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数学と数学教育
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ガロア理論のどこまで納得していて、何に煮詰まっていて、これからどうしたいのか(2)

 結城浩『数学ガール/ガロア理論』をメインの参考文献にしながら、webページや遠山啓『代数的構造』なども参考にして、ガロア理論のおおまかなところを理解しようとしてきました。その作業をするうちに、だんだんと膨らんでくる「気になりごと」がありました。

 それは、ガロアは群や体などの数学の概念が確立されていないなかで、ガロア理論をつくっていったということ。そのことと自分は、どうつきあっていきたいのかということ。

 たとえば、『数学ガール/ガロア理論』のp.381では、線型空間を使ってガロア理論を再整理したアルティンの名を、ミルカさんがちょっとだけ出しています。また、あとがきでは結城さんがこう書いておられます↓

 本書の執筆で最も悩んだのは第10章の構成でした。ミルカさんにガロアの第一論文を紹介するようにお願いしたところ、彼女は、ガロアが第一論文で省略したものをすべて補った証明に取り組み始めてしまいました。しかし、そこまで踏み込むと分量は増え、難易度も跳ね上がってしまいます。そのため、第一論文の主張に絞って話すよう彼女に再度お願いしました。

(p.437)

 第10章に入ろうとしたとき、結果的に、本編には書かれてない概念をいくつか勉強することとなりました(交代群など)。本編にないということはこれらの名前を知らなくてもガロアの第1論文は理解できる、ということです。だけど、煮詰まってもいたし、この機会に勉強しちゃえ〜という感じで扱いました。同じノリで、これを機会についでに勉強できる数学の概念が、もっともっとあることでしょう。

 さらに、もし私が「5次方程式には解の公式が存在しない」ことそのものを納得したいのであれば、他の参考書を並列して読むのも有効だし、必要なのだと思います。それこそアルティンが再整理した内容に触れるのもよいかもしれない。

 だけど、私はそれを望んでいるのだろうか…?

 目的としては、最初からドゥルーズ『差異と反復』の第四章を前より深く読むための準備という意識がありました。いまでもそれは忘れていません。しかし、『差異と反復』も終着点=目標ではなく、ひとつの手段です。

 自分のなかに「こういうことが考えたい」という希望がおぼろげにあって、それと同時に、予期せぬ出会いも楽しみにしていて、結果的に「そうなのよ!実はそれが考えたかったのよ!」というところまで、何かが運んでくれるのを待ちつつ、耳を澄ませているのですが、ちょっと声がきこえなくなっていたきょうこのごろ。

 そんななか、『数学ガール/ガロア理論』の巻末にある「参考文献と読書案内」のページをめくっていたら、ある1冊の本に目がとまりました。

  倉田令二朗『ガロアを読む-----第1論文研究』
   (日本評論社/1987年)

 紹介文のなかの次の一文にはっとしたから。

また、ラグランジュのガロアに対する影響について、大きく異なる二説を取り上げて論じています。

(p.447)

 理解できるかどうかわからなかったけれど、Amazonのレビューも背中をおしてくれて、注文。

 著者が倉田令二朗さんだということの意味も、自分にとって大きかったような気がします。このブログでは、遠山啓著作集の解説者としてお名前を出させていただいたことがあります→倉田令二朗が、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」という、その意味

 遠山啓の論に取り組んでいるはずの自分が、肝心の19世紀についてまったく考えてこなかった、知ろうとしなかったことに今さらのように気づき、大いに反省したしだい。『数学つれづれ草』の解説でちゃんと安藤洋美さんが教えてくださっていたのに…↓

  近代の「関数」から、現代の「群」へ

 ガロアは、群論の扉を開くためにガロア理論を構築したのではないでしょう。ガロアには具体的に解決したい問題があった。その問題を解くうえで、結果的に群論の扉をあけることになった。でも、たとえ群や体は確立されていなくても、ガロアは数学の概念がなにひとつない状態でガロア理論を構築したわけではない。それまでに確立されていた概念はたくさんあるし、先駆者はたくさんいる。そして、身近にはリシャールという最高の教師がいたし、ラグランジュの研究があった。そのつながりを私は知りたいのかもしれない。人の営みとしての数学に触れたい。

 というところまでは、本が到着する前に書きました。で、いま手元に倉田令二朗さんの『ガロアを読む---第1論文研究』があります。1ページめからすでにびっくりなのですが(「多項式」というセクションタイトルで、ニュートン-ライプニッツ以来の果てしない困難を回避するところから話が始まるその雰囲気にちょっとびっくりした)、私にとってはやはり、最後の最後のページ(p.214)が印象的でした。1987年に倉田令二朗さんがいうところの、古典研究の困難と、2つの断絶。

 さらにわが国での数学状況,エートスはさまざまな古典との断絶がある.たとえばブルバキズムでは過去の数学は原則として現代数学に包摂されるという判断があり,この見地から書かれる教科書が多い.たとえばガロアの理論はそれがもともと方程式論であったことすら理解不可能であるようなやり方で体の一般論の基本定理の一つとしてえがかれる.
 第二の断絶は高校数学と18,19世紀の数学ないしは現代数学との断絶である.


 そして最後の2行はこうなっています↓
 

 なお「古典」という場合,私はゲーデル,コーエン(そして故あって)グロタンディエクもふくめている.

 さらに、序論の「謝辞」に、またまた亀井哲治郎さん(当時、『数学セミナー』の編集長)のお名前を発見。

 倉田令二朗さんのこの本に関しては、ブログに書きながら勉強するという形はとらず、ブログ上ではいったん蓋をしたいと思います。

 そして亀井哲治郎さんのあの文章について、ようやく書く段になりました。(

(つづく)

[2017年6月27日/記事の一部を削除・修正しました]

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