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数学と数学教育
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突然ですが、ガラスの話。/強迫神経症から、高見順の詩まで

 この夏は「ニート道」(←私の勝手な造語)にすっかりはまり、生活ブログの更新にいそしんでおりました。TATA−STYLEカテゴリー:pha著『ニートの歩き方』

 で。

 突然ですが、ガラスの話です。

 私は、自分が強迫神経症的であることを自覚して久しく、いまもその感覚と行動でもってして日々をすごしているのですが、いま現在、強迫症状が出る頻度がもっとも高いのが「ガラス」に関することなのです。

 ガラスの窓やドアのすぐそばを通っただけで割ってしまっていないか気になるし、スーパーの陳列棚のガラスも気になるし、飲食店で出てくるコップや、机の上にある調味料が入ったガラスの容器も気になります。

 そして、ちょっと遠出をしてお洒落なビルなんかに入ると、「世の中どうしてこんなにガラスだらけなんだ・・・」とくらくらしてしまいます。外壁、仕切り、エスカレーターの側面、吹き抜けの手すり・・・

 もちろん丈夫なガラスを使っているのでしょうし、いろいろと利点はあるのだと思います。当然のことながら、あれこれ検索もしていて、強化ガラスの特徴なども頭に入れてはいるのですが、そうはいっても現代のこのガラスだらけの建物、ガラス恐怖症からするとけっこうなストレスです。へんな話です。本来、軽量で圧迫感を感じさせず、開放感があるというのがガラスの特徴のはずなのに、そんなガラスに囲まれて、かえって重圧感や閉塞感や緊張感を感じてしまうなんて。

 ほんでもって、しょっちゅうガラスなどの確認行為を行ってしまう私は、一度家に帰ってからまた見にったり、翌日見に行ったり、へとへとになるのでございますが、最近は確認してもただじゃ起きない(!?)精神で、確認行為に付加価値というか意味を見出そうとする知恵がついてしまいました(これはたぶん、治癒の観点からはよくないことだよなとは思いつつ)。

 たとえば先日ICCに行ったときのこと()。行ったことがある方はわかると思うのですが、東京オペラシティタワーのICCの入り口のほうは大きな吹き抜けがあり、ガラス強迫の人が入れるような施設ではございません。なのになんで入れるのか自分でも不思議なのですが、強迫状態に陥っていなくて予期不安がないときには大丈夫なのです。っていうか、行きたいし。あと、少し気を張ってるし。その気がふっとはずれた直後、ふっと強迫観念におそわれると、もういけません。

 先日もそういう状態に陥ってしまい(このときにはアクリル?もからんでいた←という説明を追加する自分がつくづくめんどくさい)、一度は家に帰ったのですが、どうしても気になってしまい、結局、翌日またひとりで見に行ってしまいました。ついでにもう一度オープンスペースの《時折織成 ver.2――落下する記録》をちゃっかり堪能したので、この段階ですでに、確認行為というよりは「単にもう一度行った」だけの状態になっていたとはいえますが、それではなんだか終われなくて、何をしたかというと、書店に寄って、前日は立ち読みでさらっとページをめくっただけの『群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序』(郡司ペギオ-幸夫著/2013/PHP研究所)を購入したのでございます。自分の確認行為を正当化するために、「これは買えということだな」と勝手にメッセージに転化したわけなのでございます。

 そういえば、もはや詳細は覚えていませんが、『記憶と生』(アンリ・ベルクソン著、ジル・ドゥルーズ編、前田英樹訳/未知谷/1999)もこのノリで購入したような記憶があります。翌日ではなかったし、もしかしたら確認のために買ったわけでもなかったかもしれないけれど、この本のことが、リブロ青山店のエスカレーター近くのガラスとともに私の記憶にインプットされているので。

 でも、こういうちょっとしたご縁が、大きな分岐点になることも、人生においてはあるのかもしれないなぁ、とも思います。

 ほんでもって、そういえば大学の卒業文集の中で、私は「ガラス」の詩を紹介したぞと思い出し(照れくさいのでカラスのイラストを添えて…)、詩の内容は覚えていたのですが、だれの作品だったか思い出せなくて、検索でも見つけられなくて、あきらめていたところ、きょう、ふとしたきっかけで見つけることができました。

 まずは三好達治の名前を目にして(ちなみに私は『雪』が大好き。「太郎をねむらせ・・・」のあの詩です)、三好達治がヒントになる可能性はあるかも…と思って検索をかけたら、こちらのページにたどりついたのです。↓

用管窺天記高見順「ガラス」

 このページからそのままコピーさせていただきました。↓


  高見順「ガラス」

  ガラスが
  すきとほるのは
  それはガラスの性質であって
  ガラスの働きではないが
  性質がそのまま働きになっているのは
  素晴らしいことだ


 そうだったそうだった、高見順だった。名前が漢字3文字で、確かお子さんが芸能人だったぞと思いながら「檀一雄」で(それっぽくないなぁと思いつつ)検索かけたりしていたのですが、高見順でした。

 大学卒業時の自分がどういう理由でこの詩を選んだのか、いまとなっては思い出せませんが、たぶんあんまり深い意味はなくて、詩歌集か何かで見つけてきて「いいな」と思ったとか、その程度の話だったと思うものの、「自分の性質がそのまま機能になる」ような、そういう人生を望んでいたのかもしれないなぁ、という感じはします(ちなみにこの頃は確か、ガラスの強迫はあまりなかった)。

 で、それは実現できたのだろうか?とつらつら考えていて、あることに気づき、苦笑してしまいました。この場合の「働き」を、私は当初から、「機能」つまりfunctionと考えていて、ニートの「働かない」と同じ漢字であることを、すっかり忘れていたのです。ほんとうに、すっかり。

 あらためて考えてみると、「働く」「働かない」「働きたい」「働きたくない」「働ける」「働けない」というふうに動詞由来でこの言葉を変形させるのと、「働き」というふうに名詞でとらえるのとでは、その響きがずいぶん違ってくるように思います。働く人から「働き」が分離するようなニュアンスというか。

 たとえば私が、ニートの人の生き方から何かを得た場合、そこに「働き」はあると思うわけで、そのニートの人は、自分の意思とは無関係に、働いちゃったわけです。

 また、上記のページでこの詩が「なんまんだぶ」につながるというのも興味深いです。というのも、「ニート道」が気になるようになってから、私は一度「托鉢」で検索をかけたことがあり、さらにその後、坂口恭平さんの本を読んで、このなかに「教会で衣服をタダで手に入れることができる」話は書いてあるけれど、同じ宗教でも「お寺で何かもらえる」という話は載っていない、それはなぜなのか、ということが気になっていたいりしたので。

 このあたりについても、何か思考が広がったら、また生活ブログで書いていけたらいいなぁ、と思っています。

 さて、こちらでは何を書こう。何について考えようか。
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