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数学と数学教育
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一貫性に執着しない、個人・組織・国家の矛盾の理解と許容

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」の最後のところを読んでいます。


 
 かつて、何かの本を読んでいるときに、「わたし」はいて、そして「わたし」はいないという感覚を味わったことがありました。どの本のどの部分だったかメモしておけばよかったなぁとも思うのですが、その瞬間は栞とかメモとか、そういうことにも考えが及ばなかったでしょう。また、たとえメモしていてもう一度同じところを読めたとしても、同じ感覚は味わえないような気がします。覚えているのは、不思議な安堵感、開放感を味わったという事実のみ。

 鈴木健さんの提案する分人民主主義は、自己の結晶化を否定するものであるということを、前回のエントリで書きました。個人民主主義においては、個人の一貫性と組織や国家の同一化が中心となる規範と論理だったけれど、分人民主主義が大事にする規範の論理は、身体から生じる自然な声や情動を重視し、個人の中、組織の中、国家の中の矛盾を理解し許容する文化である、と。

 ここに出てくる「身体」という言葉には、一応「保留」の付箋を頭の中で立てていますが、「身体」がキーワードだということは、この本に出会ったときから感じています。

 で、鈴木さんは言います。

他者の言動の矛盾をことさらにあげつらって指摘し,責任を追及することはない。組織や国の代表者が人によって異なる発言をしていても,一貫性がないと非難することはない。
 一貫性という強迫観念から解き放たれた社会システムを,民主主義という社会のコアシステムから支え上げるのが分人民主主義の構想である。これは単なる民主主義の変革に留まらず,新しい社会規範を生み出すことだろう。静的で一貫し矛盾のないことを是とする世界観から,動的で変容し多様性にあふれることを是とする世界観へ,私たちの身体が今こそ試されている。

 (p.175)

 「静的で一貫し矛盾がない」。どこかできいた話です。

 また、こういう話をきくと、森毅の言葉が思い出されます(>森毅が「遠山啓の深さ」を語る、その深さに圧倒される。)↓

終世を変わらぬ硬骨の冷徹な知性の眼があったとしても,それは遠山自身の人間性に由来するだけのことであって,「意見を変えない」ことのイデオロギー的倫理性にこだわっていたとは思えない.何年か先にも通用しそうで,ツジツマの上での「無謬性」にこだわりたがる,文化官僚精神のようなものとは,遠山はむしろ無縁だった.

 ここで森毅の言葉を出すと、遠山啓の論の矛盾を擁護するのか!と怒られちゃうかもしれませんが、むしろ気になるのは、私自身が、遠山啓や数教協の矛盾をこれまであげつらってきたことが多かったかもしれない、ということです。なので耳がイタイ部分はありますが、かといって、やらなきゃよかったとも思っていません。私がもっとも批判したかったのは、「問い直すことなく、何かを頑なに守る」、つまり、守ることそのことに、いちばん重きを置こうとする姿勢だったから。それを守ることが、もっとも守らないことかもしれないのに。

 意見をくるくる変える人は信用できない(あてにならない)し、一貫性のない矛盾した言動をする人とは会話や議論が成り立ちにくく、そいうものを無条件で受け入れろといわれてもなかなかできることではありません。でも、「意見を変えないこと」「一貫していること」「矛盾がないこと」そのものが信用できる条件だとすると、中身はさして問題じゃないんだろうか、とも思えてきます。いやいやそうじゃなくて、一貫していることはあくまでも前提・条件であり、それを満たした上で、中身を考えていくこと、対立する概念を検討していくことが議論なんだよ……と考えると、ちょっと不思議なことが起こるように思います。

 というのは、その議論が意味をなすのは、どちらか(あるいは双方)に変化があるときであり、それは「一貫していたものの一貫性が破れたとき」か、「一貫性を失わないまま先に進めたとき」なのではないか、と思うわけであり。後者であればよりストレスが少ないかもしれませんが、となると、議論する前の意見は未完成の状態であり、先に進めたときの意見も、やっぱりまだ未完成ということになりそうな気がするのです。いずれにしろ、議論が意味をなすのは、「変化」があったときであり、それは意見に変化の余地があるときである、と。

 自らの一貫性にさえ執着しなければ,自分の思いどおりにならない集団的意思決定が行われたときの姿勢が変化することだろう。体裁を整えるために反対し続ける必要はなくなる。どれも正解かもしれないと考えてみる。自分の意見がいままで変化していたのだから,またこれから変わるかもしれないと思う。そういう考え方もたしかに自分の中にもあったなと反対意見の気持ちを汲み取ってみる。世界の多様性を自らの中に取り込み,自己の多様性を世界にさらけ出す。そのループの中からもしかしたら新しい知性が生じるかもしれない。

 (p.175)

 「世界の多様性を自らの中に取り込み,自己の多様性を世界にさらけ出す」ということを、(一般的な場よりも行いやすい環境で)できるのが、「学校」だといいなぁ……と思っています。なんていうと、「どれも正解ということは、こと算数・数学教育においてはありえない」と、各方面から怒られちゃうでしょうか。どれも正解という結論をめざすのではなく、どれも正解だとすると、どこかで何か困ったことが起こりはしないか、それを自分たちでさがす道筋、そういうものはあるのではないでしょうか。

〔2018年3月:記事の一部を修正しました〕

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