TETRA’s MATH

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そうは言っても『数学ガール』、そうは言ってもガロア

 というわけで、結城浩『数学ガール/ガロア理論』を手にしたわけなのですが、届いた直後、「あれ? これまでよりちょっとぶあつい? 重い? 読むの大変?」と思った私。しかし、ぱらぱらとめくってみた段階で、それは丁寧さの証なのだとしみじみ感じました。結城さん、あいかわらずすごい。あいかわらずというかますますというか。

 でも、今回はこれまでと違って『差異と反復』を読むという目的があるので、物語はあとでゆっくり読むとして(実は乱択アルゴリズムもまだ読んでいないので)、まずは参考書として使わせていただこうと思い、前半はざーっとページをめくるだけにして、「第7章 ラグランジュ・リゾルベントの秘密」から読み始めたのです。途中までは数式も追い、途中からは数式は表面だけながめて、おもに話の流れを。

 そうしたら止まらなくなっちゃって…というか、あっというまに参考書モードから物語モードに頭が切り替わり、とうとう最後までページをめくってしまい、そのころには目に涙が浮かんでました。っていうかぶっちゃけ泣いてました。やっぱ『数学ガール』を参考書としてだけ読むというのは不可能、それは違うと実感。

 考えてみれば数学ガールたち+「僕」の物語であると同時に、ガロアの物語なのだから、ぐっとこないわけがないわけであり。歴史的事実をある程度知っていることと、物語を読むこととはまったく違うわけなのですが、そうは言っても、物語を読んでいないときにはそのことを忘れてしまっているんだなこれが。

 物語といえど歴史的事実は周知のことだし、そういう意味ではネタばれにはならないのかもしれず、引用しちゃってもいいのかな、それともやめておこうかな…とあれこれあれこれ迷った末、一文だけ引用してもいいですか?(って、だれにきいてるんだか!)

 

Je n'ai pas le temps.

 


  (あえて訳は書かずにいますね)


 フェルマーにたりないものは、十分な余白だった。そしてガロアは……

 『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』をこんなふうに読んだ自分としては、この言葉は響きますわ…。読みなおしたとき落涙しちゃったもんだから、まだぴかぴかだった本の392ページが1滴分ぬれてしまった。何を添加したんだ私は。

 そしてあとがきまで読み進み、そこに亀書房の亀井哲治郎さんのお名前を発見したしだい。「ぜひガロア理論を」と結城浩さんに推したのは、亀井哲治郎さんだったそうなのです。そうなると、『いま,遠山啓とは』を開きたくなるというもの。このことについても、いずれ別のエントリで書きたいと思っています。


 それにしても思うことは。


 こんなに丁寧で端整で爽やかなのに(だから)、『数学ガール』って何か私にとって圧倒的なものがあり、ときどきひるみそうになります。もちろん、頁数や数式の多さなどではないです。内容の難しさでもないです。というか、そもそもわかりやすいし(後半はもちろん内容として難しいですが)、わからないものに対してひるむタイプでもないし、わからないものには逆にひるみようがないし。たぶん、自分にはないもの---これまでも、そしておそらくこれからも--に触れて、その“かなわなさ”のようなものにひるむのでしょう。登場人物に対しても、著者に対しても、作品に対しても。

 それに加えて、1作目や2作目、3作目に触れたときの自分といまの自分とでは、この部分が変わったなぁ、この部分はまったく変わっていないなぁと感じるところもあって、自分の確認作業にもなってたりします。

(つづく)

 

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