山啓の学位論文『代数函数の非アーベル的理論』(1950年)が大変すぐれた仕事であり、それをさらに深化・展開させることをその分野の研究者から期待されていただろうし、本人もそのように期していただろうけれど、ゆえあって踏み込んだ数学教育との二足のわらじを履くことの困難さを前に悩み抜いて、数学教育の道を選択した…という話を人から聞く機会があり、自分の経験とも重ねて、大いに感動したことがあったようなのです。

 しかし、岩澤健吉さんの高名はきいていたものの、『数学セミナー』ではまだ一度も原稿をお願いしたことがなく、一介の数学雑誌にこのような原稿を書いてくださるものだろうか…という思いもあったようです。そして勇を鼓してプリンストンに手紙を出したところ、すぐに「快諾」の返事が届いたのだとか。

 その岩澤健吉さんの文章も、小冊子のなかで、亀井哲治郎さんの文章の直前に掲載されています(『数学セミナー』1980年3月号からの転載)。

 亀井哲治郎さんにとって岩澤健吉さんのこの原稿は、40年間の数学編集者の自分にとって記念碑的な出来事の一つである、と書いておられます。きっとそうなんだろうな〜!と思います。

 岩澤健吉さんの文章は(岩澤さんの希望で)2号あとの1980年3月号に掲載されたようですが、「遠山啓追悼特集」である1月号では、銀林浩・齋藤利弥・清水達雄・宮崎浩の4名による座談会「遠山啓先生の数学観」が収録されていたらしく、そのなかから次のような話が抜き出されています。アンドレ・ヴェイユと遠山啓に直接接点があったことを、私はこの小冊子を手にするまで知りませんでした。

 1955年の「代数的整数論国際シンポジウム」のときに、遠山啓の論文をよく知っていたヴェイユが遠山啓に「おい、お前はいま何をやってる?」と聞き、遠山啓が「いま教育の問題を一生懸命やってる」と答えたら、ヴェイユが「教育は大事だから」といった、というエピソードです。

 しかし清水達雄さんが言われるには、やっぱり本当は数学をやりたいのだ…と、アーベル関数の話をきいたことがあったようで、遠山先生はそのときずいぶん迷われたらしい、と書いてあります。国際的な評価を受けている仕事でもあるし、やっぱりそれをやりたいんじゃないか、と。だけど、どちらを選ぶかというときに、遠山啓は教育のほうに没入していった。

 さらに齋藤利弥さんが、論文に関するヴェイユと遠山啓のやりとりについても触れておられて面白いです。そもそも遠山啓の先の学位論文は、1938年に発表されたヴェイユの論文を出発点としていて、どちらも「非アーベル的とは何か」という点に主眼があるらしいのですが(←岩澤健吉さんによる解説)、ヴェイユはその続きをやる気はなかったらしいのです。ヴェイユ自身はもうあれ以上、テクニカル・ディテールまで入って面倒なことをやる気はなかった、と。

 そんななか遠山啓が別刷をヴェイユに送り、ヴェイユから返事が来て、自分の仕事に対してお前が “so much time and lobor” を費やしたということは “It's quite flattering to me” だと書いていたんだとか。flatteringというニュアンスがよくわからないのだけれど、自分の心をくすぐるようなことだったという意味ですかね、と齋藤さん。

 このたび調べてみたら、アンドレ・ヴェイユと遠山啓は3歳違いなのですね。遠山啓の生まれた年を確かめるために久しぶりにウィキペディアをのぞきにいったのですが、説明のなかの「数学教育の分野でよく知られる」の一文を、今回は複雑な心持ちで読みました。あと実は私も、岩澤さんの文章のなかにWeilとあったとき、「ん?ワイル?」と思ってしまったのだった。

 ちなみに、遠山啓『代数的構造』[新版](日本評論社/1996年)は6章仕立てになっていて、第5章がガロア理論、第6章が構造主義です。構造主義については、先日、クラインの4元群のところでちょろっと触れました。この第6章はたった5ページで、セクションタイトルは2つ、「空間的と時間的」「開いた体系,閉じた体系」となっています。その内容の一部についてはこれまで折に触れ書いてきましたが、近いうちにもう一度まとめようと思っています。

 『代数的構造』が筑摩書房から出たのは1972年でしょうか。ヴェイユと言葉を交わしてから17年たっていますね。そのころヴェイユはプリンストン高等研究所にいたようです。岩澤健吉さんはそのころはもうプリンストン大学にいらしたのかな。

 それぞれの時間が流れていったのですね。

(つづく)
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