TETRA’s MATH

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『差異と反復』の第四章をちらっとのぞいたあと、群について考える。

 結城浩『数学ガール/ガロア理論』を参考書にしながら、ドゥルーズ『差異と反復』第四章のごく一部を読むための準備をしています。『数学ガール/ガロア理論』についてはネタばれ注意です。

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 次は群について考えたいのですが、こうなるとさすがに“天下り感”の強い展開になってしまうので(!?)、自分がいきつきたい場所を確認するために、ドゥルーズ『差異と反復』第四章のごく一部をのぞいておきたいと思います。財津理さん訳の河出文庫(下)です。

 いま考えたいのは、「第四章 差異の理念的総合」のなかの8節め「<差異的=微分的>と<問題的>」の次の箇所。「理念」には「イデア」のルビがふってあります。また、傍点は下線で示しました。

わたしたちは、解決可能性という外的な指標を、問題(《理念》)の内的な特徴〔真理性〕に基づかせるかわりに、その内的な特徴を、そのたんなる外的な指標〔解決可能性〕に依存させるということだ。さて、そのような循環をまっさきに打ち砕いたのはだれあろう、その人こそかの数学者アーベルであった。彼こそが、解決可能性は問題の形式から生じねばならぬとするみごとな方法を仕上げたのである。ひとつの方程式が一般に解かれうるのかどうかを、言わば行き当たりばったりに探究するというのではなく、むしろ、「与件が解の芽を含む」ように解決可能性のもろもろの場を漸進的に種別化してゆくような<問題の諸条件>を規定することが必要なのである。そこにこそ、<解−問題>の関係における根本的な逆転があり、コペルニクス的転回よりもはるかに重要な転回があるのだ。アーベルは、そのようにして、新『純粋理性批判』を創始し、こうしてまさしくカントの外在主義を超克したと、ひとは言うことができたのである。アーベルに関するそのような評価は、ガロアの業績に対しても当てはまることが確認される。〔ガロアにおいて〕基となる「体」(R)から出発するこの体への継続的な添加〔拡大〕(R,R´´,R´´´・・・)は、可能な置換の漸進的な限定によってひとつの方程式のもろもろの根をしだいに明確に区別する、ということを可能にしている。したがって、「部分分解式」の言わば滝、あるいは「群」の言わば入れ子構造が存在するのであって、これこそが、解を、問題の諸条件そのものから生じさせるのである。たとえば、ひとつの方程式が代数的には解きえないという事態は、もはや経験的な探求や手探りの結果見いだされるのではなく、むしろ問題と問題の諸条件との総合を構成する群と部分分解式の諸特徴に即して見いだされるのである

(p.40〜41)

 あらためて読んでみると、以前読んだときには感じなかった、いい意味での「あたりまえ」感、「普通」感を感じられて、だからこそ先に進むことができそうで、そのことで逆に、ヨーロッパの知的伝統の圧倒的な“厚み”を垣間見たような気がしました。

 ソーカル事件を起こしたソーカルが、アメリカの物理学者ではなく、ヨーロッパのどこかの国の物理学者あるいは数学者ということはあり得ただろうか…と、あらためて考え込んでいます。そういえば『高次の迷信』のグロス&レヴィットもアメリカの人だったのだろうか?と検索してみたけれど意外と見つからず。(検索途中で知ったのですが、金森修さんの『サイエンス・ウォーズ』はAmazonでは評価が低いのですね……私は読んでいないのですが。)

 ほんでもって、このなかの“「部分分解式」の言わば滝”にひっかかっていたのが今回の読み直しのそもそものきっかけであり、その直前にある体への添加〔拡大〕のイメージは少しつかめてきた気がするので、今度はその直後にある“「群」の言わば入れ子構造”について考えていきたいのです。

 群というのは、ある演算に関して閉じていて、任意の元に結合法則が成り立ち、単位元が存在し、任意の元に対する逆元が存在するような集合のことです(「ブール環」ってなんだろう?で他の代数系とあわせてざっくり図示しました)。演算としては、四則計算のようなもののみならず、いろいろなものが考えられます。

 たとえば、3本の縦棒のある「あみだくじ」を考えると、1つ1つのあみだくじが「元」で、このうちの2つをつなげることを「演算」としてとらえることができます。

 あみだくじの場合、棒の上のほうに左から1、2、3と記号をつけると、くじをひいた結果を左から順に表したときに、(1、2、3)(1、3、2)(2、1、3)(2、3、1)(3、1、2)(3、2、1)のどれかになります。もし、どれかの結果を出すあみだくじを2つつなげても、その結果はやっぱり6通りのなかに含まれているので、この演算は閉じています。

 次に結合法則について考えると、3つの元をx、y、z、演算を★で表すとき、(x★y)★z=x★(y★z)が成り立つことですが、あみだくじの場合は、3つつなげて新しいあみだくじをつくるようなものなので、結合法則が成り立つことがわかります。

 そして単位元は、たし算における0、かけ算における1のようなもので、要は、だれと演算を行っても結果をかえない(演算の相手と同じ結果を出すような)元のことです。あみだくじの場合は、たとえば横棒がまったくないような形のもの、結果が1、2、3と出てくるようなあみだくじがあてはまります。

 さらに逆元というのは、演算を行ったときに単位元を出してくるような元のことで、文字通り“逆にする元”あるいは“もとにもどす元”と考えればよいかと思います。たとえば、(1、2、3 → 2、3、1)という結果を出すあみだくじは、左側の番号を右側にもってきて1こずつずらすようなものなので、逆元は、右側の番号を左側にもってきてずらすような、(1、2、3 → 3、1、2)があてはまります。あみだくじの場合、入力や出力を示す番号なのか、「くじの作用」を示す番号なのか、混乱しそうになりますが、そのあたりについても、途中でテトラちゃんが突っ込んでくれています。

 というわけで、「あみだくじ」は群になり、このように並べ替えを考えるような群のことを、「対称群」というようです。『数学ガール/ガロア理論』では、あみだくじのほか、正三角形の回転・裏返しでも対称群を考えており、こちらのほうが“対称”という言葉にはしっくりくるかもしれません。

 で、いま考えたいのは「群の入れ子構造」なのだから、次に理解したいのは部分群です。

(つづく)

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